第二次世界大戦9
順位 | 名前 | スコア | 称号 | 打鍵/秒 | 正誤率 | 時間(秒) | 打鍵数 | ミス | 問題 | 日付 |
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1 | 名も無きタイパー | 2018 | F+ | 2.8 | 76.7% | 1891.2 | 5478 | 1661 | 88 | 2024/10/25 |
関連タイピング
問題文
(きゅうしきせんとうきとのさんぱつてきなくうせんでかちほこっていたが、やがて、れーだーに)
旧式戦闘機との散発的な空戦で勝ち誇っていたが、やがて、レーダーに
(ゆうどうされてせいかくにげいげきしてくるすぴっとふぁいあやはりけーんに)
誘導されて正確に迎撃してくるスピットファイアやハリケーンに
(つうげきをあびると、8がつにはいってからゆうせんこうげきもくひょうをいぎりすぐんの)
痛撃を浴びると、8月に入ってから優先攻撃目標をイギリス軍の
(れーだーさいととひこうじょうおよびこうくうきこうじょうとし、いぎりすくうぐんの)
レーダーサイトと飛行場及び航空機工場とし、イギリス空軍の
(ぼうくうのうりょくにだげきをあたえることとした。8がつ12にちには、ゆんかーす)
防空能力に打撃を与えることとした。8月12日には、ユンカース
(ju88しゅとぅーかやはいんけるhe111すうひゃくきが、)
Ju 88 シュトゥーカやハインケル He 111数百機が、
(めっさーしゅみっとbf109すうひゃくきにごえいされていぎりすじょうくうにらいしゅうし、)
メッサーシュミット Bf109数百機に護衛されてイギリス上空に来襲し、
(それをすぴっとふぁいあやはりけーんがげいげきした。そのうち)
それをスピットファイアやハリケーンが迎撃した。そのうち
(しゅとぅーかがれーだーさいとめがけてきゅうこうかをかいししたが、でんげきせんで)
シュトゥーカがレーダーサイト目掛けて急降下を開始したが、電撃戦で
(もういをふるったしゅとぅーかもしんえいせんとうきのまえではひとたまりもなく)
猛威を振るったシュトゥーカも新鋭戦闘機の前ではひとたまりもなく
(たちまち31きがげきついされた、いっぽうでいぎりすぐんも22きをうしなう。)
たちまち31機が撃墜された、一方でイギリス軍も22機を失う。
(8がつ13にちにはさらにどいつぐんきのかずがふえて1,400きがらいしゅうした。)
8月13日にはさらにドイツ軍機の数が増えて1,400機が来襲した。
(どいつぐんきはきのうにひきつづき、れーだーさいととひこうじょうをこうげきし、)
ドイツ軍機は昨日に引き続き、レーダーサイトと飛行場を攻撃し、
(げいげきしたいぎりすぐんせんとうきとはげしいたたかいになり、どいつぐんき45きが)
迎撃したイギリス軍戦闘機と激しい戦いになり、ドイツ軍機45機が
(げきついされ、いぎりすぐんは13きをうしなった。)
撃墜され、イギリス軍は13機を失った。
(このように、こうげきするどいつぐんのそんしつのほうがおおいものの、いぎりすぐんも)
このように、攻撃するドイツ軍の損失の方が多いものの、イギリス軍も
(げいげきのたびにすくなくないそんしつをこうむった。さらにどいつぐんはいぎりすこうくうき)
迎撃の度に少なくない損失を被った。さらにドイツ軍はイギリス航空機
(こうじょうにたいするやかんばくげきをかいし、ばくげきせいどはたかくないもののちゃくじつに)
工場に対する夜間爆撃を開始、爆撃精度は高くないものの着実に
(いぎりすのこうくうきせいさんのうりょくにだげきをあたえた。しかし、このやかんばくげきが)
イギリスの航空機生産能力に打撃を与えた。しかし、この夜間爆撃が
