第二次世界大戦16
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問題文
(なおせんいんらはにほんぐんにいちじこうりゅうされたが、いたりあしゃかいきょうわこくせいりつご、)
なお船員らは日本軍に一時拘留されたが、イタリア社会共和国成立後、
(さろせいけんについたものはそのまますうじくこくがわとしてじゅうじし、にほんぐんおよび)
サロ政権についた者はそのまま枢軸国側として従事し、日本軍および
(どいつぐんのしたでたいへいようおよびいんどようのけいびにあたった。しかし、)
ドイツ軍の下で太平洋およびインド洋の警備にあたった。しかし、
(いたりあそかいのあったてんしんこうなどでかつどうしていたいたりあかいぐんの)
イタリア租界のあった天津港などで活動していたイタリア海軍の
(かんせんのうち「かりてあ2」、「えるまんの・かるろっと」、「れぱんと」)
艦船のうち「カリテア2」、「エルマンノ・カルロット」、「レパント」
(が、にほんぐんやどいつぐんのしきかにはいるのをきょひしこうべこうやしゃんはいこうなどで)
が、日本軍やドイツ軍の指揮下に入るのを拒否し神戸港や上海港などで
(じちんし、「えりとれあ」がいんどようで「こまんだんて・かっぺりーに」を)
自沈し、「エリトレア」がインド洋で「コマンダンテ・カッペリーニ」を
(ごえいちゅうにとうぼうし、いぎりすぐんにこうふくしている。このとつぜんのじちんととうぼうは、)
護衛中に逃亡し、イギリス軍に降伏している。この突然の自沈と逃亡は、
(さろせいけんにつかなかったいたりあぐんしょうへいにたいするにほんぐんおよびせいふの)
サロ政権につかなかったイタリア軍将兵に対する日本軍および政府の
(かんじょうあっかにつながり、そのあとのいたりあぐんしょうへいの)
感情悪化につながり、その後のイタリア軍将兵の
(ほりょしゅうようじょでのかこくなたいぐうにつながった。)
捕虜収容所での過酷な待遇につながった。
(また、ふらんすのこうふくご、ぼうめいせいけん・じゆうふらんすをしきしていた)
また、フランスの降伏後、亡命政権・自由フランスを指揮していた
(しゃるる・ど・ごーるは、ヴぃしーせいけんがわにつかなかったじゆう)
シャルル・ド・ゴールは、ヴィシー政権側につかなかった自由
(ふらんすぐんをひきい、いぎりす、あめりかなどれんごうこくぐんときょうちょうしつつ、)
フランス軍を率い、イギリス、アメリカなど連合国軍と協調しつつ、
(あるじぇりあ、ちゅにじあなどのふらんすしょくみんちやふらんすほんごくで)
アルジェリア、チュニジアなどのフランス植民地やフランス本国で
(たいどくこうせんをしどうした。)
対独抗戦を指導した。
(たいせいようのたたかいのけっちゃく)
大西洋の戦いの決着
(どいつかいぐんのかーる・でーにっつせんすいかんたいしれいかんひきいるuぼーとは、)
ドイツ海軍のカール・デーニッツ潜水艦隊司令官率いるUボートは、
(いぎりすとあめりかをむすぶかいじょうゆそうもうのせつだんをねらい、きたたいせいようをちゅうしんに)
イギリスとアメリカを結ぶ海上輸送網の切断を狙い、北大西洋を中心に
(あめりか、かなだえんがんやかりぶかい、あふりかにしおよびひがしかいがん、いんどようや)
アメリカ、カナダ沿岸やカリブ海、アフリカ西および東海岸、インド洋や
(とうなんあじあにまでしゅつげきし、おおくのれんごうこくのかんせんをげきちん。そんしつがけんぞうすうを)
東南アジアにまで出撃し、多くの連合国の艦船を撃沈。損失が建造数を
(うわまわるおおきなきょういをあたえていた(たいせいようのたたかい)。1943ねんには、)
上回る大きな脅威を与えていた(大西洋の戦い)。1943年には、
