第二次世界大戦26

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(ぽつだむかいだん)

ポツダム会談

(そのあと7がつ17にちから、べるりんなんせいぽつだむにて、よーろっぱのせんごもんだい)

その後7月17日から、ベルリン南西ポツダムにて、ヨーロッパの戦後問題

(をとうぎするぽつだむかいだんがおこなわれた。いぎりすのしゅしょううぃんすとん・)

を討議するポツダム会談が行われた。イギリスの首相ウィンストン・

(ちゃーちる(かいだんとちゅう、7がつ25にちのそうせんきょでちゃーちるひきいるほしゅとうが)

チャーチル(会談途中、7月25日の総選挙でチャーチル率いる保守党が

(ろうどうとうにはいぼくし、くれめんと・あとりーとこうたいする)。4がつ12にちの)

労働党に敗北し、クレメント・アトリーと交代する)。4月12日の

(るーずべるとのきゅうしにともない、ふくだいとうりょうからしょうかく・しゅうにんしたあめりかの)

ルーズベルトの急死に伴い、副大統領から昇格・就任したアメリカの

(だいとうりょうはりー・s・とるーまん、そびえとれんぽうのよしふ・すたーりんが)

大統領ハリー・S・トルーマン、ソビエト連邦のヨシフ・スターリンが

(しゅっせきした。このかいぎで、どいつのせんごぶんかつとうちなどがとりきめられた)

出席した。この会議で、ドイツの戦後分割統治などが取り決められた

(ぽつだむきょうていのていけつが7がつ26にちにおこなわれた。)

ポツダム協定の締結が7月26日に行われた。

(さらに、このかいだんのさなかにはのこるすうじくこくのにほんにたいしこうふくをかんこくする)

さらに、この会談のさなかには残る枢軸国の日本に対し降伏を勧告する

(ぽつだむせんげんのはっぴょうもえいべいちゅうの3かこくのごういのもとおこなわれ(ちゅうかみんこくの)

ポツダム宣言の発表も英米中の3か国の合意の元行われ(中華民国の

(しょうかいせきそうとうはむせんでんわでのしょうにん。にほんとかいせんしていないそれんは)

ショウ介石総統は無線電話での承認。日本と開戦していないソ連は

(かいせんごの8がつ9にちにしょうにん)、にほんにむけてそうしんされ、にほんがわではがいむしょう、)

開戦後の8月9日に承認)、日本に向けて送信され、日本側では外務省、

(どうめいつうしんしゃ、りくぐん、かいぐんのかくじゅしんしせつがだいいっぽうをじゅしんした。)

同盟通信社、陸軍、海軍の各受信施設が第一報を受信した。

(じょうけんつきのぽつだむせんげんのじゅたくとそのこうしにより、どいつとちがって、)

条件付きのポツダム宣言の受託とその行使により、ドイツと違って、

(はいせんとせんりょうごにもにほんにはちゅうおうせいふがそんざいしつづけることとなった。)

敗戦と占領後にも日本には中央政府が存在し続けることとなった。

(まんしゅうじへんとまんしゅうこくどくりつ)

満洲事変と満洲国独立

(1931ねん9がつ18にちにみなみまんしゅうてつどうがばくはされたとして、にちろせんそうのしょうりごに)

1931年9月18日に南満洲鉄道が爆破されたとして、日露戦争の勝利後に

(ろしあていこくからかくとくしたそしゃくち、かんとうしゅうとみなみまんしゅうてつどうのふぞくちのしゅびを)

ロシア帝国から獲得した租借地、関東州と南満洲鉄道の付属地の守備を

(していたにほんりくぐんのかんとうととくふりくぐんぶがぜんしんのかんとうぐんとちゅうかみんこくぐんのあいだで)

していた日本陸軍の関東都督府陸軍部が前身の関東軍と中華民国軍の間で

など

(せんとうがぼっぱつ。にほんがしょうりしかんとうぐんがみなみまんしゅうをせんりょうする(まんしゅうじへん)。)