(ばとる・おぶ・ぶりてんのせんきょうをおおきくかえることとなる。8がつ24にちに)
バトル・オブ・ブリテンの戦況を大きく変えることとなる。8月24日に
(どいつぐんばくげきき170きがろんどんこうがいにあるねんりょうたんくのやかんばくげきに)
ドイツ軍爆撃機170機がロンドン郊外にある燃料タンクの夜間爆撃に
(らいしゅうしたが、そのうち20きがあやまってろんどんしがいちにばくだんをとうかして)
来襲したが、そのうち20機が誤ってロンドン市街地に爆弾を投下して
(しまった。どいつぐんはこれまで、げるにかばくげきやわるしゃわへの)
しまった。ドイツ軍はこれまで、ゲルニカ爆撃やワルシャワへの
(ばくげきなどでしがいちへのばくげきをちゅうちょすることなくいってきたが、)
爆撃などで市街地への爆撃を躊躇することなく行ってきたが、
(ひとらーはろんどんしがいちへのばくげきはきょかしていなかった。しかし、)
ヒトラーはロンドン市街地への爆撃は許可していなかった。しかし、
(このろんどんくうしゅうのほうふくとして、いぎりすぐんばくげききがどいつの)
このロンドン空襲の報復として、イギリス軍爆撃機がドイツの
(しゅとべるりんをばくげきすると、ひとらーはげきどしてほうふくのために)
首都ベルリンを爆撃すると、ヒトラーは激怒して報復のために
(ろんどんへのばくげきのきょうかをめいじた(ざ・ぶりっつ)。このばくげきもくひょう)
ロンドンへの爆撃の強化を命じた(ザ・ブリッツ)。この爆撃目標
(へんこうによって、ろんどんしみんにたすうのぎせいがでたが、かわりにこうくうきこうじょう)
変更によって、ロンドン市民に多数の犠牲が出たが、代わりに航空機工場
(やひこうじょうのそんがいがへって、いぎりすぐんせんとうきのきょうかがかそくした。)
や飛行場の損害が減って、イギリス軍戦闘機の強化が加速した。
(せんとうきがぞうかしたぶん、ぱいろっとがふそくしたが、いぎりすていこくしょこくの)
戦闘機が増加した分、パイロットが不足したが、イギリス帝国諸国の
(ほか、ぽーらんどじん、ちぇこすろばきあじん、ふらんすじんなど、どいつに)
ほか、ポーランド人、チェコスロバキア人、フランス人など、ドイツに
(こくどをせんりょうされているかっこくのぱいろっとも、ぎゆうへいとしてこのたたかいに)
国土を占領されている各国のパイロットも、義勇兵としてこの戦いに
(くわわってかつやくした。)
加わって活躍した。
(ひとらーはほうふくというりゆうにくわえ、くうしゅうによりろんどんしみんにきょうふかんを)
ヒトラーは報復という理由に加え、空襲によりロンドン市民に恐怖感を
(あたえて、えんせんきぶんをあおるというこうかもねらったが、ふじゆうなせいかつのなかでも)
与えて、厭戦気分を煽るという効果も狙ったが、不自由な生活の中でも
(ろんどんしみんはいっちだんけつしてどいつぐんのくうしゅうにたいこうし、ひとらーの)
ロンドン市民は一致団結してドイツ軍の空襲に対抗し、ヒトラーの
(もくろみははずれた。また、ろんどんばくげきはどいつくうぐんにとってちめいてきな)
目論見は外れた。また、ロンドン爆撃はドイツ空軍にとって致命的な
(もんだいをひきおこした。それはろんどんまではきょりがとおく、こうぞくきょりの)
問題を引き起こした。それはロンドンまでは距離が遠く、航続距離の
(みじかいめっさーしゅみっとbf109ではじゅうぶんなごえいができなかったので、)
短いメッサーシュミット Bf109では十分な護衛ができなかったので、
(ごえいがつかないどいつぐんばくげききのそんがいがげきぞうした。そして、)
護衛がつかないドイツ軍爆撃機の損害が激増した。そして、
(いぎりすぐんのそんしつのほとんどがたんざせんとうきであり、げきついされてもぎせいは)
