第二次世界大戦24

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(ほかにもかっぷ・あるこな7,000にん、ごや6,200にん、しゅといべん)

他にもカップ・アルコナ7,000人、ゴヤ6,200人、シュトイベン

(4,500にん、ぺれとら(えいごばん)2,650にんなどのひなんせんがげきちんされて)

4,500人、ペレトラ(英語版)2,650人などの避難船が撃沈されて

(たいりょうのぎせいしゃをだした。この5せきでしょうじた30,000にんのししゃは、)

大量の犠牲者を出した。この5隻で生じた30,000人の死者は、

(たいせいようのたたかいでuぼーとにしずめられた3,500せきのせんぱくでぎせいとなった)

大西洋の戦いでUボートに沈められた3,500隻の船舶で犠牲となった

(れんごうこくせんいんのししゃすうにひってきするおびただしいししゃすうであったが、おおきなぎせいを)

連合国船員の死者数に匹敵する夥しい死者数であったが、大きな犠牲を

(だしながらもひなんさくせんはきせきてきなせいこうをおさめ、やく200まんにんが)

出しながらも避難作戦は奇蹟的な成功を収め、約200万人が

(ひがしよーろっぱからのだっしゅつにせいこうしている。しかし、このだっしゅつはこれから)

東ヨーロッパからの脱出に成功している。しかし、この脱出はこれから

(はじまるどいつこくみんのくなんのいりぐちにすぎなかった。せんかにおわれて)

始まるドイツ国民の苦難の入り口に過ぎなかった。戦禍に追われて

(じぶんのきょじゅうちからひなんしたどいつこくみんはぜんこくみん1/4の1,900まんにん)

自分の居住地から避難したドイツ国民は全国民1/4の1,900万人

(にもあがったが、そのほとんどがろうじんかふじょしであり、かこくなどうちゅうでつぎつぎと)

にも上ったが、その殆どが老人か婦女子であり、過酷な道中で次々と

(いのちをおとしていき、そのぎせいはせんそうがおわったあともふえつづけた。)

命を落としていき、その犠牲は戦争が終わった後も増え続けた。

(ひなんみんのぎせいしゃそうすうはとうけいすらないが、さいていでも2ひゃくまんにんに)

避難民の犠牲者総数は統計すらないが、最低でも2百万人に

(あがったものとすいていされる。)

上ったものと推定される。

(たいりょうのどいつこくみんやどいつへいがいのちをおとしていくなか、そうとうちかごうに)

大量のドイツ国民やドイツ兵が命を落としていくなか、総統地下壕に

(こもるひとらーは、2がつ26にちと4がつ2かの2かいにわたってどいつこくみんにむけて)

籠るヒトラーは、2月26日と4月2日の2回に渡ってドイツ国民にむけて

(さいごのだんわをはっぴょうした。そのないようはげんじつからとうひし、ゆだやじんにはげしい)

最後の談話を発表した。その内容は現実から逃避し、ユダヤ人に激しい

(てきいをむきだしにするいっぽうで、みずからのはんだんみすによってしんさんを)

敵意をむき出しにする一方で、自らの判断ミスによって辛酸を

(なめさせられているどいつこくみんにたいするしゃざいやねぎらいのことばはいっさいなかった。)

嘗めさせられているドイツ国民に対する謝罪や労いの言葉は一切なかった。

(わたしは、よーろっぱさいごのきぼうであった。よーろっぱには、じこてきかいかくに)

私は、ヨーロッパ最後の希望であった。ヨーロッパには、自己的改革に

(よるじこかいぞうなどできないことがあきらかとなった。よーろっぱは、)

よる自己改造などできないことが明らかとなった。ヨーロッパは、

など

(じしんがみりょくとせっとくにどんかんなことをはっきりしめした。)

自身が魅力と説得に鈍感なことをはっきり示した。

(よーろっぱというおんなをわがものとするには、わんりょくにうったえるのほかなかった。)