(どいつぐんのたいちょうとれんごうぐんのこうせいはあきらかになっていたが、これはいちじき)
ドイツ軍の退潮と連合軍の攻勢は明らかになっていたが、これは一時期
(いぎりすのつぎせんのうりょくにおおきなだげきをあたえていたどいつぐんuぼーととの)
イギリスの継戦能力に大きな打撃を与えていたドイツ軍Uボートとの
(たたかいでもどうようであった。いぎりすぐんはあめりかからのごえいくうぼ、くちくかん、)
戦いでも同様であった。イギリス軍はアメリカからの護衛空母、駆逐艦、
(たいせんしょうかいきをれんどりーすでしえんをうけるとともに、せんすいかんたんちのうりょくで)
対潜哨戒機をレンドリースで支援を受けるとともに、潜水艦探知能力で
(いちじるしいぎじゅつしんかをとげ、uぼーととのたたかいのせんきょうをおおきくかえていた。)
著しい技術進化を遂げ、Uボートとの戦いの戦況を大きく変えていた。
(そして、1943ねんの3がつから5がつにかけてのたいせいようじょうでのたたかいが)
そして、1943年の3月から5月にかけての大西洋上での戦いが
(てんかんてんとなってuぼーとはおちぶれていった。)
転換点となってUボートは落ちぶれていった。
(しれいかんのでーにっつはこれまでのしょうりけいけんにもとづき、れんごうぐんゆそうせんだんに)
司令官のデーニッツはこれまでの勝利経験に基づき、連合軍輸送船団に
(たいしてぐんろうさくせんをめいじたが、たいせんのうりょくをきょうかしたれんごうぐんのごえいせんだんに)
対して群狼作戦を命じたが、対潜能力を強化した連合軍の護衛船団に
(はばまれそんがいをふやしていく、それでも4がつのhx234こうそくせんだんにたいする)
阻まれ損害を増やしていく、それでも4月のHX234高速船団に対する
(こうげきではゆそうせんげきちん5せきにたいしてuぼーとのそんしつは2せき、5がつはじめの)
攻撃では輸送船撃沈5隻に対してUボートの損失は2隻、5月初めの
(ons55せんだんにたいするこうげきでは12せきのせんかにたいしuぼーとのそんしつは7せきと、)
ONS55船団に対する攻撃では12隻の戦果に対しUボートの損失は7隻と、
(せんかとそんがいがはくちゅうしていたが、5がつ15にちからのsc130せんだんにたいする)
戦果と損害が伯仲していたが、5月15日からのSC130船団に対する
(こうげきではうるふぱっく4こぐんがぜんりょくでせんだんをこうげきしたが、ついにせんかを)
攻撃ではウルフパック4個群が全力で船団を攻撃したが、ついに戦果を
(あげることができず、ぎゃくにuぼーと5せきがげきちんされた。でーにっつは)
挙げることができず、逆にUボート5隻が撃沈された。デーニッツは
(このざんぱいで、ぐんろうさくせんをあきらめてuぼーとをせんだんこうろからてったいさせ、)
この惨敗で、群狼作戦を諦めてUボートを船団航路から撤退させ、
(れんごうぐんはついにたいせいようじょうでuぼーとをせいすることにせいこうした。このあと)
連合軍はついに大西洋上でUボートを征することに成功した。この後
(uぼーとはたんかんでせんだんをこうげきしごえいかんたいのぶんだんをねらったが、このしんせんぽう)
Uボートは単艦で船団を攻撃し護衛艦隊の分断を狙ったが、この新戦法
(でせんかがかいふくすることはなく、そんがいがつみかさなっていくだけであった。)
で戦果が回復することはなく、損害が積み重なっていくだけであった。
(1943ねんはuぼーとのてんきとなり、1ねんかんで244せきのuぼーとがれんごうぐんに)
1943年はUボートの転機となり、1年間で244隻のUボートが連合軍に
(よってげきちんされたが、これは1942ねんのそんしつのやく3ばいであり、これいこうも)
よって撃沈されたが、これは1942年の損失の約3倍であり、これ以降も
