大東亜共栄圏

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(だいとうあきょうえいけん(だいとうあきょうえいけん/)

大東亜共栄圏(だいとうあきょうえいけん/

(きゅうじたい:だいとうあどもえいけん/えいご:)

旧字体:大東亞共榮圈/英語:

(greatereastasia)

Greater East Asia

(co-prosperitysphere)

Co-Prosperity Sphere

(またはgreatereastasia)

または Greater East Asia

(prosperitysphery)は、)

Prosperity Sphery)は、

(だいとうあせんそう(れんごうこくがわこしょう・たいへいようせんそう))

大東亜戦争(連合国側呼称・太平洋戦争)

(をはいけいに、だい2じこのえないかく(1940ねん(しょうわ15ねん))からにほんのこうふく)

を背景に、第2次近衛内閣(1940年(昭和15年))から日本の降伏

((1945ねん(しょうわ20ねん))までとなえられたにほんの)

(1945年(昭和20年))まで唱えられた日本の

(たいあじあせいさくこうそうである。)

対アジア政策構想である。

(だいとうあせんそうき、にほんせいふがあじあしょこくときょうりょくしてていきしたもので、)

大東亜戦争期、日本政府がアジア諸国と協力して提起したもので、

(おうべいていこくしゅぎくにのしょくみんちささえはいかにあったあじあしょこくをかいほうして、)

欧米帝国主義国の植民地支配下にあったアジア諸国を解放して、

(にほんをめいしゅとしたきょうそんきょうえいのあじあけいざいけんをつくろうというしゅちょうであった。)

日本を盟主とした共存共栄のアジア経済圏をつくろうという主張であった。

(とうじょうひできのひょうげんによれば、きょうえいけんけんせつのこんぽんほうしんは「ていこくをかくしんと)

東條英機の表現によれば、共栄圏建設の根本方針は「帝国を核心と

(するどうぎにもとづくきょうそんきょうえいのちつじょをかくりつ」することにあった。)

する道義に基づく共存共栄の秩序を確立」することにあった。

(さきだつ1931ねん9がつのまんしゅうじへんとうじには「にちまんいったい」、1938ねん11がつに)

先立つ1931年9月の満洲事変当時には「日満一体」、1938年11月に

(だい1じこのえないかくがにっちゅうせんそうのちょうきかをうけて「とうあしんちつじょ」の)

第1次近衛内閣が日中戦争の長期化を受けて「東亜新秩序」の

(けんせつをせいめいしており、このときにはにほん・まんしゅう・ちゅうごくにげんていされた)

建設を声明しており、この時には日本・満洲・中国に限定された

(こうそうにすぎなかったが、なんしんろんがつよまるなかで「ひ・まん・はな」に)

構想にすぎなかったが、南進論が強まる中で「日・満・華」に

(とうなんあじあやいんど、おせあにあまでのだいとうあきょうえいけんこうそうがうまれた。)

東南アジアやインド、オセアニアまでの大東亜共栄圏構想が生まれた。

など

(がいよう)

概要

(にほんの10せんきって(1942ねんはっこう)。ちずはきってのじゅうおうひにおさまるように)

日本の10銭切手(1942年発行)。地図は切手の縦横比に収まるように

(でふぉるめされ、しまやたいりくのいちかんけいがじっさいよりしゅくしょうぎみに)

デフォルメされ、島や大陸の位置関係が実際より縮小気味に

(えがかれている)

描かれている

((いんどねしあちずさんしょう)。)

(インドネシア地図参照)。

(だいとうあきょうえいけんは「にほんをめいしゅとするひがしあじあのこういきぶろっくかのこうそうと)

大東亜共栄圏は「日本を盟主とする東アジアの広域ブロック化の構想と

(それにふくまれるちいき」をさす[7]。だい2じこのえふみまろないかくのほっそくじの)

それに含まれる地域」を指す[7]。第2次近衛文麿内閣の発足時の

(「きほんこくさくようこう」(1940ねん7がつ26にち)に「だいとうあしんちつじょ」の)

「基本国策要綱」(1940年7月26日)に「大東亜新秩序」の

(けんせつとしてかかげられ、こくないの「しんたいせい」かくりつとならぶきほんほうしんとされた。)

建設として掲げられ、国内の「新体制」確立と並ぶ基本方針とされた。

(これはどいつくにの「せいぞんけん(lebensraum)」)

これはドイツ国の「生存圏(Lebensraum)」

(りろんのえいきょうをうけており、「きょうえいけん」のようごはがいしょうまつおかようすけにゆらいする。)

理論の影響を受けており、「共栄圏」の用語は外相松岡洋右に由来する。

(あじあしょこくがいっちだんけつしておうべいせいりょくをあじあからおいだし、)

アジア諸国が一致団結して欧米勢力をアジアから追い出し、

(にほん・まんしゅう・ちゅうごく・ふぃりぴん・たい・びるま・いんどをちゅうしんとし、)

日本・満洲・中国・フィリピン・タイ・ビルマ・インドを中心とし、

(ふらんすりょういんどしな(ふついん)、いぎりすりょうまらや、いぎりすりょうきた)

