第二次世界大戦12

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(ゆだやじんもんだいはたなあげされ、かくちのげっとーではやく200まんにんの)

ユダヤ人問題は棚上げされ、各地のゲットーでは約200万人の

(ゆだやじんがえいようふりょうのままほうちされていた。いっぽうでどいつはこくないでの)

ユダヤ人が栄養不良のまま放置されていた。一方でドイツは国内での

(t4さくせんや、どくそせんでたいりょうにかくとくしたそれんへいほりょのぎゃくさつなどで、)

T4作戦や、独ソ戦で大量に獲得したソ連兵捕虜の虐殺などで、

(ぎゃくさつぎじゅつをしんかさせており、これをゆだやじんもんだいのさいしゅうてきかいけつに)

“虐殺技術”を進化させており、これをユダヤ人問題の“最終的解決”に

(かつようしようというながれができていた。1942ねん1がつ20にち、べるりんこうがい)

活用しようという流れができていた。1942年1月20日、ベルリン郊外

(ヴぁんぜーになちすとうのじゅうようかんぶがしゅうけつすると「ゆだやじんもんだいの)

ヴァンゼーにナチス党の重要幹部が集結すると「ユダヤ人問題の

(さいしゅうてきかいけつ」についてきょうぎしたヴぁんぜーかいぎがおこなわれた。これいご、)

最終的解決」について協議したヴァンゼー会議が行われた。これ以後、

(わるしゃわなどどいつせんりょうかのげっとーのゆだやじんじゅうみんにたいし、)

ワルシャワなどドイツ占領下のゲットーのユダヤ人住民に対し、

(7がつからあうしゅヴぃっつ=びるけなうやとれぶりんか、だっはう)

7月からアウシュヴィッツ=ビルケナウやトレブリンカ、ダッハウ

(などのきょうせいしゅうようじょへのしゅうだんいそうがはじまった。まずは、きょうせいしゅうようじょに)

などの強制収容所への集団移送が始まった。まずは、強制収容所に

(へいせつされたぐんじゅこうじょうなどできょうせいろうどうにじゅうじさせ、きょうせいろうどうにじゅうじ)

併設された軍需工場などで強制労働に従事させ、強制労働に従事

(できないこうれいしゃやこども、しんたいしょうがいしゃなどをがすしつをつかってたいりょうぎゃくさつ)

できない高齢者や子供、身体障害者などをガス室を使って大量虐殺

(することとし、まもなくふつうのだんじょへとそのたいしょうはひろがった。そのあと、)

することとし、まもなく普通の男女へとその対象は広がった。その後、

(3がつ6にちと10がつ27にちに2どのさいしゅうかいけつについてのしょうちょうかいぎがおこなわれている。)

3月6日と10月27日に2度の最終解決についての省庁会議が行われている。

(そのあとどいつみならずせんりょうかのぽーらんどやちぇこすろばきあ、)

その後ドイツみならず占領下のポーランドやチェコスロバキア、

(るーまにあ、はんがりー、ぶるがりあ、あるばにあ、うくらいな、)

ルーマニア、ハンガリー、ブルガリア、アルバニア、ウクライナ、

(ふらんす、おらんだ、べるぎー、ぎりしあ、るくせんぶるく、)

フランス、オランダ、ベルギー、ギリシア、ルクセンブルク、

(のるうぇーまたどうめいこくのいたりあでもおこなわれたたいりょうさつりくは)

ノルウェーまた同盟国のイタリアでも行われた大量殺戮は

(「ほろこーすと」とよばれ、1945ねん5がつにどいつがれんごうこくにこうふくする)

「ホロコースト」と呼ばれ、1945年5月にドイツが連合国に降伏する

(ちょくぜんまで、どいつこくみんのきょうりょくなしじまたはもくにんのもとにけいぞくされ、)

直前まで、ドイツ国民の強力な支持または黙認の元に継続され、

など

(ゆだやじんぎゃくさつについてれんごうこくがさわぎたてるのは、)

ユダヤ人虐殺について連合国が騒ぎ立てるのは、

(だいにじせかいたいせんごのことであった。)

第二次世界大戦後のことであった。

(また、にほんやおうちょうめいせいふなどのどうめいこくにたいしてもざいりゅうゆだやじんへの)

また、日本や汪兆銘政府などの同盟国に対しても在留ユダヤ人への

(さつりくをおこなうように、どいつせいふはざいにちどいつたいしかんつきけいさつぶかんけん)

