第二次世界大戦19

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(のるまんでぃーにれんごうぐんがじょうりくすると、それんぐんはそれにこおうして)

ノルマンディーに連合軍が上陸すると、ソ連軍はそれに呼応して

(これまででさいだいきゅうのこうせいをいった。それんぐんはさくせんめいをばぐらちおん)

これまでで最大級の攻勢を行った。ソ連軍は作戦名をバグラチオン

(さくせんとしょうし、こうげきかいしびをばるばろっささくせんとどうじつの6がつ22にちにせってい、)

作戦と称し、攻撃開始日をバルバロッサ作戦と同日の6月22日に設定、

(じゅーこふはこのこうせいのため、167まんにんのしょうへい、)

ジューコフはこの攻勢のため、167万人の将兵、

(40.870もんのかほう、5,818りょうのせんしゃとじそうほう、)

40.870門の火砲、5,818輌の戦車と自走砲、

(6,792きのこうくうきをべらるーしからばるとかいえんがんのやく1000きろに)

6,792機の航空機をベラルーシからバルト海沿岸の約1000キロに

(およぶせんせんにはいちした。どいつぐんはこれまでとどうように、ひとらーのししゅ)

及ぶ戦線に配置した。ドイツ軍はこれまでと同様に、ヒトラーの死守

(めいれいにしばられとしようさいにこちゃくしてじゅうなんせいをかいていたうえ、それんぐんが)

命令に縛られ都市要塞に固着して柔軟性を欠いていたうえ、ソ連軍が

(こうせいまえににゅうねんにいったぱるちざんによるはかいこうさくでれんらくもうやこうつうろを)

攻勢前に入念に行ったパルチザンによる破壊工作で連絡網や交通路を

(ずたずたにされていた。どいつぐんがこんらんするなか、せいかくむひなほうげきと)

ズタズタにされていた。ドイツ軍が混乱するなか、正確無比な砲撃と

(はげしいばくげきののち、それんぐんだいぶたいがどいつぐんじんちにさっとうしてきた。)

激しい爆撃ののち、ソ連軍大部隊がドイツ軍陣地に殺到してきた。

(どいつぐんはひとらーのししゅめいれいをちゅうじつにまもってとしをようさいかしていたが、)

ドイツ軍はヒトラーの死守命令を忠実に守って都市を要塞化していたが、

(それはあっとうてきなきどうりょくをほこるそれんぐんにほういされるだけのけっかにおわり、)

それは圧倒的な機動力を誇るソ連軍に包囲されるだけの結果に終わり、

(ぜつぼうてきなたたかいのなかでおおくのどいつへいはせんししいきのこったへいしはこうふくした。)

絶望的な戦いの中で多くのドイツ兵は戦死し生き残った兵士は降伏した。

(6がつ29にちにはそれんぐんはばるばろっささくせんでせんりょうされたみんすくにとうたつし、)

6月29日にはソ連軍はバルバロッサ作戦で占領されたミンスクに到達し、

(どいつだい4ぐん105,000にんをたちまちほういしてしまった。げきせんのすえ、)

ドイツ第4軍105,000人をたちまち包囲してしまった。激戦の末、

(7がつ4にちにみんすくはだっかんされ、どいつだい4ぐんは5まんにんがせんしし)

7月4日にミンスクは奪還され、ドイツ第4軍は5万人が戦死し

(57,600にんがほりょとなった。それんぐんはわずか5しゅうかんで)

57,600人が捕虜となった。ソ連軍はわずか5週間で

(700kmしんげきし、もはやぽーらんどのしゅとわるしゃわもめのまえ、)

700km進撃し、もはやポーランドの首都ワルシャワも目の前、

(べるりんすらこのさくせんでぜんしんしたきょりないにあるところまでしんげきした。)

ベルリンすらこの作戦で前進した距離内にあるところまで進撃した。

など

(さらにどいつちゅうおうぐんしゅうだん38こしだんのうち26こしだんをかいめつさせて、)

さらにドイツ中央軍集団38個師団のうち26個師団を壊滅させて、

(もじどおりちゅうおうぐんしゅうだんをしょうめつさせてしまった。どいつぐんはこのたたかいで)

文字通り中央軍集団を消滅させてしまった。ドイツ軍はこの戦いで

(ぜんたいでししょうしゃ40まんにん、ほりょ10まんにんとくうぜんぜつごのだいそんがいをこうむり、)

全体で死傷者40万人、捕虜10万人と空前絶後の大損害を被り、

(どくそせんのすうせいはかんぜんにけっしてしまった。だいしょうりをおさめたそれんぐんは)

独ソ戦の趨勢は完全に決してしまった。大勝利を収めたソ連軍は

(みんすくでとらえたほりょをもすくわまでいそうし、もすくわでのどいつじん)

