GHQ2

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1 なり 4846 B 5.1 93.6% 1197.9 6225 419 98 2026/01/11

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(どうねん9がつ、せんりょうかのにほんをかんりするさいこうせいさくきかんとしていぎりす、) 同年9月、占領下の日本を管理する最高政策機関としてイギリス、 (あめりかがっしゅうこく、かなだ、えいりょういんど、おーすとらりあ、) アメリカ合衆国、カナダ、英領インド、オーストラリア、 (にゅーじーらんど、ふらんす、おらんだ、ちゅうかみんこく、そびえとれんぽう、) ニュージーランド、フランス、オランダ、中華民国、ソビエト連邦、 (べいりょうふぃりぴんの11かこくと、あとにびるまとぱきすたんでこうせいされた) 米領フィリピンの11カ国と、後にビルマとパキスタンで構成された (きょくとういいんかい(fec)がせっちされ、れんごうこくぐんさいこうしれいかんそうしれいぶは) 極東委員会(FEC)が設置され、連合国軍最高司令官総司令部は (きょくとういいんかいでけっていされたせいさくをしっこうするきかんとされた。1946ねん) 極東委員会で決定された政策を執行する機関とされた。1946年 ((しょうわ21ねん)2がつにきょくとういいんかいがしょうしゅうされ、どうねん4がつにさいこうしれいかんの) (昭和21年)2月に極東委員会が召集され、同年4月に最高司令官の (しもんきかんとしてたいにちりじかい(acj)がせっちされるも、さいだいのじんいんと) 諮問機関として対日理事会(ACJ)が設置されるも、最大の人員と (さいこうしれいかんをはけんし、せんとうぶたいをはけんしたあめりかがっしゅうこくといぎりすが) 最高司令官を派遣し、戦闘部隊を派遣したアメリカ合衆国とイギリスが (もっともつよいえいきょうりょくをもちつづけた。ちゅうかみんこくはこっきょうないせんがさいねんし、) 最も強い影響力を持ち続けた。中華民国は国共内戦が再燃し、 (ふらんすとおらんだはしょくみんちしはい、それんはとうおうしはいにしゅうちゅうしており、) フランスとオランダは植民地支配、ソ連は東欧支配に集中しており、 (にほんへのえいきょうりょくをこうしできなかった。) 日本への影響力を行使できなかった。 (1951ねん(しょうわ26ねん)4がつ11にちにあめりかがっしゅうこくだいとうりょうの) 1951年(昭和26年)4月11日にアメリカ合衆国大統領の (はりー・s・とるーまんがまっかーさーをかいにんしたあと、べいりくぐんの) ハリー・S・トルーマンがマッカーサーを解任した後、米陸軍の (ましゅー・りっじうぇいちゅうじょう(しゅうにんちょくごにたいしょうへしょうしん)がさいこうしれいかんに) マシュー・リッジウェイ中将(就任直後に大将へ昇進)が最高司令官に (ついた。1952ねん(しょうわ27ねん)4がつ28にちのさんふらんしすここうわじょうやくはっこう) 就いた。1952年(昭和27年)4月28日のサンフランシスコ講和条約発効 ((にほんのしゅけんかいふく)とともにれんごうこくぐんさいこうしれいかんそうしれいぶはかつどうを) (日本の主権回復)とともに連合国軍最高司令官総司令部は活動を (しゅうりょうし、かいたいされた。どうじに、にほんはいぎりすやあめりかなどとの) 終了し、解体された。同時に、日本はイギリスやアメリカなどとの (2かこくかんきょうていをむすび、たとえば(きゅう)にちべいあんぜんほしょうじょうやくにちょういんして、) 2か国間協定を結び、たとえば(旧)日米安全保障条約に調印して、 (あめりかぐんのこくないちゅうりゅうとちがいほうけんなどのとっけん、そしてぜんねんよりけいぞくして) アメリカ軍の国内駐留と治外法権などの特権、そして前年より継続して
など
