第二次世界大戦6
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問題文
(これらにたいしこくさいれんめいはこうかあるたいさくをとれず、べぇるさいゆたいせいの)
これらに対し国際連盟は効果ある対策を採れず、ヴェルサイユ体制の
(はたんはあきらかとなった。にほん、どいつ、いたりあのさんごくかんではれんけいを)
破綻は明らかとなった。日本、ドイツ、イタリアの三国間では連携を
(もとめるうごきがけんざいかし、1936ねんににちどくぼうきょうきょうてい、1937ねんには)
求める動きが顕在化し、1936年に日独防共協定、1937年には
(にちどくいぼうきょうきょうていがむすばれた。またぐんぶがぼうそうしたにほんでは1937ねんに)
日独伊防共協定が結ばれた。また軍部が暴走した日本では1937年に
(にっちゅうせんそうがはじまり、ひとらーは、しゅうへんかっこくのどいつけいじゅうみんしょぐうもんだいに)
日中戦争がはじまり、ヒトラーは、周辺各国のドイツ系住民処遇問題に
(たいしみんぞくじけつしゅぎをしゅちょうし、しゅうへんこくでどいつじんきょじゅうしゃが)
対し民族自決主義を主張し、周辺国でドイツ人居住者が
(おおいちいきのどいつへのへいごうをようきゅうした。)
多い地域のドイツへの併合を要求した。
(どいつにたいするゆうわせいさくとそのはたん)
ドイツに対する宥和政策とその破綻
(1938ねん9がつ29にち、みゅんへんかいだんにてしょめいちょくぜんにさつえいされた、)
1938年9月29日、ミュンヘン会談にて署名直前に撮影された、
(ちぇんばれん、だらでぃえ、ひとらー、むっそりーにおよびちゃーの)
チェンバレン、ダラディエ、ヒトラー、ムッソリーニおよびチャーノ
(1938ねん3がつ12にち、どいつはぐんじてきどうかつによりおーすとりあをへいごう。)
1938年3月12日、ドイツは軍事的恫喝によりオーストリアを併合。
(ついでちぇこすろばきあのずでーてんちほうにねらいをさだめ、えいふついとの)
次いでチェコスロバキアのズデーテン地方に狙いを定め、英仏伊との
(あいだでどうねん9がつ29にちにかいさいされたみゅんへんかいだんで、えいしゅしょう)
間で同年9月29日に開催されたミュンヘン会談で、英首相
(ねヴぃる・ちぇんばれんとほとけしゅしょうえどぅあーる・だらでぃえは、)
ネヴィル・チェンバレンと仏首相エドゥアール・ダラディエは、
(ひとらーのようきゅうがさいしゅうてきなものであるとにんしきしてだきょうし、どいつの)
ヒトラーの要求が最終的なものであると認識して妥協し、ドイツの
(ずでーてんかくとく、さらにぽーらんどのてしぇん、はんがりーの)
ズデーテン獲得、さらにポーランドのテシェン、ハンガリーの
(るてにあなどのりょうゆうようきゅうがしょうにんされた。)
ルテニアなどの領有要求が承認された。
(しかしひとらーにはみゅんへんでのごういをまもるきがなく、)
しかしヒトラーにはミュンヘンでの合意を守る気がなく、
(1939ねん3がつ15にち、どいつぐんはちぇこぜんいきをせんりょうし、すろばきあを)
1939年3月15日、ドイツ軍はチェコ全域を占領し、スロバキアを
(どくりつさせほごこくとした。こうしてちぇこすろばきあはかいたいされた。)
独立させ保護国とした。こうしてチェコスロバキアは解体された。
(みゅんへんかいだんでのごういをほうぐにされたちぇんばれんはゆうわせいさくほうきを)
ミュンヘン会談での合意を反故にされたチェンバレンは宥和政策放棄を
(けつだんし、ぽーらんどとのぐんじどうめいをきょうか。しかしふらんすはばくだいな)
決断し、ポーランドとの軍事同盟を強化。しかしフランスは莫大な
(そんがいがよそうされるどいつとのせんそうにはしょうきょくてきであった。)
損害が予想されるドイツとの戦争には消極的であった。
(ぼっぱつちょくぜん)
勃発直前
(ひとらーのようきゅうはさらにえすかれーとし、1939ねん3がつ22にちに)
ヒトラーの要求はさらにエスカレートし、1939年3月22日に
(りとあにあからめーめるちほうをかつじょうさせた。さらにぽーらんどにたいし、)
リトアニアからメーメル地方を割譲させた。さらにポーランドに対し、
(ひがしぷろいせんへのつうこうみちぽーらんどかいろうおよびこくさいれんめいかんりかの)
