第二次世界大戦7

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(1945ねんになるとれんごうぐんがとうざいからどいつほんどへしんこうし、どいつぐんは)

1945年になると連合軍が東西からドイツ本土へ侵攻し、ドイツ軍は

(そうくずれとなる。2がつのやるたかいだんであめりか・いぎりす・それんのさんごくは、)

総崩れとなる。2月のヤルタ会談でアメリカ・イギリス・ソ連の三国は、

(せんそうはんざいにんのしょばつ、ぽーらんどとうぶのそれんりょうか、おーでる・ないせせんおもんみ)

戦争犯罪人の処罰、ポーランド東部のソ連領化、オーデル・ナイセ線以

(ひがしのどいつりょうぶんかつなどをけっていする。どうねん4がつ30にち、ひとらーはべるりんの)

東のドイツ領分割などを決定する。同年4月30日、ヒトラーはベルリンの

(ちかごうでじさつ、5がつ2にちにそれんぐんはべるりんをせんりょう。5がつ8にち、)

地下壕で自殺、5月2日にソ連軍はベルリンを占領。5月8日、

(どいつはれんごうこくにこうふくした。なおどうめいこくのにほんはたたかいをつづけた。)

ドイツは連合国に降伏した。なお同盟国の日本は戦いを続けた。

(1939ねん)

1939年

(どいつぐんによるでんげきせん)

ドイツ軍による電撃戦

(9がつ1にちそうちょう(cest)、どいつぐんはせんしゃときかいかされたほへいぶたい、)

9月1日早朝 (CEST)、ドイツ軍は戦車と機械化された歩兵部隊、

(せんとうき、きゅうこうかばくげききなど5こぐん、きどうぶたいやく150まんにんでぽーらんどしんこうを)

戦闘機、急降下爆撃機など5個軍、機動部隊約150万人でポーランド侵攻を

(かいしした。このさい、どいつによるじぜんのせんせんふこくはおこなわれていない。)

開始した。この際、ドイツによる事前の宣戦布告は行われていない。

(どいつくにそうとうあどるふ・ひとらーは、かいせんえんぜつでぽーらんどしんこうを)

ドイツ国総統アドルフ・ヒトラーは、開戦演説でポーランド侵攻を

(「へいわのためのこうげき」としょうしたが、どいつがわはじぜんにぐらいヴぃっつじけん)

「平和のための攻撃」と称したが、ドイツ側は事前にグライヴィッツ事件

(などじさくじえんの「ぽーらんどによるちょうはつ」をかくさくしていた(にせばたさくせん)。)

など自作自演の「ポーランドによる挑発」を画策していた(偽旗作戦)。

(ぽーらんどりくぐんは、そうへいりょくこそ100まんをこえていたが、せんそうじゅんびが)

ポーランド陸軍は、総兵力こそ100万を超えていたが、戦争準備が

(ととのっておらず、こがたせんしゃときへいたいがちゅうしんできんだいてきそうびにもともしかった)

整っておらず、小型戦車と騎兵隊が中心で近代的装備にも乏しかった

(ため、どいつぐんせんしゃぶたいとゆんかーすju87きゅうこうかばくげききのれんけいによる)

ため、ドイツ軍戦車部隊とユンカース Ju 87急降下爆撃機の連携による

(きどうせんにより、なすすべもなくせんめつされた。ただ、このとうじの)

機動戦により、なすすべもなく殲滅された。ただ、この当時の

(どいつぐんはまだじっせんけいけんにとぼしく、9がつ9にちにはぽーらんどぐんの)

ドイツ軍はまだ実戦経験に乏しく、9月9日にはポーランド軍の

(はんげきでおもわぬくせんをしいられるばめんもあった。)

反撃で思わぬ苦戦を強いられる場面もあった。

など

(それんはとうじのもんはんじけんでこうせんちゅうのにほんとていせんしてまで8がつ23にちに)

ソ連は当時ノモンハン事件で交戦中の日本と停戦してまで8月23日に

(むすんだ、どくそふかしんじょうやくのひみつぎていしょにもとづき9がつ17にち、それん・)

結んだ、独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づき9月17日、ソ連・

(ぽーらんどふかしんじょうやくをいっぽうてきにはきしぽーらんどへひがしからしんこう。)

ポーランド不可侵条約を一方的に破棄しポーランドへ東から侵攻。

(かーぞんせんまでたっした。)

カーゾン線まで達した。

(いっぽう、いぎりすとふらんすはぽーらんどとのあいだにそうごえんじょきょうていが)