ミンスクで捕らえた捕虜をモスクワまで移送し、モスクワでのドイツ人

(ほりょのこうしんをさせてこくみんのせんいをあおった。ひきまわされた5まんにんの)

捕虜の行進をさせて国民の戦意を煽った。引き回された5万人の

(どいつぐんほりょのなかには19にんのしょうぐんもふくまれていた。)

ドイツ軍捕虜のなかには19人の将軍も含まれていた。

(のるまんでぃーじょうりくさくせん)

ノルマンディー上陸作戦

(どいつぐんにしんこうされたそれんのすたーりんは、るーずべるととちゃーちるに)

ドイツ軍に侵攻されたソ連のスターリンは、ルーズベルトとチャーチルに

(たいして、かきゅうてきすみやかににしよーろっぱにしんこうしてだい2せんせんをこうちくし、)

対して、可及的速やかに西ヨーロッパに進攻して第2戦線を構築し、

(どいつぐんをとうざいからきょうげきするようにあつりょくをかけた。1942ねん5がつ29にち、)

ドイツ軍を東西から挟撃するように圧力をかけた。1942年5月29日、

(それんのヴゃちぇすらふ・もろとふがいしょうがるーずべるとのまねきであめりかを)

ソ連のヴャチェスラフ・モロトフ外相がルーズベルトの招きでアメリカを

(ほうもんし、るーずべるとやそのこもんやぐんのこうかんときょうぎして、1942ねんちゅうに)

訪問し、ルーズベルトやその顧問や軍の高官と協議して、1942年中に

(よーろっぱにだい2せんせんをそうせつするというきんきゅうかだいへのりかいとれんどりーす)

ヨーロッパに第2戦線を創設するという緊急課題への理解とレンドリース

(のぞうかとじんそくかのやくそくをとりつけた。このけっていをうけて、あめりかぐんでは)

の増加と迅速化の約束を取り付けた。この決定を受けて、アメリカ軍では

(らうんどあっぷさくせん(えいごばん)やすれつじはんまーさくせん(えいごばん)などの)

ラウンドアップ作戦(英語版)やスレツジハンマー作戦(英語版)などの

(ふらんすしんこうさくせんがさくていされたが、ちゃーちるが、ふらんすへのきしゅうさくせん)

フランス進攻作戦が策定されたが、チャーチルが、フランスへの奇襲作戦

(でぃえっぷのたたかいのざんぱいでのにがいけいけんもあって、いきなりふらんすに)

ディエップの戦いの惨敗での苦い経験もあって、いきなりフランスに

(しんこうするよりは、きたあふりかせんせんでせんとうけいけんをじゅうぶんにつんだのちに)

進攻するよりは、北アフリカ戦線で戦闘経験を十分に積んだのちに

(ふらんすにしんこうすべきとしゅちょうしたことや、あめりかぐんないでも、たいへいようで)

フランスに進攻すべきと主張したことや、アメリカ軍内でも、太平洋で

(はちくのしんげきをつづけるにほんぐんへのはんげきをゆうせんすべきとするあめりかりくぐん)

破竹の進撃を続ける日本軍への反撃を優先すべきとするアメリカ陸軍

(さんぼうそうちょうじょーじ・まーしゃるのしんげんなどもあって、ふらんすでの)

参謀総長ジョージ・マーシャルの進言等もあって、フランスでの

(だい2せんせんこうちくはさきおくりされた。けっきょく、だい2せんせんこうちくのかくやくは)

第2戦線構築は先送りされた。結局、第2戦線構築の確約は

(1943ねん11がつのてへらんかいだんまでずれこむこととなり、そのかいだんで)

1943年11月のテヘラン会談までずれ込むこととなり、その会談で

(るーずべるととちゃーちるは1944ねんはるのふらんすへのしんこうをやくそくし、)

ルーズベルトとチャーチルは1944年春のフランスへの進攻を約束し、

(すたーりんにはしょうらいてきなたいにちさんせんをやくそくさせた。)

スターリンには将来的な対日参戦を約束させた。

(このふらんすしんこうさくせんは、れんごうこくえんせいぐんさいこうしれいかんににんめいされた)

このフランス進攻作戦は、連合国遠征軍最高司令官に任命された

(ばかりの、あめりかりくぐんのどわいと・あいぜんはわーげんすいにたくされた。)

ばかりの、アメリカ陸軍のドワイト・アイゼンハワー元帥に託された。

(このしじょうさいだいのさくせんはあいぜんはわーとそのばくりょうがしんけつをそそいで)

この史上最大の作戦はアイゼンハワーとその幕僚が心血を注いで

(はんとしかんでけいかくをつくりあげ、じゅんびをすすめた。そしてあいぜんはわーの)

