第二次世界大戦5

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(どうにゅうやどーずあんにだいひょうされるあらたなばいしょうしはらいけいかくとともに、)

導入やドーズ案に代表される新たな賠償支払い計画とともに、

(せんしょうこくのあめりかやいぎりすなどのしほんもはいり、いちおうはへいせいをとりもどし)

戦勝国のアメリカやイギリスなどの資本も入り、一応は平静を取り戻し

(そうたいてきあんていきにはいった。1925ねんにろかるのじょうやくがむすばれ、どいつは)

相対的安定期に入った。1925年にロカルノ条約が結ばれ、ドイツは

(しゅうへんしょこくとのかんけいをしゅうふくし、こくさいれんめいへのかめいもみとめられた。)

周辺諸国との関係を修復し、国際連盟への加盟も認められた。

(これによってけんせつされたたいせいを「ろかるのたいせい」という。さらに)

これによって建設された体制を「ロカルノ体制」という。さらに

(1928ねんにはぱりでふせんじょうやくがむすばれ、63かこくがせんそうほうきとふんそうの)

1928年にはパリで不戦条約が結ばれ、63か国が戦争放棄と紛争の

(へいわてきかいけつをせいやく。こうしてへいわいじのこころみはたっせいされるかにおもわれた。)

平和的解決を誓約。こうして平和維持の試みは達成されるかに思われた。

(せかいきょうこう)

世界恐慌

(だいぼうらくちょくごのにゅーよーくしょうけんとりひきじょ(1929ねん))

大暴落直後のニューヨーク証券取引所(1929年)

(しかし、1929ねん10がつ24にちからおきたいちれんのにゅーよーくしょうけんとりひきじょ、)

しかし、1929年10月24日から起きた一連のニューヨーク証券取引所、

(うぉーるがいからせかいにひろがっただいぼうらくをたんしょとするせかいきょうこうは、)

ウォール街から世界に広がった大暴落を端緒とする世界恐慌は、

(このようなせかいのじょうきょうをいっぺんさせた。)

このような世界の状況を一変させた。

(にゅーよーくしょうけんとりひきじょ1しゅうかんのそんしつは300おくどるとなった。)

ニューヨーク証券取引所1週間の損失は300億ドルとなった。

(これはれんぽうせいふねんかんよさんの10ばいいじょうにそうとうし、だいいちじせかいたいせんで)

これは連邦政府年間予算の10倍以上に相当し、第一次世界大戦で

(あめりかがっしゅうこくがしょうひしたきんよりもはるかにおおかった。あめりかは)

アメリカ合衆国が消費した金よりもはるかに多かった。アメリカは

(1920ねんだいにいぎりすにかわるせかいさいだいのこうぎょうこくとしてのちいをかくりつし、)

1920年代にイギリスに代わる世界最大の工業国としての地位を確立し、

(だいいちじせかいたいせんごのこうけいきをおうかしていた。また1920ねんだいこうはんに)

第一次世界大戦後の好景気を謳歌していた。また1920年代後半に

(つづいたとうきぶーむはすうじゅうまんにんのあめりかじんがかぶしきしじょうにじゅうてんてきに)

続いた投機ブームは数十万人のアメリカ人が株式市場に重点的に

(とうしすることにつながり、すくなからぬものはかぶをかうためにしゃっきんまで)

投資することに繋がり、少なからぬ者は株を買うために借金まで

(するというじょうきょうであった。しかしこのころにはせいさんかじょうにおちいり、それに)

するという状況であった。しかしこの頃には生産過剰に陥り、それに

など

(さきだつのうぎょうふきょうのまんせいかやごうりかによるこようよくせいとふくごうしたもんだいがうまれた。)

先立つ農業不況の慢性化や合理化による雇用抑制と複合した問題が生まれた。

(せかいきょうこうをうけてえいふつりょうこくはぶろっくけいざいたいせいをきずき、あめりかは)

世界恐慌を受けて英仏両国はブロック経済体制を築き、アメリカは

(にゅーでぃーるせいさくをうちだしてこれをのりこえようとした。)

ニューディール政策を打ち出してこれを乗り越えようとした。

(しかしにゅーでぃーるせいさくがこうかをはっきしはじめるのは1930ねんだいなかごろに)

しかしニューディール政策が効果を発揮し始めるのは1930年代中頃に

(なってからであり、それまでにしきんがせかいじゅうからひきあげられ、)