一方、イギリスとフランスはポーランドとの間に相互援助協定が

(あったが、それんにせんせんふこくはせず、りょうこくは2にちごの9がつ3にちにどいつに)

あったが、ソ連に宣戦布告はせず、両国は2日後の9月3日にドイツに

(せんせんふこくしここにだいにじせかいたいせんがぼっぱつした。しかしぽーらんど)

宣戦布告しここに第二次世界大戦が勃発した。しかしポーランド

(きゅうえんのためにどいつぐんとこうせんはしなかった。)

救援のためにドイツ軍と交戦はしなかった。

(いっぽうひとらーも、えいしゅしょうねヴぃる・ちぇんばれんとほとけしゅしょうえどぅあーる・)

一方ヒトラーも、英首相ネヴィル・チェンバレンと仏首相エドゥアール・

(だらでぃえはそれまでゆうわせいさくをいっていたため、せんせんふこくしてくる)

ダラディエはそれまで宥和政策を行っていたため、宣戦布告してくる

(とはそうていしていなかった。かいせんからしばらくはせいぶせんせんのうごきが)

とは想定していなかった。開戦からしばらくは西部戦線の動きが

(ほとんどなかったことから(いわゆる「まやかしせんそう」)、ねヴぃる・)

ほとんどなかったことから(いわゆる「まやかし戦争」)、ネヴィル・

(ちぇんばれんはさいぜんせんのふらんすにてんかいするいぎりすりくぐんをしさつする)

チェンバレンは最前線のフランスに展開するイギリス陸軍を視察する

(などしつつ、なおもひみつうらにどいつとこうしょうをつづけ、ほらす・うぃるそんを)

などしつつ、なおも秘密裏にドイツと交渉を続け、ホラス・ウィルソンを

(ししゃとしてどいつのめをそれんにむけさせようとした。9がつ3にちまでに)

使者としてドイツの目をソ連に向けさせようとした。9月3日までに

(あいるらんど、おらんだ、べるぎー、あめりかはちゅうりつをせんげんした。)

アイルランド、オランダ、ベルギー、アメリカは中立を宣言した。

(また1937ねんににちどくいぼうきょうきょうていをくんだいたりあとにほんもさんせんしなかった。)

また1937年に日独伊防共協定を組んだイタリアと日本も参戦しなかった。

(こくさいれんめいかんりかのじゆうとしだんつぃひは、どいつかいぐんれんしゅうかん)

国際連盟管理下の自由都市ダンツィヒは、ドイツ海軍練習艦

(しゅれーすヴぃっひ・ほるしゅたいんのほうげきとりくぐんのきしゅうでかんらくし、)

シュレースヴィッヒ・ホルシュタインの砲撃と陸軍の奇襲で陥落し、

(9がつ27にち、わるしゃわもかんらく。10がつ6にちまでにぽーらんどぐんはこうふくした。)

9月27日、ワルシャワも陥落。10月6日までにポーランド軍は降伏した。

(ぽーらんどせいふはるーまにあ、ぱりをへて、ろんどんへぼうめい。)

ポーランド政府はルーマニア、パリを経て、ロンドンへ亡命。

(ぽーらんどはどくそりょうこくにぶんかつされ、どいつぐんせんりょうちいきから、)

ポーランドは独ソ両国に分割され、ドイツ軍占領地域から、

(ゆだやじんのげっとーへのきょうせいしゅうようがはじまった。)

ユダヤ人のゲットーへの強制収容が始まった。

(それんぐんせんりょうちいきでもやく25,000にんのぽーらんどへいがさつがいされ)

ソ連軍占領地域でも約25,000人のポーランド兵が殺害され

((かてぃんのもりじけん)、1939ねんから1941ねんにかけて、)

(カティンの森事件)、1939年から1941年にかけて、

(やく180まんにんがさつがいまたはこくがいついほうされた。)

約180万人が殺害または国外追放された。

(ぽーらんどぶんかつちょくごの10がつ6にち、ひとらーはこっかいえんぜつで「へいわのていあん」)

ポーランド分割直後の10月6日、ヒトラーは国会演説で「平和の提案」

(と「よーろっぱのあんぜん」というひょうげんをもちいてえいふつりょうこくにわへいていあんをおこない、)

と「ヨーロッパの安全」という表現を用いて英仏両国に和平提案を行い、

(これいこうもりょうこくへわへいこうさくがなんどもなされたが、りょうこくがようきゅうする)

