第二次世界大戦25
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問題文
(むっそりーにがさつがいされた2にちご、4がつ30にち15じ30ぷんころにひとらーは、)
ムッソリーニが殺害された2日後、4月30日15時30分頃にヒトラーは、
(べるりんのそうとうちかごうでぜんじつけっこんしたえヴぁ・ぶらうんとともにじさつした。)
ベルリンの総統地下壕で前日結婚したエヴァ・ブラウンと共に自殺した。
(したいはゆいごんにそってそうとうちかごうわきにほられたあなでしょうきゃくされた。)
死体は遺言に沿って総統地下壕脇に掘られた穴で焼却された。
(ひとらーはゆいごんでだいとうりょうけんこくぼうぐんそうしれいかんにかいぐんげんすいでーにっつを、)
ヒトラーは遺言で大統領兼国防軍総司令官に海軍元帥デーニッツを、
(しゅしょうにせんでんしょうよーぜふ・げっべるすを、なちとうたんとうしょうおよびゆいごんしっこうじんに)
首相に宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスを、ナチ党担当相および遺言執行人に
(とうかんぼうちょうまるてぃん・ぼるまんをしていしていたが、げっべるすも)
党官房長マルティン・ボルマンを指定していたが、ゲッベルスも
(ひとらーのあとをおい5がつ1にち、つまと6にんのこどもをみちづれにじさつした。)
ヒトラーの後を追い5月1日、妻と6人の子供を道連れに自殺した。
(これにさきだつ4がつ29にちには、あめりかりくぐんのにっけいじんぶたいのだい442れんたい)
これに先立つ4月29日には、アメリカ陸軍の日系人部隊の第442連隊
(せんとうだんれいかのだい522やせんほうへいだいたいは、どいつぐんとのせんとうのすえに)
戦闘団隷下の第522野戦砲兵大隊は、ドイツ軍との戦闘のすえに
(みゅんへんきんこうのだっはうきょうせいしゅうようじょのかいほうをいった。なお、にっけいじん)
ミュンヘン近郊のダッハウ強制収容所の解放を行った。なお、日系人
(ぶたいがきょうせいしゅうようじょをかいほうしたじじつは1992ねんまでおおやけにされることはなかった。)
部隊が強制収容所を解放した事実は1992年まで公にされることはなかった。
(いぎりすぐんとあめりかぐんがどいつこくない、おーすとりあへしんげきするにつれ、)
イギリス軍とアメリカ軍がドイツ国内、オーストリアへ進撃するにつれ、
(だっはう、ざくせんはうぜん、ぶーふぇんヴぁると、べるげんべるぜん、)
ダッハウ、ザクセンハウゼン、ブーフェンヴァルト、ベルゲンベルゼン、
(ふろっせんびゅるく、まうとはうぜんなど、かくちのきょうせいしゅうようじょがつぎつぎに)
フロッセンビュルク、マウトハウゼンなど、各地の強制収容所が次々に
(かいほうされ、しゅうようしゃとおびただしいかずのしたいがはっけんされたことにより、)
解放され、収容者とおびただしい数の死体が発見されたことにより、
(ゆだやじんぜつめつけいかく(ほろこーすと)をはじめとする、どいつのはんざいが)
ユダヤ人絶滅計画(ホロコースト)をはじめとする、ドイツの犯罪が
(あかるみにでされた。またそれんがあらたにそれんりょうとしたぽーらんどとうぶから)
明るみに出された。またソ連が新たにソ連領としたポーランド東部から
(ぽーらんどじんとゆだやじんをおいはなしたため、そうかんさきのぽーらんどでは)
ポーランド人とユダヤ人を追放したため、送還先のポーランドでは
(ぽーらんどじんによるゆだやじんぎゃくさつじけんもおきた(そびえとせんりょうかの)
ポーランド人によるユダヤ人虐殺事件も起きた(ソビエト占領下の
(ぽーらんどにおけるはんゆだやうんどう)。)
ポーランドにおける反ユダヤ運動)。
(なおさきにどいつぐんをくちくしたそれんぐんはかくちでおこなわれていたたいりょうぎゃくさつを)
なお先にドイツ軍を駆逐したソ連軍は各地で行われていた大量虐殺を
(さきにしっていたが、いぎりすぐんとあめりかぐんはこれをそれんのぷろぱかんだ)