東プロイセンへの通行路ポーランド回廊および国際連盟管理下の
(じゆうとしだんつぃひのかいふくをようきゅうした。4がつ7にちにはいたりあの)
自由都市ダンツィヒの回復を要求した。4月7日にはイタリアの
(あるばにあしんこうがはっせいし、むっそりーにもこりつのみちをすすんでいった。)
アルバニア侵攻が発生し、ムッソリーニも孤立の道を進んでいった。
(4がつ28にち、どいつは1934ねんていけつのどいつ・ぽーらんどふかしんじょうやくを)
4月28日、ドイツは1934年締結のドイツ・ポーランド不可侵条約を
(はきし、ぽーらんどじょうせいはきんぱくした。5がつ22にちにはいたりあとのあいだで)
破棄し、ポーランド情勢は緊迫した。5月22日にはイタリアとの間で
(こうてつきょうやくをむすび、8がつ23にちにはそびえとれんぽうとどくそふかしんじょうやくをていけつした。)
鋼鉄協約を結び、8月23日にはソビエト連邦と独ソ不可侵条約を締結した。
(はんきょうのどいつときょうさんしゅぎのそびえとれんぽうはあいいれないとかんがえていた)
反共のドイツと共産主義のソビエト連邦は相容れないと考えていた
(かっこくはきょうがくし、どくそふかしんじょうやくのていけつをうけて、とうじのにほんの)
各国は驚愕し、独ソ不可侵条約の締結を受けて、当時の日本の
(ひらぬまきいちろうしゅしょうは「おうしゅうのてんちはふくざつかいき」とのことばをのこし、)
平沼騏一郎首相は「欧洲の天地は複雑怪奇」との言葉を残し、
(どいつのぼうきょうきょうていいはんというじゅうだいなせいじせきにんから8がつ28にちにそうじしょくし、)
ドイツの防共協定違反という重大な政治責任から8月28日に総辞職し、
(にほんはどいつとのどうめいこうしょうをていしした。またどいつせいふと「みつげつのなか」)
日本はドイツとの同盟交渉を停止した。またドイツ政府と「蜜月の仲」
(でしられたはずのおおしまひろしたいしも、それんとののもんはんじけんがおきるなかで、)
で知られたはずの大島浩大使も、ソ連とのノモンハン事件が起きる中で、
(どうめいこくのどいつからこのていけつをまえもってしらされなかったせきにんをとり、)
同盟国のドイツからこの締結を前もって知らされなかった責任を取り、
(そくざにべるりんよりきちょうをめいぜられた(きこくごの12がつ27にちに)
即座にベルリンより帰朝を命ぜられた(帰国後の12月27日に
(たいしいがんめんしょくした)。またいぎりすは8がつ25にちにぽーらんど=)
大使依願免職した)。またイギリスは8月25日にポーランド=
(いぎりすそうごえんじょじょうやく(えいごばん)をむすぶことでこれにたいこうした。)
イギリス相互援助条約(英語版)を結ぶことでこれに対抗した。
(1939ねんなつ、あめりかのだいとうりょうるーずべるとは、いぎりす、ふらんす、)
1939年夏、アメリカの大統領ルーズベルトは、イギリス、フランス、
(ぽーらんどにたいし、「どいつがぽーらんどにこうげきするばあい、えいふつが)
ポーランドに対し、「ドイツがポーランドに攻撃する場合、英仏が
(ぽーらんどをえんじょしないならば、せんそうがかくだいしてもあめりかはえいふつに)
ポーランドを援助しないならば、戦争が拡大してもアメリカは英仏に
(えんじょをあたえないが、もしえいふつがそくじたいどくせんせんをおこなえば、えいふつは)
援助を与えないが、もし英仏が即時対独宣戦を行えば、英仏は
(あめりかからいっさいのえんじょをきたいしえる」とつうこくするなど、どいつに)
アメリカから一切の援助を期待し得る」と通告するなど、ドイツに
(たいしてきょうこうなたいどをとるよう3ごくにきょうようした。)
対して強硬な態度をとるよう3国に強要した。
(どくそふかしんじょうやくにはひみつぎていしょがあり、どくそりょうこくによるぽーらんどぶんかつ、)
独ソ不可侵条約には秘密議定書が有り、独ソ両国によるポーランド分割、
(またそれんはばるとさんごく、ふぃんらんどのかれりあ、るーまにあの)
またソ連はバルト三国、フィンランドのカレリア、ルーマニアの
(べっさらびあへのりょうどてきやしんをしめし、どいつはそれをしょうにんした。いっぽう、)
ベッサラビアへの領土的野心を示し、ドイツはそれを承認した。一方、
(ぽーらんどはえいふつからのぐんじえんじょをたのみに、どいつのようきゅうをきょうこうにきょひ。)
