第二次世界大戦27

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(さらに1936ねん2がつ26にちから2がつ29にちにかけて、こうどうはのえいきょうをうけた)

さらに1936年2月26日から2月29日にかけて、皇道派の影響を受けた

(りくぐんせいねんしょうこうらはくーでたーをはかり、1,483なのもとしかんぺいをひきいて、)

陸軍青年将校らはクーデターを図り、1,483名の下士官兵を率いて、

(しゅしょうかんていやおおくらだいじんたかはしこれきよしてい、ないだいじんさいとうまことしていや)

首相官邸や大蔵大臣高橋是清私邸、内大臣斎藤実私邸や

(きょういくそうかんわたなべじょうたろうしていなどをおそったが、このくーでたーはみすいにおわる)

教育総監渡辺錠太郎私邸などを襲ったが、このクーデターは未遂に終わる

((「に・にろくじけん」)。しゅしょうのおかだけいすけはからくもだいじょうぶだったが、)

(「二・二六事件」)。首相の岡田啓介は辛くも大丈夫だったが、

(おおくらだいじんのたかはしやないだいじんのさいとう、きょういくそうかん・りくぐんたいしょうのわたなべなどは)

大蔵大臣の高橋や内大臣の斎藤、教育総監・陸軍大将の渡部などは

(このじけんでさつがいされた。)

この事件で殺害された。

(このじけんのけっかひろたこうきがしゅしょうについたが、そかくにあたってりくぐんから)

この事件の結果広田弘毅が首相に就いたが、組閣にあたって陸軍から

(かくりょうじんじにかんしてふへいがでた。「このましからざるじんぶつ」としてしめい)

閣僚人事に関して不平が出た。「好ましからざる人物」として指名

(されたのはよしだしげる(がいしょう)、かわさきたくきち(ないしょう)、おはらなおし(ほうしょう)、)

されたのは吉田茂(外相)、川崎卓吉(内相)、小原直(法相)、

(しもむらかいなん、なかじまちくへいである。よしだはえいべいとゆうこうかんけいをむすぼうと)

下村海南、中島知久平である。吉田は英米と友好関係を結ぼうと

(していたじゆうしゅぎしゃであるとされ、けっきょくよしだがじたいしひろたががいむだいじんを)

していた自由主義者であるとされ、結局吉田が辞退し広田が外務大臣を

(けんむした。さらにりくぐんないぶではに・にろくじけんごのしゅくぐんじんじとして)

兼務した。さらに陸軍内部では二・二六事件後の粛軍人事として

(こうどうはをはいじょし、りくぐんないぶのしゅどうけんもかためた。)

皇道派を排除し、陸軍内部の主導権も固めた。

(1931ねんには「さんがつじけん」、1934ねんには「りくぐんしかんがっこうじけん」がおこり、)

1931年には「三月事件」、1934年には「陸軍士官学校事件」が起こり、

(とうじのにほんでは、このようにせんきょでえらばれたわけでもないたんなるぐんじん)

当時の日本では、このように選挙で選ばれたわけでもない単なる軍人

((やくにん)が、くにがじぶんのきにいらないほうこうにむかうと、ぶりょくでくーでたー)

(役人)が、国が自分の気に入らない方向に向かうと、武力でクーデター

(をおこしてみずからのむかうほうこうにしむけ、さらにりくかいぐんがそかくにくちを)

を起こして自らの向かう方向に仕向け、さらに陸海軍が組閣に口を

(だすことがたびたびおき、まかりとおるようになった。)

出すことが度々起き、まかり通るようになった。

(ぐんぶだいじんげんえきぶかんせいふっかつ)

軍部大臣現役武官制復活

など

(さらに1936ねん5がつにぐんぶはひろたないかくにあつりょくをくわえ、いちどははいしされた)

さらに1936年5月に軍部は広田内閣に圧力を加え、一度は廃止された

(ぐんぶだいじんげんえきぶかんせいをふっかつさせた。このせいどふっかつのもくてきには、)

