第二次世界大戦21

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(しぼう、10がつ2にちにほうきはしっぱいにおわった。ほぼどうじき、すろばきあ)

死亡、10月2日に蜂起は失敗に終わった。ほぼ同時期、スロバキア

(きょうわこくでもそれんぐんしえんのみんしゅうほうきがおきたが、)

共和国でもソ連軍支援の民衆蜂起が起きたが、

(どいつぐんはかれつなほうほうでちんあつした。)

ドイツ軍は苛烈な方法で鎮圧した。

(また8がつ23にちにはるーまにあ(るーまにあかくめい)、9がつには)

また8月23日にはルーマニア(ルーマニア革命)、9月には

(ぶるがりあのせいへんで、おやどくせいけんがほうかいしすうじくがわからだつらくした。)

ブルガリアの政変で、親独政権が崩壊し枢軸側から脱落した。

(10がつにははんがりーもこうふくしようとしたが、そのうごきをさっちした)

10月にはハンガリーも降伏しようとしたが、その動きを察知した

(どいつぐんはぱんつぁーふぁうすとさくせんではんがりーぜんどをせんりょう、)

ドイツ軍はパンツァーファウスト作戦でハンガリー全土を占領、

(やじゅうじとうによるかいらいせいけんをじゅりつさせこうふくをそしした。しかしるーまにあの)

矢十字党による傀儡政権を樹立させ降伏を阻止した。しかしルーマニアの

(ぷろいぇしゅてぃゆでんのそうしつでついにどいつのせきゆきょうきゅうはひっぱくする。)

プロイェシュティ油田の喪失でついにドイツの石油供給は逼迫する。

(9がつ3にち、いぎりすぐんはべるぎーのしゅとぶりゅっせるをかいほうした。)

9月3日、イギリス軍はベルギーの首都ブリュッセルを解放した。

(ついでいっきにどいつをこうふくにおいこむべくいぎりすぐんのもんとごめりー)

次いで一気にドイツを降伏に追い込むべくイギリス軍のモントゴメリー

(げんすいは9がつ17にち、おらんだのないめーへんふきんでらいんがわしりゅうをこえる)

元帥は9月17日、オランダのナイメーヘン付近でライン川支流を越える

(まーけっと・がーでんさくせんをじっこうするが、きょてんのあーねむをせんりょうできず)

マーケット・ガーデン作戦を実行するが、拠点のアーネムを占領できず

(しっぱいする。またほきゅうがおいつかず、れんごうぐんはぜんしんをていし。どいつぐんは)

失敗する。また補給が追いつかず、連合軍は前進を停止。ドイツ軍は

(たちなおり、1944ねんちゅうにせんそうをおわらせることはふかのうになった。)

立ち直り、1944年中に戦争を終わらせることは不可能になった。

(どいつほんどくうしゅうげきか)

ドイツ本土空襲激化

(どいつほんどじょうくうではひきつづきげきせんがくりひろげられていたが、)

ドイツ本土上空では引き続き激戦が繰り広げられていたが、

(ほんどぼうくうたいせいきょうかへのぐんびりそーすとうにゅうのへんちょうはさらにたかまっており、)

本土防空体制強化への軍備リソース投入の偏重はさらに高まっており、

(せんとうきの80%がほんどぼうくうにあてられていた。そのため、とうぶせんせんでは)

戦闘機の80%が本土防空に充てられていた。そのため、東部戦線では

(13,000きのそれんぐんせんとうきに、どいつくうぐんは500きでたいこうしなければ)

13,000機のソ連軍戦闘機に、ドイツ空軍は500機で対抗しなければ

など

(いけないといったさんじょうで、とうぶせんせんのほうかいをはやめるげんいんにもなった。)

いけないといった惨状で、東部戦線の崩壊を早める原因にもなった。

(どいつくうぐんは、さらにただいなりそーすをつぎこんで、せんとうきのぞうさんを)

ドイツ空軍は、さらに多大なリソースをつぎ込んで、戦闘機の増産を

(はかり、きじょうれーだーなどのそうびをじゅうじつさせた。ぼうくうたいせいのきょうかにたいして)

図り、機上レーダーなどの装備を充実させた。防空体制の強化に対して

(くせんしていたれんごうぐんくうぐんであったが、じつにたんじゅんなほうほうでせんきょうをゆうりに)