(そんしつはかそくどてきにぞうかしていった。)
損失は加速度的に増加していった。
(どいつほんどじょうくうでのたたかい)
ドイツ本土上空での戦い
(たいせいようのたたかいでどいつかいぐんのはいしょくがこくなるなか、どいつほんどじょうくうでは)
大西洋の戦いでドイツ海軍の敗色が濃くなる中、ドイツ本土上空では
(れんごうぐんくうぐんばくげききとどいつくうぐんのあいだでしとうがくりひろげられていた)
連合軍空軍爆撃機とドイツ空軍の間で死闘が繰り広げられていた
((どいつほんどくうしゅう)。どいつほんどがれんごうぐんくうぐんにばくげきされたのはいがいにも)
(ドイツ本土空襲)。ドイツ本土が連合軍空軍に爆撃されたのは意外にも
(はやいじきで、ばとる・おぶ・ぶりてんまえの1940ねん5がつには、いぎりすくうぐん)
早い時期で、バトル・オブ・ブリテン前の1940年5月には、イギリス空軍
(のばくげききがぶれーめんをばくげきしている。どいつぐんがまだこうせいちゅうであった)
の爆撃機がブレーメンを爆撃している。ドイツ軍がまだ攻勢中であった
(1942ねん5がつにはいぎりすくうぐんたんどくで、しじょうはつの1,000きいじょう)
1942年5月にはイギリス空軍単独で、史上初の1,000機以上
((1,047き)のこうくうきによるけるんばくげきがおこなわれた。どいつくうぐんせんとうきの)
(1,047機)の航空機によるケルン爆撃が行われた。ドイツ空軍戦闘機の
(げいげきによるそんしつはすくなくけるんじょうくうでのそんしつ22きのうち4きに)
迎撃による損失は少なくケルン上空での損失22機のうち4機に
(すぎなかった(ほか16きはこうしゃほう、2きはくうちゅうしょうとつ)。)
過ぎなかった(他16機は高射砲、2機は空中衝突)。
(それでも、どいつくうぐんはなおしつてきりょうてきゆういせいをたもっており、いぎりす)
それでも、ドイツ空軍はなお質的量的優位性を保っており、イギリス
(くうぐんたんどくのくうしゅうではどいつのせいさんりょくにおおきなだめーじをあたえることが)
空軍単独の空襲ではドイツの生産力に大きなダメージを与えることが
(できなかった。しかし、どいつほんどばくげきにあめりかぐんがくわわるとようそうが)
できなかった。しかし、ドイツ本土爆撃にアメリカ軍が加わると様相が
(いっぺんした。あめりかぐんはb-17やb-24といったおおがたばくげききをたいりょうに)
一変した。アメリカ軍はB-17やB-24といった大型爆撃機を大量に
(とうにゅうして、どいつのせいさんしせつにかくじつにそんがいをあたえていた。1943ねん7がつから)
投入して、ドイツの生産施設に確実に損害を与えていた。1943年7月から
(8がつにかけておこなわれたはんぶるくくうしゅうはせいしょのそどむとごもらの)
8月にかけて行われたハンブルク空襲は聖書のソドムとゴモラの
(こじにちなみごもらさくせんとなづけられて、1にちに4かいものくうしゅうが)
故事にちなみゴモラ作戦と名付けられて、1日に4回もの空襲が
(おこなわれたり、あらゆるしゅるいのばくだんがとうかされたりととしにたいする)
行われたり、あらゆる種類の爆弾が投下されたりと都市に対する
(せんりゃくばくげきのじっけんのようなものがおこなわれ、はっせいしたかさいせんぷうで)
戦略爆撃の実験のようなものが行われ、発生した火災旋風で
(30,000にん~50,000にんのみんかんじんがしょうしし、)
30,000人~50,000人の民間人が焼死し、
(100まんにんがほーむれすとなった。あまりのだいそんがいに、どいつくうぐんさんぼうちょう)
100万人がホームレスとなった。あまりの大損害に、ドイツ空軍参謀長
(はんす・いぇしょんねくじょうきゅうたいしょうがせきにんをかんじてじけつしたほどで)