先に知っていたが、イギリス軍とアメリカ軍はこれをソ連のプロパカンダ
(とおもいしんじなかった。なお、ほろこーすとについてれんごうこくがさわぎたてるのは、)
と思い信じなかった。なお、ホロコーストについて連合国が騒ぎ立てるのは、
(これらのきょうせいしゅうようじょとそこでのたいりょうぎゃくさつがあきらかになる)
これらの強制収容所とそこでの大量虐殺が明らかになる
(だいにじせかいたいせんごのことであった。)
第二次世界大戦後のことであった。
(5がつ2にち、しゅとべるりんしはそれんぐんにせんりょうされた。そのさい、べるりんしみんの)
5月2日、首都ベルリン市はソ連軍に占領された。その際、ベルリン市民の
(じょせいのおおくがそれんへいにしたたかんされたといわれている。じょせい、はてや8さいの)
女性の多くがソ連兵に強かんされたといわれている。女性、果てや8歳の
(しょうじょまでもがしたたかんされ、ぎせいしゃそうすうはすうまんから200まんとすいそくされている。)
少女までもが強かんされ、犠牲者総数は数万から200万と推測されている。
(あるいしのすいていでは、べるりんでごうかんされたじょせいのうち、そのあと、)
ある医師の推定では、ベルリンで強かんされた女性のうち、その後、
(やく10ぷんの1のじょせいがしぼうし、そのたいはんがじさつだった。またひがしぷろいせん、)
約10分の1の女性が死亡し、その大半が自殺だった。また東プロイセン、
(ぽんめるん、しゅれーじえんでのひがいしゃ140まんにんのしぼうりつは、さらに)
ポンメルン、シュレージエンでの被害者140万人の死亡率は、さらに
(たかかったとすいていされる。ぜんたいですくなくとも200まんのどいつじんじょせいが)
高かったと推定される。全体で少なくとも200万のドイツ人女性が
(ごうかんされ、くりかえしひがいをうけたひともかなりの)
強かんされ、繰り返し被害を受けた人もかなりの
(かずにあげるとすいていされる(どうじょうより)。)
数に上ると推定される(同上より)。
(どいつせいふとぐんのむじょうけんごうぶく)
ドイツ政府と軍の無条件降伏
(ひとらーのゆいごんにもとづき、かれのあとをついでしどうしゃとなったかーる・)
ヒトラーの遺言に基づき、彼の跡を継いで指導者となったカール・
(でーにっつかいぐんげんすいはふれんすぶるくにかりせいふをじゅりつし(ふれんすぶるく)
デーニッツ海軍元帥はフレンスブルクに仮政府を樹立し(フレンスブルク
(せいふ)、れんごうこくとのこうふくこうしょうをかいしした。5がつ7にち、ふれんすぶるく)
政府)、連合国との降伏交渉を開始した。5月7日、フレンスブルク
(せいふのいのちによってどいつこくぼうぐんとせいふはれんごうこくにむじょうけんこうふくすることが)
政府の命によってドイツ国防軍と政府は連合国に無条件降伏することが
(けっていした。これはどいつせいふとぐんによるかんぜんなむじょうけんこうふくであった。)
決定した。これはドイツ政府と軍による完全な無条件降伏であった。
(けっきょくどいつはひとらーがしぬまでたたかいをつづけたが、こうぎょうせんしんくにがみずからの)
結局ドイツはヒトラーが死ぬまで戦いを続けたが、工業先進国が自らの
(しゅとまでてきぐんにせめこまれ、しゅとのじゅうみんすうじゅうまんにんをみちづれにしながら、)
首都まで敵軍に攻めこまれ、首都の住民数十万人を道連れにしながら、
(こっかげんしゅのかんていがてきぐんにじゅうりんされるほどかんぷなきまでにたたきのめされたと)
国家元首の官邸が敵軍に蹂躙されるほど完膚なきまでに叩きのめされたと
(いうのは、げんだいしじょうではぜんだいみもんであり、てんのうのけんいにより、やむをえず)
いうのは、現代史上では前代未聞であり、天皇の権威により、やむを得ず
(じたいをうけいれてこうふくしただいにっぽんていこくともことなっていた。なちす・)
事態を受け入れて降伏した大日本帝国とも異なっていた。ナチス・
(どいつはひじょうにおどろくべきかんぜんはいぼくをなしとげたのである。)
