第二次世界大戦18

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(はげしいどいつくうぐんのげいげきでおおきなそんがいをこうむったれんごうぐんではあったが、)

激しいドイツ空軍の迎撃で大きな損害を被った連合軍ではあったが、

(れいせいなぶんせきですでにどいつほんどじょうくうでのしょうりをかくしんしていた。あめりかぐんは)

冷静な分析で既にドイツ本土上空での勝利を確信していた。アメリカ軍は

(このころにb-17やb-24をはるかにりょうがするせいのうをほこる)

この頃にB-17やB-24を遥かに凌駕する性能を誇る

(せんりゃくばくげききb-29のかいはつをすすめていたが、そのしきをとっていた)

戦略爆撃機B-29の開発を進めていたが、その指揮を執っていた

(あめりかりくぐんこうくうぐんしれいかんへんりー・はっぷ・あーのるどたいしょうは)

アメリカ陸軍航空軍司令官ヘンリー・ハップ・アーノルド大将は

(「われわれはb-29のばくげきもくひょうをどいつとはかんがえなかった。b-29の)

「我々はB-29の爆撃目標をドイツとは考えなかった。B-29の

(さくせんじゅんびがととのうまでに、b-17やb-24が、どいつとどいつのせんりょうちいきの)

作戦準備が整うまでに、B-17やB-24が、ドイツとドイツの占領地域の

(こうぎょうりょく、つうしんもう、そのほかのぐんじもくひょうのたいはんを、すでにはかいして)

工業力、通信網、そのほかの軍事目標の大半を、すでに破壊して

(しまっている」とかんがえて、b-29をにほんにたいしてしようすることをけってい)

しまっている」と考えて、B-29を日本に対して使用することを決定

(している。このとし、れんごうこくのしゅのうおよびかくりょうは1がつ14にちかさぶらんかかいだん、)

している。この年、連合国の首脳および閣僚は1月14日カサブランカ会談、

(8がつ14にち-24にちけべっくかいだん、10がつ19にち-30にちだい3かい)

8月14日 - 24日ケベック会談、10月19日 - 30日第3回

(もすくわかいだん(えいごばん)、11がつ22にち-26にちかいろかいだん、11がつ)

モスクワ会談(英語版)、11月22日 - 26日カイロ会談、11月

(28にち-12がつ1にちてへらんかいだんなどあいついでかいぎをいった。こんごのせんそうの)

28日 -12月1日テヘラン会談など相次いで会議を行った。今後の戦争の

(ほうしん、すうじくくにへのむじょうけんこうふくようきゅう、せんごのすうじくくにのしょりがはなしあわれた。)

方針、枢軸国への無条件降伏要求、戦後の枢軸国の処理が話し合われた。

(しかし、れんごうくにどうしのしわくのちがいもしだいにひょうめんかすることになった。)

しかし、連合国同士の思惑の違いも次第に表面化することになった。

(1944ねんのはいると、はしからみてもひとらーのたいちょうはわるそうにみえた。)

1944年の入ると、端から見てもヒトラーの体調は悪そうに見えた。

(せをかがめあしをひきずってあるき、てあしはふるえ、しんちょう165cmにたいしたいじゅうは)

背を屈め足を引きずって歩き、手足は震え、身長165cmに対し体重は

(びしょくときょくどのうんどうぶそくで103きろにたっしていた。それでもしゅじいの)

美食と極度の運動不足で103㎏に達していた。それでも主治医の

(ておどーる・もれるはひとらーはけんこうたいだといいはり、たいりょうのやくひんを)

テオドール・モレルはヒトラーは健康体だと言い張り、大量の薬品を

(しょほうしていたが、そのなかにはめたんふぇたみんやあんふぇたみん)

処方していたが、そのなかにはメタンフェタミンやアンフェタミン

など

(といったかくせいざいもふくまれていた。ひとらーのどくぜんてきなせんそうしどうは)

といったかくせい剤も含まれていた。ヒトラーの独善的な戦争指導は

(ますますひどくなっていたが、えーりっひ・ふぉん・まんしゅたいんや)