イギリス軍の損失の殆どが単座戦闘機であり、撃墜されても犠牲は
(1にんですんだが、どいつぐんのそんしつのおおくがばくげききでありさいだい4~5にんの)
1人で済んだが、ドイツ軍の損失の多くが爆撃機であり最大4~5人の
(ぎせいがでた。そんがいのぞくしゅつにひとらーは9がつ14にちに「ひつようなせいくうけんかくほが)
犠牲が出た。損害の続出にヒトラーは9月14日に「必要な制空権確保が
(できていない」として「さくせん」はまだじっこうできないとみとめた。めんぼくを)
できていない」として「 作戦」はまだ実行できないと認めた。面目を
(うしなったげーりんぐは9がつ15にちにろんどんばくげきに1,000きをとうにゅうしたが、)
失ったゲーリングは9月15日にロンドン爆撃に1,000機を投入したが、
(たいせいがととのったいぎりすぐんのげきれつなげいげきで60きというだいそんがいを)
体制が整ったイギリス軍の激烈な迎撃で60機という大損害を
(こうむってしまい、さらに27にちにも55きをそんしつしてしまう。これいこうは)
被ってしまい、さらに27日にも55機を損失してしまう。これ以降は
(どいつぐんのらいしゅうきすうはしだいにげんしょうしていった。どいつぐんのこうげきが)
ドイツ軍の来襲機数は次第に減少していった。ドイツ軍の攻撃が
(じゃくたいかすると、いぎりすぐんははんげきにてんじ、「あしかさくせん」のために)
弱体化すると、イギリス軍は反撃に転じ、「あしか作戦」のために
(じゅんびされていたゆそうせんやそのたせんぱくの12.6%をくうしゅうによってげきちんはした。)
準備されていた輸送船やその他船舶の12.6%を空襲によって撃沈破した。
(そして10がつ12にちにひとらーは「あしかさくせん」のえんきをきめ、このあとの)
そして10月12日にヒトラーは「あしか作戦」の延期を決め、この後の
(かんしんはいぎりすからそれんにむかっていく。このばとるおぶぶりてんで)
関心はイギリスからソ連に向かっていく。このバトルオブブリテンで
(どいつぐんは、1,918きのこうくうきと2,662にんのじゅくれんぱいろっとをうしない、)
ドイツ軍は、1,918機の航空機と2,662人の熟練パイロットを失い、
(そのむてきでんせつにしゅうしふがうたれた。いっぽうでいぎりすぐんは915きのせんとうき)
その無敵伝説に終止符が打たれた。一方でイギリス軍は915機の戦闘機
(と、たこくからのぎゆうへいもふくめて449にんのぱいろっとをうしなった。)
と、他国からの義勇兵も含めて449人のパイロットを失った。
(ちゃーちるはこのたたかいを「じんるいのれきしのなかで、かくもすくないひとが、)
チャーチルはこの戦いを「人類の歴史の中で、かくも少ない人が、
(かくもたすうのひとをまもったことはない。」とひょうした。)
かくも多数の人を守ったことはない。」と評した。
(さんせんしたいたりあは9がつ、きたあふりかのしょくみんちりびあからえじぷとへ、)
参戦したイタリアは9月、北アフリカの植民地リビアからエジプトへ、
(10がつにはばるかんはんとうのあるばにあからぎりしゃへしんこうした)
10月にはバルカン半島のアルバニアからギリシャへ侵攻した
((ぎりしゃ・いたりあせんそう)。しかしせいきゅうでじゅんびもふじゅうぶんなままであり、)
(ギリシャ・イタリア戦争)。しかし性急で準備も不十分なままであり、
(11がつにいたりあひがしなんぶのたらんとぐんこうが、こうくうぼかんからはっしんした)
11月にイタリア東南部のタラント軍港が、航空母艦から発進した
(いぎりすかいぐんきのやかんばくげきにあい、いたりあかんたいはだいそんがいをこうむった。)
