第二次世界大戦15

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(しちりあでのはいぼくといたりあこうふく)

シチリアでの敗北とイタリア降伏

(きたあふりかですうじくこくぐんをげきはしたれんごうぐんは、ちちゅうかいのせいかいけんをかくりつし、)

北アフリカで枢軸国軍を撃破した連合軍は、地中海の制海権を確立し、

(どいつぐんが「ふぇすとぅんぐ・おいろーば(よーろっぱようさい)」と)

ドイツ軍が「フェストゥング・オイローバ(ヨーロッパ要塞)」と

(うそふきけんしゅをほこるよーろっぱたいりくのやわらかいかふくをつくため、)

嘯き堅守を誇るヨーロッパ大陸の“柔らかい下腹”を突くため、

(いたりあしちりあとうじょうりくさくせんのはすきーさくせんをかいしした。きたあふりかで)

イタリアシチリア島上陸作戦のハスキー作戦を開始した。北アフリカで

(ただいなそんがいをこうむったいたりあぐんであったが、ことかいぐんにおいては、)

多大な損害を被ったイタリア軍であったが、こと海軍においては、

(せんかん6せき、じゅんようかん7せき、せんすいかん48せき、そのたかんてい75せきがのこっており、)

戦艦6隻、巡洋艦7隻、潜水艦48隻、その他艦艇75隻が残っており、

(いぜんとしてきょうだいなせんりょくをいじしていた。れんごうぐんはいたりあかいぐんのきょうりょくな)

依然として強大な戦力を維持していた。連合軍はイタリア海軍の強力な

(かいじょうぶたいにたいこうするため、いぎりすかいぐんでくうぼ2せき、せんかん6せき、)

海上部隊に対抗するため、イギリス海軍で空母2隻、戦艦6隻、

(じゅんようかん10せき、そのたたすう、あめりかかいぐんもじゅんようかん5せき、くちくかん48せきなど、)

巡洋艦10隻、その他多数、アメリカ海軍も巡洋艦5隻、駆逐艦48隻など、

(だいにじせかいたいせんのよーろっぱせんせんにおいては、さいだいのしえんかんたいと)

第二次世界大戦のヨーロッパ戦線においては、最大の支援艦隊と

(すいりくりょうようぶたいをじゅんびした。れんごうぐんかいぐんがけねんしたいたりあかいぐんに)

水陸両用部隊を準備した。連合軍海軍が懸念したイタリア海軍に

(ついては、かんたいのみてくれはりっぱであるが、そのせんとうりょくにはぎもんふが)

ついては、艦隊の見てくれは立派であるが、その戦闘力には疑問符が

(ついており、まずはれーだーをそうびしたかんていがないことからたんちのうりょくに)

ついており、まずはレーダーを装備した艦艇がないことから探知能力に

(もんだいあり、こうくうしえんやたいくうかきにもとぼしいことからてきからのこうくうこうげきを)

問題あり、航空支援や対空火器にも乏しいことから敵からの航空攻撃を

(おそれて、おんぞんというよりはむしろぼこうをしゅっこうできないというじょうきょうであった。)

恐れて、温存というよりはむしろ母港を出港できないという状況であった。

(しちりあとうでれんごうぐんにとうこうするいたりあへい)

シチリア島で連合軍に投降するイタリア兵

(れんごうぐんはじぜんのてっていしたばくげきとかんぽうしゃげきののち、7がつ10にちになって、)

連合軍は事前の徹底した爆撃と艦砲射撃ののち、7月10日になって、

(これまでのよーろっぱせんせんではさいだいきぼのてきぜんじょうりくと、くうていぶたいの)

これまでのヨーロッパ戦線では最大規模の敵前上陸と、空挺部隊の

(こうかによってしちりあとうにしんこうかいしした。いたりあほんどにめとはなのさきの)

降下によってシチリア島に侵攻開始した。イタリア本土に目と鼻の先の

など

(しちりあとうのぐんじてきなかちはたかく、すうじくこくぐんはぶたいをじゅんじぞうきょうし、)

シチリア島の軍事的な価値は高く、枢軸国軍は部隊を順次増強し、

(れんごうぐんしんこうじにはいたりあぐんやく23まんにん、どいつぐんやく7まんにんのごうけい30まんにんが)

連合軍侵攻時にはイタリア軍約23万人、ドイツ軍約7万人の合計30万人が

(ぼうえいしていた。しかし、えんがんをぼうえいしていたいたりあへいはじこくのぼうえいで)

防衛していた。しかし、沿岸を防衛していたイタリア兵は自国の防衛で

(あるにもかかわらずせんいがきわめてひくく、れんごうぐんへいしがじょうりくしてくると)

