大東亜共栄圏2
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問題文
(1943ねん(しょうわ18ねん)5がつ31にちのごぜんかいぎでけっていされた)
1943年(昭和18年)5月31日の御前会議で決定された
(「だいとうあせいりゃくしどうたいこう」ではいぎりすりょうまらや、)
「大東亜政略指導大綱」ではイギリス領マラヤ、
(おらんだりょうひがしいんど(らんいん)はにほんりょうにへんにゅうすることとなっていた)
オランダ領東インド(蘭印)は日本領に編入することとなっていた
((ただし、らんいんについては、1944ねん(しょうわ19ねん)9がつ7にちのこいそせいめいで)
(ただし、蘭印については、1944年(昭和19年)9月7日の小磯声明で
(しょうらいてきなどくりつをやくそくした)。とくにいぎりすりょうまらやのいちぶであった)
将来的な独立を約束した)。特にイギリス領マラヤの一部であった
(しんがぽーるは、にほんへのへんにゅうをみこしてしょうなんとくべつしとかいしょうされた。)
シンガポールは、日本への編入を見越して昭南特別市と改称された。
(この「だいとうあせいりゃくしどうたいこう」にはこれらのちいきをにほんりょうとするりゆうが「)
この「大東亜政略指導大綱」にはこれらの地域を日本領とする理由が「
(じゅうようしげんのきょうきゅうげん」とするためとめいかくにうたわれており、しかもこれに)
重要資源ノ供給源」とするためと明確に謳われており、しかもこれに
(ついては「とうぶんはっぴょうせす」とされていた。だいとうあせいりゃくしどうたいこうに)
ついては「当分発表セス」とされていた。大東亜政略指導大綱に
(よるにほんせいふのいととしては、だいとうあきょうえいけんはあくまでにほんがせんそうを)
よる日本政府の意図としては、大東亜共栄圏はあくまで日本が戦争を
(すいこうするためのものであった。また、とうじのにほんのちしきじんも)
遂行するためのものであった。また、当時の日本の知識人も
(「だいとうあのみんぞくかいほうはみんぞくすめらぎかうんどうである」、「だいとうあきょうえいけんの)
「大東亜の民族解放は民族皇化運動である」、「大東亜共栄圏の
(こうそうにおいては、こべつこっかのかんねんはゆるされるべきではない」などと)
構想に於いては、個別国家の観念は許されるべきではない」などと
(めいげんしており、だいにっぽんていこくをちょうてんとしたかいきゅうてきそしきこうぞうにあじあ)
明言しており、大日本帝国を頂点とした階級的組織構造にアジア
(かっこくをくみこんでいくこうそうであったことがうかがえる。)
各国を組み込んでいく構想であったことが窺える。
(ふぃりぴんは1944ねんのどくりつがすでにやくそくされており、にほんも)
フィリピンは1944年の独立がすでに約束されており、日本も
(1943ねん5がつにごぜんかいぎでふぃりぴんをどくりつさせた。1945ねんのにほんの)
1943年5月に御前会議でフィリピンを独立させた。1945年の日本の
(はいせんご、1946ねんのまにらじょうやくによりふぃりぴんだいさんきょうわこくがどくりつした。)
敗戦後、1946年のマニラ条約によりフィリピン第三共和国が独立した。
(1941ねんにどいつのつよいえいきょうかにあったヴぃしー・ふらんすのしょくみんち)
1941年にドイツの強い影響下にあったヴィシー・フランスの植民地
(いんどしなれんぽう(ふついん)においては、にほんぐんはヴぃしーせいふときょうていを)
インドシナ連邦(仏印)においては、日本軍はヴィシー政府と協定を
(むすんでいんどしなにちゅうりゅうし(ふついんしんちゅう)、ふらんすしょくみんちせいふによる)
結んでインドシナに駐留し(仏印進駐)、フランス植民地政府による
(しはいを1945ねん(しょうわ20ねん)3がつ9にちのめいごうさくせんはつどうまでしょうにんした。)