苦戦していた連合軍空軍であったが、実に単純な方法で戦況を有利に

(することにせいこうした。そのたんじゅんなほうほうとは、ごえいせんとうきのかずをふやし、)

することに成功した。その単純な方法とは、護衛戦闘機の数を増やし、

(さらにましそうをそうびさせてこうぞくきょりをえんしんさせ、ばくげききのごえいをきょうかする)

さらに増槽を装備させて航続距離を延伸させ、爆撃機の護衛を強化する

(ことであった。そこでもっとももういをふるったのがあめりかぐんの)

ことであった。そこでもっとも猛威を振るったのがアメリカ軍の

(しんえいせんとうきp-51むすたんぐであり、そのながいこうぞくきょりでどいつのおく)

新鋭戦闘機P-51ムスタングであり、その長い航続距離でドイツの奥

(ふかくまでばくげききをごえいし、あっとうてきなこうそくとくうせんせいのうでげいげきしてきた)

深くまで爆撃機を護衛し、圧倒的な高速と空戦性能で迎撃してきた

(どいつぐんせんとうきをつぎつぎとげきついしていった。すでに1943ねんのこうはんから、)

ドイツ軍戦闘機を次々と撃墜していった。既に1943年の後半から、

(けいせいはおおきくれんごうぐんがわにかたむいており、1943ねん11がつにどいつくうぐんは)

形勢は大きく連合軍側に傾いており、1943年11月にドイツ空軍は

(せんとうきの21%をげきついされ、12がつになるとそのわりあいが23%にはねあがった。)

戦闘機の21%を撃墜され、12月になるとその割合が23%に跳ね上がった。

(どいつくうぐんはじんだいなそんがいにもちこたえらえず、げいげききのかずはへりつづけ、)

ドイツ空軍は甚大な損害に持ち堪えらえず、迎撃機の数は減り続け、

(ぱいろっとのれんどもていかしていった。1944ねんしょとうには1,000きいじょうで)

パイロットの練度も低下していった。1944年初頭には1,000機以上で

(らいしゅうするれんごうぐんせんばくれんごうにたいし、どいつくうぐんのげいげきせんとうきはわずか40き、)

来襲する連合軍戦爆連合に対し、ドイツ空軍の迎撃戦闘機はわずか40機、

(それもごくしょうすうのべてらんぱいろっとにひきいられたみじゅくなぱいろっとで)

それもごく少数のベテランパイロットに率いられた未熟なパイロットで

(へんせいされており、p-51むすたんぐにのるあめりかぐんのべてらん)

編成されており、P-51ムスタングに乗るアメリカ軍のベテラン

(ぱいろっとたちは、どいつくうぐんせんとうきのへんたいをがちょうのぎょうれつと)

パイロットたちは、ドイツ空軍戦闘機の編隊を“ガチョウの行列”と

(あざけり、たちまちのうちにげきついしてしまった。)

嘲り、たちまちの内に撃墜してしまった。

(おいつめられたどいつぐんはせかいはつのじつようじぇっとせんとうき)

追い詰められたドイツ軍は世界初の実用ジェット戦闘機

(めっさーしゅみっとme262をとうにゅうしせいくうけんのかいふくにつとめるが、)

メッサーシュミット Me262を投入し制空権の回復に努めるが、

(へいきとしてのしんらいせいではp-51にはとおくおよばず、きょくちてきなぜんせんにとどまった。)

兵器としての信頼性ではP-51には遠く及ばず、局地的な善戦に留まった。

(ばとる・おぶ・ぶりてんじにかいしされたしゅとべるりんへのくうしゅうは1944ねん)

バトル・オブ・ブリテン時に開始された首都ベルリンへの空襲は1944年

(にはいるとはげしさをまし、さらに1944ねんのこうはんにれんごうぐんがどいつほんどに)

に入ると激しさを増し、さらに1944年の後半に連合軍がドイツ本土に

(せまると、1944ねんまつから1945ねんにかけてれんごうぐんのくうしゅうはぴーくをむかえ、)

迫ると、1944年末から1945年にかけて連合軍の空襲はピークを迎え、

(どいつこくみんはただいなそんがいをこうむることになった。げきかするどいつほんどばくげきに)

ドイツ国民は多大な損害を被ることになった。激化するドイツ本土爆撃に

(たいこうし、どいつぐんはせかいはつのじぇっとばくげききあらどar234、おなじく)