軍部大臣現役武官制を復活させた。この制度復活の目的には、

(「に・にろくじけんへのかんよがうたがわれたよびえきぶかん(じけんへのかんよが)

「二・二六事件への関与が疑われた予備役武官(事件への関与が

(うたがわれたあらきさだおやまさきじんざぶろうが、じけんごによびえきにへんにゅうされていた))

疑われた荒木貞夫や真崎甚三郎が、事件後に予備役に編入されていた)

(を、ぐんぶだいじんにつかせない」ということがあげられていた。)

を、軍部大臣に就かせない」ということが挙げられていた。

(ひろたないかくははらきりもんどうによってりくぐんだいじんとたいりつし、ぎかいをかいさんするようきゅうを)

広田内閣は腹切り問答によって陸軍大臣と対立し、議会を解散する要求を

(きょぜつするかわりに1937ねん2がつにそうじしょくにおいこまれた。そのあと、)

拒絶する代わりに1937年2月に総辞職に追い込まれた。その後、

(うがきかずしげよびえきりくぐんたいしょうにたいしててんのうからしゅしょうこうほにしめいされて)

宇垣一成予備役陸軍大将に対して天皇から首相候補に指名されて

(たいめいこうかがあったさい、りくぐんからりくぐんだいじんのこうほしゃをださず、)

大命降下があった際、陸軍から陸軍大臣の候補者を出さず、

(とうじげんえきぐんじんでりくぐんだいじんをひきうけてくれそうなこいそくにあきちょうせんぐんしれいかんに)

当時現役軍人で陸軍大臣を引き受けてくれそうな小磯国昭朝鮮軍司令官に

(いらいするもことわられ、じしんがりくしょうけんにんするために「みずからのげんえきふっきと)

依頼するも断られ、自身が陸相兼任するために「自らの現役復帰と

(りくしょうけんにん」をちょくめいでじつげんさせるようゆあさくらへいないだいじんにだしんしたが、)

陸相兼任」を勅命で実現させるよう湯浅倉平内大臣に打診したが、

(どういをえられなかったため、そかくをだんねんした。このように、1910ねんだいいこう)

同意を得られなかったため、組閣を断念した。この様に、1910年代以降

(にほんにしんとうしてきていたぎかいせいみんしゅしゅぎは、1930ねんだいちゅうばんいこうきゅうげきに)

日本に浸透してきていた議会制民主主義は、1930年代中盤以降急激に

(ぐんこくしゅぎにかたむいていく。)

軍国主義に傾いていく。

(せいあんじけんとこっきょうがっさく1933ねん5がつ31にちの)

西安事件と国共合作1933年5月31日の

(たんくーきょうていによりまんしゅうじへんはていせんしたが、ちゅうかみんこくせいふは)

塘沽協定により満洲事変は停戦したが、中華民国政府は

(まんしゅうこくもにほんのまんしゅうせんりょうもみとめてはおらず、にほんぐんやちゅうごくきょうさんとうぐんとの)

満洲国も日本の満洲占領も認めてはおらず、日本軍や中国共産党軍との

(さんぱつてきなせんとうはつづいていた。1936ねん10がつにしょうかいせきはきょうさんとうぐんの)

散発的な戦闘は続いていた。1936年10月にしょう介石は共産党軍の

(こんきょちへのそうこうげきをめいじたが、こくみんとうぐんのみぶんながらきょうさんとうと)

根拠地への総攻撃を命じたが、国民党軍の身分ながら共産党と

(せっしょくしていたちょうがくりょうとようこじょうは、きょうさんとうへのこうげきをひかえていた。)

接触していた張学良と楊虎城は、共産党への攻撃を控えていた。

(12がつ12にちにちょうがくりょうとようこじょうはいわゆる「せいあんじけん」をおこし、ちょうがくりょうの)

12月12日に張学良と楊虎城はいわゆる「西安事件」を起こし、張学良の

(しんえいたいだい2いとなだい7れん120めいでしょうかいせきをらち、こうそくした。しかいせきのこうきんは、)