殺戮を行うように、ドイツ政府は在日ドイツ大使館付警察武官兼

(sdだいひょうのよーぜふ・まいじんがーをつうじていらいしたが、ゆだやじんに)

SD代表のヨーゼフ・マイジンガーを通じて依頼したが、ユダヤ人に

(たいするさべつかんじょうがないばかりか、にちろせんそうじにゆだやじんぎんこうかに)

対する差別感情がないばかりか、日露戦争時にユダヤ人銀行家に

(せわになったおんぎのあるにほんせいふはこれをめいかくかつかたくなにきょひしている。)

世話になった恩義のある日本政府はこれを明確かつ頑なに拒否している。

(けっかてきににほんやそのせんりょうちではしゅうせんまでゆだやじんにたいするさつりくはおこなわれて)

結果的に日本やその占領地では終戦までユダヤ人に対する殺戮は行われて

(いないばかりか、ゆだやじんをどいつのさつりくからてっていてきにほごしている。)

いないばかりか、ユダヤ人をドイツの殺戮から徹底的に保護している。

(さいしゅうてきに、じょうきのちいきにおけるほろこーすとによるゆだやじん)

最終的に、上記の地域におけるホロコーストによるユダヤ人

((ほかにしんてぃ・ろまじんやどうせいあいしゃ、しんたいしょうがいしゃ、せいしんしょうがいしゃ、)

(他にシンティ・ロマ人や同性愛者、身体障害者、精神障害者、

(きょうさんしゅぎしゃをふくめたせいじはんなどすうまんにんをふくめた)のししゃはしょせつあるが、)

共産主義者を含めた政治犯など数万人を含めた)の死者は諸説あるが、

(600まんにんにたっするといわれている。)

600万人に達するといわれている。

(ぶらじるのヴぁるがすだいとうりょうとあめりかのるーずべるとだいとうりょう)

ブラジルのヴァルガス大統領とアメリカのルーズベルト大統領

(にほんとどいつ、いたりあとかいせんしたあめりかのだいとうりょうふらんくりん・)

日本とドイツ、イタリアと開戦したアメリカの大統領フランクリン・

(るーずべるとからのあつりょくをうけて、ぶらじるのじぇとぅりお・)

ルーズベルトからの圧力を受けて、ブラジルのジェトゥリオ・

(どるねれす・ヴぁるがすだいとうりょうは1がつにれんごうこくとしてさんせんすることを)

ドルネレス・ヴァルガス大統領は1月に連合国として参戦することを

(けっていし、どいつやいたりあ、にほんとのあいだにこっこうだんぜつ、さんせんしたが、)

決定し、ドイツやイタリア、日本との間に国交断絶、参戦したが、

(せんじょうからとおいことをりゆうにたいへいようせんせんにはさんせんせず、どいつといたりあ)

戦場から遠いことを理由に太平洋戦線には参戦せず、ドイツとイタリア

(などとたたかうよーろっぱせんせんにさんせんした。またざいぶらじるのにほんじんと)

などと戦うヨーロッパ戦線に参戦した。また在ブラジルの日本人と

(にっけいじんをえんがんからないりくちへきょうせいてきにしゅうだんいじゅうさせたり、にほんごしんぶんの)

日系人を沿岸から内陸地へ強制的に集団移住させたり、日本語新聞の

(はっきんなどのこうどうをとった。なおりんこくでどいつやいたりあ、すぺいんと)

発禁などの行動をとった。なお隣国でドイツやイタリア、スペインと

(ゆうこうかんけいをたもっていたあるぜんちんはちゅうりつをたもった。)

友好関係を保っていたアルゼンチンは中立を保った。

(える・あらめいんのたたかい)

エル・アラメインの戦い

(きたあふりかせんせんでは、えるヴぃん・ろんめるしょうぐんひきいるどいつ・)

北アフリカ戦線では、エルヴィン・ロンメル将軍率いるドイツ・

(いたりあのすうじくこくぐんが、1がつ20にちにさいどこうせいをかいし。6がつ21にち、)

イタリアの枢軸国軍が、1月20日に再度攻勢を開始。6月21日、

(ぜんねんにはせんりょうできなかったとぶるくをせんりょう、どう23にちにえじぷとに)

前年には占領できなかったトブルクを占領、同23日にエジプトに

(しんにゅうし、29にちにはえじぷとないのぐんじきょてんまるさ・まとるーふをせんりょうした。)

