第二次世界大戦13

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(あらむ・はるふぁのたたかいのあと、ふたたびりょうぐんはにらみあいながらせんりょくの)

アラム・ハルファの戦いの後、再び両軍はにらみ合いながら戦力の

(ほじゅうをいったが、あめりかからのほうふなれんどりーすによるぶつりょうのさで、)

補充を行ったが、アメリカからの豊富なレンドリースによる物量の差で、

(いぎりすぐんがすうじくこくぐんをあっとうてきにせんりょくでうわまわっており、せんしゃは1,000りょう、)

イギリス軍が枢軸国軍を圧倒的に戦力で上回っており、戦車は1,000輌、

(へいいんはやく20まんにんといずれもすうじくこくぐんのばいちかくにたっしていた。とくにせんしゃは)

兵員は約20万人といずれも枢軸国軍の倍近くに達していた。特に戦車は

(だい2かいわしんとんかいだんのさいちゅうにちゃーちるがちょくせつるーずべるとにこんがんして)

第2回ワシントン会談の最中にチャーチルが直接ルーズベルトに懇願して

(きょうよがけっていした、どいつぐんせんしゃのせいのうをりょうがするしんえいせんしゃのm4ちゅうせんしゃが)

供与が決定した、ドイツ軍戦車の性能を凌駕する新鋭戦車のM4中戦車が

(たすうふくまれていた。ろんめるがびょうきりょうようのためにきたあふりかをはなれていた)

多数含まれていた。ロンメルが病気療養のために北アフリカを離れていた

(10がつ23にちにもんとごめりーはこうげきをかいしした。ちじょうぶたいしんげきまえの)

10月23日にモントゴメリーは攻撃を開始した。地上部隊進撃前の

(1,000もんものかほうによるじゅんびほうげきによって、ろんめるがぜったいのじしんを)

1,000門もの火砲による準備砲撃によって、ロンメルが絶対の自信を

(もってこうちくしていた「あくまのにわ」としょうするだいじらいげんはほりかえされて)

持って構築していた「悪魔の庭」と称する大地雷原は掘り返されて

(しまい、のこったじらいをしょりしながらいぎりすぐんはすうじくこくぐんぼうえいせんのとっぱを)

しまい、残った地雷を処理しながらイギリス軍は枢軸国軍防衛線の突破を

(はかったが、もうしょうヴぃるへるむ・ふぉん・とーまそうこうへいたいしょうのしきも)

はかったが、猛将ヴィルヘルム・フォン・トーマ装甲兵大将の指揮も

(あって、すうじくこくぐんはだいそんがいをこうむりながらも、どうにかいぎりすぐんのしんげきを)

あって、枢軸国軍は大損害を被りながらも、どうにかイギリス軍の進撃を

(くいとめていた。しかし、25にちにろんめるがせいようさきからもどると、)

食い止めていた。しかし、25日にロンメルが静養先から戻ると、

(これまでのじぶんのしょうりたいけんにもとづき、またせんしゃぶたいによるうかいこうげきによる)

これまでの自分の勝利体験に基づき、また戦車部隊による迂回攻撃による

(はんげきをめいじたが、これはもんとごめりーのおもうつぼで、そうこうもかりょくも)

反撃を命じたが、これはモントゴメリーの思う壺で、装甲も火力も

(まさるm4ちゅうせんしゃとたたかったすうじくこくぐんのせんしゃぶたいはだいそんがいを)

勝るM4中戦車と戦った枢軸国軍の戦車部隊は大損害を

(うけてげきたいされた。)

受けて撃退された。

(もんとごめりーはこれをちゃんすとうらいとかんがえ、11がつ2にちにすうじくこくぐんの)

モントゴメリーはこれをチャンス到来と考え、11月2日に枢軸国軍の

(ぼうえいせんとっぱのさいしゅうこうせいをめいじた。ろんめるはすでにはいぼくをにんしきしており、)

防衛線突破の最終攻勢を命じた。ロンメルは既に敗北を認識しており、

など

(ひとらーにてったいのきょかをもとめたが、ひとらーからかえってきたのは)

ヒトラーに撤退の許可を求めたが、ヒトラーから返ってきたのは

(「ししゅめいれい」であった。げんかくなぐんじんであったろんめるはむちゃなめいれいで)

「死守命令」であった。厳格な軍人であったロンメルは無茶な命令で

(あってもげんしゅすることをけついし、ぶかしょうへいにししゅめいれいをだし、おおくの)

あっても厳守することを決意し、部下将兵に死守命令を出し、多くの

(すうじくこくぐんしょうへいがぜつぼうてきなたたかいでめいをおとし、たくみなしきでいぎりすぐんを)