フランス領インドシナ(仏印)、イギリス領マラヤ、イギリス領北

(ぼるねお、おらんだりょうひがしいんど(らんいん)、おーすとらりあによる)

ボルネオ、オランダ領東インド(蘭印)、オーストラリアによる

(せいじ・けいざいてきなきょうそんきょうえいをはかるせいさくであった。)

政治・経済的な共存共栄を図る政策であった。

(「だいとうあがにほんのせいぞんけん」)

「大東亜が日本の生存圏」

(「せいぞんけん」をさんしょう)

「生存圏」を参照

(にほん・まんしゅうこく・ちゅうごくをひとつのけいざいきょうどうたい(ひましけいざいぶろっく))

日本・満洲国・中国をひとつの経済共同体(日満支経済ブロック)

(とし、とうなんあじあをしげんのきょうきゅうちいきに、みなみたいへいようをこくぼうけんとして)

とし、東南アジアを資源の供給地域に、南太平洋を国防圏として

(いちづけるものとかんがえられており、「だいとうあがにほんのせいぞんけん」)

位置付けるものと考えられており、「大東亜が日本の生存圏」

(であるとせんでんされた。ただし、「だいとうあ」のはんいや「きょうえい」)

であると宣伝された。ただし、「大東亜」の範囲や「共栄」

(のじぎなどはとうしょかならずしもめいかくにされていなかった。)

の字義などは当初必ずしも明確にされていなかった。

(ようごとしてはりくぐんのいわくろひでおとほりばかずおがつくったものともいわれ、)

用語としては陸軍の岩畔豪雄と堀場一雄が作ったものともいわれ、

(1940ねん(しょうわ15ねん)7がつにこのえふみまろないかくがけっていした「きほんこくさくようこう」)

1940年(昭和15年)7月に近衛文麿内閣が決定した「基本国策要綱」

(にたいするがいむだいじんまつおかようすけのだんわにつかわれてからりゅうこうごかした。)

に対する外務大臣松岡洋右の談話に使われてから流行語化した。

(こうしきぶんしょとしては1941ねん(しょうわ16ねん)1がつ30にちの「たいふつしるし、)

公式文書としては1941年(昭和16年)1月30日の「対仏印、

(たいしさくようこう」がしょしゅつとされる。ただし、このごにさきんじて1938ねん)

泰施策要綱」が初出とされる。ただし、この語に先んじて1938年

((しょうわ13ねん)には「とうあしんちつじょ」のごがこのえふみまろ)

(昭和13年)には「東亜新秩序」の語が近衛文麿

(によってもちいられている。)

によって用いられている。

(だいとうあきょうどうせんげん)

大東亜共同宣言

(1941ねん(しょうわ16ねん)ににほんがあめりかがっしゅうこくやいぎりすていこくに)

1941年(昭和16年)に日本がアメリカ合衆国やイギリス帝国に

(せんせんふこくをしてだいとうあせんそう(たいへいようせんそう)がぼっぱつし、あじあに)

宣戦布告をして大東亜戦争(太平洋戦争)が勃発し、アジアに

(ほんかくてきにしんしゅつすると、にほんはだいとうあきょうえいけんのけんせつをたいがいてきな)

本格的に進出すると、日本は大東亜共栄圏の建設を対外的な

(もくひょうにかかげることになった(だいとうあけんせつしんぎかいもさんしょう)。)

目標に掲げることになった(大東亜建設審議会も参照)。

(1943ねん(しょうわ18ねん)にはにほんのせんりょうちいきでおうべいれっきょうのしょくみんちしはいから)

1943年(昭和18年)には日本の占領地域で欧米列強の植民地支配から

(「どくりつ」させただいとうあきょうえいけんないかっこくしゅのうがとうきょうにあつまってだいとうあかいぎを)

「独立」させた大東亜共栄圏内各国首脳が東京に集まって大東亜会議を

(かいさいし、だいとうあきょうどうせんげんがさいたくされた。)

開催し、大東亜共同宣言が採択された。

(ひがしじょうしゅしょうのせつめい)

東条首相の説明

(1941ねん(しょうわ16ねん)12がつのかいせんちょくごにひらかれただい79かいていこくぎかいの)

1941年(昭和16年)12月の開戦直後に開かれた第79回帝国議会の

(かいきちゅう、1942ねん(しょうわ17ねん)1がつにおこなわれたとうじょうひできしゅしょうのしせいほうしん)

会期中、1942年(昭和17年)1月に行われた東條英機首相の施政方針

(えんぜつで「だいとうあきょうえいけんけんせつのこんぽんほうしん」を「だいとうあの)

演説で「大東亜共栄圏建設の根本方針」を「大東亜の

(かくこっかおよびかくみんぞくをして、おのおのそのところをえしめ、ていこくをかくしんとする)

各国家及各民族をして、各々其の処を得しめ、帝国を核心とする

(どうぎにもとくきょうそんきょうえいのちつじょをかくりつせんとするにある」とせつめいした。)

道義に基く共存共栄の秩序を確立せんとするに在る」と説明した。

(じゅうようしげんをとるためのくにはおもにまんしゅうこく、ちゅうかみんこく、ふらんすりょう)