ドイツは非常に驚くべき完全敗北を成し遂げたのである。
(あるふれーと・よーどるじょうきゅうたいしょうがあいぜんはわーのしれいぶにおもむき、)
アルフレート・ヨードル上級大将がアイゼンハワーの司令部に赴き、
(こくぼうぐんだいひょうとしてごうぶくぶんしょにしょめいし、ていせんが5がつ8にちごご11じ1ぷんに)
国防軍代表として降伏文書に署名し、停戦が5月8日午後11時1分に
(はっこうするとさだめられた(どいつのこうふくぶんしょ(えいごばん))。よくごご11じには)
発効すると定められた(ドイツの降伏文書(英語版))。翌午後11時には
(べるりんしないのかーるすほるすとのこうへいがっこうで、ごうぶくぶんしょの)
ベルリン市内のカールスホルスト の工兵学校で、降伏文書の
(ひじゅんしきがおこなわれ、どいつこくぼうぐんだいひょうヴぃるへるむ・かいてるげんすいとれんごうぐん)
批准式が行われ、ドイツ国防軍代表ヴィルヘルム・カイテル元帥と連合軍
(だいひょうげおるぎー・じゅーこふげんすい、あーさー・てっだー(えいごばん))
代表ゲオルギー・ジューコフ元帥、アーサー・テッダー(英語版)
(げんすいがごうぶくぶんしょのひじゅんそちをいった。なおにちどくいさんごくどうめいには、こうふくまえに)
元帥が降伏文書の批准措置を行った。なお日独伊三国同盟には、降伏前に
(どうめいこくのにほんときょうぎをおこなうきまりであったが、もはやどいつに)
同盟国の日本と協議を行う決まりであったが、もはやドイツに
(にほんせいふときょうぎするよゆうはなかった。)
日本政府と協議する余裕はなかった。
(なおどうめいこくであるはずのにほんとれんごうこくはふれんすぶるくせいふにたいし、)
なお同盟国であるはずの日本と連合国はフレンスブルク政府に対し、
(せいふとしてのしょうにんはおこなわなかった。5がつ23にちにはぜんかくりょうがれんごうこくに)
政府としての承認は行わなかった。5月23日には全閣僚が連合国に
(たいほされ、そのきのうをうしなった。そのあと6がつ5にちのべるりんせんげんにより)
逮捕され、その機能を失った。その後6月5日のベルリン宣言により
(ちゅうおうせいふがどいつにそんざいしないこと(ちゅうおうせいふ=なちとうであり、)
中央政府がドイツに存在しないこと(中央政府=ナチ党であり、
(どいつくにのこうふくとともにしょうめつしたこと)がかくにんされた。はいせんごにちゅうおうせいふ)
ドイツ国の降伏とともに消滅したこと)が確認された。敗戦後に中央政府
(がどいつにそんざいしないてんは、はいせんとせんりょうごにちゅうおうせいふがそんざいしつづけた)
がドイツに存在しない点は、敗戦と占領後に中央政府が存在し続けた
(にほんとおおきくことなる。)
日本と大きく異なる。
(これによりどいつくに、いたりあの2こくのすうじくくにがれんごうこくがわにこうふくし、)
これによりドイツ国、イタリアの2国の枢軸国が連合国側に降伏し、
(よーろっぱでのたたかいはしゅうけつした。そのあともおうしゅうではしょうきぼかつきょくちてきな)
ヨーロッパでの戦いは終結した。その後も欧州では小規模かつ局地的な
(せんとうはつづいたものの、こっかかんでのせんとうこういはさいごのすうじくくにである)
戦闘は続いたものの、国家間での戦闘行為は最後の枢軸国である
(だいにっぽんていこくとまんしゅうこくなどかずすくないゆうこうこく、そしてそれにたいするいぎりすや)
大日本帝国と満洲国など数少ない友好国、そしてそれに対するイギリスや
(おーすとらりあ、あめりかやちゅうかみんこくなどのれんごうこくによる)
オーストラリア、アメリカや中華民国などの連合国による
(とうなんあじあとひがしあじあ、たいへいようちいきのみとなった。)
東南アジアと東アジア、太平洋地域のみとなった。
(ていせんご)
停戦後
(5がつ8にちごご11じ1ぷんにていせんがはっこうされ、8にちと9にちの2にちかんはよーろっぱ)
5月8日午後11時1分に停戦が発効され、8日と9日の2日間はヨーロッパ