これ以降も両国へ和平工作が何度もなされたが、両国が要求する

(ひとらーせいけんたいじんをどいつはうけいれず、わへいをもさくするはんめん、)

ヒトラー政権退陣をドイツは受け入れず、和平を模索する反面、

(ぽーらんどのみらいはどくそりょうこくによってけっていされるというけんかいをしめした。)

ポーランドの未来は独ソ両国によって決定されるという見解を示した。

(ぽーらんどしんこうご、ひとらーはにしべしんこうをなんどもえんきし、よくねんはるまで)

ポーランド侵攻後、ヒトラーは西部侵攻を何度も延期し、翌年春まで

(せいぶせんせんにおおきなせんとうはおこらなかったこと(まやかしせんそう)もあり、)

西部戦線に大きな戦闘は起こらなかったこと(まやかし戦争)もあり、

(いぎりすはぐんたいをふらんすにはけんしたものの、こくみんのあいだに「くりすます)

イギリスは軍隊をフランスに派遣したものの、国民の間に「クリスマス

(までにはていせんするだろう」というこんきょのないきたいがひろまった。)

までには停戦するだろう」という根拠のない期待が広まった。

(11がつ8にち、みゅんへんのびあほーる「びゅるがーぶろいけらー」でばくはつ)

11月8日、ミュンヘンのビアホール「ビュルガーブロイケラー」で爆発

(があり、かぐしょくにんげおるく・えるざーによるひとらーあんさつみすいじけんが)

があり、家具職人ゲオルク・エルザーによるヒトラー暗殺未遂事件が

(おきるが、そのひ、ひとらーははやめにえんぜつをしゅうりょうしなんをのがれた。)

起きるが、その日、ヒトラーは早めに演説を終了し難を逃れた。

(そのあともこくぼうぐんないのはんひとらーはしょうこうによるひとらーあんさつけいかくが)

その後も国防軍内の反ヒトラー派将校によるヒトラー暗殺計画が

(なんかいかけいかくされたが、すべてしっぱいにおわった。)

何回か計画されたが、全て失敗に終わった。

(それんはばるとさんごくおよびふぃんらんどにたいし、そうごえんじょじょうやくとぐんたいの)

ソ連はバルト三国およびフィンランドに対し、相互援助条約と軍隊の

(ちゅうりゅうけんをようきゅう。9がつ28にちえすとにあと、10がつ5にちらとびあと、10がつ10にち)

駐留権を要求。9月28日エストニアと、10月5日ラトビアと、10月10日

(りとあにあとそれぞれじょうやくをていけつし、ようきゅうをおしとおした。)

リトアニアとそれぞれ条約を締結し、要求を押し通した。

(しかし、ふぃんらんどはそれんのきちしようおよびかれりあちほうかつじょうなどの)

しかし、フィンランドはソ連の基地使用およびカレリア地方割譲等の

(ようきゅうをきょひ。そこでそれんはれにんぐらーどぼうえいをりゆうに、11がつ30にちに)

要求を拒否。そこでソ連はレニングラード防衛を理由に、11月30日に

(ふぃんらんどしんこう(ふゆせんそう)をかいしした。このしんりゃくこういにより、それんは)

フィンランド侵攻(冬戦争)を開始した。この侵略行為により、ソ連は

(こくさいれんめいからじょめいしょぶんとなる。さらに12がつちゅうじゅん、ふぃんらんどぐんの)

国際連盟から除名処分となる。さらに12月中旬、フィンランド軍の

(はんげきでそれんぐんはよそうがいのだいそんがいをこうむった。)

反撃でソ連軍は予想外の大損害を被った。

(1940ねん)

1940年

(きたよーろっぱのたたかい)

北ヨーロッパの戦い

(2がつ11にち、ぜんねんからふぃんらんどにしんにゅうしたそれんぐんはそうこうげきをかいしし、)

2月11日、前年からフィンランドに侵入したソ連軍は総攻撃を開始し、

(ふぃんらんどぐんのぼうえいせんをとっぱした。そのけっか3がつ13にち、)

フィンランド軍の防衛線を突破した。その結果3月13日、

(ふぃんらんどはかれりあちほうなどのりょうどをそれんにかつじょうしてこうわした。)

フィンランドはカレリア地方などの領土をソ連に割譲して講和した。

(さらにそれんはばるとさんごくにあつりょくをかけ、それんぐんのつうかとおやそせいけんの)

さらにソ連はバルト三国に圧力をかけ、ソ連軍の通過と親ソ政権の

(じゅりつをようきゅうし、そのかいとうをまたずに3こくへしんにゅう。そこにおやそせいけんを)