あるにも関わらず戦意が極めて低く、連合軍兵士が上陸してくると

(むちつじょににげだし、そのいきおいをみていたいぎりすぐんへいしは、いたりあへいの)

無秩序に逃げ出し、その勢いを見ていたイギリス軍兵士は、イタリア兵の

(うつじゅうだんより、ほりょになるためにはしってむかってくるいたりあへいにふみ)

撃つ銃弾より、捕虜になるために走って向かってくるイタリア兵に踏み

(ころされはしないかとおそれたほどであった。それにたいしてどいつへいは)

殺されはしないかと恐れたほどであった。それに対してドイツ兵は

(ゆうかんにたたかい、じょうりくしてきたあめりかぐんぶたいにたいし、てぃーがーiをせんとうに)

勇敢に戦い、上陸してきたアメリカ軍部隊に対し、ティーガーIを先頭に

(してとつげきしてきたので、たちまちあめりかぐん1こだいたいがかいめつじょうたいにおちいり、)

して突撃してきたので、たちまちアメリカ軍1個大隊が壊滅状態に陥り、

(だいたいちょうがほりょになったということもあった。とくにてぃーがーiは)

大隊長が捕虜になったということもあった。特にティーガーIは

(じょうりくちょくごでじゅうかきがふじゅうぶんなれんごうぐんへいしをあいてにもういをふるい、)

上陸直後で重火器が不十分な連合軍兵士を相手に猛威をふるい、

(しかたなくくちくかんがえんがんまでちかづいてかんぽうしゃげきでげきはしている。)

仕方なく駆逐艦が沿岸まで近付いて艦砲射撃で撃破している。

(いたりあくうぐんといたりあかいぐんはどいつぐんとれんけいしれんごうぐんかんたいをこうかてきに)

イタリア空軍とイタリア海軍はドイツ軍と連携し連合軍艦隊を効果的に

(こうげきした。せんすいかんによるこうげきで、どいつぐんuぼーと3せきといたりあ)

攻撃した。潜水艦による攻撃で、ドイツ軍Uボート3隻とイタリア

(ぐんせんすいかん9せきをうしなったが、いぎりすかいぐんじゅんようかん4せきをげきちんするだいせんかを)

軍潜水艦9隻を失ったが、イギリス海軍巡洋艦4隻を撃沈する大戦果を

(あげた。また、そらからのこうげきはれんごうぐんかんたいをなやましつづけ、ゆそうかんなど9せきを)

挙げた。また、空からの攻撃は連合軍艦隊を悩まし続け、輸送艦等9隻を

(げきちん、くうぼいんどみだぶるをふくむたすうのかんをそんしょうさせた。しかし、)

撃沈、空母インドミダブルを含む多数の艦を損傷させた。しかし、

(りくじょうでのたたかいではあいかわらずいたりあへいのせんいはひくく、ねばりづよく)

陸上での戦いでは相変わらずイタリア兵の戦意は低く、粘り強く

(たたかっていたのはどいつへいであった。そのようないたりあへいのすがたを)

戦っていたのはドイツ兵であった。そのようなイタリア兵の姿を

(みていたあるどいつへいはいかのようにろんぴょうしている。)

見ていたあるドイツ兵は以下の様に論評している。

(いたりあぶたいはつかれ、きりつをかき、もくてきをもっていなかった。そのけっか、)

イタリア部隊は疲れ、規律を欠き、目的を持っていなかった。その結果、

(いたりあぶたいがせんとうにおいてせんりょくとなったことはきわめてまれである、)

イタリア部隊が戦闘において戦力となったことは極めて稀である、

(だいたいいつもふたんになるのがとことわだった。)

だいたいいつも負担になるのが常だった。

(おもにどいつぐんのかんとうにより、2しゅうかんていどでおわるとおもわれていたたたかいは)

主にドイツ軍の敢闘により、2週間程度で終わると思われていた戦いは

(38にちかんもつづいた。どいつぐんは12,000にんのへいりょくをうしなったが、いきのこった)

38日間も続いた。ドイツ軍は12,000人の兵力を失ったが、生き残った

(ぶたいは、8がつ10にちからはりねずみのようなたいりょうのこうしゃほうにまもられるなかで、)

部隊は、8月10日からハリネズミのような大量の高射砲に守られる中で、

(めっしなかいきょうをわたっていたりあほんどにせいぜんとてったいをかいしし、しれいかんはんす)

メッシナ海峡を渡ってイタリア本土に整然と撤退を開始し、司令官ハンス

(=ヴぁれんてぃーん・ふーべたいしょうはぶかしょうへいのてったいをみおくったのち、)