ヨーロッパという女をわがものとするには、腕力に訴えるのほかなかった。

((ちゅうりゃく))

(中略)

(さて、われわれを2どもたいせんになげこんだこのざんこくなせかいで、せいぞんとはんえいの)

さて、我々を2度も大戦に投げ込んだこの残酷な世界で、生存と繁栄の

(きかいをつかめるはくじんといえば、くなんにたえるすべをしり、じたいがせつぼうてきに)

機会を掴める白人といえば、苦難に耐えるすべを知り、事態が切望的に

(なっても、いぜんとしてしぬまでたたかいぬくゆうきをもつひとびとだけで)

なっても、依然として死ぬまで戦い抜く勇気をもつ人々だけで

(あることは、めいはくである。)

あることは、明白である。

(こういうとくしつをたいとくしているとこうげんできるものは、ゆだやじんの)

こういう特質を体得していると公言できる者は、ユダヤ人の

(ちめいてきなどくをみずからのそしきからこんぜつすることのできたこくみんだけであろう。)

致命的な毒を自らの組織から根絶することのできた国民だけであろう。

(4がつ16にち、べるりんしょうめんのそれんぐんのそうこうげきがかいしされ(べるりんの)

4月16日、ベルリン正面のソ連軍の総攻撃が開始され(ベルリンの

(たたかい)、べるりんとうほうぜーろうこうちいがいのなんぼくのぼうえいせんをとっぱされる。)

戦い)、ベルリン東方ゼーロウ高地以外の南北の防衛線を突破される。

(4がつ20にち、ひとらーはさいごのたんじょうびをむかえ、へるまん・げーりんぐ、)

4月20日、ヒトラーは最後の誕生日を迎え、ヘルマン・ゲーリング、

(はいんりひ・ひむらー、かーる・でーにっつらのせいふやぐんのようじんは)

ハインリヒ・ヒムラー、カール・デーニッツらの政府や軍の要人は

(それをいわった。そのよる、かれらはひとらーからのきょかによりべるりん)

それを祝った。その夜、彼らはヒトラーからの許可によりベルリン

(からたいきょしはじめたが、ひとらーじしんはべるりんのそうとうちかごうから)

から退去し始めたが、ヒトラー自身はベルリンの総統地下壕から

(うごこうとしなかった。このようなげんじつとうひをつづけるしどうしゃやしきかんに)

動こうとしなかった。このような現実逃避を続ける指導者や指揮官に

(たいし、へいしのしきはていかし、せんそうのさいしゅうきょくめんにはいって、だっそうやせんとうきょひが)

対し、兵士の士気は低下し、戦争の最終局面に入って、脱走や戦闘拒否が

(あいついだ。それをおさえこむためぐんのしきかんたちはしんえいたいやけんぺいをつかって)

相次いだ。それを抑え込むため軍の指揮官たちは親衛隊や憲兵を使って

(だっそうへいがりをはじめた。けんぺいらにつかまっただっそうへいはぐんぽうかいぎにかけられる)

“脱走兵狩り”を始めた。憲兵らに捕まった脱走兵は軍法会議にかけられる

(こともなくじゅうさつやこうしゅけいにしょされていたいにはくびから「おくびょうものはみんな)

こともなく銃殺や絞首刑に処されて遺体には首から「臆病者はみんな

(こうなる」とかいたさつをさげられてさらされた。ぐんしれいぶからかくぶたいに)

こうなる」と書いた札を下げられて晒された。軍司令部から各部隊に

(「だっそうへいをしょぶんしてぜんせんをとくれいせよ」というめいれいも)

「脱走兵を処分して前線を督励せよ」という命令も

(だされるほどのまっきてきなじょうたいであった。)

出されるほどの末期的な状態であった。

(べるりんのたたかい)