ますます酷くなっていたが、エーリッヒ・フォン・マンシュタインや

(げると・ふぉん・るんとしゅてっとといったこくぼうぐんのえりーとぐんじんも)

ゲルト・フォン・ルントシュテットといった国防軍のエリート軍人も

(ひとらーのがんりきにおびえ、そのせんそうしどうにしたがっていた。とうぶせんせんに)

ヒトラーの眼力に怯え、その戦争指導に従っていた。東部戦線に

(おいては、ぜんねんにそれんぐんがいすくらさくせんによってぶぶんてきにほういもうを)

おいては、前年にソ連軍がイスクラ作戦によって部分的に包囲網を

(うちやぶっていたれにんぐらーどほうめんでれにんぐらーど・のヴごろど)

打ち破っていたレニングラード方面でレニングラード・ノヴゴロド

(こうせい(えいごばん)がかいしされた。1がつ15にちにそれんぐんはしゅりっせりぶるくの)

攻勢(英語版)が開始された。1月15日にソ連軍はシュリッセリブルクの

(だっかんにせいこうし、どいつぐんをらどがみずうみなんがんからたたきだして、ついに)

奪還に成功し、ドイツ軍をラドガ湖南岸から叩き出して、ついに

(れにんぐらーどは1941ねん9がついこうやく900にちぶりにかいほうされた。しかし、)

レニングラードは1941年9月以降約900日ぶりに解放された。しかし、

(ほういかのきがやえきびょうまたどいつぐんのぎゃくさつによりしみんやく100まんにんが)

包囲下の飢餓や疫病またドイツ軍の虐殺により市民約100万人が

(ぎせいとなった。だいそんがいをこうむったほっぽうぐんしゅうだんしれいかんげおるく・ふぉん・)

犠牲となった。大損害を被った北方軍集団司令官ゲオルク・フォン・

(きゅひらーげんすいは、ぐんのてったいをしんげんしたが、げきどしたひとらーから)

キュヒラー元帥は、軍の撤退を進言したが、激怒したヒトラーから

(ぐんしれいかんをこうてつされた。)

軍司令官を更迭された。

(すたーりんぐらーどでだい6ぐんがせんめつされたなんぶせんせんでも、どいつぐんは)

スターリングラードで第6軍が殲滅された南部戦線でも、ドイツ軍は

(ひきつづきそれんぐんのはげしいこうせいにさらされていた。どいつみなみかたぐんしゅうだんの)

引き続きソ連軍の激しい攻勢に晒されていた。ドイツ南方軍集団の

(だい8ぐんのつきだした2こぐんだん56,000にんがそれんぐんにほそくされじゅうほういかに)

第8軍の突出した2個軍団56,000人がソ連軍に捕捉され重包囲下に

(おかれてしまった(こるすんほういせん)。すたーりんはすたーりんぐらーど)

置かれてしまった(コルスン包囲戦)。スターリンはスターリングラード

(のさいげんをねらってほういした2こぐんだんのせんめつをめいじ、いっぽうでなんぽうぐんしゅうだん)

の再現を狙って包囲した2個軍団の殲滅を命じ、一方で南方軍集団

(しれいかんまんしゅたいんはきゅうしゅつすべくきこうぶたいをむかわせたが、)

司令官マンシュタインは救出すべく機甲部隊を向かわせたが、

(てんこうふりょうとでいねいによってしんげきははかどらなかった。まんしゅたいんはきゅうえんが)

天候不良と泥濘によって進撃は捗らなかった。マンシュタインは救援が

(とうちゃくするまえに2こぐんだんがせんめつされるのはじかんのもんだいとかんがえ、ひとらーに)

到着する前に2個軍団が殲滅されるのは時間の問題と考え、ヒトラーに

(ておくれになるまえにじりきだっしゅつをめいじるようしんげんしたが、ひとらーは)

手遅れになる前に自力脱出を命じるよう進言したが、ヒトラーは

(「なちすせいしんにもえ、ひっしょうのしんねんをほじしていればじきゅうできる」として、)