半年間で計画を作り上げ、準備を進めた。そしてアイゼンハワーの

(けつだんで、1944ねん6がつ6にちにきたふらんす・のるまんでぃーちほうに、)

決断で、1944年6月6日に北フランス・ノルマンディー地方に、

(やく17まん5000にんのしょうへい、6,000いじょうのかんてい、のべ12,000きが)

約17万5000人の将兵、6,000以上の艦艇、延べ12,000機が

(さっとうした。これは、せいぶせんせんにおけるれんごうぐんのはんこうさくせんとなる)

殺到した。これは、西部戦線における連合軍の反攻作戦となる

(おーヴぁーろーどさくせん(のるまんでぃーじょうりくさくせん)であったが、)

オーヴァーロード作戦(ノルマンディー上陸作戦)であったが、

(どいつぐんがわはじょうりくちてんをよみちがえていたことや、さくせんのふてっていが)

ドイツ軍側は上陸地点を読み違えていたことや、作戦の不徹底が

(あったうえ、じょうりくとうじつにはしれいかんえるヴぃん・ろんめるげんすいがきゅうかで)

あったうえ、上陸当日には司令官エルヴィン・ロンメル元帥が休暇で

(どいつにきこくしているなどきんちょうかんがけつらくしており、かんぜんなきしゅうに)

ドイツに帰国しているなど緊張感が欠落しており、完全な奇襲に

(なってしまったことによって、れんごうぐんにいいとじょうりくをゆるすことと)

なってしまったことによって、連合軍に易々と上陸を許すことと

(なった。きしゅうされたどいつぐんはだいこんらんして、おまは・びーちでのげきれつな)

なった。奇襲されたドイツ軍は大混乱して、オマハ・ビーチでの激烈な

(ていこういがいはひじょうにもろくはいたいし、れんごうぐんのそんがいもよそうをはるかにしたまわる)

抵抗以外は非常に脆く敗退し、連合軍の損害も予想をはるかに下回る

(けいびなものであった。れんごうぐんしょうへいはもろかったどいつがわのぼうびをみて、)

軽微なものであった。連合軍将兵は脆かったドイツ側の防備を見て、

(けんろうをほこりながらいすらえるのたみがつのぶえをふいただけでほうかいしたと)

堅牢を誇りながらイスラエルの民が角笛を吹いただけで崩壊したと

(いわれるえりこのかべをほうふつしたという。せんとうやばくげきにまきこまれて、)

言われるエリコの壁を彷彿したという。戦闘や爆撃に巻き込まれて、

(のるまんでぃーざいじゅうのたすうのみんかんじんがししょうし、じょせいのせいてきひがいも)

ノルマンディー在住の多数の民間人が死傷し、女性の性的被害も

(あるなど、このひもっともぎせいをこうむったのはふらんすこくみんとなったが、)

あるなど、この日もっとも犠牲を被ったのはフランス国民となったが、

(1940ねん6がつのだんけるくてったいいらいやく4ねんぶりにふたたびせいぶせんせんがこうちくされた。)

1940年6月のダンケルク撤退以来約4年ぶりに再び西部戦線が構築された。

(れんごうぐんのふらんすじょうりくをゆるすなどはいぼくをかさねるどいつでは、ぐんぶの)

連合軍のフランス上陸を許すなど敗北を重ねるドイツでは、軍部の

(しょうこうのいちぶに、ひとらーをあんさつしれんごうぐんとのこうわをたくらむこえがつよまり)

将校の一部に、ヒトラーを暗殺し連合軍との講和を企む声が強まり

(7がつ20にち、こくないよびぐんしれいぶさんぼうはくしゃくくらうす・ふぉん・)

7月20日、国内予備軍司令部参謀伯爵クラウス・フォン・

(しゅたうふぇんべるくたいさにより、ひとらーあんさつけいかくがけっこうされたが)

シュタウフェンベルク大佐により、ヒトラー暗殺計画が決行されたが

(しっぱいした。ぎしんあんきにさいなまれたひとらーは、はんらんぐるーぷとそのかんけいしゃ)

失敗した。疑心暗鬼に苛まれたヒトラーは、反乱グループとその関係者

(やく200にんをざんにんなほうほうでしょけいさせた。また、こくみんてきえいゆうえるヴぃん・)

約200人を残忍な方法で処刑させた。また、国民的英雄エルヴィン・

(ろんめるげんすいのかんよをうたがい、じさつするかさいばんをうけるかせんたくさせ)

ロンメル元帥の関与を疑い、自殺するか裁判を受けるか選択させ

(10がつ14にち、ろんめるはじさつした。)

