第二次世界大戦4

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(はいけい(おうしゅう・きたあふりか・ちゅうとう・みなみあめりか))

背景(欧州・北アフリカ・中東・南アメリカ)

(しょうさいは「だいにじせかいたいせんのはいけい」をさんしょう)

詳細は「第二次世界大戦の背景」を参照

(「せんかんき」もさんしょう)

「戦間期」も参照

(ヴぇるさいゆたいせいとどいつのばいしょうきん)

ヴェルサイユ体制とドイツの賠償金

(ヴぇるさいゆじょうやくのちょういん)

ヴェルサイユ条約の調印

(しょうさいは「ヴぇるさいゆじょうやく」および「だいいちじせかいたいせんのばいしょう」をさんしょう)

詳細は「ヴェルサイユ条約」および「第一次世界大戦の賠償」を参照

(1919ねん6がつ28にち、だいいちじせかいたいせんのどいつにかんするこうわじょうやくである)

1919年6月28日、第一次世界大戦のドイツに関する講和条約である

(ヴぇるさいゆじょうやくがていけつされ、よくねん1がつ10にちにどうじょうやくがはっこう、)

ヴェルサイユ条約が締結され、翌年1月10日に同条約が発効、

(ヴぇるさいゆたいせいがせいりつした。そのけっか、どいつやおーすとりあは)

ヴェルサイユ体制が成立した。その結果、ドイツやオーストリアは

(ほんごくりょういきのいちぶをうしない、それらはみんぞくじけつしゅぎのしたでたんじょうした)

本国領域の一部を失い、それらは民族自決主義の下で誕生した

(ぽーらんど、ちぇこすろばきあ、りとあにあなどのりょういきにくみこまれた。)

ポーランド、チェコスロバキア、リトアニアなどの領域に組み込まれた。

(しかしそれらのりょうどではたすうのどいつけいじんしゅがきょじゅうし、しょうすうみんぞくの)

しかしそれらの領土では多数のドイツ系人種が居住し、少数民族の

(たちばにおいやられたどいつけいじゅうみんしょぐうもんだいは、あらたなみんぞくふんそうの)

立場に追いやられたドイツ系住民処遇問題は、新たな民族紛争の

(ひだねとなるかのうせいをもっていた。)

火種となる可能性を持っていた。

(また、なんようしょとうやちゅうごく、あふりかなどにもっていたかいがいりょうどはすべて)

また、南洋諸島や中国、アフリカなどに持っていた海外領土は全て

(ぼっしゅうされ、にほんやいぎりす、ふらんすなどのせんしょうこくによって)

没収され、日本やイギリス、フランスなどの戦勝国によって

(ぶんかつされただけでなく、きょうわせいとなったどいつはヴぇるさいゆじょうやくにより)

分割されただけでなく、共和政となったドイツはヴェルサイユ条約により

(きょがくのばいしょうきんがかせられた。さらに、どいつのゆしゅつせいひんには26%の)

巨額の賠償金が課せられた。さらに、ドイツの輸出製品には26%の

(かんぜいがかされることとなった。1921ねん、ばいしょうのそうがくが)

関税が課されることとなった。1921年、賠償の総額が

(1320おくきんまるくにさだめられた。)

1320億金マルクに定められた。

など

(ふらんすとべるぎーのるーるちほうせんりょうとはいぱーいんふれ)

フランスとベルギーのルール地方占領とハイパーインフレ

(1921ねん、ばいしょうのそうがくが1320おくきんまるくにさだめられた。)

1921年、賠償の総額が1320億金マルクに定められた。

(1922ねん11がつ、ヴぇるさいゆじょうやくはきをかかげるくーのせいけんがほっそくすると、)

1922年11月、ヴェルサイユ条約破棄を掲げるクーノ政権が発足すると、

(1923ねん1がつ11にちにふらんす・べるぎーぐんがばいしょうきんしはらいのとどこおりを)

1923年1月11日にフランス・ベルギー軍が賠償金支払いの滞りを

(りゆうにるーるせんりょうをきょうこう。こうぎょうちたい・たんこうをせんきょするとともに)

理由にルール占領を強行。工業地帯・炭鉱を占拠するとともに

(どいつていこくぎんこうがしょゆうするきんをぼっしゅうし、せんりょうちにはばっきんをかした。)