親衛隊第2営第7連120名でしょう介石を拉致、拘束した。し介石の拘禁は、

(しゃんはいやこくがいで「ちょうがくりょうのくーでたー」とほうじられ、)

上海や国外で「張学良のクーデター」と報じられ、

(そのあとのどうこうがちゃくもくされた。)

その後の動向が着目された。

(ちょうがくりょうとようこじょうはにほんぐんにたいしてちゅうごくきょうさんとうとのきょうとうをするよう)

張学良と楊虎城は日本軍に対して中国共産党との共闘をするよう

(ようきゅうしたが、かんきんされたしょうかいせきはちょうがくりょうらのようきゅうをきょうこうなたいどで)

要求したが、監禁されたしょう介石は張学良らの要求を強硬な態度で

(きょぜつした。さらにこくみんせいふはちょうがくりょうのかんしょくはくだつとぐんじとうばつをけんとうし、)

拒絶した。さらに国民政府は張学良の官職剥奪と軍事討伐を検討し、

(ぐんじいいんかいのきんきゅうきょうかをけっていした。また、ちゅうかみんこくぜんこくのしょうぐんから)

軍事委員会の緊急強化を決定した。また、中華民国全国の将軍から

(ちゅうおうせいふへのしじとちょうがくりょうとうばつをようせいするでんぽうが)

中央政府への支持と張学良討伐を要請する電報が

(こくみんせいふにぞくぞくととうちゃくしていった。)

国民政府に続々と到着していった。

(ちょうがくりょうのもくさんどおりにじんみんせんせんはおよびかくちしょうりょうがうごかず、せろんは)

張学良の目算通りに人民戦線派および各地将領が動かず、世論は

(ちょうがくりょうとはんたいのたちばであった。けいせいがふりとなったちょうがくりょうは、きたささえの)

張学良と反対の立場であった。形勢が不利となった張学良は、北支の

(えんしゃくざんのしたにとくしをはけんしてちょうていをいらい、だきょうじょうけんときゅうとうほくぐんの)

閻錫山の下に特使を派遣して調停を依頼、妥協条件と旧東北軍の

(しょちについてきょうぎをもとめた。またじじょうをしったせろんからもちょうがくりょうはつよい)

処置について協議を求めた。また事情を知った世論からも張学良は強い

(ひはんをあびることとなった。)

批判を浴びることとなった。

(12がつ23にちにいったんしょうかいせきとちょうがくりょうのわかいがせいりつしたが、2にちごの)

12月23日にいったんしょう介石と張学良の和解が成立したが、2日後の

(12がつ25にちにちょうがくりょうは「せいあんじけん」のはいぼくをらくようでみとめ、そのあとにしーあんに)

12月25日に張学良は「西安事件」の敗北を洛陽で認め、その後に西安に

(もどった。はんぎゃくざいによりちょうがくりょうはたいほされなんきんにれんこう、)

戻った。反逆罪により張学良は逮捕され南京に連行、

(そうしぶんこうかんにゆうへいされた。)

宋子文公館に幽閉された。

(しかしちょうはきょっけいやこくみんとうからえいきゅうじょめいにされず、12がつ31にちにぐんじいいんかい)

しかし張は極刑や国民党から永久除名にされず、12月31日に軍事委員会

(こうとうぐんぽうかいぎによりちょうえき10ねんのけいをうけたが、けっきょく1991ねんまで)

高等軍法会議により懲役10年の刑を受けたが、結局1991年まで

(こくみんとうからなんきんのみですごし、なんきんかいじょごの2001ねんに)

国民党から軟禁の身で過ごし、軟禁解除後の2001年に

(はわいのほのるるでしょうがいをとじた。しかしこのじけんをきっかけに、)

ハワイのホノルルで生涯を閉じた。しかしこの事件をきっかけに、

(こっきょうがっさくがすすむことになる。)

国共合作が進むことになる。

(にっちゅうせんそう)