=ヴァレンティーン・フーベ大将は部下将兵の撤退を見送ったのち、

(8がつ17にちにさいあとのびんでてったいした。どうじつにいたりあぐんもしれいかん)

8月17日に最後の便で撤退した。同日にイタリア軍も司令官

(あるふれーど・ぐっつぉーに(いたりあごばん)いかざんそんぶたいがいたりあ)

アルフレード・グッツォーニ(イタリア語版)以下残存部隊がイタリア

(ほんどにてったいした。すうじくこくぐんがてったいしたあと、じょーじ・ぱっとんちゅうじょうが)

本土に撤退した。枢軸国軍が撤退した後、ジョージ・パットン中将が

(ひきいるだい7ぐんが、いぎりすぐんたんとうくいきないのさいしゅうもくひょうめっしなをせんりょうして)

率いる第7軍が、イギリス軍担当区域内の最終目標メッシナを占領して

(はすきーさくせんはしゅうりょうしたが、のちにあめりかぐんといぎりすぐんのあいだでひともんちゃく)

ハスキー作戦は終了したが、のちにアメリカ軍とイギリス軍の間でひと悶着

(おこっている。すうじくくにはこのたたかいで16まんにんのへいしをうしなったが、そのおおくが)

起こっている。枢軸国はこの戦いで16万人の兵士を失ったが、その多くが

(まともにたたかうこともなくとうこうしたいたりあへいであった。いっぽうでれんごうぐんのししょうしゃは)

まともに戦うこともなく投降したイタリア兵であった。一方で連合軍の死傷者は

(20,000にんであった。このたたかいのさいちゅう、しちりあのとうみんはてきであるはずの)

20,000人であった。この戦いの最中、シチリアの島民は敵であるはずの

(れんごうぐんへいしをかんげいした。これまできたあふりかのさばくでみずにもしょくりょうにも)

連合軍兵士を歓迎した。これまで北アフリカの砂漠で水にも食糧にも

(くろうしてきた。いぎりすへいは、しちりあのゆたかなしぜんとじゅうみんのかんげいをまんきつした。)

苦労してきた。イギリス兵は、シチリアの豊かな自然と住民の歓迎を満喫した。

(いぎりすだい8ぐん(いぎりすぐん)(えいごばん)へいしはこのたたかいをふりかえって)

イギリス第8軍 (イギリス軍)(英語版)兵士はこの戦いを振り返って

(「さばくからきたので、しちりあではたのしんだ」とふりかえった。そのしれいかん)

「砂漠から来たので、シチリアでは楽しんだ」と振り返った。その司令官

(でげんかくなせいかくのばーなーど・もんとごめりーちゅうじょうですら「ときはせいか、)

で厳格な性格のバーナード・モントゴメリー中将ですら「時は盛夏、

(きぎはおれんじとれもんがみのり、さけはふんだんにあった。しちりあの)

木々はオレンジとレモンが実り、酒はふんだんにあった。シチリアの

(むすめたちはみんなしんせつだった」とふりかえっており、しゅうしせんいがひくかった)

娘たちはみんな親切だった」と振り返っており、終始戦意が低かった

(いたりあへいにくわえて、いたりあこくみんもせんそうにひへいしているのがあきらかで)

イタリア兵に加えて、イタリア国民も戦争に疲弊しているのが明らかで

(あった。そしてこのざんぱいにより、ただでさえほころびがみえていたいたりあの)

あった。そしてこの惨敗により、ただでさえ綻びが見えていたイタリアの

(ふぁしずむははたんにむかい、むっそりーにのけんいはちにおち、)

ファシズムは破綻に向かい、ムッソリーニの権威は地に墜ち、

(そのしっきゃくといたりあのげんたいせいほうかいへとつながっていった。)

その失脚とイタリアの現体制崩壊へと繋がっていった。

(されるのにじょうりくしたいぎりすりくぐん)

サレルノに上陸したイギリス陸軍

(かくちでれんせんれんぱいをかさね、かんぜんにれっせいにたたされたいたりあではこうわの)

各地で連戦連敗を重ね、完全に劣勢に立たされたイタリアでは講和の

(うごきがはじまっていた。7がつ24にちにひらかれたふぁしずむだいひょうぎかいでは、)

動きが始まっていた。7月24日に開かれたファシズム大評議会では、

(もとちゅうえいたいしおうとうはのでぃーの・ぐらんでぃはくしゃく、むっそりーにのむすめむこ)

元駐英大使王党派のディーノ・グランディ伯爵、ムッソリーニの娘婿

(がれあっつぉ・ちゃーのがいむだいじんらおおくのふぁしすととうかんぶが、)