(おこなわれたちょうせんせんそうへのたいおうなどのためのちゅうりゅうをみとめた。) 行われた朝鮮戦争への対応などのための駐留を認めた。 (ほんぶ) 本部 (とうしょはげんざいのよこはまぜいかんにおかれたが、あとにこうきょととうきょうえきにはさまれた) 当初は現在の横浜税関に置かれたが、後に皇居と東京駅に挟まれた (まるのうちちくいったいのおふぃすびるはそのおおくがちゅうりゅうするれんごうこくぐんによって) 丸の内地区一帯のオフィスビルはその多くが駐留する連合国軍によって (せっしゅうされ、このうちそうしれいぶほんぶはだいいちせいめいかんにおかれた。) 接収され、このうち総司令部本部は第一生命館に置かれた。 (まっかーさーようのつくえはいしざかたいぞうのものをそのまましようした。) マッカーサー用の机は石坂泰三のものをそのまま使用した。 (だいいちせいめいほけんがわはせんりょうかではだいいちせいめいかんのせっしゅうがまぬかれえないことを) 第一生命保険側は占領下では第一生命館の接収が免れ得ない事を (しょうちしており、とうじではさいしんのおふぃすびるであったとうかんをしれいぶ) 承知しており、当時では最新のオフィスビルであった当館を司令部 (としてつかうゆういせいをせつめいしさいようされたものである。これは、しれいぶ) として使う優位性を説明し採用されたものである。これは、司令部 (としてつかわれるのであればていねいにしようされしょうらいのせっしゅうかいじょごはもんだいなく) として使われるのであれば丁寧に使用され将来の接収解除後は問題なく (しようできるであろうことをきたいしたそちであり、けっかとしてそのもくろみは) 使用できるであろうことを期待した措置であり、結果としてその目論見は (そうこうした。なおとうかんちかのほけんしょうけんそうこぶぶんは、そのじゅうようせいが) 奏功した。なお当館地下の保険証券倉庫部分は、その重要性が (りかいされせっしゅうのたいしょうがいであった。) 理解され接収の対象外であった。 (1989ねんから1995ねんにかけて、だいいちせいめいかんはじゅんじdnたわー21として) 1989年から1995年にかけて、第一生命館は順次DNタワー21として (さいかいはつがおこなわれ、たてもののいちぶがいそうと6かいにあったまっかーさーきねんしつ) 再開発が行われ、建物の一部外装と6階にあったマッカーサー記念室 (いがいはげんざいうしなわれている。) 以外は現在失われている。 (きこう) 機構 (れんごうこくぐんさいこうしれいかんそうしれいぶ(ghq/scap)はぽつだむせんげんを) 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)はポツダム宣言を (しっこうするためににほんのせんりょうせいさくをじっししたきかんである。) 執行するために日本の占領政策を実施した機関である。 (ghq/scapにさきだち、おもにぐんじぶもんはよこはまぜいかんのたてものをせっしゅうして) GHQ/SCAPに先立ち、主に軍事部門は横浜税関の建物を接収して (せっちしたたいへいようりくぐんそうしれいぶ(ghq/afpac)がたんとうしていたが、) 設置した太平洋陸軍総司令部(GHQ/AFPAC)が担当していたが、 (ghq/scapとghq/afpacはかんぜんにぶんりされたそしきではなく) GHQ/SCAPとGHQ/AFPACは完全に分離された組織ではなく (りょうしゃはおなじじょうぶきこうにあり、ghq/scapがとうきょうにほんぶをせっちごに) 両者は同じ上部機構にあり、GHQ/SCAPが東京に本部を設置後に (ghq/afpacほんぶもとうきょうへいてんしている。) GHQ/AFPAC本部も東京へ移転している。 (れんごうこくぐんさいこうしれいかんそうしれいぶは) 連合国軍最高司令官総司令部は (れんごうこくさいこうしれいかん) 連合国最高司令官 ((たいへいようりくぐんしれいかんけんむ)) (太平洋陸軍司令官兼務) (をながとし、そのしたにさんぼうちょうがおかれ、そのしたにさんぼうぶとばくりょうぶ) を長とし、その下に参謀長が置かれ、その下に参謀部と幕僚部 ((とくべつさんぼうぶまたはせんもんぶとも)がおかれていた。