ベルリンの戦い

(4がつ25にち、それんぐんはべるりんをかんぜんにほういした(しょうさいはべるりんの)

4月25日、ソ連軍はベルリンを完全に包囲した(詳細はベルリンの

(たたかいをさんしょう)。このようなぜつぼうてきじょうきょうのなか、どいつぐんは)

戦いを参照)。このような絶望的状況の中、ドイツ軍は

(ひとらーゆーげんとなどのしょうねんへいや、まともなぶきももたないへいえきねんれいを)

ヒトラーユーゲントなどの少年兵や、まともな武器も持たない兵役年齢を

(こえたしがんへいをちゅうしんにしたこくみんとつげきたいまでどういんしさいごのていこうをこころみた。)

超えた志願兵を中心にした国民突撃隊まで動員し最後の抵抗を試みた。

(しょうさいは「おうしゅうせんせんにおけるしゅうせん(だいにじせかいたいせん)」をさんしょう)

詳細は「欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦)」を参照

(べるりんをだっしゅつしたげーりんぐは4がつ23にち、れんごうぐんとこうしょうすべく、)

ベルリンを脱出したゲーリングは4月23日、連合軍と交渉すべく、

(ひとらーにたいしこっかのしどうけんをようきゅうする。まるてぃん・ぼるまんに)

ヒトラーに対し国家の指導権を要求する。マルティン・ボルマンに

(そそのかされたひとらーはげきどし、げーりんぐたいほをめいれいするが)

そそのかされたヒトラーは激怒し、ゲーリング逮捕を命令するが

(はたされなかった。4がつ28にちにはひむらーがちゅうりつこくすうぇーでんの)

果たされなかった。4月28日にはヒムラーが中立国スウェーデンの

(べるなどってはくしゃくをつうじ、れんごうぐんときゅうせんこうしょうをこころみていることが)

ベルナドッテ伯爵を通じ、連合軍と休戦交渉を試みていることが

(こうひょうされ、ひとらーはひむらーをかいにん、たいほめいれいをだした。)

公表され、ヒトラーはヒムラーを解任、逮捕命令を出した。

(いっぽう、いたりあほくぶではれんごうぐんのしんげきとぱるちざんのほうきにより、)

一方、イタリア北部では連合軍の進撃とパルチザンの蜂起により、

(4がつ25にち、cぐんしゅうだんはいたりありんじせいふ・こくみんかいほういいんかい(cln)の)

4月25日、C軍集団はイタリア臨時政府・国民解放委員会 (CLN) の

(だいひょうだんとのちょくせつかいだんにのぞんだが、cぐんしゅうだんのきゅうせんこうしょうをしったclnは)

代表団との直接会談に望んだが、C軍集団の休戦交渉を知ったCLNは

(むじょうけんこうふくのようきゅういがいはうけいれなくなった。むっそりーには)

無条件降伏の要求以外は受け入れなくなった。ムッソリーニは

(かいだんのなかでcぐんしゅうだんのこうふくこうしょうについてしらされ、さいごのさいごに)

会談の中でC軍集団の降伏交渉について知らされ、最後の最後に

(ひとらーからうらぎられたとかんじた。しかし2かごにそうとうちかごうの)

ヒトラーから裏切られたと感じた。しかし2日後に総統地下壕の

(ひとらーからせんきょくのぎゃくてんをかくしんしており、「どくいどうめいのさいしゅうてきしょうり」に)

ヒトラーから戦局の逆転を確信しており、「独伊同盟の最終的勝利」に

(きぼうをもっているというでんぽうがとどき、ひとらーもまたしゅういから)

希望を持っているという電報が届き、ヒトラーもまた周囲から

(あざむかれていることをしった。ここにいたりあしゃかいきょうわこくはめいじつともにほうかいした。)

欺かれていることを知った。ここにイタリア社会共和国は名実ともに崩壊した。

(むっそりーにはとうぼうちゅう、すいすこっきょうのこもみずうみふきんのむらでぱるちざんに)

