第二次世界大戦14

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(たおれており、このそれんぐんのはんげきによっていきのこっていたやく20まんにんが)

倒れており、このソ連軍の反撃によって生き残っていた約20万人が

(すたーりんぐらーどでほういされた。そしてこのほういのなかにはるーまにあぐんの)

スターリングラードで包囲された。そしてこの包囲の中にはルーマニア軍の

(いきのこりやどいつぐんのひせんとうよういんすうまんにんもはいっていた。11がつ22にちに)

生き残りやドイツ軍の非戦闘要員数万人も入っていた。11月22日に

(ぱうるすはじぶんのぐんがほういされたいろをたたれたことをにんしきすると、)

パウルスは自分の軍が包囲され退路を断たれたことを認識すると、

(ひとらーにそのじょうきょうをほうこくしたが、ひとらーはぱうるすにせんりょうちの)

ヒトラーにその状況を報告したが、ヒトラーはパウルスに占領地の

(ししゅと、そのしゅだんとしてようさいこうちくをめいじて、だい6ぐんをほこらかに)

死守と、その手段として要塞構築を命じて、第6軍を誇らかに

(「すたーりんぐらーどようさいぶたい」となづけた。)

「スターリングラード要塞部隊」と名付けた。

(しかし、ようさいぶたいなどといさましいなまえをつけたところで、しょくりょうも)

しかし、要塞部隊などと勇ましい名前をつけたところで、食料も

(ぶきだんやくもこかつしているだい6ぐんがながくはもちこたえられないことはあきしろで)

武器弾薬も枯渇している第6軍が長くは持ちこたえられないことは明白で

(あった。そこでどいつくうぐんはゆそうきをかきあつめてくうゆでだい6ぐんにほきゅうし)

あった。そこでドイツ空軍は輸送機をかき集めて空輸で第6軍に補給し

(つづけたが、そのりょうはひつようさいていげんのりょうをおおきくしたまわっていたうえ、)

続けたが、その量は必要最低限の量を大きく下回っていたうえ、

(それんぐんせんとうきのげいげきやたいくうほうかでゆそうき536き、ばくげきき149き、)

ソ連軍戦闘機の迎撃や対空砲火で輸送機536機、爆撃機149機、

(せんとうき123き、そしてじゅくれんぱいろっと2,196にんというばとる・おぶ・)

戦闘機123機、そして熟練パイロット2,196人というバトル・オブ・

(ぶりてんにひってきするようなじんだいなそんがいをこうむって、やがてくうゆをつづける)

ブリテンに匹敵する様な甚大な損害を被って、やがて空輸を続ける

(ことがこんなんとなった。ふそくしていたのはしょくりょうにくわえて、とうきよういふくと)

ことが困難となった。不足していたのは食糧に加えて、冬季用衣服と

(そうびもたりていなかった。ぜんねんのもすくわでいたいめをみていたのにも)

装備も足りていなかった。前年のモスクワで痛い目を見ていたのにも

(かかわらず、こんかいもとうきようそうびをゆそうしていたれっしゃは、)

関わらず、今回も冬季用装備を輸送していた列車は、

(すたーりんぐらーどよりはるかてまえでずっとたちおうじょうしており、ぜんせんに)

スターリングラードより遥か手前でずっと立ち往生しており、前線に

(とどいてすらおらず、だい6ぐんしょうへいのほとんどがうすでのかきようぐんそうでそれんのきびしい)

届いてすらおらず、第6軍将兵の殆どが薄手の夏季用軍装でソ連の厳しい

(かんぱにさらされていた。どいつぐんはおろかにも2ねんつづけてせんきょくをさゆうする)

寒波にさらされていた。ドイツ軍は愚かにも2年続けて戦局を左右する

など

(じゅうようなさくせんでおなじみすをおかしてしまった。このようなかこくなかんきょうで)

重要な作戦で同じミスを犯してしまった。このような過酷な環境で

(だい6ぐんのしょうへいはつぎつぎとうえとさむさでたおれていった。12がつ12にち、)