支配を1945年(昭和20年)3月9日の明号作戦発動まで承認した。
(にほんのはいせんご、いんどしなしはいをかいふくしたふらんすとどくりつをめざす)
日本の敗戦後、インドシナ支配を回復したフランスと独立を目指す
(べとみんのあいだでだいいちじいんどしなせんそうがぼっぱつし、ながいいんどしなせんそうの)
ベトミンの間で第一次インドシナ戦争が勃発し、長いインドシナ戦争の
(じだいをむかえることになった。)
時代を迎えることになった。
(にほんはきょうえいけんないにおいてにほんごによるこうみんかきょういくやみやぎようはいのすいしょう、)
日本は共栄圏内において日本語による皇民化教育や宮城遥拝の推奨、
(じんじゃぞうえい、じんぶつりょうめんのしげんのしゅうだつなどをおこなったこともあり、)
神社造営、人物両面の資源の収奪などをおこなったこともあり、
(じっしつてきなどくりつをあたえないままはいせんしたことから、にほんもかつての)
実質的な独立を与えないまま敗戦したことから、日本もかつての
(そうしゅくにとおなじかそれいじょうのかがいしゃであったというみかたがある。いっぽうで、)
宗主国と同じかそれ以上の加害者であったという見方がある。一方で、
(にほんがきゅうそうしゅくにのしはいをはいじょし、げんちじんからなるぐんじりょくをそうせつ)
日本が旧宗主国の支配を排除し、現地人からなる軍事力を創設
(したことがせんごのどくりつにつながった、よってかがいしゃではなくかいほうしゃで)
したことが戦後の独立に繋がった、よって加害者ではなく解放者で
(あったというひょうかや、きほんてきにはにほんをかがいしゃとしつつも、)
あったという評価や、基本的には日本を加害者としつつも、
(だいとうあきょうえいけんかでさまざまなしせいのかいぜん(がっこうきょういくのかくじゅう、げんちごの)
大東亜共栄圏下で様々な施政の改善(学校教育の拡充、現地語の
(こうようごか、ざいらいみんぞくのこうかんとうよう、かじんやいんどじんなどのがいらいしょみんぞくの)
公用語化、在来民族の高官登用、華人やインド人などの外来諸民族の
(けんりのはくだつせいげんなど)がおこなわれたため、きゅうそうしゅくによりはましなとうちしゃで)
権利の剥奪制限など)が行われたため、旧宗主国よりはマシな統治者で
(あったというみかたもある。また、けいかくのあいまいさとせいふとぐんぶのちょうせい)
あったという見方もある。また、計画の曖昧さと政府と軍部の調整
(ふじゅうぶんにより、こうみんかきょういくやしゅうきょうせいさくはふかんぜんなままおわり、げんちでは)
不十分により、皇民化教育や宗教政策は不完全なまま終わり、現地では
(にほんごやみやぎようはいはていちゃくしなかった。1943ねん(しょうわ18ねん))
日本語や宮城遥拝は定着しなかった。1943年(昭和18年)
(7がつ1にちのこうせいしょうけんきゅうじょじんこうみんぞくぶ(げん・こくりつしゃかい)
7月1日の厚生省研究所人口民族部(現・国立社会
(ほしょう・じんこうもんだいけんきゅうじょ)がさくせいしたほうこくしょでは、にほんじんはあじあ)
保障・人口問題研究所)が作成した報告書では、日本人はアジア
(しょみんぞくのかちょうとして「えいえんに」あじあをとうちするつかいいのちがあると)
諸民族の家長として「永遠に」アジアを統治する使命があると
(しるされているが、おうべいれっきょうがしょうさいなちょうきけいかくにもとづいてじっこうした)
記されているが、欧米列強が詳細な長期計画に基づいて実行した
(しょくみんちしゅぎによるしはいとはことなり、だいとうあきょうえいけんはあいまいなけいかくで)
植民地主義による支配とは異なり、大東亜共栄圏は曖昧な計画で
(じつげんにぎもんがしてきされているなど、2022ねんじてんでもぎろんがつづいている。)
実現に疑問が指摘されているなど、2022年時点でも議論が続いている。