なってからであり、それまでに資金が世界中から引き上げられ、

(1929ねんから1932ねんのあいだにせかいのこくないそうせいさんはすいてい15%げんしょうし、)

1929年から1932年の間に世界の国内総生産は推定15%減少し、

(あめりかのしつぎょうりつは23%にじょうしょうし、いちぶのくにでは33%にまでじょうしょうした。)

アメリカの失業率は23%に上昇し、一部の国では33%にまで上昇した。

(きょうこうはそのあとの10ねんかんせかいをつつんだけいきこうたいのしょうちょうとなった。)

恐慌はその後の10年間世界を包んだ景気後退の象徴となった。

(ふぁしずむのせんたく)

ファシズムの選択

(だいにじえちおぴあせんそうでたたかういたりありくぐんほうへい)

第二次エチオピア戦争で戦うイタリア陸軍砲兵

(だいいちじせかいたいせんでせんしょうしれっきょうとなったくにのうち、しょくみんちをすこししか)

第一次世界大戦で戦勝し列強となった国のうち、植民地を少ししか

(もたなかったにほんといたりあ、そしてはいせんこくのどいつでは、せかいきょうこうの)

持たなかった日本とイタリア、そして敗戦国のドイツでは、世界恐慌の

(あおりをうけてしょくみんちをかくとくすべくかいがいへしんこうし、そのけっかぐんじが)

あおりを受けて植民地を獲得すべく海外へ侵攻し、その結果軍事が

(けんりょくをもち、いぎりすやあめりか、ふらんすはこれにはんぱつし、)

権力を持ち、イギリスやアメリカ、フランスはこれに反発し、

(ぐんじどくさいせいけんへのいこうがみられるようになる。)

軍事独裁政権への移行が見られるようになる。

(ふぁしすととうのむっそりーにひきいるいたりあは、1935ねんにしょくみんちを)

ファシスト党のムッソリーニ率いるイタリアは、1935年に植民地を

(かくとくすべくえちおぴあにしんこうし、たんきかんのせんとうをもってぜんどをせんりょうした。)

獲得すべくエチオピアに侵攻し、短期間の戦闘をもって全土を占領した。

(やぶれたえちおぴあこうていはいれ・せらしえ1せいはたいいをこばみ、いぎりすで)

敗れたエチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世は退位を拒み、イギリスで

(えちおぴあぼうめいせいふをじゅりつしてていいのけいぞくをしゅちょうした。たいしてぜんどを)

エチオピア亡命政府を樹立して帝位の継続を主張した。対して全土を

(せんりょうしたいたりあは、いたりあおうけんあるばにあおうのヴぃっとーりお・)

占領したイタリアは、イタリア王兼アルバニア王のヴィットーリオ・

(えまぬえーれ3せいをこうていとするひがしあふりかていこく(いたりありょうひがしあふりか))

エマヌエーレ3世を皇帝とする東アフリカ帝国(イタリア領東アフリカ)

(をけんこくさせた。けっかとしてこくさいれんめいきやくだい16じょう(けいざいせいさい)のはつどうが)

を建国させた。結果として国際連盟規約第16条(経済制裁)の発動が

(ゆいいつおこなわれたじれいだが、いたりあにたいしてじっこうてきではなかった。)

唯一行われた事例だが、イタリアに対して実効的ではなかった。

(だいにじえちおぴあせんそうでえちおぴあにしんこうしたいたりあおうこくは)

第二次エチオピア戦争でエチオピアに侵攻したイタリア王国は

(1937ねんにこくさいれんめいをだったいした。)

1937年に国際連盟を脱退した。

(ご・いちごじけんをつたえるしんぶん)

五・一五事件を伝える新聞

(きんかいきんによるでふれせいさくをとっていたにほんのじょうきょうもしんこくだった。)

金解禁によるデフレ政策を採っていた日本の状況も深刻だった。

(だいきょうこうによりしつぎょうしゃがげきぞうした(しょうわきょうこう)。さらにこうかろんがうずまく)

大恐慌により失業者が激増した(昭和恐慌)。さらに黄禍論が渦巻く

(あめりかへのいみんはきんしされるなど、せかいきょうこうとじんしゅさべつによる)

アメリカへの移民は禁止されるなど、世界恐慌と人種差別による

(だげきをうけてしまう。そのようななかで、いたりあどうようかいけつさくをかいがいの)