(ぜんどはしゅくじつとなった。かくちのすうじくぐんはじゅんじこうふくしていったが、それんぐんらと)
全土は祝日となった。各地の枢軸軍は順次降伏していったが、ソ連軍らと
(どいつぐんのせんとうはどいつがむじょうけんこうふくしたにもかかわらず、ぷらはのたたかい)
ドイツ軍の戦闘はドイツが無条件降伏したにもかかわらず、プラハの戦い
(がしゅうけつする5がつ11にちまでつづいた。なおそれんぐんがていせんごもていせんをむしして)
が終結する5月11日まで続いた。なおソ連軍が停戦後も停戦を無視して
(たたかいをけいぞくするのは、むじょうけんこうふくではないたいにちせんでもどうようであり、)
戦いを継続するのは、無条件降伏ではない対日戦でも同様であり、
(せんじこくさいほうにあきらかにいはんするものであった。)
戦時国際法に明らかに違反するものであった。
(どいつせんりょうかののるうぇーなんたんからにほんへむかっていたどいつかいぐんの)
ドイツ占領下のノルウェー南端から日本へ向かっていたドイツ海軍の
(uぼーと「u-234」が、たいせいようじょうであめりかかいぐんのかんせんにこうふくしようと)
Uボート「U-234」が、大西洋上でアメリカ海軍の艦船に降伏しようと
(したやさきの5がつ14にちに、びんじょうしていたしょうじげんぞうとともながひでおの2めいのかいぐん)
した矢先の5月14日に、便乗していた庄司元三と友永英夫の2名の海軍
(ちゅうさがふくどくじさつした。2にんのもちもののなかには、とうじにほんもかいはつしていた)
中佐が服毒自殺した。2人の持ち物の中には、当時日本も開発していた
(げんしばくだんのかいはつにかかせないうらん235が560きろぐらむふくまれていた。)
原子爆弾の開発に欠かせないウラン235が560キログラム含まれていた。
(なおこのぜんごに、たすうのなちすしんえいたいいんやどいつぐんじん、ふぁしすととういんが、)
なおこの前後に、多数のナチス親衛隊員やドイツ軍人、ファシスト党員が、
(せんすいかんやせんぱく、とほでばちかんやすぺいん、ぽるとがるやのるうぇーなど)
潜水艦や船舶、徒歩でバチカンやスペイン、ポルトガルやノルウェーなど
(をけいゆして、あるぜんちんやぶらじる、ちりやぼりびあなどのみなみあめりか)
を経由して、アルゼンチンやブラジル、チリやボリビアなどの南アメリカ
(しょこくにとうぼうし、そのあともすうせんにんがみぶんをかくしてとうぼうをつづけた。またなちす)
諸国に逃亡し、その後も数千人が身分を隠して逃亡を続けた。またナチス
(しんえいたいいんやどいつぐんじんが、のこるすうじくくにのにほんへuぼーとでとうぼうしたとの)
親衛隊員やドイツ軍人が、残る枢軸国の日本へUボートで逃亡したとの
(ほうどうもあったが、これはじょうきのようなじけんとこんごうしたあやまりであった。)
報道もあったが、これは上記のような事件と混合した誤りであった。
(それんぐんにこうふくしたすうじくくにのしょうへいはしべりあなどできょうせいろうどうさせられた。)
ソ連軍に降伏した枢軸国の将兵はシベリアなどで強制労働させられた。
(さらにしゅうせんちょくぜんからせんごにかけて、それんをふくむちゅうおう・なんおう・とうおうからは)
さらに終戦直前から戦後にかけて、ソ連を含む中欧・南欧・東欧からは
(1200まんにんをこえるどいつじんがついほうされ、200まんにんいじょうがどいつにとうちゃく)
1200万人を超えるドイツ人が追放され、200万人以上がドイツに到着
(できずめいをおとした。)
できず命を落とした。
(このあと、どいつとのたたかいをおえたいぎりすやあめりか、いぎりすれんぽう)
この後、ドイツとの戦いを終えたイギリスやアメリカ、イギリス連邦
(しょこくのしょうへいがのこるにほんとのたたかいのもとへつぎつぎにおくられたほか、にほんとの)
諸国の将兵が残る日本との戦いの元へ次々に送られたほか、日本との
(わへいじょうやくがあるそれんぐんもまんしゅうこくとのこっきょうにおんみつうらにおくられた。)
和平条約があるソ連軍も満洲国との国境に隠密裏に送られた。