侵入し、29日にはエジプト内の軍事拠点マルサ・マトルーフを占領した。

(いぎりすちゅうとうぐん(えいごばん)しれいかんくろーど・おーきんれっくげんすいは、)

イギリス中東軍(英語版)司令官クロード・オーキンレック元帥は、

(あれくさんどりあからせいほう100kmにあるしょうとしえる・あらめいんを)

アレクサンドリアから西方100kmにある小都市エル・アラメインを

(さいしゅうぼうえいきょてんとしてまもりをかためた[135]。いぎりすぐんをおいつめつつ)

最終防衛拠点として守りを固めた[135]。イギリス軍を追い詰めつつ

(あるようにみえたろんめるであったが、ひとらーのほうしんをいつだつして)

あるように見えたロンメルであったが、ヒトラーの方針を逸脱して

(せんせんをかくだいしたけっか、どうていどのきぼとじゅうようせいをもつほかのどいつ)

戦線を拡大した結果、同程度の規模と重要性を持つ他のドイツ

(ぐんだんよりも、ひかくにならぬほどのおおくのとらっくなどのゆそうしゅだんを)

軍団よりも、比較にならぬほどの多くのトラックなどの輸送手段を

(あたえられ、ぶっしのほきゅうはじゅんたくであったものの、ほきゅうみなとからのゆそうろが)

与えられ、物資の補給は潤沢であったものの、補給港からの輸送路が

(ながくなりすぎて、ぜんせんまでなかなかほきゅうぶっしやほじゅうがとどいていなかった。)

長くなりすぎて、前線までなかなか補給物資や補充が届いていなかった。

(そこでろんめるは、いぎりすぐんからだっしゅしたぶっしやしょくりょうにたよってむりな)

そこでロンメルは、イギリス軍から奪取した物資や食料に頼って無理な

(しんげきをつづけており、えじぷとにしんにゅうしたじてんで、せんしゃいがいのしゃりょうの85%)

進撃を続けており、エジプトに侵入した時点で、戦車以外の車両の85%

(はろかくしたいぎりすやあめりかせいで、へいしはいぎりすぐんのぐんぷくやしたぎや)

は鹵獲したイギリスやアメリカ製で、兵士はイギリス軍の軍服や下着や

(ぐんかをちゃくようし、いぎりすせいのかんづめをしょくするなど、どいつあふりかぐんだんは)

軍靴を着用し、イギリス製の缶詰を食するなど、ドイツアフリカ軍団は

(きせいちゅうのようなぐんたいといってもかごんではないじょうたいであった。)

寄生虫のような軍隊と言っても過言ではない状態であった。

(いっぽうでおーきんれっくのいぎりすぐんは、ほきゅうみなとのあれくさんどりあが)

一方でオーキンレックのイギリス軍は、補給港のアレクサンドリアが

(ちかくなったことからほきゅうはじゅんたくで、つぎつぎとぞうえんもとうちゃくしていた。える・)

近くなったことから補給は潤沢で、次々と増援も到着していた。エル・

(あらめいんしゅうへんにはえんこやりゅうさなどがひろがり、せんしゃやしゃりょうがいどうできる)

アラメイン周辺には塩湖や流砂などが広がり、戦車や車両が移動できる

(はんいがせまく、これまでろんめるがとくいとしていたさばくをおおきくうかいし、)

範囲が狭く、これまでロンメルが得意としていた砂漠を大きく迂回し、

(いぎりすぐんのそくめんやはいごからきしゅうこうげきするというせんじゅつがとりづらかった。)

イギリス軍の側面や背後から奇襲攻撃するという戦術が取りづらかった。

(さらにおーきんれっくは、うるとらあんごうかいどくによってろんめるのさくせんの)

さらにオーキンレックは、ウルトラ暗号解読によってロンメルの作戦の

(がいようをすでにつかんでじゅんびをかさねていた。6がつ30にちにえる・あらめいんの)

概要を既に掴んで準備を重ねていた。6月30日にエル・アラメインの

(いぎりすぐんぼうえいせんにたっしたろんめるであったが、これまでのしょうりに)

イギリス軍防衛線に達したロンメルであったが、これまでの勝利に

(おごって、れんじつのすなあらしでていさつがふじゅうぶんであったのにもかかわらず、じょうとう)

驕って、連日の砂嵐で偵察が不十分であったのにも関わらず、常とう

(しゅだんのせんしゃしだんによるぼうえいせんうかいをきょうこうした。しかし、うかいしたさきには)