ドイツ帝国銀行が所有する金を没収し、占領地には罰金を科した。

(これによりはいぱーいんふれがはっせいし、ぐんじりょくのないどいつせいふは)

これによりハイパーインフレが発生し、軍事力のないドイツ政府は

(これにぜねすとでたいこうしたが、くーのせいけんはたいじんにおいこまれた。)

これにゼネストで対抗したが、クーノ政権は退陣に追い込まれた。

(そのけっか、まるくしへいのかちはせんぜんの1ちょうふんの1にまでげらく、)

その結果、マルク紙幣の価値は戦前の1兆分の1にまで下落、

(みゅんへんいっきなどのはんらんがはっせいした。)

ミュンヘン一揆などの反乱が発生した。

(こくさいれんめいせつりつ)

国際連盟設立

(1930ねん、すいす・じゅねーヴにてかいさいのこくさいれんめいぎかい)

1930年、スイス・ジュネーヴにて開催の国際連盟議会

(いっぽう、だいいちじせかいたいせんのせんしょうこくのいぎりす、ふらんす、だいにっぽんていこく、)

一方、第一次世界大戦の戦勝国のイギリス、フランス、大日本帝国、

(いたりあおうこくといったれっきょうが、じょうせつりじかいのじょうにんりじこくとなり1920ねんに)

イタリア王国といった列強が、常設理事会の常任理事国となり1920年に

(こくさいれんめいがつくられた。こうわかいぎごにていけつされたヴぇるさいゆじょうやく・)

国際連盟が作られた。講和会議後に締結されたヴェルサイユ条約・

(さん=じぇるまんじょうやく・とりあのんじょうやく・ぬいいじょうやく・せーヴるじょうやくの)

サン=ジェルマン条約・トリアノン条約・ヌイイ条約・セーヴル条約の

(だい1へんはこくさいれんめいきやくとなっており、これらのじょうやくひじゅんに)

第1編は国際連盟規約となっており、これらの条約批准に

(よってれんめいはせいりつした。)

よって連盟は成立した。

(せんしょうこくはげんじょういじをかかげてみずからつくりだしたせんごのこくさいちつじょをたもとうと)

戦勝国は現状維持を掲げて自ら作り出した戦後の国際秩序を保とうと

(したが、せんしょうこくのあめりかのとうしょのふさんかや、しんこうこくのそびえとれんぽうや)

したが、戦勝国のアメリカの当初の不参加や、新興国のソビエト連邦や

(はいせんこくのどいつのかめいきょひによってそのきばんがとうしょからじゅうぶんなものでは)

敗戦国のドイツの加盟拒否によってその基盤が当初から十分なものでは

(なく、こくさいれんめいのへいわいじのうりょくにははじめからおおきなげんかいがあった。)

なく、国際連盟の平和維持能力には初めから大きな限界があった。

(もんろーしゅぎのどうよう)

モンロー主義の動揺

(うぃりあむ・ぼーらやへんりー・かぼっと・ろっじらべいじょういんぎいんが)

ウィリアム・ボーラやヘンリー・カボット・ロッジら米上院議院が

(ヴぇるさいゆじょうやくへのさんかにはんたいした。せんごちつじょいじにさいだいのきたいを)

ヴェルサイユ条約への参加に反対した。戦後秩序維持に最大の期待を

(かけられたあめりかは、とうしょこくさいれんめいにきょひするなどでんとうてきな)

かけられたアメリカは、当初国際連盟に拒否するなど伝統的な

(こりつしゅぎにかいきしたが、もんろーしゅぎはしゅうしかんてつされた)

孤立主義に回帰したが、モンロー主義は終始貫徹された

(わけではなかった。すぐにどいつにたいするとうしを)

わけではなかった。すぐにドイツに対する投資を

(ともにしてふらんすとのかんけいがふかまった。)

共にしてフランスとの関係が深まった。

(そこで1930ねん5がつ、あめりかではたいいぎりすとのせんそうにそなえ、)

そこで1930年5月、アメリカでは対イギリスとの戦争に備え、

(おもにかなだをせんじょうにそうていしたれっどけいかくがさくせいされた。れっどけいかくは)

主にカナダを戦場に想定したレッド計画が作成された。レッド計画は

(1935ねんにこうしんされたが、どうねんにはちゅうりつほうもせいていされ、ぜんこうせんこくに)