枢軸国軍将兵が絶望的な戦いで命を落とし、巧みな指揮でイギリス軍を

(あしどめしてきたとーまもいぎりすぐんのほりょとなった。ろんめるは)

足止めしてきたトーマもイギリス軍の捕虜となった。ロンメルは

(11がつ4にちにさいどのてったいきょかをひとらーにもとめ、ようやくみとめられたが、)

11月4日に再度の撤退許可をヒトラーに求め、ようやく認められたが、

(すでにせんせんはほうかいしており、ろんめるをふくめてしゃりょうでとうそうできた)

既に戦線は崩壊しており、ロンメルを含めて車両で逃走できた

(しょうへいいがいの、ほへいぶたいなどはとりのこされて、いぎりすぐんにじゅうりんされるか)

将兵以外の、歩兵部隊などは取り残されて、イギリス軍に蹂躙されるか

(ほりょとなった。とくにいたりあぐんほへいしだんはひさんなめにあっており、)

捕虜となった。特にイタリア軍歩兵師団は悲惨な目にあっており、

(わずかなしゃりょうをとうそうするどいつぐんにうばわれて、いたりあへいはみすてられた。)

わずかな車両を逃走するドイツ軍に奪われて、イタリア兵は見捨てられた。

(ろんめるはどうにかにげきったが、このだいにじえる・あらめいんの)

ロンメルはどうにか逃げ切ったが、この第二次エル・アラメインの

(たたかいでのざんぱいで、やく80,000にんのへいしとほとんどのせんしゃやぐんじぶっしをうしない、)

戦いでの惨敗で、約80,000人の兵士と殆どの戦車や軍事物資を失い、

(かんぜんにきたあふりかせんせんでのしょうはいはけっした。)

完全に北アフリカ戦線での勝敗は決した。

(いきおいにのったもんとごめりーは、11がつ13にちにとぶるくを、どう20にちには)

勢いにのったモントゴメリーは、11月13日にトブルクを、同20日には

(べんがじをだっかいする。さらにせいほうのあるじぇりあ、もろっこに11がつ8にち、)

ベンガジを奪回する。 さらに西方のアルジェリア、モロッコに11月8日、

(とーちさくせんによりあめりかぐんがじょうりくし、とうざいからはさみうちにあうかたちに)

トーチ作戦によりアメリカ軍が上陸し、東西から挟み撃ちに遭う形に

(なった。さらにきたあふりかのヴぃしーぐんをひきいていたふらんそわ・)

なった。さらに北アフリカのヴィシー軍を率いていたフランソワ・

(だるらんたいしょうがれんごうこくとこうわし、きたあふりかのヴぃしーぐんはれんごうくにがわと)

ダルラン大将が連合国と講和し、北アフリカのヴィシー軍は連合国側と

(きゅうせんした。これにげきどしたひとらーはヴぃしーせいけんのささえはいかにあった)

休戦した。これに激怒したヒトラーはヴィシー政権の支配下にあった

(なんふつをせんりょう(あんとんさくせん)した。いぎりすぐんは、ヴぃしーせいけんの)

南仏を占領(アントン作戦)した。イギリス軍は、ヴィシー政権の

(しょくみんちであるあふりかひがしかいがんおきのまだがすかるとうを、みなみあふりかぐんの)

植民地であるアフリカ東海岸沖のマダガスカル島を、南アフリカ軍の

(しえんをうけてせんりょうした。)

支援を受けて占領した。

(すたーりんぐらーどこうぼうせん)

スターリングラード攻防戦

(とうぶせんせんでは、もすくわほうめんのそれんぐんのはんげきはこのとしのはるまでにはおとろえ、)

東部戦線では、モスクワ方面のソ連軍の反撃はこの年の春までには衰え、

(せんせんはこうちゃくじょうたいとなる。どいつぐんは、5がつからなんぶのはりこふとうほうで)

戦線は膠着状態となる。ドイツ軍は、5月から南部のハリコフ東方で

(こうげきをさいかいする。さらにかきこうせいぶらうさくせんをきかく。どいつぐんのた、)

攻撃を再開する。さらに夏季攻勢ブラウ作戦を企画。ドイツ軍の他、

(るーまにあ、はんがりー、いたりあなどのすうじくぐんは6がつ28にちにこうげきを)

ルーマニア、ハンガリー、イタリアなどの枢軸軍は6月28日に攻撃を

(かいしし、どんがわのわんきょくぶからヴぉるががわせいがんのすたーりんぐらーど、)

開始し、ドン川の湾曲部からヴォルガ川西岸のスターリングラード、

(こーかさすちほうのゆでんちたいをめざす。いっぽうどいつぐんにおいたてられた)