ポーランドは英仏からの軍事援助を頼みに、ドイツの要求を強硬に拒否。
(ひとらーはえいふつのゆうわせいさくがなおもつづくとはんだんしぶりょくによるもんだいかいけつを)
ヒトラーは英仏の宥和政策がなおも続くと判断し武力による問題解決を
(けつだんし、9がつ1にちにぽーらんどへのかいせんをけついした。)
決断し、9月1日にポーランドへの開戦を決意した。
(けいか(おうしゅう・きたあふりか・ちゅうとう・みなみあめりか))
経過(欧州・北アフリカ・中東・南アメリカ)
(しょうさいは「ぽーらんどしんこう」、「ばるとしょこくせんりょう」、「ふゆせんそう」、)
詳細は「ポーランド侵攻」、「バルト諸国占領」、「冬戦争」、
(「せいぶせんせん(だいにじせかいたいせん)」、「どくそせん」、「きたあふりかせんせん」、)
「西部戦線 (第二次世界大戦)」、「独ソ戦」、「北アフリカ戦線」、
(および「いらんしんちゅう(1941ねん)」をさんしょう)
および「イラン進駐 (1941年)」を参照
(1939ねん9がつ1にち、どいつこくぼうぐんおよびすろばきあぐんが、つづいて9がつ17にち)
1939年9月1日、ドイツ国防軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日
(にはそびえとれんぽうぐんがあいついでぽーらんどりょうないにしんこうした。いっぽう、)
にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、
(いぎりすではしゅしょうちぇんばれんがべるりんのたいしかんけいゆでよびかけた)
イギリスでは首相チェンバレンがベルリンの大使館経由で呼びかけた
(ものの、ひとらーからのへんじがないことをりゆうに、またふらんすも)
ものの、ヒトラーからの返事がないことを理由に、またフランスも
(9がつ3にちにどいつにせんせんふこくした。なお、どいつのどうめいこくのにほんと)
9月3日にドイツに宣戦布告した。なお、ドイツの同盟国の日本と
(いたりあはさんせんしなかった。)
イタリアは参戦しなかった。
(まもなくぽーらんどはどくそりょうこくによりぶんかつ・せんりょうされた。そのこっきょうせんは、)
まもなくポーランドは独ソ両国により分割・占領された。その国境線は、
(あとの「かーぞんせん(えいご:curzonline)」におおきなえいきょうを)
後の「カーゾン線(英語: Curzon Line)」に大きな影響を
(あたえた。さらにふぃんらんどおよびばるとさんごくにりょうどてきやしんをしめしたそれんは、)
与えた。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、
(11がつ30にちからふぃんらんどへしんこうした(ふゆせんそう)。そのためこくさいれんめい)
11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため国際連盟
(からひなん・じょめいされたが、1940ねん3がつにふぃんらんどからりょうどを)
から非難・除名されたが、1940年3月にフィンランドから領土を
(かつじょうさせた。さらにばるとさんごくに1940ねん6がつ、40まんいじょうの)
割譲させた。さらにバルト三国に1940年6月、40万以上の
(たいぐんでしんこうし、8がつにはばるとさんごくをへいごうした。)
大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。
(ぽーらんどぶんかつちょくごからよくねんはるまで、せんそうはにしよーろっぱでこうちゃくじょうたい)
ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態
(になったが、1940ねん5がつ10にちにどいつぐんはにしよーろっぱへしんこうをかいし。)
になったが、1940年5月10日にドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始。
(どうねん6がつからにちどくいさんごくどうめいをくむいたりあがさんせん(えいごばん)し、)
同年6月から日独伊三国同盟を組むイタリアが参戦(英語版)し、
(6がつ14にちどいつぐんはぱりをせんりょう、ふらんすをこうふくさせた。さらに)