戦闘が勃発。日本が勝利し関東軍が南満洲を占領する(満洲事変)。

(12がつにちゅうかみんこくせいふのていそにより、こくさいれんめいではまんしゅうでのじたいを)

12月に中華民国政府の提訴により、国際連盟では満洲での事態を

(ちょうさするためのちょうさだんのけっせいがしんぎされていた。えいふついどくの)

調査するための調査団の結成が審議されていた。英仏伊独の

(じょうにんりじこくに、とうじくにのにほんとちゅうかみんこくのだいひょうからなる6かこく、じじつじょう)

常任理事国に、当事国の日本と中華民国の代表からなる6ヵ国、事実上

(4よんかこくのちょうさだんのけっせいがかけつされた。にほんのしゅちょうもみとめられて、)

4四ヵ国の調査団の結成が可決された。日本の主張も認められて、

(ちょうさだんけっせいのけつぎのりゅうほで、まんしゅうにおけるひぞくのとうばつけんがにほんにみとめられた。)

調査団結成の決議の留保で、満洲における匪賊の討伐権が日本に認められた。

(だいいちじしゃんはいじへんがぼっぱつしたが、3がつ1にちにちゅうかみんこくぐんがしゃんはいからてったいした。)

第一次上海事変が勃発したが、3月1日に中華民国軍が上海から撤退した。

(どうじつにあいしんかくらふぎをしっせいとしたまんしゅうこくがちゅうかみんこくからどくりつしてけんこくせんげん)

同日に愛新覚羅溥儀を執政とした満洲国が中華民国から独立して建国宣言

(をした。3がつ3にちに、ちゅうかみんこくぐんをせいあつしたにほんぐんにていせんめいれいがくだると、)

をした。3月3日に、中華民国軍を制圧した日本軍に停戦命令が下ると、

(きくみみをもたなかったえいふついどくのこくさいれんめいかっこくだいひょうも、)

聞く耳を持たなかった英仏伊独の国際連盟各国代表も、

(にほんのたいどをせいとうにりょうかいしかけた。)

日本の態度を正当に了解しかけた。

(3がつにこくさいれんめいからだい2だいりっとんはくしゃくヴぃくたー・ぶるわー=りっとんを)

3月に国際連盟から第2代リットン伯爵ヴィクター・ブルワー=リットンを

(だんちょうとするちょうさだん(りっとんちょうさだん)がはけんされた。このちょうさだんは、)

団長とする調査団(リットン調査団)が派遣された。この調査団は、

(はんとしにわたりまんしゅうこくとにほん、ちゅうかみんこくをちょうさし、まんしゅうこくこうていの)

半年にわたり満洲国と日本、中華民国を調査し、満洲国皇帝の

(あいしんかくらふぎともめんかいし9がつにほうこくしょ(りっとんほうこくしょ)をていしゅつした。)

愛新覚羅溥儀とも面会し9月に報告書(リットン報告書)を提出した。

(よく1933ねん2がつ24にち、このりっとんほうこくをもとにしたかんこくあんが)

翌1933年2月24日、このリットン報告を基にした勧告案が

(こくさいれんめいとくべつそうかいにおいてさいたくされ、にほんをのぞくれんめいこくのさんせいおよびきけん・)

国際連盟特別総会において採択され、日本を除く連盟国の賛成および危険・

(ふさんかによりどういかくにんがおこなわれ、こくさいれんめいきやく15じょう4こうおよび6こうのじょうけんが)

不参加により同意確認が行われ、国際連盟規約15条4項および6項の条件が

(せいりつした。ぜんごしてしゃんはいじへんのぼっぱつでにほんへのぎねんをふかめていたいぎりすでも、)

成立した。前後して上海事変の勃発で日本への疑念を深めていたイギリスでも、

(1932ねん3がつ22にちのかいんしんぎにおいて、よとうほしゅとうのじゅうちんおーすてぃん・)

1932年3月22日の下院審議において、与党保守党の重鎮オースティン・

(ちぇんばれんは、「ろうどうとうぎいんのたいにちひはんをいさめ、にっちゅうともにゆうこうこく)

