第二次世界大戦22

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(かねてよりひとらーは、せいぶせんせんでのれんごうぐんにたいするはんげきこうせいを)

かねてよりヒトラーは、西部戦線での連合軍に対する反撃攻勢を

(むそうしていたが、れんごうぐんのしんげきていたいをみると、いまがけんこんいってきの)

夢想していたが、連合軍の進撃停滞を見ると、今が乾坤一擲の

(ちゃんすとしてはんげきをけついした。さいだいのもんだいはせんりょくのじゅんびであったが、)

チャンスとして反撃を決意した。 最大の問題は戦力の準備であったが、

(ひとらーはこくぼうぐんさいこうしれいぶのしょうぐんたちのはんたいをおしきって、げきせんつづく)

ヒトラーは国防軍最高司令部の将軍たちの反対を押し切って、激戦続く

(とうぶせんせんから25こしだんをはんげきのためにせいぶせんせんにてんようするというめいれいを)

東部戦線から25個師団を反撃のために西部戦線に転用するという命令を

(だした。どいつぐんは1944ねん8がつの1かげつだけでも468,000にんの)

出した。ドイツ軍は1944年8月の1か月だけでも468,000人の

(へいしがししょうするなど、1944ねんこうはんにはいるころからまいつき)

兵士が死傷するなど、1944年後半に入るころから毎月

(すたーりんぐらーどきゅうのざんぱいをしているもどうぜんのじんてきそんしつをこうむっており、)

スターリングラード級の惨敗をしているも同然の人的損失を被っており、

(きこのせんそうにおけるへいしのそんしつは336まんにんにたっしていた。へいいんぶそくに)

既この戦争における兵士の損失は336万人に達していた。兵員不足に

(より、どいつぐんせいえいしだんのおおくもこれまでのげきせんでげんけいをとどめないほど)

より、ドイツ軍精鋭師団の多くもこれまでの激戦で原型をとどめないほど

(しょうきぼかしていたので、だいきぼなはんこうさくせんなどふかのうとおもわれていた。)

小規模化していたので、大規模な反攻作戦など不可能と思われていた。

(しかしひとらーはきょうけんをはつどうし、ちょうへいねんれいをかくだいして、じっしつてきな)

しかしヒトラーは強権を発動し、徴兵年齢を拡大して、実質的な

(こくみんかいへいをもとめた。めいれいをうけたひむらーは、ちょうへいをたんとうする)

国民皆兵を求めた。命令を受けたヒムラーは、徴兵を担当する

(ぐんかんくしれいかんをあつめると、いかのようなくんじをおこないちょうへいきょうかをめいじた。)

軍管区司令官を集めると、以下の様な訓示を行い徴兵強化を命じた。

(わかものたちのいのちをたすけて8,000まんにんから9,000まんにんのこくみんがぜんめつする)

若者たちの命を助けて8,000万人から9,000万人の国民が全滅する

(よりも、わかものがしんでこくみんがたすかるほうがいい。)

よりも、若者が死んで国民が助かるほうがいい。

(またれんごうぐんによるこうじょうちたいへのもうばくげきのなかでも、こうじょうろうどうしゃのろうどうじかん)

また連合軍による工場地帯への猛爆撃のなかでも、工場労働者の労働時間

(のえんちょうなどで、どいつぐんじゅさんぎょうはそこぢからをはっき、せんぜん・せんちゅうをつうじても)

の延長などで、ドイツ軍需産業は底力を発揮、戦前・戦中を通じても

(さいこうのせいさんきろくをたっせいし、ひとらーのけいかくどおり11がつちゅうにせんりょくかくほの)

最高の生産記録を達成し、ヒトラーの計画通り11月中に戦力確保の

(めどをたてた[225]。さくせんけいかくはほぼかんぜんにひとくされて、さくせんめいも)

目途を立てた[225]。作戦計画はほぼ完全に秘匿されて、作戦名も

など

(れんごうぐんにはんげきさくせんときづかれないよう、ぼうぎょてきなさくせんとごにんさせるため)

連合軍に反撃作戦と気づかれないよう、防御的な作戦と誤認させるため

(「らいんのまもり(wachtamrhein)」となづけられた。)

「ラインの守り(Wacht am Rhein)」と名付けられた。

(ひそかにしゅうけつした25こしだんやく50まんにんのどいつぐんは、12がつ16にちから)