さんぼうちょうとさんぼうぶは) (特別参謀部または専門部とも)が置かれていた。参謀長と参謀部は (ghqとafpacのりょうけいとうにぞくしていたが、) GHQとAFPACの両系統に属していたが、 (ばくりょうぶについてはghq/scapと) 幕僚部についてはGHQ/SCAPと (ghq/afpacにそれぞれふくさんぼうちょうがおかれ、そのしたにghq/scap) GHQ/AFPACにそれぞれ副参謀長が置かれ、その下にGHQ/SCAP (のばくりょうぶとghq/afpacのばくりょうぶがそれぞれどくりつしておかれていた。) の幕僚部とGHQ/AFPACの幕僚部がそれぞれ独立して置かれていた。 (せいさく) 政策 (そうしれいぶのさいだいのもくひょうはれんごうこくにとってきょういとなるにほんのぐんじりょくかいたいで、) 総司令部の最大の目標は連合国にとって脅威となる日本の軍事力解体で、 (にほんをちゅうりつ・ひぶそうかしてちゅうかみんこくをあじあのちゅうしんとなし、ぐんこくしゅぎを) 日本を中立・非武装化して中華民国をアジアの中心となし、軍国主義を (はいしておやえいべいてきなこっかへつくりかえることであり、まっかーさーは) 廃して親英米的な国家へ創り変えることであり、マッカーサーは (「うえからのかくめい」としょうし「とうしょはにほんをこうぎょうくにからのうぎょうしょうこくにてんかんし、) 『上からの革命』と称し「当初は日本を工業国から農業小国に転換し、 (あめりかのしじょうとするつもりだった」とこうねんにかたっている。) アメリカの市場とするつもりだった」と後年に語っている。 (しょきはghqでひろくけんげんをゆうすみんせいきょくがさくていしてじっしされ、) 初期はGHQで広く権限を有す民政局が策定して実施され、 (れいせんちょうこういごはさんぼうだい2ぶのしゅどうでれっどぱーじなどをじっししている。) 冷戦兆候以後は参謀第2部の主導でレッドパージなどを実施している。 (せんりょうせいさくのしゅどうけんをにぎったあめりかのきほんもくてきはしょうわ20ねん) 占領政策の主導権を握ったアメリカの基本目的は昭和20年 ((1945)9がつ22にちにはっぴょうされた「こうふくごにおいてけるべいこくのしょきたいにちほうしん」) (1945)9月22日に発表された「降伏後ニ於ケル米国の初期対日方針」 (にある「れんごうこくにたいするにほんのきょういをじょきょし、へいわてきかつせきにんある) にある「連合国に対する日本の脅威を除去し、平和的かつ責任ある (せいふをじゅりつする」というものであった。そしてにほんのきょういのじょきょは) 政府を樹立する」というものであった。そして日本の脅威の除去は (たんにぐんこくしゅぎてきなもののほうきにとどまらず、せいじてき、けいざいてき、ぶんかてき、) 単に軍国主義的なものの放棄にとどまらず、政治的、経済的、文化的、 (せいしんてきめんにまでおよび、「せいしんてきぶそうかいじょ」までもがもくてきとされた。) 精神的面にまで及び、「精神的武装解除」までもが目的とされた。 (そうしれいぶないのみんせいきょく(gs)のほいっとにーきょくちょう、けーでぃすじちょうの) 総司令部内の民生局(GS)のホイットニー局長、ケーディス次長の (りねんはとさんぼうにぶ(g2)のうぃろびーしょうしょう、だいはちぐんしれいかんの) 理念派と参謀二部(G2)のウィロビー少将、第八軍司令官の (あいけるばーがーちゅうじょうなどのげんじつはのたいりつはとうじゆうめいなじじつであった。) アイケルバーガー中将などの現実派の対立は当時有名な事実であった。 (みんせいきょくらのりねんははにゅーでぃーらーとよばれたかくしんぶんしで、かれらは) 民生局らの理念派はニューディーラーと呼ばれた革新分子で、彼らは (かくしんろんのしけんじょうとしてにほんのこっかかいぞうをりようしたといわれる。) 革新論の試験場として日本の国家改造を利用したと言われる。 (いっぽうさんぼうにいべらのげんじつははにほんのぐんじ、せんりゃくてきちいをじゅうししており、) 一方参謀二部らの現実派は日本の軍事、戦略的地位を重視しており、 (いきすぎたみんしゅかせいさくにけいかいをしめしていた。) 行き過ぎた民主化政策に警戒を示していた。 (せんそうはんざいにんのたいほ) 戦争犯罪人の逮捕 連合国軍は占領直後から (せんそうしどうしゃのけんきょをはじめてとうじょうひできもとしゅしょうを) 戦争指導者の検挙を始めて東條英機元首相を (ふくむすうじゅうめいをたいほし、aきゅうせんぱんとしてきょくとうこくさいぐんじほうていのはんけつで) 含む数十名を逮捕し、A級戦犯として極東国際軍事法廷の判決で (とうじょういか7めいをしけい、そのたたすうをきんこけいやしゅうしんけいにしょしている。) 東條以下7名を死刑、その他多数を禁錮刑や終身刑に処している。 (ほんさいばんはせんじのこくさいほうていしょくしゃではなくせんそうにたずさわったしかんいじょうがさばかれ、) 本裁判は戦時の国際法抵触者ではなく戦争に携わった士官以上が裁かれ、 (にほんはへいわじょうやくでこれをじゅだくしている。) 日本は平和条約でこれを受諾している。 (こうしょくついほう) 公職追放 (せんそうやたいせいよくさんかいにかんよしたとみなされたものは、せいふきかんなどとくていの) 戦争や大政翼賛会に関与したと見做された者は、政府機関など特定の (しょくにつくことをきんしされ、ぐんじんやせんじちゅうにぐんへきょうりょくてきとにんていされた) 職に就くことを禁止され、軍人や戦時中に軍へ協力的と認定された (せいじか、しそうかなどのさんしんとうないしんぞくとけつえんしゃもどうしょくへしゅうしょくがきんしされる) 政治家、思想家などの三親等内親族と血縁者も同職へ就職が禁止される (などこうしょくついほうがおこなわれた。せいじかやしそうか、きゅうぐんじんにとどまらず、) など公職追放が行われた。政治家や思想家、旧軍人にとどまらず、 (ちゅうおうかんりょうからちほうのきょうしょくいんまでしっしょくし、えいきょうは25まんにんとするせつもあり、) 中央官僚から地方の教職員まで失職し、影響は25万人とする説もあり、 (このこうしょくついほうちょくごのきかんではにほんのちゅうおうせいふとちほうじちたいはじじつじょうきのうを) この公職追放直後の期間では日本の中央政府と地方自治体は事実上機能を (ていしした。せんちゅうまでせんいこうようえいがをせいさくしたとうほうなどえいがかいもえいきょうを) 停止した。戦中まで戦意高揚映画を製作した東宝など映画界も影響を (うけている。しかし、あとにしゅしょうとなるよしだしげるやはとやまいちろうのあつれきを) 受けている。しかし、後に首相となる吉田茂や鳩山一郎の軋轢を (はじめ、ついほうがにほんじんどうしのけんりょくあらそいにりようされためんもある。また、) はじめ、追放が日本人同士の権力争いに利用された面もある。また、 (あとのさんふらんしすこへいわじょうやくのていけつなどをめざすため、こくむしょうせいさく) 後のサンフランシスコ平和条約の締結などを目指すため、国務省政策 (かくていぶちょうのじょーじ・けなんがわしんとんとそうしれいぶのいしそつうを) 確定部長のジョージ・ケナンがワシントンと総司令部の意思疎通を (はかるためらいにちし、1948ねん10がつにだいとうりょうのきょかをえていかのことが) 図るため来日し、1948年10月に大統領の許可を得て以下のことが (ていげんされた。) 提言された。 (せんりょうせいさくのじゅうてんをかいかくからけいざいふっこうにめざすこと) 占領政策の重点を改革から経済復興に目指すこと (ついほうをかんわし、とおからずちゅうしすること) 追放を緩和し、遠からず中止すること (せんりょうぐんけいひをしゅくしょうすること) 占領軍経費を縮小すること (にほんぐんがせんぜんいったこういにたいするばいしょうをぜんじちゅうしすること) 日本軍が戦前行った行為に対する賠償を漸次中止すること
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