1935年に更新されたが、同年には中立法も制定され、全交戦国に

(たいしてぶききんゆとなった。1936ねん2がつ29にちのかいせいちゅうりっぽうでは)

対して武器禁輸となった。1936年2月29日の改正中立法では

(こうせんこくへのしゃっかんもきんしされた。1937ねん5がつ1にちにもかいせいされ、)

交戦国への借款も禁止された。1937年5月1日にも改正され、

(げんじほうだったものがこうきゅうかし、なおかついっぱんぶっしにかんしても)

限時法だったものが恒久化し、なおかつ一般物資に関しても

(あめりかとのつうしょうはげんきんでとりひきし、かもつのうんぱんはじこくぶねで)

アメリカとの通商は現金で取引し、貨物の運搬は自国船で

(おこなわなければならないとされた。ちゅうりつほうのかんせいにはないいいんかいのちょうさが)

行わなければならないとされた。中立法の完成にはナイ委員会の調査が

(こうけんしたが、じょういんがいこういいんかいはないいいんかいにほうあんていしゅつのけんげんが)

貢献したが、上院外交委員会はナイ委員会に法案提出の権限が

(ないとしたので、ないはこじんしかくでほうあんをていしゅつするなどのこんなんをともなった。)

ないとしたので、ナイは個人資格で法案を提出するなどの困難を伴った。

(おうしゅうたいりくでのどいつのたいとうによりおうしゅうのじょうせいがげきへんし、1939ねん)

欧州大陸でのドイツの台頭により欧州の情勢が激変し、1939年

(れっどけいかくはこうしんされなかった。あめりかはからーこーどせんそうけいかく)

レッド計画は更新されなかった。アメリカはカラーコード戦争計画

(において、ひえいどくふつい、すぺいん、めきしこ、ぶらじるをはじめ)

において、日英独仏伊、スペイン、メキシコ、ブラジルをはじめ

(かっこくとのせんそうをそうていしたけいかくをりつあんしており、このけいかくがのちに)

各国との戦争を想定した計画を立案しており、この計画がのちに

(だいにじせかいたいせんをそうていしたれいんぼー・ぷらんへとはってんしていく。)

第二次世界大戦を想定したレインボー・プランへと発展していく。

(きょうさんしゅぎのたいとう)

共産主義の台頭

(ろしあかくめいいこう、せかいてきにきょうさんしゅぎがたいとうし、これのそしをねらった)

ロシア革命以降、世界的に共産主義が台頭し、これの阻止を狙った

(おうべいれっきょうはしべりあしゅっぺいなどでかんしょうしたがしっぱいした。それんせいふは)

欧米列強はシベリア出兵などで干渉したが失敗した。ソ連政府は

(1917ねん12がつ、けんりょくいじとはんかくめいせいりょくくちくのためひみつけいさつ(ちぇーかー))

1917年12月、権力維持と反革命勢力駆逐のため秘密警察(チェーカー)

(をせっちし、こくみんをきびしくかんししだんあつした。あらたにそれんにへいごうされた)

を設置し、国民を厳しく監視し弾圧した。新たにソ連に併合された

(うくらいなでは1932ねんからきょうせいいじゅうとがし、しょけいなどでやく1450まんにんが)

ウクライナでは1932年から強制移住と餓死、処刑などで約1450万人が

(めいをおとし(ほろどもーる)、さらに1937ねんから1938ねんにかけての)

命を落とし(ホロドモール)、さらに1937年から1938年にかけての

(ヴぃーんぬぃつゃだいぎゃくさつでは9,000にんいじょうがさつがいされた。ひみつけいさつは)

ヴィーンヌィツャ大虐殺では9,000人以上が殺害された。秘密警察は

(1934ねん、ないむじんみんいいんぶ(nkvd)とかいしょうされ、それんこくないと)

1934年、内務人民委員部 (NKVD) と改称され、ソ連国内と

(そのえいせいこくでだいしゅくせいをおこないすうひゃくまんじんをしょけいした。)

その衛星国で大粛清を行い数百万人を処刑した。

(きゅうせいりょくくちくごのそれんはたいがいぼうちょうせいさくをとり、1921ねんにはそともんごるに)