密かに集結した25個師団約50万人のドイツ軍は、12月16日から

(べるぎー、るくせんぶるくのしんりんちたいあるでんぬちほうではんこう)

ベルギー、ルクセンブルクの森林地帯アルデンヌ地方で反攻

((ばるじのたたかい)をかいしした。あるでんぬちほうのふゆのあくてんこうをついた)

(バルジの戦い)を開始した。アルデンヌ地方の冬の悪天候を突いた

(きしゅうでれんごうぐんはいちじてきにぱにっくじょうたいにおちいり、どいつぐんにしんげきをゆるした。)

奇襲で連合軍は一時的にパニック状態に陥り、ドイツ軍に進撃を許した。

(とくに、さいせいえいのだい1ssそうこうしだんのせんぽうをになった、よあひむ・ぱいぱー)

特に、最精鋭の第1SS装甲師団の先鋒を担った、ヨアヒム・パイパー

(しんえいたいちゅうさがひきいるぱいぱーせんとうだん(ふぃんらんどごばん)がたけししんげきし、)

親衛隊中佐が率いるパイパー戦闘団(フィンランド語版)が猛進撃し、

(さくせんもくてきであるれんごうぐんのほきゅうきょてんあんとわーぷこうにせまるいきおいであったが、)

作戦目的である連合軍の補給拠点アントワープ港に迫る勢いであったが、

(あいぜんはわーのきょうりょくなしどうりょくもあってれんごうぐんはすみやかにたちなおり、)

アイゼンハワーの強力な指導力もあって連合軍は速やかに立ち直り、

(どいつぐんのしんげきはいちぶをのぞいて、はやいだんかいでそしされた。どいつぐんは)

ドイツ軍の進撃は一部を除いて、早い段階で阻止された。ドイツ軍は

(けいかくどおりのしんげきができずいちぶぶたいのみがつきだし、せんせんはばるじ)

計画通りの進撃ができず一部部隊のみが突出し、戦線はバルジ

((「とっしゅつぶ」のい)をけいせいしたので、このたたかいはのちに)

(「突出部」の意)を形成したので、この戦いはのちに

(「ばるじのたたかい」とよばれるようになった。)

「バルジの戦い」と呼ばれるようになった。

(ぱいぱーせんとうだんもそうそうにげきはされたが、それでもはっそ・ふぉん・)

パイパー戦闘団も早々に撃破されたが、それでもハッソ・フォン・

(まんといふぇるそうこうへいたいしょうのひきいるだい5そうこうぐんがちゅうおうぶぶんをしんげきし、)

マントイフェル装甲兵大将の率いる第5装甲軍が中央部分を進撃し、

(みゅーずがわからわずか9kmのせるむら(えいごばん)までたっしたが、)

ミューズ川からわずか9kmのセル村(英語版)まで達したが、

(あめりかぐんだい101くうていしだんがまもるじゅうようきょてんのばすとーにゅのこうりゃくが)

アメリカ軍第101空挺師団が守る重要拠点のバストーニュの攻略が

(できずにこうせいははたん、ほういしていたばすとーにゅを12がつ26にちにぱっとん)

できずに攻勢は破綻、包囲していたバストーニュを12月26日にパットン

(ちゅうじょうひきいるだい3ぐんにかいほうされると、こうしゅはかんぜんにいれかわりどいつぐんは)

中将率いる第3軍に解放されると、攻守は完全に入れ替わりドイツ軍は

(しんげきをていししてぼうせんにおわれた。そのあいだ、とうぶせんせんではそれんぐんのうごきも)

進撃を停止して防戦に追われた。その間、東部戦線ではソ連軍の動きも

(かっぱつかし、これまでなんどもさくせんちゅうしをしんげんされていたひとらーが)

活発化し、これまで何度も作戦中止を進言されていたヒトラーが

(1945ねん1がつ8にちになって「これはせいぶせんせんのしゅくしょうではなくせんりゃくてきこうたい)

1945年1月8日になって「これは西部戦線の縮小ではなく“戦略的後退”

(である」としてぜんぐんにむけててったいをしたれいした。このどいつぐんの)

である」として全軍に向けて撤退を下令した。このドイツ軍の

(はんげきにより、あめりかぐんはだいにじせかいたいせんでたんどくさくせんとしてはさいだいきゅうの)

反撃により、アメリカ軍は第二次世界大戦で単独作戦としては最大級の

(そんがいとなるせんし8,607にんをふくむ、じんてきそんしつやく76,000にんというじんだいな)