ムッソリーニは逃亡中、スイス国境のコモ湖付近の村でパルチザンに

(とらえられた。とらえられたいっこうはむっそりーにとあいじんぺたっち、それいがいの)

捕えられた。捕えられた一行はムッソリーニと愛人ペタッチ、それ以外の

(かくりょうやしょうへいとわけられ、のこされたむっそりーにはぺたっちとともに)

閣僚や将兵と分けられ、残されたムッソリーニはペタッチと共に

(みらのほうめんへしゃりょうでいどうさせられ、しばらくのあいだじゃこも・で・まりあと)

ミラノ方面へ車両で移動させられ、しばらくの間ジャコモ・デ・マリアと

(いうじんぶつのしょゆうするみんかにゆうへいされている。)

いう人物の所有する民家に幽閉されている。

(ほどなくしてぱるちざんはむっそりーにについてもりゃくしきさいばんによる)

程無くしてパルチザンはムッソリーニについても略式裁判による

(そくじしょけいをけってい、むっそりーにはみらのきんこうのめっつぇぐらしのこうがいに)

即時処刑を決定、ムッソリーニはミラノ近郊のメッツェグラ市の郊外に

(あるじゅりーの・でぃ・めっつぇぐら(えいごばん)にせっちされたしょけいじょうへ)

あるジュリーノ・ディ・メッツェグラ(英語版)に設置された処刑場へ

(ごそうされた。4がつ28にちのごご4じ10ぷんにぺたっちとともにしゃさつされ、)

護送された。4月28日の午後4時10分にペタッチと共に射殺され、

(けねんされうるむっそりーにのせいぞんせつをふっしょくすることや、いぜんとしてのこる)

懸念されうるムッソリーニの生存説を払拭することや、依然として残る

(いげんをうしなわせることをはかって、そのしをこうふすることをけいかくした。)

威厳を失わせることを図って、その死を公布することを計画した。

(どんごでしゃさつされたなんにんかのじゅうようなかんぶのいたいといっしょにむっそりーにの)

ドンゴで射殺された何人かの重要な幹部の遺体と一緒にムッソリーニの

(いたいをかもつとらっくにのせ、へんきょうのめっつぇぐらしからしゅようとしの)

遺体を貨物トラックに載せ、辺境のメッツェグラ市から主要都市の

(ひとつであるみらのしへといそうした。)

一つであるミラノ市へと移送した。

(4がつ29にちあさ、みらのちゅうおうえきにとらっくがとうちゃくするとえきにある)

4月29日朝、ミラノ中央駅にトラックが到着すると駅にある

(おおひろばであるろれーとひろばのじめんのうえにいたいをなげだした。つづいて)

大広場であるロレート広場の地面の上に遺体を投げ出した。続いて

(ぱるちざんははんらんしゃへのみせしめである「いたいをたてものからつるす」)

パルチザンは反乱者への見せしめである「遺体を建物から吊るす」

(というこういへのいしゅがえしとしてさかさづりにした。くくりつけられたのは)

という行為への意趣返しとして逆さ吊りにした。括り付けられたのは

(すたんだーど・おいるしゃのがそりんすたんどのたてものだった。ただし)

スタンダード・オイル社のガソリンスタンドの建物だった。ただし

(さかさづりについてはちゅうせいじだいにおこなわれていたちょうばつをさいげんしたというせつや、)

逆さ吊りについては中世時代に行われていた懲罰を再現したという説や、

(むしろこれいじょうしたいがそんかいすることをさけたというせつもある)

むしろこれ以上死体が損壊することを避けたという説もある

((べにーと・むっそりーにのし)。)

(ベニート・ムッソリーニの死)。

(いたりあちゅうざいのcぐんしゅうだんも5がつ4にちにこうふくしている。)

イタリア駐在のC軍集団も5月4日に降伏している。

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