打撃を受けてしまう。そのような中で、イタリア同様解決策を海外の

(しょくみんちかくとくへとむけたにほんは、1931ねん9がつのりゅうじょうこじけんをけいきに)

植民地獲得へと向けた日本は、1931年9月の柳条湖事件を契機に

(ちゅうかみんこくのひがしほくぶ(まんしゅう)をどくりつさせ、1932ねん(しょうわ7ねん)3がつ1にち、)

中華民国の東北部(満洲)を独立させ、1932年(昭和7年)3月1日、

(まんしゅうこくをけんこくした。まんしゅうこくをしゅどうするかんとうぐんはりくぐんちゅうすうのいうことを)

満洲国を建国した。満洲国を主導する関東軍は陸軍中枢の言うことを

(きかずなすがままにされた。さらによくねんにはこくさいれんめいをだったいするなど)

聞かずなすがままにされた。さらに翌年には国際連盟を脱退するなど

(ぐんのぼうそうがとまらず、ちゅうかみんこくにりけんをもついぎりすやあめりか、)

軍の暴走が止まらず、中華民国に利権を持つイギリスやアメリカ、

(いたりあやどいつからもおおきなはんぱつをくらった。)

イタリアやドイツからも大きな反発を食らった。

(さらにふあんていなせいとうせいじやぎかいせいみんしゅしゅぎのもたらした、しつぎょうしゃの)

さらに不安定な政党政治や議会制民主主義のもたらした、失業者の

(ぞうかとおしょくにふまんをもつぐんぶのいちぶがおこした「ご・いちごじけん」や)

増加と汚職に不満を持つ軍部の一部が起こした「五・一五事件」や

(「に・にろくじけん」では、あいついでせいとうせいじいえとざいかいじんがあんさつされ)

「二・二六事件」では、相次いで政党政治家と財界人が暗殺され

(はんらんしゃはしょばつされたが、これいこうぐんぶによるせいふへのかいにゅうがますます)

反乱者は処罰されたが、これ以降軍部による政府への介入がますます

(つよくなる。さらにぐんぶのぷれっしゃーからひろたこうきないかくじにぐんぶだいじん)

強くなる。さらに軍部のプレッシャーから広田弘毅内閣時に軍部大臣

(げんえきぶかんせいをさいどどうにゅうし、さらににっちゅうせんそうがぼっぱつ。そのあとのこのえふみまろ)

現役武官制を再度導入し、さらに日中戦争が勃発。その後の近衛文麿

(せいけんとともにせいとうせいじをもとにしたせいとうせいじいえひきいるぎかいせいみんしゅしゅぎが)

政権とともに政党政治を基にした政党政治家率いる議会制民主主義が

(わずか20ねんにもみたないまましゅうえんをむかえる。)

わずか20年にも満たないまま終焉を迎える。

(せいじしゅうかいにおけるあどるふ・ひとらー(1930ねん10がつ、ヴぁいまるにて))

政治集会におけるアドルフ・ヒトラー(1930年10月、ヴァイマルにて)

(だいいちじせかいたいせんのはいしゃで、そうがくが1,320おくきんまるくととうていしはらうことが)

第一次世界大戦の敗者で、総額が1,320億金マルクと到底支払うことが

(できないとおもわれたばいしょうきんのしはらいをつづけながら、あめりかからの)

できないと思われた賠償金の支払いを続けながら、アメリカからの

(とうしでなんとかうるおっていたどいつでもしつぎょうしゃがげきぞうした。)

投資で何とか潤っていたドイツでも失業者が激増した。

(どいつのせいじょうはこんらんし、ヴぇるさいゆたいせいだは、つまりだいきょうこうかに)

ドイツの政情は混乱し、ヴェルサイユ体制打破、つまり大恐慌下に

(おいてもだいいちじせかいたいせんのばくだいなばいしょうきんのしはらいをつづけることにたいする)

おいても第一次世界大戦の莫大な賠償金の支払いを続けることに対する

(はんぱつと、さらにはんきょうさんしゅぎをかかげるなちずむうんどうがせいりょくをえるしたじが)

反発と、さらに反共産主義を掲げるナチズム運動が勢力を得る下地が

(つくられた。あどるふ・ひとらーひきいるこっかしゃかいしゅぎどいつろうどうしゃとう)

作られた。アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党

((なちす)はしょうしみんそうやぼつらくちゅうさんかいきゅうのたかいしじをかくとくし、1930ねんには)