損害となる戦死8,607人を含む、人的損失約76,000人という甚大な

(そんしつをこうむったが、こうげきがわのどいつぐんのそんしつはさらにはめつてきで、じんてきそんしつ)

損失を被ったが、攻撃側のドイツ軍の損失はさらに破滅的で、人的損失

(12まんにん、そうこうしゃりょうのそんしつは800りょうとほてんふかのうなそんしつをこうむって、)

12万人、装甲車両の損失は800輌と補填不可能な損失を被って、

(どいつのほうかいをはやめるひきがねともなった。)

ドイツの崩壊を早める引き金ともなった。

(1がつ12にち、それんぐんはばるとかいからかるぱてぃあさんみゃくにかけてのせんで)

1月12日、ソ連軍はバルト海からカルパティア山脈にかけての線で

(こうせいをかいし。1がつ17にちぽーらんどのしゅとわるしゃわ、1がつ19にちくらくふを)

攻勢を開始。1月17日ポーランドの首都ワルシャワ、1月19日クラクフを

(せんりょうし、1がつ27にちにはあうしゅヴぃっつきょうせいしゅうようじょをかいほうした。そのあと、)

占領し、1月27日にはアウシュヴィッツ強制収容所を解放した。その後、

(2がつ3にちまでにそれんぐんはおーでるがわりゅういき、どいつのしゅとべるりんまで)

2月3日までにソ連軍はオーデル川流域、ドイツの首都ベルリンまで

(やく65kmのきゅすとりんふきんにしんしゅつした。)

約65kmのキュストリン付近に進出した。

(ぽーらんどは、1939ねん9がついこうどくそりょうこくのしはいもとにおかれていたが、)

ポーランドは、1939年9月以降独ソ両国の支配下に置かれていたが、

(こんどはそのぜんいきがそれんのしはいかにはいった。2がつ4にちから11にちまで、)

今度はその全域がソ連の支配下に入った。2月4日から11日まで、

(くりみあはんとうのやるたでべいえいそ3かこくしゅのうによるやるたかいだんがおこなわれた。)

クリミア半島のヤルタで米英ソ3カ国首脳によるヤルタ会談が行われた。

(そこでどいつのしゅうせんしょり、ぽーらんどをはじめひがしよーろっぱのさいけん、)

そこでドイツの終戦処理、ポーランドをはじめ東ヨーロッパの再建、

(それんのたいにちさんせんおよびみなみからふとやちしまれっとう・)

ソ連の対日参戦および南樺太や千島列島・

(ほっぽうりょうどのきぞくもんだいがとうぎされた。)

北方領土の帰属問題が討議された。

(1がつにはいたりあしゃかいきょうわこく(rsi)ぐんのこうせいしゅうりょうによってふたたびぼうせんへと)

1月にはイタリア社会共和国 (RSI) 軍の攻勢終了によって再び防戦へと

(もどり、むっそりーにはげんとうのなかでぜつぼうてきなせんとうをつづけるrsiぐんのぜんせんを)

戻り、ムッソリーニは厳冬の中で絶望的な戦闘を続けるRSI軍の前線を

(おとずれ、えっぺいしきをおこなってへいしたちをげきれいしている。しょうねんへいをふくめたへいしたちは)

訪れ、閲兵式を行って兵士達を激励している。少年兵を含めた兵士達は

(むっそりーにのきたいにこたえてきぼうのうしなわれたじょうきょうかでたたかいをつづけ、)

ムッソリーニの期待に応えて希望の失われた状況下で戦いを続け、

(ふゆのあいだはれんごうぐんのこうげきもていたいした。しかしはるをむかえた4がつになると)

冬の間は連合軍の攻撃も停滞した。しかし春を迎えた4月になると

(ごしっくらいんはかんぜんにとっぱされ、cぐんしゅうだんとrsiぐんはぽーがわらいんに)

ゴシックラインは完全に突破され、C軍集団とRSI軍はポー川ラインに

(までせんせんをこうたいさせ、みらのでのしがいちせんがしやにはいりはじめた。)

まで戦線を後退させ、ミラノでの市街地戦が視野に入り始めた。

(これをうらづけるようにむっそりーにも「みらのをなんぶせんせんの)

これを裏付けるようにムッソリーニも「ミラノを南部戦線の

(すたーりんぐらーどにしなければならない」とえんぜつしている。)