「ナチス精神に燃え、必勝の信念を保持していれば持久できる」として、

(じきゅうせんのけいぞくと、きゅうえんぐんによるそれんぐんぶたいのげきめつをめいじたが、2こぐんだん)

持久戦の継続と、救援軍によるソ連軍部隊の撃滅を命じたが、2個軍団

(からは「ほうかいすんぜん」とのほうこくもよせられており、ひとらーはしぶしぶ)

からは「崩壊寸前」との報告も寄せられており、ヒトラーは渋々

(まんしゅたいんのしんげんをりょうしょうした。ほういちくないにかっそうろをきゅうぞうし、)

マンシュタインの進言を了承した。包囲地区内に滑走路を急造し、

(くうゆでしょくりょうのほきゅうをつづけててったいじゅんびをすすめ、2がつ16にちに2こぐんだんはすべての)

空輸で食料の補給を続けて撤退準備を進め、2月16日に2個軍団は全ての

(じゅうそうびをほうきし、ほぼとしゅくうけんでだっしゅつをかいしした。どいつぐんにとって)

重装備を放棄し、ほぼ徒手空拳で脱出を開始した。ドイツ軍にとって

(こううんであったのは、なぜかそれんぐんのはんのうがにぶかったことで、ついげきも)

幸運であったのは、なぜかソ連軍の反応が鈍かったことで、追撃も

(ふてっていであった。それでもどいつぐんだい11ぐんだん(えいごばん)ちょうヴぃるへるむ・)

不徹底であった。それでもドイツ軍第11軍団(英語版)長ヴィルヘルム・

(しゅてんまーまん(えいごばん)ちゅうじょうが、てったいちゅうにのっていたにばしゃに)

シュテンマーマン(英語版)中将が、撤退中に乗っていた荷馬車に

(たいせんしゃほうがちょくげきしてせんしし、だっしゅつにせいこうしたしょうへいも)

対戦車砲が直撃して戦死し、脱出に成功した将兵も

(30,000にんにすぎなかった。)

30,000人に過ぎなかった。

(だい6ぐんにつづき、だい8ぐんもげきはしたじゅーこふはいきおいにのって、そのまま)

第6軍に続き、第8軍も撃破したジューコフは勢いに乗って、そのまま

(うくらいなのだっかんをめざした。いっぽうひとらーも、あめりか、いぎりすに)

ウクライナの奪還を目指した。一方ヒトラーも、アメリカ、イギリスに

(よるふらんすへのしんこうがけねんされるなか、よーろっぱのこくそうちたいである)

よるフランスへの侵攻が懸念される中、ヨーロッパの穀倉地帯である

(うくらいなをうしなうわけにはいかずに、ししゅするつもりであった。そのころ、)

ウクライナを失うわけにはいかずに、死守するつもりであった。その頃、

(はいせんつづきでどうめいこくのどいつにたいするしんらいがゆらいでおり、はんがりー)

敗戦続きで同盟国のドイツに対する信頼が揺らいでおり、ハンガリー

(ではしゅしょうかーろい・みくろーしゅ(えいごばん)がれんごうぐんとのたんどくこうわを)

では首相カーロイ・ミクローシュ(英語版)が連合軍との単独講和を

(かくさくしていた。ひとらーはそのじょうほうをさっちすると、せっしょう(えいごばん))

画策していた。ヒトラーはその情報を察知すると、摂政(英語版)

(ほるてぃ・みくろーしゅをなんきんし、はんがりーをむけつせんりょうする)

ホルティ・ミクローシュを軟禁し、ハンガリーを無血占領する

(まるがれーてさくせんをかんこう、さいわいにこのさくせんはせいこうし、こうこのうれいを)

マルガレーテ作戦を敢行、幸いにこの作戦は成功し、後顧の憂いを

(なくすとまんしゅたいんにうくらいなのししゅをめいじた。りょうぐんのせんりょくは)