対抗し、ドイツ軍は世界初のジェット爆撃機アラドAr234、同じく

(せかいはつのひこうばくだんv1、ついでせかいはつのだんどうみさいるv2ろけっとなど、)

世界初の飛行爆弾V1、次いで世界初の弾道ミサイルV2ロケットなど、

(かいはつちゅうのしんへいきをつぎつぎとじつようかし、じっせんとうにゅうした。ひとらーがこれら)

開発中の新兵器を次々と実用化し、実戦投入した。ヒトラーがこれら

(しんへいきにかけたこすとときたいはきわめておおきいものであったが、v2が)

新兵器にかけたコストと期待は極めて大きいものであったが、V2が

(あげたもっともおおきなせんかは、このあとのばるじのたたかいのさいに、べるぎーの)

挙げたもっとも大きな戦果は、この後のバルジの戦いの際に、ベルギーの

(あんとわーぷにあったえいがかんのしねまれっくすにちゃくだんしたもので、)

アントワープにあった映画館のシネマレックスに着弾したもので、

(せいぶげきかんしょうちゅうのぐんみん567にんがしぼうしたが、しぼうしたべるぎーのみんかんじんの)

西部劇鑑賞中の軍民567人が死亡したが、死亡したベルギーの民間人の

(おおくがこどもであった。また、v1がもっともそんざいかんをしめしたのが、)

多くが子供であった。また、V1がもっとも存在感を示したのが、

(のるまんでぃでくせんするろんめるをしったするため、ひとらーが)

ノルマンディで苦戦するロンメルを叱咤するため、ヒトラーが

(ふらんすのえーぬけんにあったヴぉるふすしゅるふとii(えいごばん)を)

フランスのエーヌ県にあったヴォルフスシュルフトII(英語版)を

(おとずれたさいに、きたいのv1がじゃいろすこーぷのふぐあいで、ひとらーが)

訪れた際に、期待のV1がジャイロスコープの不具合で、ヒトラーが

(しゅうしんちゅうのヴぉるふすしゅるふとiiにちゃくだんし、これにおどろいたひとらーは)

就寝中のヴォルフスシュルフトIIに着弾し、これに驚いたヒトラーは

(そのよるのうちにどいつこくないににげもどり、このあとしぬまでどいつこくないから)

その夜のうちにドイツ国内に逃げ戻り、この後死ぬまでドイツ国内から

(でないといったこうかをしょうじさせたことであった。)

出ないといった効果を生じさせたことであった。

(v1とv2はおもにみってるばう=どーらきょうせいしゅうようじょにおいてせいさんされた。)

V1とV2は主にミッテルバウ=ドーラ強制収容所において生産された。

(このきょうせいしゅうようじょでは、それんぐん、ぽーらんどぐん、ふらんすぐんほりょのほか、)

この強制収容所では、ソ連軍、ポーランド軍、フランス軍捕虜のほか、

(どいつではんせいふうんどうでこうそくされたどいつこくみんなど60,000にんの)

ドイツで反政府運動で拘束されたドイツ国民など60,000人の

(しゅうようしゃがきょうせいろうどうさせられたが、うち20,000にんがれつあくな)

収容者が強制労働させられたが、うち20,000人が劣悪な

(ろうどうかんきょうときけんなさぎょうをきょうようされてしぼうした。このしぼうしゃすうは、v1や)

労働環境と危険な作業を強要されて死亡した。この死亡者数は、V1や

(v2のこうげきでしぼうしたいっぱんしみんのすうばいにもあげるにんずうであった。)

V2の攻撃で死亡した一般市民の数倍にも上る人数であった。

(けっきょくこれらはへいきとしてはかっきてきなものであっても、せんきょうには)

結局これらは兵器としては画期的なものであっても、戦況には

(ほとんどえいきょうをおよぼすことはなかった。)

殆ど影響を及ぼすことはなかった。

(10がつ9にち、すたーりんとちゃーちるはもすくわで、ばるかんはんとうに)

10月9日、スターリンとチャーチルはモスクワで、バルカン半島に

(おけるえいきょうりょくについてきょうぎした。りょうしゃかんでは、るーまにあではそれんが)

おける影響力について協議した。両者間では、ルーマニアではソ連が

(90%、ぶるがりあではそれんが75%のえいきょうりょくをこうしするほか、)

90%、ブルガリアではソ連が75%の影響力を行使するほか、

(はんがりーとゆーごすらびあはえいきょうりょくははんはん、ぎりしゃでは)