旧勢力駆逐後のソ連は対外膨張政策を採り、1921年には外モンゴルに

(かいらいせいけんのもんごるじんみんきょうわこくをせつりつ、1929ねんにはまんしゅうのけんえきを)

傀儡政権のモンゴル人民共和国を設立、1929年には満洲の権益を

(めぐりちゅうそふんそうがひきおこされた。さらに、すぺいんないせんや)

めぐり中ソ紛争が引き起こされた。さらに、スペイン内戦や

(にっちゅうせんそうなどにぐんをはけん(それんくうぐんしがんたい)し、こくさいふんそうにせっきょくてきに)

日中戦争等に軍を派遣(ソ連空軍志願隊)し、国際紛争に積極的に

(かいにゅう。1939ねんにはにほんとのあいだにのもんはんじけんがおこった。)

介入。1939年には日本との間にノモンハン事件が起こった。

(このようなじょうせいかでそれんのしえんをうけたきょうさんしゅぎそしきが)

このような情勢下でソ連の支援を受けた共産主義組織が

(かっこくでせいりょくをのばす。)

各国で勢力を伸ばす。

(ヴぇるさいゆたいせいかのあんてい)

ヴェルサイユ体制下の安定

(せんしょうこくのいたりあでは「みかいしゅうのいたりあ」もんだいやふけいきにより)

戦勝国のイタリアでは「未回収のイタリア」問題や不景気により

(せいじょうがふあんていかした。このようなじょうきょうでいぎりすのしえんによりせいりょくを)

政情が不安定化した。このような状況でイギリスの支援により勢力を

(かくだいしたむっそりーにのふぁしすととうは1922ねんのろーましんぐんで)

拡大したムッソリーニのファシスト党は1922年のローマ進軍で

(けんりょくをしょうあくし、けんいしゅぎてきなふぁしずむたいせいがせいりつした。)

権力を掌握し、権威主義的なファシズム体制が成立した。

(しかしこのころのむっそりーにとふぁしずむたいせいは、いぎりすや)

しかしこの頃のムッソリーニとファシズム体制は、イギリスや

(あめりかなどでも「あたらしいながれ」だときたいされ、)

アメリカなどでも「新しい流れ」だと期待され、

(ちゃーちるさえもおおいにぜっさんした。)

チャーチルさえも大いに絶賛した。

(おなじくせんしょうこくのにほんではぎかいせいみんしゅしゅぎかがすすみ、)

同じく戦勝国の日本では議会制民主主義化が進み、

(1918ねん9がつ、にほんではじめてのほんかくてきなせいとうないかくであるはらないかくが)

1918年9月、日本で初めての本格的な政党内閣である原内閣が

(そしきされた。「へいみんさいしょう」とよばれたはらたかしは1921ねんにあんさつされたが、)

組織された。「平民宰相」と呼ばれた原敬は1921年に暗殺されたが、

(そのあと1922ねんににほんはわしんとんかいぐんぐんしゅくじょうやくにちょういんし、)

その後1922年に日本はワシントン海軍軍縮条約に調印し、

(1923ねんには、よんかこくじょうやくのせいりつにともないにちえいどうめいがはってんてきかいしょうされた。)

1923年には、四カ国条約の成立に伴い日英同盟が発展的解消された。

(1925ねんにはあじあではつのふつうせんきょせいどがどうにゅうされた。)

1925年にはアジアで初の普通選挙制度が導入された。

(せいとうせいじのしたでぎかいせいみんしゅしゅぎかがねづき、「たいしょうでもくらしー」の)

政党政治の下で議会制民主主義化が根付き、「大正デモクラシー」の

(こうりゅうのなかでがいしょうしではらのすいしんするこくさいきょうちょうしゅぎがしゅりゅうとなり、)

興隆の中で外相幣原の推進する国際協調主義が主流となり、

(このままぎかいせいみんしゅしゅぎがしんとうしていくかにみえた。)

このまま議会制民主主義が浸透していくかに見えた。

(いっぽう、はいせんこくのどいつでは、はめつのそこにおちたどいつけいざいは)

一方、敗戦国のドイツでは、破滅の底に落ちたドイツ経済は

(るーるせんりょうじにはこんらんしたものの、1924ねんのれんてんまるくの)

ルール占領時には混乱したものの、1924年のレンテンマルクの

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