無くすとマンシュタインにウクライナの死守を命じた。両軍の戦力は

(どいつぐんが104こしだん90まんにんにせんしゃ・じそうほう2,200りょうにたいし、それんぐんは)

ドイツ軍が104個師団90万人に戦車・自走砲2,200輌に対し、ソ連軍は

(170こしだん120まんにんにせんしゃ・じそうほう2,000りょうと、それんぐんはんこういこうでは)

170個師団120万人に戦車・自走砲2,000輌と、ソ連軍反攻以降では

(めずらしくせんりょくがきっこうしていたが、れいねんよりはやくおとずれたはるのため、)

珍しく戦力が拮抗していたが、例年より早く訪れた春のため、

(うくらいなのだいちはぬかるんでかわがぞうすいしどいつぐんがいどうにくろうするなか、)

ウクライナの大地はぬかるんで川が増水しドイツ軍が移動に苦労する中、

(それんぐんはあめりかかられんどりーすされたあくろにつよいとらっくを)

ソ連軍はアメリカからレンドリースされた悪路に強いトラックを

(かつようして、どいつぐんをきどうりょくであっとうした。あっかするせんきょうに)

活用して、ドイツ軍を機動力で圧倒した。悪化する戦況に

(まんしゅたいんはひとらーにぐんのてったいをだしんすることがふえ、そのたびに)

マンシュタインはヒトラーに軍の撤退を打診することが増え、その度に

(ひとらーは「きかんは、わたしがあたえたぶたいをあしでけころがしてたいきゃくをようきゅうする)

ヒトラーは「貴官は、私が与えた部隊を足で蹴ころがして退却を要求する

(だけで、いちどもじきゅうしようとしないではないか」としっせきした。)

だけで、一度も持久しようとしないではないか」と叱責した。

(ひとらーはさきのこるすんほういせんからじぶんにさからいつづけるまんしゅたいんに)

ヒトラーは先のコルスン包囲戦から自分に逆らい続けるマンシュタインに

(ふしんかんをつのらせており、3がつ30にちにきしてつじゅうじしょうをじゅよするとどうじに)

不信感を募らせており、3月30日に騎士鉄十字章を授与すると同時に

(ぐんしれいかんをかいにんした。しかし、ぐんしれいかんのくびをすげかえたところで)

軍司令官を解任した。しかし、軍司令官の首を挿げ替えたところで

(それんぐんのしんこうがとまることはなく、それんぐんは4がつにはこっかいのせいかいけんを)

ソ連軍の侵攻が止まることはなく、ソ連軍は4月には黒海の制海権を

(さゆうするようしょうくりみあはんとうにたっし、くりみあのたたかいがはじまった。)

左右する要衝クリミア半島に達し、クリミアの戦いが始まった。

(どいつぐんだい17ぐんだんとるーまにあぐんがむかえうったが、それんぐんのいきおいのまえに)

ドイツ軍第17軍団とルーマニア軍が迎え撃ったが、ソ連軍の勢いの前に

(せヴぁすとぽりもかんらくびょうよみとなったため、ししゅめいれいをだしていた)

セヴァストポリも陥落秒読みとなったため、死守命令を出していた

(ひとらーもしぶしぶてったいめいれいをだした。どいつかいぐんがかんせんをかきあつめて)

ヒトラーも渋々撤退命令を出した。ドイツ海軍が艦船をかき集めて

(へいしやじゅうみん37,500にんをだっしゅつさせたが、190せきのかんせんをうしない、)

兵士や住民37,500人を脱出させたが、190隻の艦船を失い、

(だっしゅつできなかった27,000にんはそのままのこされてそれんぐんにじゅうりんされひとり)

脱出できなかった27,000人はそのまま残されてソ連軍に蹂躙され一人

(としていきてかえれなかった。そしてくりみあはんとうしっかんによりどいつぐんは)

として生きて帰れなかった。そしてクリミア半島失陥によりドイツ軍は

(こっかいのせいかいけんをそれんぐんにうばわれた。)

黒海の制海権をソ連軍に奪われた。

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