スターリングラードにしなければならない」と演説している。

(はんがりーでは1944ねん12がつにせきぐん・るーまにあぐんによってぶだぺすとが)

ハンガリーでは1944年12月に赤軍・ルーマニア軍によってブダペストが

(ほういされ、1945ねん2がつ13にちにざんそんしていたぶだぺすとぼうえいぶたいが)

包囲され、1945年2月13日に残存していたブダペスト防衛部隊が

(むじょうけんこうふくした。それんぐんはここでもいっぱんへいしからしょうかんまでもがりゃくだつ・)

無条件降伏した。ソ連軍はここでも一般兵士から将官までもが略奪・

(ぼうこうにさんかし、10さいから70さいまで、およそめにつくほとんどのじょせいが)

暴行に参加し、10歳から70歳まで、およそ目に付くほとんどの女性が

(ごうかんされた。どいつぐんは3がつ15にちから、はんがりーのしゅとぶだぺすと)

ごうかんされた。ドイツ軍は3月15日から、ハンガリーの首都ブダペスト

(だっかんと、ゆでんかくほのためはるのめざめさくせんをおこなうがしっぱいする。)

奪還と、油田確保のため春の目覚め作戦を行うが失敗する。

(ひとらーははいしょくがこくなると、れんごうぐんにしょうどいがいのものはわたさないと)

ヒトラーは敗色が濃くなると、連合軍に焦土以外のものは渡さないと

(おもいつき、さらにれんごうぐんのしんげきがどいつこっきょうにせまると、そのはかいてきな)

思い付き、さらに連合軍の進撃がドイツ国境に迫ると、その破壊的な

(もうそうをぶかたちにかたるようになっていた。そして1945ねん3がつにせんきょうが)

妄想を部下たちに語るようになっていた。そして1945年3月に戦況が

(はめつてきなようそうをていすると、ひとらーはついにこのもうそうをじつげんするときが)

破滅的な様相を呈すると、ヒトラーはついにこの妄想を実現するときが

(きたとかんがえて、「どいつはせかいのしはいしゃたりえなかった。どいつみんぞくは)

きたと考えて、「ドイツは世界の支配者たりえなかった。ドイツ民族は

(えいこうにあたいしないいじょう、ほろびさるほかない」とのべ、どいつこくないの)

栄光に値しない以上、滅び去るほかない」と述べ、ドイツ国内の

(せいさんしせつをすべてはかいするよう「しょうどめいれい」(ねろしれい)をはっする。)

生産施設を全て破壊するよう「焦土命令」(ネロ指令)を発する。

(このめいれいをうけたぐんじゅしょうあるべると・しゅぺーあは、すでにはいぼくはひっしと)

この命令を受けた軍需相アルベルト・シュペーアは、既に敗北は必至と

(かんがえており、むだなはかいはこくみんをくるしめるだけだとひとらーにしんげんしたが、)

考えており、無駄な破壊は国民を苦しめるだけだとヒトラーに進言したが、

(もはやきょうきにとらわれていたひとらーはきくみみをもたなかった。)

もはや狂気に囚われていたヒトラーは聞く耳を持たなかった。

(そこでしゅぺーあはぐんじゅしょうのぶかやちほうせいじかときょうりょくして、)

そこでシュペーアは軍需相の部下や地方政治家と協力して、

(「ねろしれい」のじっこうをぼうがいすることにちからをつくしたが、そもそもしれいを)

「ネロ指令」の実行を妨害することに力を尽くしたが、そもそも指令を

(じっこうできるようなりょうのばくやくはなく、また、このしれいをまともに)

実行できるような量の爆薬はなく、また、この指令をまともに

(じっこうしようというものもおらず、しれいがじつげんすることはなかった。)

実行しようという者もおらず、指令が実現することはなかった。

(「ねろしれい」のしっぱいは、ぶっしこかつとなちせいけんのとうそつりょくていかをあらわに)

「ネロ指令」の失敗は、物資枯渇とナチ政権の統率力低下を露わに

(しただけでおわったが、ひにくにも、せいさんせつびやたみんかんしせつのはかいは、)

しただけで終わったが、皮肉にも、生産設備や他民間施設の破壊は、

(てきであるれんごうぐんのくうしゅうやちじょうしんこうによってじつげんすることとなってしまった。)

敵である連合軍の空襲や地上侵攻によって実現することとなってしまった。

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