チェンバレンは、「労働党議員の対日批判を諌め、日中ともに友好国

(であり、どちらにもくみしない」としたうえで、ちゅうかみんこくには「こくないちつじょを)

であり、どちらにも与しない」とした上で、中華民国には「国内秩序を

(きちんとたもてるせいふがのぞまれること、にほんがじゅうだいなちょうはつをうけたこと、)

きちんと保てる政府が望まれること、日本が重大な挑発を受けたこと、

(じょうやくのしんせいさをこわだかにとなえるちゅうかみんこくがすこしまえには、いっぽうてきこうどうでべつの)

条約の神聖さを声高に唱える中華民国が少し前には、一方的行動で別の

(じょうやくをはきしようとしたこと」をしてきし、「じゅうけんはぼいこっとへの)

条約を破棄しようとしたこと」を指摘し、「銃剣はボイコットへの

(てきせつなたいおうではない」としつつ、たいにちせいさいろんをしりぞけ、こくさいれんめいにしんちょうな)

適切な対応ではない」としつつ、対日制裁論を退け、国際連盟に慎重な

(たいおうをもとめた。)

対応を求めた。

(こくさいれんめいのたいおうをうけて5がつ5にちにしゃんはいていせんきょうていがむすばれにっちゅうりょうぐんが)

国際連盟の対応を受けて5月5日に上海停戦協定が結ばれ日中両軍が

(しゃんはいしくからてったいし、5がつ31にちにはたんくーきょうていがせいりつしまんしゅうじへんがしゅうけつ、)

上海市区から撤退し、5月31日には塘沽協定が成立し満洲事変が終結、

(さわぎはおさまるかにおもえた。)

騒ぎは収まるかに思えた。

(こくさいれんめいだったい)

国際連盟脱退

(だが、よくとしの1933ねん2がつ23にちににほんぐんがねっかしょうにしんこうするなど、)

だが、翌年の1933年2月23日に日本軍が熱河省に侵攻するなど、

(ちゅうかみんこくとのかんけいがさらにあっかすると、にほんにたいする)

中華民国との関係がさらに悪化すると、日本に対する

(こくさいれんめいかめいかっこくのたいどもこうかした。)

国際連盟加盟各国の態度も硬化した。

(よくじつにはじゅねーぶでおこなわれたこくさいれんめいそうかいで「ちゅうにちふんそうにかんする)

翌日にはジュネーブで行われた国際連盟総会で「中日紛争に関する

(こくさいれんめいとくべつそうかいほうこくしょ」かくにんのとうひょうがおこなわれ、さんせい42ひょう、)

国際連盟特別総会報告書」確認の投票が行われ、賛成42票、

(はんたい1ぴょう(にほん)、きけん1ぴょう(しゃむ)のあっとうてきたすうでかんこくがさいたくされた。)

反対1票(日本)、棄権1票(シャム)の圧倒的多数で勧告が採択された。

(さらにまんしゅうこくけんこくなどをこくさいれんめいのばでひなんされ、まつおかようすけだいひょう)

さらに満洲国建国などを国際連盟の場で非難され、松岡洋右代表

(いかにほんだいひょうはこれをふふくとして、あらかじめじゅんびしていたせんげんしょを)

以下日本代表はこれを不服として、あらかじめ準備していた宣言書を

(ろうどくしてかいじょうからたいじょうし、にほんのますこみからはだいかっさいをうけた。)

朗読して会場から退場し、日本のマスコミからは大喝采を受けた。

(にほんだいひょうはじゅねーヴからのきこくとちゅうにいたりあといぎりすをおとずれ、)

日本代表はジュネーヴからの帰国途中にイタリアとイギリスを訪れ、

(ろーまではしゅしょうべにーと・むっそりーにとかいけんしている。きこくごの)

ローマでは首相ベニート・ムッソリーニと会見している。帰国後の

(3がつ27にちにこくさいれんめいをだったいする。またどいつもどうねんだったいした。)