コーカサス地方の油田地帯を目指す。一方ドイツ軍に追い立てられた

(それんぐんはこうたいをつづけ、すたーりんぐらーどへしゅうけつしつつあった。)

ソ連軍は後退を続け、スターリングラードへ集結しつつあった。

(7がつ23にち、どいつぐんはこーかさすのいりぐちのろすとふ・な・どぬをせんりょう。)

7月23日、ドイツ軍はコーカサスの入り口のロストフ・ナ・ドヌを占領。

(8がつ9にち、まいこーぷゆでんをせんりょうした。)

8月9日、マイコープ油田を占領した。

(もすくわこうりゃくにしっぱいしたひとらーはけんこんいってきのさくとして、それんのしどうしゃ)

モスクワ攻略に失敗したヒトラーは乾坤一擲の策として、ソ連の指導者

(すたーりんのなまえがかんされたそれんなんぶのじゅうようとしすたーりんぐらーどの)

スターリンの名前が冠されたソ連南部の重要都市スターリングラードの

(こうりゃくをめいじ、ふりーどりひ・ぱうるすたいしょうひきいるせいえいだい6ぐんの22まんにんが)

攻略を命じ、フリードリヒ・パウルス大将率いる精鋭第6軍の22万人が

(しがいにせまった。ぱうるすもそのぶかのどいつぐんへいしたちも、これまでの)

市街に迫った。パウルスもその部下のドイツ軍兵士たちも、これまでの

(しょうりたいけんからはやくて1しゅうかん、じかんがかかったとしても1かげつで)

勝利体験から早くて1週間、時間がかかったとしても1か月で

(すたーりんぐらーどをこうりゃくできるとしんじてうたがわなかった。)

スターリングラードを攻略できると信じて疑わなかった。

(8がつ23にちにすたーりんぐらーどしがいまで58きろのいちまでせまっていた)

8月23日にスターリングラード市街まで58㎞の位置まで迫っていた

(だい6ぐんはいっせいにしんげきをかいしし、だいにじせかいたいせんのきろとなった)

第6軍は一斉に進撃を開始し、第二次世界大戦の岐路となった

(すたーりんぐらーどこうぼうせんがかいせんした。)

スターリングラード攻防戦が開戦した。

(9がつ13にちにはどいつぐんぶたいがすたーりんぐらーどしがいちにとつにゅうしたが、)

9月13日にはドイツ軍部隊がスターリングラード市街地に突入したが、

(そこでまちかまえていたのがわしーりー・ちゅいこふちゅうじょうひきいるだい62ぐん)

そこで待ち構えていたのがワシーリー・チュイコフ中将率いる第62軍

((えいごばん)であった。ちゅいこふはこのたたかいのちょくぜんまでざいはなそびえと)

(英語版)であった。チュイコフはこの戦いの直前まで在華ソビエト

(ぐんじこもんだんとしてにっちゅうせんそうでこくみんとうぐんのさくせんにかんよしており、にほんぐんとの)

軍事顧問団として日中戦争で国民党軍の作戦に関与しており、日本軍との

(きんせつせんとうをけいけんしていた。すたーりんぐらーどのしがいちでたたかう)

近接戦闘を経験していた。スターリングラードの市街地で戦う

(どいつへいは、えんきょりからじどうかきのたまをばらまきながらぜんしんすると)

ドイツ兵は、遠距離から自動火器の弾をばらまきながら前進すると

(いったせんぽうをとっており、ちゅいこふのめからは、あきらかににっぽんへいと)

いった戦法を取っており、チュイコフの目からは、明らかに日本兵と

(ひかくしてどいつへいはきんせつせんとうをにがてにしているようにみえた。そこで)

比較してドイツ兵は近接戦闘を苦手にしているように見えた。そこで

(ちゅいこふは「ぜんどいつへいに、それんぐんのじゅうくちをつきつけられて)

チュイコフは「全ドイツ兵に、ソ連軍の銃口をつきつけられて

(いきているとかんじさせなければならない」とぶかへいしにめいじ、てっていした)

生きていると感じさせなければならない」と部下兵士に命じ、徹底した

(きんせつせんとうをめいじた。きんせつせんとうにどいつへいをひきずりこむことは、)

近接戦闘を命じた。近接戦闘にドイツ兵を引きずり込むことは、

(てきみかたがいりみだれるため、こうくうきやせんしゃによるせんとうしえんをこんなんにすると)

敵味方が入り乱れるため、航空機や戦車による戦闘支援を困難にすると

(いったこうかもあった。そのため、すたーりんぐらーどしがいではたてものの)