第6軍の将兵は次々と飢えと寒さで倒れていった。12月12日、

(えーりっひ・ふぉん・まんしゅたいんげんすいはなんせいほうこうからきゅうえんさくせんを)

エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥は南西方向から救援作戦を

(かいしし、どう19にちにはやく35kmまでせっきんするが、24にちからのそれんぐんの)

開始し、同19日には約35kmまで接近するが、24日からのソ連軍の

(はんげきでげきたいされ、ねんまつにはきゅうえんさくせんはしっぱいする。もはやだい6ぐんしょうへいの)

反撃で撃退され、年末には救援作戦は失敗する。もはや第6軍将兵の

(うんめいはふうぜんのともしびで、くりすますにもすくわのこくえいほうそうは「それんでは7びょう)

運命は風前の灯火で、クリスマスにモスクワの国営放送は「ソ連では7秒

(ごとに1にんのどいつへいがしんでます。すたーりんぐらーどはどいつへいの)

ごとに1人のドイツ兵が死んでます。スターリングラードはドイツ兵の

(しゅうだんぼちになりました」というこめんとをほうそうした。)

集団墓地になりました」というコメントを放送した。

(1943ねんがんたん、ひとらーはそれんぐんのほういかでくるしむだい6ぐんしょうへいにたいし)

1943年元旦、ヒトラーはソ連軍の包囲下で苦しむ第6軍将兵に対し

(「だい6ぐんしょうへいにつぐ、かれらをきゅうしゅつするために、あらゆるどりょくが)

「第6軍将兵に告ぐ、彼等を救出するために、あらゆる努力が

(はらわれている」とむせんでよびかけたが、じっさいにはまんしゅたいんの)

払われている」と無線で呼びかけたが、実際にはマンシュタインの

(きゅうえんもげきたいされ、きゅうしゅつのてだてはなかった。1がつ7にちにそれんぐんは)

救援も撃退され、救出の手立てはなかった。1月7日にソ連軍は

(ぱうるすにたいしてこうふくかんこくをいった。すでにかちめがないことをさとって)

パウルスに対して降伏勧告を行った。既に勝ち目がないことを悟って

(いたぱうるすはひとらーに「こうどうのじゆう」をようにんするようにいたりきゅうでんを)

いたパウルスはヒトラーに「行動の自由」を容認するように至急電を

(だでんしたが、ひとらーはきゅうてきそれんへのこうふくをゆるすきはなく、ぱうるすの)

打電したが、ヒトラーは仇敵ソ連への降伏を許す気はなく、パウルスの

(もうしでをきょひした。それんぐんはさいごつうちょうのきげんであった1がつ10にちに)

申し出を拒否した。ソ連軍は最後通牒の期限であった1月10日に

(5,000もんのかほうで2じかんものかんほうげきをあびせたあと、だい6ぐんのせんめつを)

5,000門の火砲で2時間もの間砲撃を浴びせた後、第6軍の殲滅を

(かいしした。げきせんはさいかいされて、りょうぐんのおおくのへいしがたおれるなか、)

開始した。激戦は再開されて、両軍の多くの兵士が倒れるなか、

(1がつ30にちにぱうるすのもとにげんすいしょうかくのしらせがとどいた。これはかつて)

1月30日にパウルスのもとに元帥昇格の知らせが届いた。これはかつて

(どいつしじょうでてきにこうふくしたげんすいはおらず、こうふくするならじけつせよという)

ドイツ史上で敵に降伏した元帥はおらず、降伏するなら自決せよという

(ひとらーからのめっせーじであったが、ぱうるすはそのめっせーじを)

ヒトラーからのメッセージであったが、パウルスはそのメッセージを

(むししこうふくすることをえらんだ。げんすいにしょうかくしたよくじつの1がつ31にちに)

無視し降伏することを選んだ。元帥に昇格した翌日の1月31日に

(「それんぐんはわれわれのぼうくうごうのとぐちにきている。われわれはわれわれのそうびを)