10月14日、ロンメルは自殺した。

(またこのころどいつは、いぎりすけいざいひへいをもくてきとしたいぎりすぽんど)

またこの頃ドイツは、イギリス経済疲弊を目的としたイギリスポンド

(しへいのぎぞうさくせん「べるんはるとさくせん」をじっしし、いちぶのよーろっぱしょこくで)

紙幣の偽造作戦「ベルンハルト作戦」を実施し、一部のヨーロッパ諸国で

(ぽんどのかちがきゅうらくするなどいっていのせいかをだしていた。なお、7がつから、)

ポンドの価値が急落するなど一定の成果を出していた。なお、7月から、

(せんごのせかいけいざいたいせいのちゅうしんとなるきんゆうきこうについてのかいぎが、あめりか・)

戦後の世界経済体制の中心となる金融機構についての会議が、アメリカ・

(にゅーはんぷしゃーしゅう、ぶれとん・うっずで45かこくがさんかしておこなわれ、)

ニューハンプシャー州、ブレトン・ウッズで45か国が参加して行われ、

(ここでいぎりすがわのけいんずがていあんしたせいさんどうめいあんと、あめりかがわの)

ここでイギリス側のケインズが提案した清算同盟案と、アメリカ側の

(ほわいとがていあんしたつうかききんあんがぶつかりあった。とうじのいぎりすは)

ホワイトが提案した通貨基金案がぶつかりあった。当時のイギリスは

(せんそうでおおくのかいがいしさんをうしない、33おくぽんどのさいむをかかえ、せいさんどうめいあんを)

戦争で多くの海外資産を失い、33億ポンドの債務を抱え、清算同盟案を

(ていあんしたけいんずのあんにりえきをみだしていた。しかしせんごあめりかのあんに)

提案したケインズの案に利益を見出していた。しかし戦後アメリカの案に

(もとづいたぶれとん・うっずきょうていがむすばれることとなる。)

基づいたブレトン・ウッズ協定が結ばれることとなる。

(よーろっぱのかいほう)

ヨーロッパの解放

(いたりあせんせんでもれんごうぐんはどいつぐんをおいつめ、1がつ17にちにいたりあの)

イタリア戦線でも連合軍はドイツ軍を追い詰め、1月17日にイタリアの

(もんて・かっしーので、れんごうこくぐんのいたりあせんせんにおける、どいつぐんの)

モンテ・カッシーノで、連合国軍のイタリア戦線における、ドイツ軍の

(ぐすたふ・らいん(えいごばん)のとっぱおよびろーまかいほうのためのたたかいが)

グスタフ・ライン(英語版)の突破およびローマ解放のための戦いが

(かいしされた。1がつ22にちにはあんつぃおにれんごうぐんがじょうりくして、あんつぃおの)

開始された。1月22日にはアンツィオに連合軍が上陸して、アンツィオの

(たたかいもかいしされた。2がつ15にちにかっしーののまちをみわたせるさんちょうにあった)

戦いも開始された。2月15日にカッシーノの街を見渡せる山頂にあった

(しゅうどういんにたいし、あめりかぐんは1,400とんにおよぶばくだんでしゅうどういんをばくげきし)

修道院に対し、アメリカ軍は1,400トンに及ぶ爆弾で修道院を爆撃し

(しゅうどういんははかいされた。ぶらじるぐんもさんせんし、5がつ19にちにれんごうこくぐんは)

修道院は破壊された。ブラジル軍も参戦し、5月19日に連合国軍は

(しょうりし、6がつ4にちにはいたりあのしゅとろーまはれんごうぐんにせんりょうされた。)

勝利し、6月4日にはイタリアの首都ローマは連合軍に占領された。

(ふらんすではどいつぐんは、のるまんでぃじょうりくごのれんごうぐんのしんげきをかろうじて)

フランスではドイツ軍は、ノルマンディ上陸後の連合軍の進撃を辛うじて

(くいとめていたが、7がつ25にちいこう、れんごうぐんはのるまんでぃーちほうのせいぶを)

食い止めていたが、7月25日以降、連合軍はノルマンディー地方の西部を

(うかいしたこぶらさくせんのけっか、ついにどいつぐんのせんせんをとっぱし、どいつぐんは)

迂回したコブラ作戦の結果、ついにドイツ軍の戦線を突破し、ドイツ軍は

(ふぁれーずふきんでほういされた。8がつあたまにいぎりすぐんやかなだぐん、)

ファレーズ付近で包囲された。8月頭にイギリス軍やカナダ軍、

(あめりかぐんをひっとうにれんごうぐんはひがしへすすみ、ぱりほうめんへしんげきをかいしした。)

アメリカ軍を筆頭に連合軍は東へ進み、パリ方面へ進撃を開始した。

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