ハンス・イェションネク上級大将が責任を感じて自決したほどで
(あったが、げーりんぐはいぇしょんねくのしがどいつくうぐんのはいぼくが)
あったが、ゲーリングはイェションネクの死がドイツ空軍の敗北が
(げんいんであることをいんぺいするため、しぼうしんだんしょのしぼうびとしいんをかいざんさせた。)
原因であることを隠蔽するため、死亡診断書の死亡日と死因を改ざんさせた。
(くうしゅうによるひがいかくだいのため、どいつくうぐんはほんどぼうくうたいせいのきょうかに)
空襲による被害拡大のため、ドイツ空軍は本土防空体制の強化に
(せまられて、とうぶせんせんからせんとうきをほんどぼうえいにふりむけ、せんとうきの70%を)
迫られて、東部戦線から戦闘機を本土防衛に振り向け、戦闘機の70%を
(せいぶせんせんにとうにゅうされることとなったが、そのぶん、とうぶせんせんのくうぐんりょくは)
西部戦線に投入されることとなったが、その分、東部戦線の空軍力は
(ていかし、それんぐんにせいくうけんをあけわたすこととなった。また、せいさんりょくを)
低下し、ソ連軍に制空権を明け渡すこととなった。また、生産力を
(こうしゃほうぞうさんにふりむけ、じつに50,000もんのあらゆるこうけいのこうしゃほうで)
高射砲増産に振り向け、実に50,000門のあらゆる口径の高射砲で
(どいつほんどをはりねずみのようにぶそうした。なりふりかまわないどいつぐんの)
ドイツ本土をハリネズミの様に武装した。なりふり構わないドイツ軍の
(ぼうくうりょくのきょうかにたいして、れんごうぐんはせんとうきのこうぞくきょりのふそくから、)
防空力の強化に対して、連合軍は戦闘機の航続距離の不足から、
(ばくげききたいをじゅうぶんにごえいできず、ごえいのないばくげききたいがどいつぐんせんとうきに)
爆撃機隊を十分に護衛できず、護衛のない爆撃機隊がドイツ軍戦闘機に
(つうげきをあびることもめずらしくなかった。1943ねん8がつ17にち、あめりか)
痛撃を浴びることも珍しくなかった。1943年8月17日、アメリカ
(だい8くうぐんの376きのb-17は、しゅヴぁいんふるとにある)
第8空軍の376機のB-17は、シュヴァインフルトにある
(ぼーるべありんぐこうじょうとれーげんすぶるくのこうくうきこうじょうをばくげきするため)
ボールベアリング工場とレーゲンスブルクの航空機工場を爆撃するため
(どいつほんどじょうくうにしんにゅうしたが、そこに300きのどいつくうぐんせんとうきが)
ドイツ本土上空に侵入したが、そこに300機のドイツ空軍戦闘機が
(おそいかかり、25きをうしないながら、ばくげきたいの19%にあたる60きをげきついし、)
襲い掛かり、25機を失いながら、爆撃隊の19%にあたる60機を撃墜し、
(だい8くうぐんにだいだげきをあたえた。それでもだい8くうぐんは1943ねん10がつ14にちに、)
第8空軍に大打撃を与えた。それでも第8空軍は1943年10月14日に、
(しゅヴぁいんふるとのぼーるべありんぐこうじょうを291きのb-17でさいこうげき)
シュヴァインフルトのボールベアリング工場を291機のB-17で再攻撃
(したが、それをうわまわるかずのどいつくうぐんせんとうきがおそいかかり、こうしゃほうに)
したが、それを上回る数のドイツ空軍戦闘機が襲い掛かり、高射砲に
(よるそんがいをくわえて1にちで60きのb-17をうしなうというざんぱいをきっした。)
よる損害を加えて1日で60機のB-17を失うという惨敗を喫した。
(この2かいのだいそんがいによって、だい8くうぐんはいちじてきにどいつほんどばくげきを)
この2回の大損害によって、第8空軍は一時的にドイツ本土爆撃を
(みあわせなければならなくなった。)
見合わせなければならなくなった。