「ソ連軍は我々の防空壕の戸口に来ている。我々は我々の装備を

(はかいちゅうである」とさいごのだでんをおこなわせると、そのあとはむせんふうさし)

破壊中である」と最後の打電を行わせると、その後は無線封鎖し

(2がつ2にちにそれんぐんにしろはたをかかげた。)

2月2日にソ連軍に白旗を掲げた。

(2がつ2にちにこうふくしたどいつぐんとどうめいぐんは、12がつの「すたーりんぐらーど)

2月2日に降伏したドイツ軍と同盟軍は、12月の「スターリングラード

(ようさい」こうぼうせんかいしじに255,000にんがとじこめられたはずであったが、)

要塞」攻防戦開始時に255,000人が閉じ込められたはずであったが、

(とうこうしてきたしょうへいは123,000にんであり、じつに2かげつのあいだで13まんにんちかくが)

投降してきた将兵は123,000人であり、実に2か月の間で13万人近くが

(せんとうにくわえてうえやさむさでめいをおとしていた。さらにこの12まんにんで)

戦闘に加えて飢えや寒さで命を落としていた。さらにこの12万人で

(せんごにいきてどいつにかえれたのはわずか6,000にんほどで、もじどおり)

戦後に生きてドイツに帰れたのはわずか6,000人ほどで、文字通り

(だい6ぐんはぜんめつし、どいつぐんはれきしてきたいはいをきっした。いきおいにのったそれんぐんは)

第6軍は全滅し、ドイツ軍は歴史的大敗を喫した。勢いに乗ったソ連軍は

(そのまましんげきし、2がつ8にちくるすく、2がつ14にちろすとふ・な・どぬ、)

そのまま進撃し、2月8日クルスク、2月14日ロストフ・ナ・ドヌ、

(2がつ15にちにははりこふをだっかいする。)

2月15日にはハリコフを奪回する。

(しかし、どいつぐんは3がつにまんしゅたいんげんすいのさくせんでそれんぐんのぜんしんを)

しかし、ドイツ軍は3月にマンシュタイン元帥の作戦でソ連軍の前進を

(そしし、どう15にちはりこふをさいどせんりょうした。7がつ5にちからのくるすくの)

阻止し、同15日ハリコフを再度占領した。7月5日からのクルスクの

(たたかいは、しじょうさいだいのせんしゃどうしのせんとうとなった。どいつぐんはそれんぐんの)

戦いは、史上最大の戦車同士の戦闘となった。ドイツ軍はソ連軍の

(ぼうえいせんをとっぱできず、よびへいりょくのたいはんをつかいはたしはいぼく。いご)

防衛線を突破できず、予備兵力の大半を使い果たし敗北。以後

(どいつぐんは、とうぶせんせんではにどとこうせいにまわることはなく、それんぐんは)

ドイツ軍は、東部戦線では二度と攻勢に廻ることはなく、ソ連軍は

(9がつ24にちすもれんすくをせんりょう。11がつ6にちにはきえふをせんりょうした。)

9月24日スモレンスクを占領。11月6日にはキエフを占領した。

(きたあふりかせんせんではいたいをつづけるろんめるであったが、このままこうめいな)

北アフリカ戦線で敗退を続けるロンメルであったが、このまま高名な

(しょうぐんがほりょとなることをけねんしたひとらーによって、1943ねん3がつ9にちに)

将軍が捕虜となることを懸念したヒトラーによって、1943年3月9日に

(あふりかぐんしゅうだんしれいかんからかいにんされどいつによびもどされた。ろんめるが)

アフリカ軍集団司令官から解任されドイツに呼び戻された。ロンメルが

(かいにんされたあとは、はんす=ゆるげん・ふぉん・あるにむじょうきゅうたいしょうが)

解任されたあとは、ハンス=ユルゲン・フォン・アルニム上級大将が

(ひきつぎ、れいかのどいつぐんそうこうぶたいしきかんはんす・くらーまーちゅうじょうと、)

引継ぎ、隷下のドイツ軍装甲部隊指揮官ハンス・クラーマー中将と、

(いたりあぐんしれいかんじょヴぁんに・めっせげんすいのたくみなしきもあって)