(こうていてきなひょうかとしては、いぎりすのれきしがくしゃといんびーが)
肯定的な評価としては、イギリスの歴史学者トインビーが
(1956ねん10がつ28にちのえいし「おぶざーばー」にはっぴょうしたいかの)
1956年10月28日の英紙『オブザーバー』に発表した以下の
(ようなぶんせきがしられている。)
ような分析が知られている。
(だいにじせかいたいせんにおいて、にほんじんはにほんのためというよりも、)
第二次世界大戦において、日本人は日本のためというよりも、
(むしろせんそうによってりえきをえたくにぐにのために、いだいなるれきしをのこした)
むしろ戦争によって利益を得た国々のために、偉大なる歴史を残した
(といわねばならない。そのくにぐにとは、にほんのかかげたたんめいなりそうで)
といわねばならない。その国々とは、日本の掲げた短命な理想で
(あっただいとうあきょうえいけんにふくまれていたくにぐにである。にほんじんがれきしじょうに)
あった大東亜共栄圏に含まれていた国々である。日本人が歴史上に
(のこしたぎょうせきのいぎは、せいようじんいがいのじんるいのめんぜんにおいて、あじあと)
残した業績の意義は、西洋人以外の人類の面前において、アジアと
(あふりかをしはいしてきたせいようじんが、かこにひゃくねんのあいだにかんがえられていた)
アフリカを支配してきた西洋人が、過去二百年の間に考えられていた
(ような、ふはいのはんしんでないことをあきらかにしめしたてんにある。)
ような、不敗の半神でないことを明らかに示した点にある。
(けいかくのはたんとそのあと)
計画の破綻とその後
(にほんのはいせんをまえにしてけいかくはたなあげじょうたいとなっており、)
日本の敗戦を前にして計画は棚上げ状態となっており、
(はいせんまえにはたんしていたといういけんもある。)
敗戦前に破綻していたという意見もある。
(しゅうせんごにはおらんだ、いぎりす、ふらんすなどのきゅうそうしゅくにがしょくみんち)
終戦後にはオランダ、イギリス、フランスなどの旧宗主国が植民地
(しはいのさいかいをはかったが、いんどねしあやいんどしな、さらにはいんど)
支配の再開を図ったが、インドネシアやインドシナ、さらにはインド
(などでもにほんせんりょうかでそうせつされたみんぞくぐんなどがどくりつせいりょくとして)
などでも日本占領下で創設された民族軍などが独立勢力として
(きゅうそうしゅくにとたたかいどくりつをはたすことになる。にほんぐんによるせんりょうを)
旧宗主国と戦い独立を果たすことになる。日本軍による占領を
(きっかけとするかくみんぞくのどくりつきうんのたかまりにより、きゅうそうしゅくにによる)
きっかけとする各民族の独立機運の高まりにより、旧宗主国による
(しょくみんちしはいのしゅうえんへとつながったとするけんかいもしばしばしゅちょうされる。)
植民地支配の終焉へとつながったとする見解もしばしば主張される。
(いっぽうでふぃりぴんのふくばらはっぷやべとなむのべとみんのような)
一方でフィリピンのフクバラハップやベトナムのベトミンのような
(げんちじゅうみんによるこうにちげりらもしばしばはっせいしており、これらがあとの)
現地住民による抗日ゲリラもしばしば発生しており、これらが後の
(どくりつうんどうにあたえたえいきょうもおおきい。)
独立運動に与えた影響も大きい。
(はっこういちう)
八紘一宇
(しょうさいは「はっこういちう」をさんしょう)
詳細は「八紘一宇」を参照
(だいとうあきょうえいけんをかたるうえでじゅうようながいねんにこのごがある。このごは)
大東亜共栄圏を語る上で重要な概念にこの語がある。この語は
(にほんがだいとうあきょうえいけんのけんせつをすいしんするためのせいさくひょうご)
日本が大東亜共栄圏の建設を推進するための政策標語
((すろーがん)としてひろくかかげられた。)
(スローガン)として広く掲げられた。