いった効果もあった。そのため、スターリングラード市街では建物の

(ひとへやひとへやをうばいあうようなちなまぐさいはくへいせんがたたかわれ、)

一部屋一部屋を奪い合うような血なまぐさい白兵戦が戦われ、

(ちゅいこふはちゃくじつにだい6ぐんのせんりょくといきおいをそいでいった。それでも)

チュイコフは着実に第6軍の戦力と勢いを削いでいった。それでも

(だい6ぐんはおびただしいそんがいをこうむりながらも、10がつまつごろにはしがいちの90%を)

第6軍は夥しい損害を被りながらも、10月末ごろには市街地の90%を

(せんりょうし、ちゅいこふとだい62ぐんはヴぉるががわのかわぎしのながさ)

占領し、チュイコフと第62軍はヴォルガ川の川岸の長さ

(すうきろはばすうひゃくめーとるのおびのようなほそながいちいきにおいこまれた。まいにちしとうを)

数キロ幅数百mの帯のような細長い地域に追い込まれた。毎日死闘を

(くりかえしちょうじんてきなどりょくですたーりんぐらーどをまもっていたちゅいこふと)

繰り返し超人的な努力でスターリングラードを守っていたチュイコフと

(だい62ぐんのへいしにたいして、すたーりんはねぎらいのことばではなくいかのような)

第62軍の兵士に対して、スターリンは労いの言葉ではなく以下の様な

(げきをとばしている。)

檄を飛ばしている。

(しょくんはヴぉるががわをわたってたいきゃくすることはできない。ただひとつのみちが)

諸君はヴォルガ川を渡って退却することはできない。ただ一つの道が

(あるのみだ。そのみちこそぜんぽうへすすむみちである。すたーりんぐらーどは)

あるのみだ。その道こそ前方へ進む道である。スターリングラードは

(しょくんのてですくわれるだろう。さもなければ、しょくんもろともにあとかたもなく)

諸君の手で救われるだろう。さもなければ、諸君もろともに跡形もなく

(まっしょうされるであろう!)

抹消されるであろう!

(だい6ぐんはだい62ぐんにとめをさすべくじりじりとぜんしんをつづけていたが、)

第6軍は第62軍に止めを刺すべくじりじりと前進を続けていたが、

(これはじゅーこふのわなであり、さくせんとうしょからだい6ぐんを)

これはジューコフの罠であり、作戦当初から第6軍を

(すたーりんぐらーどないでいけどろうとするやしんてきなさくせんをたてており、)

スターリングラード内で生け捕ろうとする野心的な作戦を立てており、

(ちゅいこふがだい6ぐんをしがいちではてしないしょうもうせんにひきずりこんでいるあいだに、)

チュイコフが第6軍を市街地で果てしない消耗戦に引き摺り込んでいる間に、

(はんげきせんりょくとして50まんにんのへいし、1,500りょうのせんしゃ、かほう13,000もんを)

反撃戦力として50万人の兵士、1,500輌の戦車、火砲13,000門を

(しゅうけつさせちゃんすをみはからっていた。そして、はつゆきがふった3にちごの)

集結させチャンスを見計らっていた。そして、初雪が降った3日後の

(11がつ19にち、だいちがこおりせんしゃがはしりまわれるようになるのをまってそれんぐんの)

11月19日、大地が凍り戦車が走り回れるようになるのを待ってソ連軍の

(だいはんげきがかいしされた。)

大反撃が開始された。

(それんぐんはんげきぶたいのもうしんうちにぜんせんのるーまにあぐんがあっさり)

ソ連軍反撃部隊の猛進撃に前線のルーマニア軍があっさり

(けちらされると、それんぐんはんげきぶたいはだい6ぐんにせまった。ぱうるすは)

蹴散らされると、ソ連軍反撃部隊は第6軍に迫った。パウルスは

(ぜんしんをあきらめて、とっしんしてきたそれんぐんにはんげきをめいじ、ぜんせんではどいつぐん)

前進を諦めて、突進してきたソ連軍に反撃を命じ、前線ではドイツ軍

(ほへいがなにひゃくりょうものそれんぐんせんしゃあいてに、たいせんしゃしゅりゅうだんでたちむかったが)

歩兵が何百輌ものソ連軍戦車相手に、対戦車手榴弾で立ち向かったが

(つぎつぎとたおされていった。だい6ぐんはさくせんかいしじの22まんにんからぞうえんもあって)

次々と倒されていった。第6軍は作戦開始時の22万人から増援もあって

(さいだいで334,000にんのへいりょくとなったが、せんとうやしょうびょうによっておおくのしょうへいが)

最大で334,000人の兵力となったが、戦闘や傷病によって多くの将兵が

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