イギリス海軍機の夜間爆撃に遭い、イタリア艦隊は大損害を被った。
(またぎりしゃぐんのはんげきにあってあるばにあまでげきたいされ、12がつには)
またギリシャ軍の反撃に遭ってアルバニアまで撃退され、12月には
(いぎりすぐんにぎゃくにりびあへしんこうされるという、)
イギリス軍に逆にリビアへ侵攻されるという、
(どいつのあしをひっぱるありさまであった。)
ドイツの足を引っ張る有様であった。
(9がつ27にちにはどいつといたりあ、そしてまだだいにじせかいたいせんにさんせんして)
9月27日にはドイツとイタリア、そしてまだ第二次世界大戦に参戦して
(いないものの2こくのゆうこうこくであるにほんは、にちどくいぼうきょうきょうていをきょうかした)
いないものの2国の友好国である日本は、日独伊防共協定を強化した
(そうごえんじょであるにちどくいさんごくどうめいをむすんでいる。まただいにじ)
相互援助である日独伊三国同盟を結んでいる。また第二次
(うぃーんさいていによりはんがりー・るーまにあかんのりょうどふんそうをちょうていし、)
ウィーン裁定によりハンガリー・ルーマニア間の領土紛争を調停し、
(とうおうにたいするえいきょうりょくをつよめた。)
東欧に対する影響力を強めた。
(1941ねん)
1941年
(きたあふりかせんせん)
北アフリカ戦線
(いぎりすはいべりあはんとうせんたんのしょくみんちじぶらるたると、きたあふりかの)
イギリスはイベリア半島先端の植民地ジブラルタルと、北アフリカの
(えじぷと・あれくさんどりあをちちゅうかいのとうざいりょうきょてんとし、くれたとうや)
エジプト・アレクサンドリアを地中海の東西両拠点とし、クレタ島や
(きぷろすなどひがしちちゅうかいをかくほしはんげきをきとしていた。2がつまでに)
キプロスなど東地中海を確保し反撃を企図していた。2月までに
(きたあふりか・りびあのひがしはんぶんきれないかちほうをせんりょうし、)
北アフリカ・リビアの東半分キレナイカ地方を占領し、
(ぎりしゃにもしんちゅうした。)
ギリシャにも進駐した。
(いっぽう、どいつぐんは、れっせいのいたりあぐんをしえんするため、えるヴぃん・)
一方、ドイツ軍は、劣勢のイタリア軍を支援するため、エルヴィン・
(ろんめるりくぐんたいしょうひきいる「どいつあふりかぐんだん」をとうにゅう。2がつ14にちに)
ロンメル陸軍大将率いる「ドイツアフリカ軍団」を投入。2月14日に
(りびあのとりぽりにじょうりくご、じんそくにこうげきをかいしし、いたりあぐんも)
リビアのトリポリに上陸後、迅速に攻撃を開始し、イタリア軍も
(しきもとにおきつついぎりすぐんをげきたいした。4がつ11にちにはりびあとうぶの)
指揮下に置きつつイギリス軍を撃退した。4月11日にはリビア東部の
(とぶるくをほういしたが、せんりょうはできなかった。さらに5がつから11がつに)
トブルクを包囲したが、占領はできなかった。さらに5月から11月に
(かけて、えじぷとこっきょうのはるふぁやとうげでげきせんになりぜんしんはとまった。)
かけて、エジプト国境のハルファヤ峠で激戦になり前進は止まった。
(どいつぐんは88みりほうをくししていぎりすぐんせんしゃをたすうげきはしたが、)
ドイツ軍は88ミリ砲を駆使してイギリス軍戦車を多数撃破したが、
(ほきゅうにもんだいがしょうじて12がつ4にちにてったいをかいし。12がつ24にちにはべんがじが)
補給に問題が生じて12月4日に撤退を開始。12月24日にはベンガジが
(いぎりすぐんにせんりょうされ、よくねん1がつ6にちには)
イギリス軍に占領され、翌年1月6日には
(える・あげいら(えいごばん)までてったいする。)
エル・アゲイラ(英語版)まで撤退する。