6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに
(どうねん8がつにどいつくうぐんきがいぎりすほんどくうばくをかいししたが、こうくうせん)
同年8月にドイツ空軍機がイギリス本土空爆を開始したが、航空戦
((ばとる・おぶ・ぶりてん)でだいそんがいをこうむり、9がつなかばにどいつぐんの)
(バトル・オブ・ブリテン)で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍の
(いぎりすほんどじょうりくさくせんはちゅうしされた。)
イギリス本土上陸作戦は中止された。
(1941ねん6がつ22にち、ふかしんじょうやくをはきしてどいつぐんはそれんへしんこうし、)
1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、
(どくそせんがはじまった。ふぃんらんどもそれんにかつじょうされたりょうどだっかいのため)
独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため
(せんせんふこくした(けいぞくせんそう)。いっぽう、れんごうこくはそれんがわにつき、よーろっぱは)
宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパは
(それんをくわえたれんごうこくとすうじくこくににふんするだいせんそうとなり、ししゃがぞうだいし)
ソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し
(せいさんなようそうとなった。どいつぐんはうくらいなをへてどうねん12がつ、)
凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、
(もすくわにせっきんするが、それんぐんのはんげきでこうたいする。なおにちどくいさんごく)
モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。なお日独伊三国
(どうめいをくんだにほんが12がつ7にちにいぎりすとあめりかなどとのあいだにかいせん。)
同盟を組んだ日本が12月7日にイギリスとアメリカなどとの間に開戦。
(どいつといたりあもあめりかとのあいだにかいせんした。)
ドイツとイタリアもアメリカとの間に開戦した。
(1942ねんちゅうばんまでにどいつぐんはよーろっぱのたいはんおよびきたあふりかの)
1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの
(いちぶをせんりょうし、いんどようではにほんときょうどうさくせんをおこない、たいせいようでは)
一部を占領し、インド洋では日本と共同作戦を行い、大西洋では
(どいつかいぐんのせんすいかん・uぼーとがれんごうぐんのゆそうせんだんをこうげきしゆうせいをたもっていた。)
ドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。
(1943ねん2がつ、すたーりんぐらーどでどいつぐんはたいはい。これいこうは)
1943年2月、スターリングラードでドイツ軍は大敗。これ以降は
(れんごうくにがわがゆうせいにてんじ、あめりか・いぎりすのおおがたせんりゃくばくげききによる)
連合国側が優勢に転じ、アメリカ・イギリスの大型戦略爆撃機による
(どいつほんどくうしゅうもはげしくなる。どうねん5がつ、きたあふりかせんせんでどいつ・)
ドイツ本土空襲も激しくなる。同年5月、北アフリカ戦線でドイツ・
(いたりありょうぐんがはいぼく。9がつにいたりあがれんごうこくにこうふくし、どいつの)
イタリア両軍が敗北。9月にイタリアが連合国に降伏し、ドイツの
(かいらいせいけんいたりあしゃかいきょうわこくがせつりつされ、いたりあはんとうにじょうりくしてきた)
傀儡政権イタリア社会共和国が設立され、イタリア半島に上陸してきた
(れんごうこくぐんとたいじすることになる。)
連合国軍と対峙することになる。
(1944ねん6がつにふらんすののるまんでぃーにれんごうぐんがじょうりくし、ひがしからは)
1944年6月にフランスのノルマンディーに連合軍が上陸し、東からは
(それんぐんがこうせいをかいし、せんせんはしだいにこうたいしはじめた。)
ソ連軍が攻勢を開始、戦線は次第に後退し始めた。