手段の戦車師団による防衛線迂回を強行した。しかし、迂回した先には

(いぎりすぐんがまちかまえており、げきせんのすえにどいつぐんせんしゃしだんはげきたいされた。)

イギリス軍が待ち構えており、激戦の末にドイツ軍戦車師団は撃退された。

(ろんめるはそのあともこうせいをこころみるが、いずれもしっぱいし、ぎゃくに)

ロンメルはその後も攻勢を試みるが、いずれも失敗し、逆に

(いぎりすぐんのはんげきでぼうえいせんをしいられることとなった。このあと、)

イギリス軍の反撃で防衛戦を強いられることとなった。この後、

(たたかいはこうちゃくじょうたいにおちいり、りょうぐんはせんりょくかいふくのためににらみあうことと)

戦いは膠着状態に陥り、両軍は戦力回復のためににらみ合うことと

(なった。このだいいちじえる・あらめいんのたたかいのけっか、ろんめるのしんげきは)

なった。この第一次エル・アラメインの戦いの結果、ロンメルの進撃は

(とめられ、たたかいのしゅどうけんはいぎりすぐんにうばわれつつあったが、)

止められ、戦いの主導権はイギリス軍に奪われつつあったが、

(ろんめるがそれにきがつくことはなかった。)

ロンメルがそれに気が付くことはなかった。

(ちゃーちるはきたあふりかでのはんこうにそなえて、ちゅうとうぐんのじんじをいっしんする)

チャーチルは北アフリカでの反攻に備えて、中東軍の人事を一新する

(ことにし、これまでのはいぼくつづきでしんらいをうしなっていたおーきんれっくを)

ことにし、これまでの敗北続きで信頼を失っていたオーキンレックを

(こうてつ、こうにんにはろるど・あれぐざんだーげんすいをにんじ、さらにしゅりょくの)

更迭、後任にハロルド・アレグザンダー元帥を任じ、さらに主力の

(いぎりすだい8ぐん(えいごばん)しれいかんには、ばーなーど・)

イギリス第8軍(英語版)司令官には、バーナード・

(もんとごめりーちゅうじょうをにんじた。もんとごめりーはやしんかで、ぶかには)

モントゴメリー中将を任じた。 モントゴメリーは野心家で、部下には

(ようしゃがなく、じしんかじょうであったが、そのきょうりょくなりーだーしっぷが)

容赦がなく、自信過剰であったが、その強力なリーダーシップが

(だい8ぐんをたてなおしていくこととなる。8がつ31にちにはろんめるがふたたびしんぐんを)

第8軍を立て直していくこととなる。8月31日にはロンメルが再び進軍を

(かいし、またさばくをおおきくうかいしようとこころみたが、もんとごめりーも)

開始、また砂漠を大きく迂回しようと試みたが、モントゴメリーも

(あんごうかいどくとこれまでのろんめるのせんじゅつのけんきゅうからろんめるのうかいさくせんを)

暗号解読とこれまでのロンメルの戦術の研究からロンメルの迂回作戦を

(かんぱしており、うかいするどいつぐんがつうかするであろうあらむ・)

看破しており、迂回するドイツ軍が通過するであろうアラム・

(はるふぁこうちにきょうこなじんちをこうちくしてまちかまえていた。うかいにせいこうした)

ハルファ高地に強固な陣地を構築して待ち構えていた。迂回に成功した

(とおもったどいつぐんせんしゃしだんはふたたびいぎりすぐんのぼうえいせんにつかまり、げきせんの)

と思ったドイツ軍戦車師団は再びイギリス軍の防衛線に掴まり、激戦の

(すえにげきたいされた。これは、もんとごめりーのかんぺきなしょうりではあったが、)

末に撃退された。これは、モントゴメリーの完璧な勝利ではあったが、

(もんとごめりーはじきしょうそうとしてはいたいするろんめるをついげきせずに)

モントゴメリーは時期尚早として敗退するロンメルを追撃せずに

(みのがした。これによりもんとごめりーはひはんされることとなったが、)

見逃した。これによりモントゴメリーは批判されることとなったが、

(まもなくろんめるをげきめつするちゃんすがおとずれるとかくしんしており、)

間もなくロンメルを撃滅するチャンスが訪れると確信しており、

(じっさいにそのかくしんどおりとなる。)

実際にその確信通りとなる。

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