イタリア軍司令官ジョヴァンニ・メッセ元帥の巧みな指揮もあって

(れんごうぐんをどうにかあしどめしていたが、にしのあるじぇりあにじょうりくした)

連合軍をどうにか足止めしていたが、西のアルジェリアに上陸した

(あめりかぐんと、ひがしのりびあからしんげきするいぎりすぐんによって、)

アメリカ軍と、東のリビアから進撃するイギリス軍によって、

(いたりあとどいつりょうぐんはちゅにじあのぼんみさきほうこうにおいこまれていた。)

イタリアとドイツ両軍はチュニジアのボン岬方向に追い込まれていた。

(あるにむはほこりたかいどいつあふりかぐんしゅうだんのゆうしゅうのびをかざるべく、)

アルニムは誇り高いドイツアフリカ軍集団の有終の美を飾るべく、

(4がつ28にちにみずからしきをとってざんそんへいりょくではんげきをおこない、2にちごには)

4月28日に自ら指揮を執って残存兵力で反撃を行い、2日後には

(じぇべる・ぶーあうーかーずこうちのれんごうぐんをげきはしてだっかんにせいこうしたが、)

ジェベル・ブーアウーカーズ高地の連合軍を撃破して奪還に成功したが、

(しょせんはさいごのあだばなにすぎなかった。)

所詮は最後の徒花に過ぎなかった。

(れんごうぐんはあっさりたいせいとたてなおしじぇべる・ぶーあうーかーずこうちを)

連合軍はあっさり態勢と立て直しジェベル・ブーアウーカーズ高地を

(さいだっかんすると、5がつ6にちにはちゅにすへのそうこうげきをかいし、どいつ)

再奪還すると、5月6日にはチュニスへの総攻撃を開始、ドイツ

(あふりかぐんしゅうだんはもろくも24じかんでまちからたたきだされた。さいごをさとった)

アフリカ軍集団は脆くも24時間で街からたたき出された。最後を悟った

(くらーまーはしれいかんをかいにんされおーすとりあでびょうきりょうようちゅうのろんめるに)

クラーマーは司令官を解任されオーストリアで病気療養中のロンメルに

(「さよなら」のでんぽうをだでんし、どいつぐんとうすいぶには「だんがんはすべてうち)

「サヨナラ」の電報を打電し、ドイツ軍統帥部には「弾丸はすべて撃ち

(つくし、ぶき、しざいははかいせり。めいれいにしたがいあふりかぐんだんは、ぜんりょくを)

尽くし、武器、資材は破壊せり。命令に従いアフリカ軍団は、全力を

(ふるいかのうなかぎりのせんとうをなせり。どいつ・あふりかぐんだんは、)

ふるい可能な限りの戦闘をなせり。ドイツ・アフリカ軍団は、

(さいきせざるべからず」というさいしゅうでんぶんをだでんした。そのすうじつごの5がつ13にち)

再起せざるべからず」という最終電文を打電した。その数日後の5月13日

(にぐんしゅうだんしれいかんのあるにむがれんごうぐんにこうふくした。ここでほりょとなったのは)

に軍集団司令官のアルニムが連合軍に降伏した。ここで捕虜となったのは

(どいつぐんやく10まん、いたりあぐんやく15まんにんというばくだいなにんずうであったが、)

ドイツ軍約10万、イタリア軍約15万人という莫大な人数であったが、

(どいつぐんといたりあぐんがきたあふりかせんせんでうしなったせんりょくはへいいんやく50まんにん、)

ドイツ軍とイタリア軍が北アフリカ戦線で失った戦力は兵員約50万人、

(せんしゃ2,550りょう、しゃりょう70,000だい、こうくうき8,000きとさらに)

戦車2,550輌、車輛70,000台、航空機8,000機とさらに

(じんだいなものとなり、あとのせんきょくにおおきなえいきょうをおよぼした。)

甚大なものとなり、後の戦局に大きな影響を及ぼした。

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