日中戦争

(1937ねん2がつにかいさいされたちゅうごくこくみんとうのさんちゅうぜんかいのけっていにもとづき、)

1937年2月に開催された中国国民党の三中全会の決定に基づき、

(ちゅうかみんこくのなんきんこくみんせいふはこくないとういつのかんせいをせっきょくてきにすすめていた。)

中華民国の南京国民政府は国内統一の完成を積極的に進めていた。

(ちほうぐんばつにたいしてはさんせいしょうのえんしゃくざんにみんしゅうをせんどうしてはんえんしゃくざん)

地方軍閥に対しては山西省の閻錫山に民衆を扇動して反閻錫山

(うんどうをおこし、きんゆうもんだいによってはんしょうかいせきがわだったりそうじんとはくすうきを)

運動を起こし、金融問題によって反しょう介石側だった李宗仁と白崇禧を

(ちゅうおうにくっぷくさせ、しせんだいききんへのえんじょとひきかえにしせんしょうせいふしゅせきりゅうしょうは)

中央に屈服させ、四川大飢饉への援助と引き換えに四川省政府首席劉湘は

(ちゅうおうへのふくじゅうをせんげんし、そうてつげんのきさつせいふにはだいにじゅうきゅうぐんの)

中央への服従を宣言し、宋哲元の冀察政府には第二十九軍の

(こくぐんかようきゅうやきんゆうもんだいであつりょくをかけていた。)

国軍化要求や金融問題で圧力をかけていた。

(いっぽう、なんきんせいふは1936ねんはるごろからかくじゅうようちてんにたいにちぼうびのぐんじしせつを)

一方、南京政府は1936年春頃から各重要地点に対日防備の軍事施設を

(よういしはじめた。しゃんはいていせんきょうていできんしされたくいきないにもぐんじしせつをけんせつし、)

用意し始めた。上海停戦協定で禁止された区域内にも軍事施設を建設し、

(ほあんたいのにんずうもしょていのにんずうをこえ、じったいがぐんたいとなんらかわるもので)

保安隊の人数も所定の人数を超え、実態が軍隊と何ら変わるもので

(ないことをこうぎしたがちゅうごくがわからはせいじつなかいとうがだされなかった。)

ないことを抗議したが中国側からは誠実な回答が出されなかった。

(またなんきんせいふはさんとうしょうせいふしゅせきかんさかえくにはたらきかけたいにち)

また南京政府は山東省政府主席韓復榘に働きかけ対日

(ぐんじしせつをじゅんびさせ、にほんのしせつがおおいさんとうちいきに5こしをしゅうちゅうさせていた。)

軍事施設を準備させ、日本の施設が多い山東地域に5個師を集中させていた。

(このほかにもうめづ・かおうきんきょうていによってこくみんせいふのちゅうおうぐんととうぶが)

この他にも梅津・何応欽協定によって国民政府の中央軍と党部が

(かほくからたいきょさせられたあと、こくみんせいふはたすうのちゅうけんしょうこうをこくみんかくめいぐん)

河北から退去させられた後、国民政府は多数の中堅将校を国民革命軍

(だいにじゅうきゅうぐんにいりこませてこうにちのきうんをてっていさせることもいった。)

第二十九軍に入り込ませて抗日の気運を徹底させることも行った。

(しかし、だいにじゅうきゅうぐんはこうにちじけんにかんしてはりきたじけん、ぶだいじけんをはじめとし、)

しかし、第二十九軍は抗日事件に関して張北事件、豊台事件をはじめとし、

(ろこうきょうじけんまでのわずかなきかんだけでもほうじんのふほうとりしらべやかんきん・ぼうこう、)

盧溝橋事件までの僅かな期間だけでも邦人の不法取り調べや監禁・暴行、

(ぐんようでんわせんせつだんじけん、にほん・ちゅうごくれんらくようひこうのそしなど)

軍用電話線切断事件、日本・中国連絡用飛行の阻止など

(50けんいじょうのふほうじけんをおこしていた。)

50件以上の不法事件を起こしていた。

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