(あじあしゅぎとのかんけい)
アジア主義との関係
(だいとうあきょうえいけんこうそうは、あじあがいったいとなっておうべいにたいこうすべきで)
大東亜共栄圏構想は、アジアが一体となって欧米に対抗すべきで
(あるというはんあじあしゅぎのえいきょうをうけている。はんあじあしゅぎを)
あるという汎アジア主義の影響を受けている。汎アジア主義を
(となえたきんだいにほんのしそうかとしてはきたいっき、いしわらかんじなどがあげられる。)
唱えた近代日本の思想家としては北一輝、石原莞爾などがあげられる。
(また、えどじだいこうきのけいせいかさとうのぶひろにその)
また、江戸時代後期の経世家佐藤信淵にその
(しそうてきるーつをもとめるけんかいもある。)
思想的ルーツを求める見解もある。
(じみんとうぎいんでかじまけんせつかいちょうのかじまもりのすけは、がいこうかんをつとめていた)
自民党議員で鹿島建設会長の鹿島守之助は、外交官を務めていた
(せんぜんより「はんあじあ」をていしょうしていた。その「はんあじあ」を)
戦前より「汎アジア」を提唱していた。その「汎アジア」を
(がいこうかんじだいのかしまにねっしんにといたのは、「はんおうしゅう」をかかげるおうしゅうれんごうの)
外交官時代の鹿島に熱心に説いたのは、「汎欧州」を掲げる欧州連合の
(ちちくーでんほーふ=かれるぎーはくしゃくである。かしまはだいにじせかいたいせんちゅう、)
父クーデンホーフ=カレルギー伯爵である。鹿島は第二次世界大戦中、
(「はんあじあ」とだいとうあきょうえいけんをどういつししはじめた。かしまは「ていこくのがいこうと)
「汎アジア」と大東亜共栄圏を同一視し始めた。鹿島は『帝国の外交と
(だいとうあきょうえいけん」(よくさんとしょかんこうかい、1943ねん)において、)
大東亜共栄圏』(翼賛図書刊行会、1943年)において、
(くーでんほーふ=かれるぎーはくしゃくははんあじあしゅぎを)
クーデンホーフ=カレルギー伯爵は汎アジア主義を
(いだいていたとしょうげんしている。)
抱いていたと証言している。
(だいとうあどもさかいけんのけんせつはわたしのにじゅうねんらいのじろんでありまたりそうである。)
大東亞共榮圏の建設は私の二十年来の持論であり又理想である。
(そもそもこれをみのりあらわせしむべくねっしんにといたものはにほんじんをははにもつ)
抑も之を實現せしむべく熱心に説いた者は日本人を母に持つ
(おうきょうくにたかぞくくーでんほーふかれるぎーはくであつた。)
墺洪國貴族クーデンホーフカレルギー伯であつた。
(ちなみにへんりーはにほんごやくでいかのようにかかれている。)
ちなみにヘンリー は日本語訳で以下のように書かれている。
(にほんはだいにじせかいたいせんにおいて、じこくではなく、だいとうあきょうえいけんの)
日本は第二次世界大戦において、自国ではなく、大東亜共栄圏の
(ほかのくにぐににおもいがけないめぐみをもたらした。それまであじあ・)
他の国々に思いがけない恵みをもたらした。それまでアジア・
(あふりかを200ねんのながきにわたってしはいしてきたせいようじんは、むてきで、)
アフリカを200年の長きにわたって支配してきた西洋人は、無敵で、
(あたかもかみのようなそんざいだとしんじられてきたが、にほんじんはじっさいには)
あたかも神のような存在だと信じられてきたが、日本人は実際には
(そうではなかったことを、じんるいのめんぜんでしょうめいしてしまった。これは、)
そうではなかったことを、人類の面前で証明してしまった。これは、
(まさにれきしてきないぎょうであった。・・・にほんははくじんのあじあしんりゃくを)
まさに歴史的な偉業であった。…日本は白人のアジア侵略を
(とめるどころか、ていこくしゅぎ、しょくみんちしゅぎ、じんるいさべつに)
止めるどころか、帝国主義、植民地主義、人類差別に
(しゅうしふをうつことをなしとげた。)
終止符を打つことをなしとげた。