ガレアッツォ・チャーノ外務大臣ら多くのファシスト党幹部が、

(ふぁしすととうしどうしゃむっそりーにのせんそうしどうせきにんをついきゅう、とうすいけんを)

ファシスト党指導者ムッソリーニの戦争指導責任を追及、統帥権を

(こくおうにへんかんすることをぎけつした。こりつむえんとなったむっそりーには)

国王に返還することを議決した。孤立無援となったムッソリーニは

(よく25にちごご、こくおうヴぃっとーりお・えまぬえーれ3せいからかいにんを)

翌25日午後、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世から解任を

(いいわたされ、どうじにけんぺいたいにたいほされとうごくされた。)

言い渡され、同時に憲兵隊に逮捕され投獄された。

(9がつ3にち、いたりあほんどじょうりくもかいしされた(いたりあせんせん)。どうじつ、)

9月3日、イタリア本土上陸も開始された(イタリア戦線)。同日、

(むっそりーにのこうにん、げんすいぴえとろ・ばどりおひきいるいたりあしんせいけんは)

ムッソリーニの後任、元帥ピエトロ・バドリオ率いるイタリア新政権は

(れんごうこくにたいしきゅうせん。9がつ8にち、れんごうこくはいたりあのこうふくをはっぴょうした。)

連合国に対し休戦。9月8日、連合国はイタリアの降伏を発表した。

(ろーまはただちにどいつぐんにせんりょうされ、こくおうとしゅしょうばどりおらのしんせいけんは、)

ローマは直ちにドイツ軍に占領され、国王と首相バドリオらの新政権は、

(れんごうぐんせんりょうちいきのなんぶぶりんでぃじへだっしゅつした。)

連合軍占領地域の南部ブリンディジへ脱出した。

(たいほご、しんせいけんによってあぺにんさんみゃくのぐらん・さっそやまのほてるに)

逮捕後、新政権によってアペニン山脈のグラン・サッソ山のホテルに

(ゆうへいされたむっそりーにはどうげつ12にち、ひとらーじきじきのにんめいで、なちすしんえいたい)

幽閉されたムッソリーニは同月12日、ヒトラー直々の任命で、ナチス親衛隊

(おっとー・すこるつぇにーたいさひきいるとくしゅぶたいによってきゅうしゅつされた。)

オットー・スコルツェニー大佐率いる特殊部隊によって救出された。

(9がつ15にち、むっそりーにはいたりあほくぶで、どいつのかいらいせいけん)

9月15日、ムッソリーニはイタリア北部で、ドイツの傀儡政権

(「いたりあしゃかいきょうわこく」(さろせいけん)をじゅりつし、どうちいきはどいつの)

「イタリア社会共和国」(サロ政権)を樹立し、同地域はドイツの

(しはいかにはいる。いっぽう、なんぶのばどりおせいけんは10がつ13にちにどいつへ)

支配下に入る。一方、南部のバドリオ政権は10月13日にドイツへ

(せんせんふこくしたが、これはかたちだけのものであった。)

宣戦布告したが、これは形だけのものであった。

(にほんかいぐんはかずとにわたり、とおくどいつのせんりょうかにあるふらんすのきーるに)

日本海軍は数度に渡り、遠くドイツの占領下にあるフランスのキールに

(れんらくせんすいかんをおくっていたが、この3がつにいたりあかいぐんがどいつかいぐんとの)

連絡潜水艦を送っていたが、この3月にイタリア海軍がドイツ海軍との

(あいだでおおがたせんすいかんのたいよきょうていをむすんだあとに「こまんだんて・かっぺりーに」)

間で大型潜水艦の貸与協定を結んだ後に「コマンダンテ・カッペリーニ」

(など5せきのせんすいかんをにほんぐんせんりょうかのとうなんあじあにおくっている。しかし)

など5隻の潜水艦を日本軍占領下の東南アジアに送っている。しかし

(しょうなんとうちゃくちょくごの9がつ8にちにいたりあがれんごうこくぐんにこうふくしたため、ほかの)

昭南到着直後の9月8日にイタリアが連合国軍に降伏したため、他の

(せんすいかんとともにしんがぽーるでどいつかいぐんにせっしゅうされ「uit」とかいめいした)

潜水艦とともにシンガポールでドイツ海軍に接収され「UIT」と改名した

((なおどうかんすうせきは1945ねん5がつ8にちのどいつこうふくごはにほんかいぐんにせっしゅうされ、)

(なお同艦数隻は1945年5月8日のドイツ降伏後は日本海軍に接収され、

(いごうだいごひゃくよんせんすいかんとなった)。)

伊号第五百四潜水艦となった)。

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