樹立を要求し、その回答を待たずに3国へ侵入。そこに親ソ政権を

(そしきしてはんそぶんしをたいほ・ぎゃくさつ・しべりあしゅうようじょおくりにし、ついに)

組織して反ソ分子を逮捕・虐殺・シベリア収容所送りにし、ついに

(これをへいごうした。どうじにそれんはるーまにあおうこくにべっさらびあを)

これを併合した。同時にソ連はルーマニア王国にベッサラビアを

(かつじょうするようにあつりょくをかけ、1940ねん6がつにはそれんぐんがべっさらびあと)

割譲するように圧力をかけ、1940年6月にはソ連軍がベッサラビアと

(ぶこヴぃなほくぶにしんにゅうし、りょうどをかつじょうさせた。)

ブコヴィナ北部に侵入し、領土を割譲させた。

(どいつせんりょうかのぽーらんどからりとあにあにとうぼうしてきたおおくの)

ドイツ占領下のポーランドからリトアニアに逃亡してきた多くの

(ゆだやけいなんみんなどが、かっこくのりょうじかん・たいしかんからびざをしゅとくしよう)

ユダヤ系難民などが、各国の領事館・大使館からビザを取得しよう

(としていた。とうじりとあにあはそれんぐんにせんりょうされており、それんがかっこくに)

としていた。当時リトアニアはソ連軍に占領されており、ソ連が各国に

(ざいりとあにありょうじかん・たいしかんのへいさをもとめたため、ゆだやなんみんたちは、)

在リトアニア領事館・大使館の閉鎖を求めたため、ユダヤ難民たちは、

(まだぎょうむをつづけていたにほんのすぎはらちうねりょうじにめいもくじょうのいきさき)

まだ業務を続けていた日本の杉原千畝領事に名目上の行き先

((おらんだりょうあんてぃるなど)へのつうかびざをもとめてさっとうした。)

(オランダ領アンティルなど)への通過ビザを求めて殺到した。

(すぎはらのはっこうしたびざをもってにほんにわたったゆだやなんみんのそうすうは)

杉原の発行したビザを持って日本に渡ったユダヤ難民の総数は

(やく4,500にんで、1940ねん7がつからにほんににゅうこくし、)

約4,500人で、1940年7月から日本に入国し、

(1941ねん9がつにはぜんいんしゅっこくした。)

1941年9月には全員出国した。

(なお、すぎはらどうようにじょうしやほんごくのめいれいをむしして「いのちのびざ」をはっこうした)

なお、杉原同様に上司や本国の命令を無視して「命のビザ」を発行した

(がいこうかんとして、ざいおーすとりあ・ちゅうかみんこくりょうじのなにとりやまや、)

外交官として、在オーストリア・中華民国領事の何鳳山や、

(ざいぼるどー・ぽるとがるりょうじのありすてぃです・で・そうざ・めんです)

在ボルドー・ポルトガル領事のアリスティデス・デ・ソウザ・メンデス

(がおり、ともにせんごのいすらえるのしょこくみんのなかのせいぎのひとににんていされている。)

がおり、ともに戦後のイスラエルの諸国民の中の正義の人に認定されている。

(4がつ、どいつはちゅうりつこくでんまーくとのるうぇーにとつじょしんこうしせんりょうした)

4月、ドイツは中立国デンマークとノルウェーに突如侵攻し占領した

((ヴぇーざーえんしゅうさくせん)。ぜいじゃくなどいつかいぐんは)

(ヴェーザー演習作戦)。脆弱なドイツ海軍は

(のるうぇーしんこうでたすうのすいじょうかんていをうしなった。)

ノルウェー侵攻で多数の水上艦艇を失った。

(ふらんすはいぼく)

フランス敗北

(5がつ10にち、せいぶせんせんのどいつぐんは、せんりゃくてきにじゅうようなべるぎー、)

5月10日、西部戦線のドイツ軍は、戦略的に重要なベルギー、

(おらんだ、るくせんぶるくのべねるくすさんごくにしんこう(おらんだにおける)

オランダ、ルクセンブルクのベネルクス三国に侵攻(オランダにおける

(たたかい)。おらんだは5がつ15にちにこうふくし、せいふはおうしつともどもろんどんに)

戦い)。オランダは5月15日に降伏し、政府は王室ともどもロンドンに

(ぼうめい。またべるぎーせいふもいぎりすにぼうめいし、5がつ28にちにどいつと)

亡命。またベルギー政府もイギリスに亡命し、5月28日にドイツと

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