(ナチス)は小市民層や没落中産階級の高い支持を獲得し、1930年には

(こっかいぎいんせんきょでだいにとうにやくしん。1931ねんにはどくおうかんぜいどうめいじけんをたんしょに)

国会議員選挙で第二党に躍進。1931年には独墺関税同盟事件を端緒に

(くれでぃたんしゅたるとがはたんし、きょうこうはよーろっぱぜんたいにかくだいした。)

クレディタンシュタルトが破綻し、恐慌はヨーロッパ全体に拡大した。

(1932ねん、そのじてんでのどいつのしはらいがくは205.98おくきんまるくに)

1932年、その時点でのドイツの支払い額は205.98億金マルクに

(すぎなかったが、こくさいしゃかいのえんじょにより、ばいしょうきんのしはらいはようやく)

過ぎなかったが、国際社会の援助により、賠償金の支払いはようやく

(いちじていしされることとなった。)

一時停止されることとなった。

(こくさいれんめいのはたん)

国際連盟の破綻

(にほんといたりあ、どいつは、いぎりすやふらんす、あめりかなどと)

日本とイタリア、ドイツは、イギリスやフランス、アメリカなどと

(ちがい、ばくだいなとみとこようをうみだすしょくみんちをほとんどもたず、こくがいしんしゅつは)

違い、莫大な富と雇用を生み出す植民地をほとんど持たず、国外進出は

(こくさいれんめいをだったいまたはこくさいれんめいからのけいざいせいさいをあびることとなり、)

国際連盟を脱退または国際連盟からの経済制裁を浴びることとなり、

(こりつし、きょうつうてんをもつ3こくは1930ねんどにはいりきゅうせっきんをはじめる。)

孤立し、共通点を持つ3国は1930年度に入り急接近を始める。

(1931ねんににほんはまんしゅうじへんをおこし、1932ねんにけんこくしたまんしゅうこくのそんぞくを)

1931年に日本は満洲事変を起こし、1932年に建国した満洲国の存続を

(みとめないかんこくあんがこくさいれんめいでさいたくされたことをうけ、1933ねんに)

認めない勧告案が国際連盟で採択された事を受け、1933年に

(こくさいれんめいをだったい。どうねん1がつになちとうは、みんしゅてきせんきょでどいつこくみんの)

国際連盟を脱退。同年1月にナチ党は、民主的選挙でドイツ国民の

(あっとうてきなしじをえてせいけんかくとくにせいこう。なちとうはそのあとぜんけんいにんほうを)

圧倒的な支持を得て政権獲得に成功。ナチ党はその後全権委任法を

(つうかさせ、どくさいたいせいをかくりつした。えいふつまいなどれっきょうはあつりょくをつよめつつ)

通過させ、独裁体制を確立した。英仏米など列強は圧力を強めつつ

(あったきょうさんしゅぎおよびそびえとれんぽうをけんせいするやくわりをなちすせいけんかの)

あった共産主義およびソビエト連邦を牽制する役割をナチス政権下の

(どいつにきたいしていたが、どいつはにほんについで1933ねん10がつに)

ドイツに期待していたが、ドイツは日本に次いで1933年10月に

(こくさいれんめいをだったいし、べるさいゆたいせいのだはをおしすすめはじめた。)

国際連盟を脱退し、ベルサイユ体制の打破を推し進め始めた。

(だいにじせかいたいせんまえ(1936ねん)のれっきょうとしょくみんち)

第二次世界大戦前(1936年)の列強と植民地

(1935ねん、どいつはさいぐんびせんげんをおこない、きょうだいなぐんびをととのえはじめた。)

1935年、ドイツは再軍備宣言を行い、強大な軍備を整え始めた。

(いぎりすはどいつとえいどくかいぐんきょうていをむすび、じじつじょうそのさいぐんびをようにんする。)

イギリスはドイツと英独海軍協定を結び、事実上その再軍備を容認する。

(どいつそうとうひとらーはいぎりすとふらんすのゆうわせいさくがそのあともつづくと)

ドイツ総統ヒトラーはイギリスとフランスの宥和政策がその後も続くと

(はんだんし、1936ねん7がつにらいんらんとしんちゅうをきょうこう。これにより)

判断し、1936年7月にラインラント進駐を強行。これにより

(ろかるのじょうやくはほうかいした。)

ロカルノ条約は崩壊した。

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