重要資源を取るための国は主に満洲国、中華民国、フランス領

(いんどしな(ふついん)、たい、いぎりすりょうびるま、いぎりすりょうまらや、)

インドシナ(仏印)、タイ、イギリス領ビルマ、イギリス領マラヤ、

(おらんだりょうひがしいんど(らんいん)、ふぃりぴんからであった。)

オランダ領東インド(蘭印)、フィリピンからであった。

(だいとうあきょうえいけんのじったいとひょうか)

大東亜共栄圏の実態と評価

(だいとうあきょうえいけんのさいだいはんとりょういき。だいにっぽんていこくのりょういき(みなみからふと、)

大東亜共栄圏の最大版図領域。大日本帝国の領域(南樺太、

(ちしま、ちょうせん、たいわんをふくむ)はこいあか、その「どうめいこく」はあんせきしょく。)

千島、朝鮮、台湾を含む)は濃い赤、その「同盟国」は暗赤色。

(じゅうぞくこく・せんりょうちはうすいあかでひょうじされる。)

従属国・占領地は薄い赤で表示される。

(だいとうあきょうえいけんは、あじあのおうべいれっきょうしょくみんちをそのしはいからどくりつさせ、)

大東亜共栄圏は、アジアの欧米列強植民地をその支配から独立させ、

(だいにっぽんていこく・まんしゅうこく・ちゅうかみんこくをちゅうしんとするこっかれんごうをじつげん)

大日本帝国・満洲国・中華民国を中心とする国家連合を実現

(させるものであるとされた。だいとうあきょうどうせんげんには、「そうごきょうりょく・)

させるものであるとされた。大東亜共同宣言には、『相互協力・

(どくりつそんちょう」などのむねがめいきされている。)

独立尊重』などの旨が明記されている。

(とうしょは、あじあはにほんのせいりょくけんであるとどくいににんしきさせることが)

当初は、アジアは日本の勢力圏であると独伊に認識させることが

(もくてきであったことから、こくさくでありながらちゅうしょうてきなりねんやすろーがんが)

目的であったことから、国策でありながら抽象的な理念やスローガンが

(せんこうし、しょうさいなけいかくはあとからつくるというどろなわしきとなっていた。)

先行し、詳細な計画は後から作るという泥縄式となっていた。

(だいとうあけんせつしんぎかいではきかくいんとしょうこうしょうのたいりつがはげしくなったことで)

大東亜建設審議会では企画院と商工省の対立が激しくなったことで

(けいかくのちょうせいがつかなかったが、じっしだんかいでもんだいがおきることを)

計画の調整がつかなかったが、実施段階で問題が起きることを

(にんしきしながらしげんかくほにかんしてあいまいなないようのけっていをいった。)

認識しながら資源確保に関して曖昧な内容の決定を行った。

(けいかくがあいまいなことからぐんぶとのちょうせいもつけられず、しげんゆそうに)

計画が曖昧なことから軍部との調整もつけられず、資源輸送に

(つかうおおがたせんぱくをとりあうじたいとなった。せんせんがかくだいするとぐんによる)

使う大型船舶を取り合う事態となった。戦線が拡大すると軍による

(せんぱくのちょうようがすすんだため、かぎられたせんぱくをつかったしげんゆそうにしゅうしした。)

船舶の徴用が進んだため、限られた船舶を使った資源輸送に終始した。

(だいとうあきょうえいけんをこうせいしていたふぃりぴんだいにきょうわこく、らおすおうこく、)

大東亜共栄圏を構成していたフィリピン第二共和国、ラオス王国、

(びるまくに、まんしゅうこく、ちゅうかみんこくのかくせいふは、じっさいにはいずれもにほんせいふや)

ビルマ国、満洲国、中華民国の各政府は、実際にはいずれも日本政府や

(にほんぐんのしどうのもとにおかれたかいらいせいけんまたはじゅうぞくこくであるとされる)

日本軍の指導の下に置かれた傀儡政権または従属国であるとされる

(こともあり、「じっしつてきにはにほんによるしょくみんちしはいをめざしたものに)

こともあり、「実質的には日本による植民地支配を目指したものに

(すぎなかった」とするいけんもある。とくに、ふぃりぴんとびるまに)

過ぎなかった」とする意見もある。特に、フィリピンとビルマに

(かんしてはせんぜんにはみんせんによるじちせいふがそんざいし、にほんのえいきょうかに)

関しては戦前には民選による自治政府が存在し、日本の影響下に

(おかれただいとうあきょうえいけんないにあってはせんきょなどのみんしゅてきてつづきによらず、)

置かれた大東亜共栄圏内にあっては選挙などの民主的手続きによらず、

(せいふしゅのうにはにほんがわがせんにんしたじんぶつ(しんにちてき、きょうりょくてきなじんぶつ)が)

政府首脳には日本側が選任した人物(親日的、協力的な人物)が

(しゅうにんしていたため、「じっしつてきなどくりつからはむしろ)

就任していたため、「実質的な独立からはむしろ

(とおざかったのではないか」というひはんもある。)

遠ざかったのではないか」という批判もある。

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