ハンガリーとユーゴスラビアは影響力は半々、ギリシャでは

(いぎりす・あめりかが90%とした。)

イギリス・アメリカが90%とした。

(ばるじのたたかい)

バルジの戦い

(このころになると、どいつのほうかいはびょうよみにはいったとれんごうこくがわのしゅのうじんが)

この頃になると、ドイツの崩壊は秒読みに入ったと連合国側の首脳陣が

(にんしきするようになっていた。あめりかとにほんがさんせんしたちょくごのれんごうぐんの)

認識するようになっていた。アメリカと日本が参戦した直後の連合軍の

(きほんほうしんは、まずはなちす・どいつをうちやぶることをゆうせんし、それまでは)

基本方針は、まずはナチス・ドイツを打ち破ることを優先し、それまでは

(たいへいようせんせんでのせっきょくてきなこうせいはひかえるというもので、とうにゅうされるせんりょくや)

太平洋戦線での積極的な攻勢は控えるというもので、投入される戦力や

(ぶっしはよーろっぱ70%にたいしてたいへいよう30%ときめられていたが、)

物資はヨーロッパ70%に対して太平洋30%と決められていたが、

(あめりかりくぐんのおおものだぐらす・まっかーさーげんすいやあめりかかいぐんが、)

アメリカ陸軍の大物ダグラス・マッカーサー元帥やアメリカ海軍が、

(にほんぐんのてごわさとたいへいようせんせんのじゅうようせいをるーずべるとにといて、)

日本軍の手強さと太平洋戦線の重要性をルーズベルトに説いて、

(よーろっぱとたいへいようのせんりょくやぶっしのふきんこうさはかいぜんされており、)

ヨーロッパと太平洋の戦力や物資の不均衡さは改善されており、

(あめりかぐんはたいへいようじょうにおいてだいきぼなにほうつらつくりせんをてんかいしていた。)

アメリカ軍は太平洋上において大規模な二方面作戦を展開していた。

(さらにまっかーさーは、ふぃりぴんのたたかい(1941-1942ねん)での)

さらにマッカーサーは、フィリピンの戦い (1941-1942年)での

(おめいをへんじょうすべく、ふぃりぴんのだっかんをきょうこうにしゅちょうしていた。ふぃりぴん)

汚名を返上すべく、フィリピンの奪還を強硬に主張していた。フィリピン

(にはにほんぐんがだいへいりょくをはいちしており、そのこうりゃくにはたいへいようせんせんかこ)

には日本軍が大兵力を配置しており、その攻略には太平洋戦線過去

(さいこうきぼのへいりょくがひつようであったが、なちす・どいつだとうのゆうせんを)

最高規模の兵力が必要であったが、ナチス・ドイツ打倒の優先を

(しゅちょうしていたちゃーちるも、このころにはよーろっぱのせんそうはさいしゅうだんかいに)

主張していたチャーチルも、この頃にはヨーロッパの戦争は最終段階に

(はいっているとかんがえており、たいへいようほうめんのせんきょうにおおきなかんしんをよせていた。)

入っていると考えており、太平洋方面の戦況に大きな関心を寄せていた。

(そのようなじょうきょうで、まっかーさーはるーずべるとにふぃりぴんだっかんを)

そのような状況で、マッカーサーはルーズベルトにフィリピン奪還を

(みとめさせると、せいじりょくをくししてたいりょうのへいいんとこうくうきをたいへいようせんせんむけに)

認めさせると、政治力を駆使して大量の兵員と航空機を太平洋戦線向けに

(かくほしたが、このだいへいりょくのなかには、よーろっぱせんせんへのぞうえんに)

確保したが、この大兵力のなかには、ヨーロッパ戦線への増援に

(よていされていたせんりょくもおおくふくまれていた。れんごうこくないでげきせんのつづくたいへいよう)

予定されていた戦力も多く含まれていた。連合国内で激戦の続く太平洋

(せんせんでのかんしんがたかまるなか、あいぜんはわーらよーろっぱせんせんのしれいかん)

戦線での関心が高まる中、アイゼンハワーらヨーロッパ戦線の司令官

(たちは、たいへいようがゆうせんされて、しだいにげんしょうしていくぞうえんやほきゅうを)

たちは、太平洋が優先されて、次第に減少していく増援や補給を

(ゆうりょするじたいにおちいり、しんげきはていたいしていた。)

憂慮する事態に陥り、進撃は停滞していた。

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