3月27日に国際連盟を脱退する。またドイツも同年脱退した。

(なお、にほんだったいのせいしきはっこうは、2ねんごの1935ねん3がつ27にちとなり、)

なお、日本脱退の正式発効は、2年後の1935年3月27日となり、

(だったいせんげんから1935ねんまでのゆうよきかんちゅうににほんはぶんたんきんをしはらいつづけていた。)

脱退宣言から1935年までの猶予期間中に日本は分担金を支払い続けていた。

(またせいしきだったいいこうもこくさいろうどうきかん(ilo)には1940ねんまで)

また正式脱退以降も国際労働機関 (ILO) には1940年まで

(かめいしていた(ヴぇるさいゆじょうやくなどではれんめいとへいれつてきなじょうせつきかんで)

加盟していた(ヴェルサイユ条約等では連盟と並列的な常設機関で

(あった)。そのほか、あへんのとりしまりなどこくさいけいさつかつどうへのきょうりょくや、)

あった)。そのほか、アヘンの取り締りなど国際警察活動への協力や、

(こくさいかいぎへのおぶざーばーはけんなど、いっていのきょうりょくかんけいをいじしていた。)

国際会議へのオブザーバー派遣など、一定の協力関係を維持していた。

(ご・いちごじけんとに・にろくじけん)

五・一五事件と二・二六事件

(1932ねん5がつ15にちには、ろんどんかいぐんぐんしゅくじょうやくていけつにはんたいするかいぐんの)

1932年5月15日には、ロンドン海軍軍縮条約締結に反対する海軍の

(ぐんじんらにしゅしょうのいぬかいつよしらがさつがいされるという「ご・いちごじけん」が)

軍人らに首相の犬養毅らが殺害されるという「五・一五事件」が

(おきていた。さらには、ないだいじんかんていやりっけんせいゆうかいほんぶをこうげきし、)

起きていた。さらには、内大臣官邸や立憲政友会本部を攻撃し、

(これによってとうきょうをこんらんさせてかいげんれいをしこうせざるをえないじょうきょうにおとしいれ、)

これによって東京を混乱させて戒厳令を施行せざるを得ない状況に陥れ、

(そのあいだにぐんばつないかくをじゅりつしてこっかかいぞうをおこなうけいかくであったが、)

その間に軍閥内閣を樹立して国家改造を行う計画であったが、

(みすいのままでちんあつされた。)

未遂のままで鎮圧された。

(こうけいしゅしょうのせんていはなんこうした。じゅうらいはないかくがたおれると、てんのうからげんろうの)

後継首相の選定は難航した。従来は内閣が倒れると、天皇から元老の

(さいおんじきんもちにたいしてこうけいしゃすいせんのしたいのちがあり、さいおんじがこれにぽんこたえして)

西園寺公望に対して後継者推薦の下命があり、西園寺がこれに奉答して

(こうけいしゃがきまるというながれであったが、けっきょくさいおんじはせいとうないかくをだんねんし、)

後継者が決まるという流れであったが、結局西園寺は政党内閣を断念し、

(ぐんをおさえるためにもとかいぐんたいしょうでおんけんなじんかくであったさいとうまことを)

軍を抑えるために元海軍大将で穏健な人格であった斎藤実を

(じきしゅしょうとしてそうこもした。)

次期首相として奏薦した。

(さいおんじはこれはいちじのべんぽうであり、じたいがおさまれば「けんせいのじょうどう)

西園寺はこれは一時の便法であり、事態が収まれば「憲政の常道

((=みんしゅしゅぎ)」にもどすことをかんがえていたが、ともかくもここに8ねんかん)

(=民主主義)」に戻すことを考えていたが、ともかくもここに8年間

(つづいた「けんせいのじょうどう」のしゅうりょうによって、まともなせいとうせいじはだいせんごまで)

続いた「憲政の常道」の終了によって、まともな政党政治は大戦後まで

(ふっかつすることはなかった。)

復活することはなかった。

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