第二次世界大戦28

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(ろこうきょうじけんまえ、だいにじゅうきゅうぐんはこみんてるんしどうのした、ちゅうごくきょうさんとうが)

盧溝橋事件前、第二十九軍はコミンテルン指導の下、中国共産党が

(かんせいさせたこうにちじんみんせんせんのいちよくをにない、こくみんとうからのちゅうけんしょうこういがいにも)

完成させた抗日人民戦線の一翼を担い、国民党からの中堅将校以外にも

(ちゅうごくきょうさんとういんがかつどうしていた。ふくさんぼうながはりかつきゃんをはじめさんぼうどころ、)

中国共産党員が活動していた。副参謀長張克侠をはじめ参謀処の肖明、

(じょうほうどころながやすにんあき、いさくにだんだいたいちょうひょうひろしくに、しゅたいほう、いしんでん、)

情報処長靖任秋、軍訓団大隊長馮洪国、朱大鵬、尹心田、周茂蘭、

(かいいかおるらのちゅうごくきょうさんとういんはだいにじゅうきゅうぐんのかんぶであり、ほかにもぢゃんぢんうー、)

過家芳らの中国共産党員は第二十九軍の幹部であり、他にも張経武、

(しゅそくみん、しまあきららはしょうこうにたいするこうさくをおこない、ちゃんかつきゃんのしょうかいにより)

朱則民、劉昭らは将校に対する工作を行い、張克侠の紹介により

(はりともりょうはなんえんのさんぼうくんれんはんきょうかんのたちばでへいしのしそうきょういくをいっていた。)

張友漁は南苑の参謀訓練班教官の立場で兵士の思想教育を行っていた。

(だいにじゅうきゅうぐんはろこうきょうじけんより2かげつあまりまえの1937ねん4がつ、たいにちこうせんの)

第二十九軍は盧溝橋事件より2カ月余り前の1937年4月、対日抗戦の

(ぐたいあんをさくせいし、5がつから6がつにかけて、きたへいいち(げん:ぺきんし)のろこうきょう、)

具体案を作成し、5月から6月にかけて、北平市(現:北京市)の盧溝橋、

(ながからしてん(ちゅうごくごばん)ほうめんにおいてへいりょくをぞうきょうするとともにぐんじしせつを)

長辛店(中国語版)方面において兵力を増強するとともに軍事施設を

(きょうかし、7がつ6にち、7にちにはすでにたいにちこうせんのたいせいにはいっていた。)

強化し、7月6日、7日にはすでに対日抗戦の態勢に入っていた。

(しなちゅうとんほへいりょだんしなちゅうとんほへいだい1れんたいちょうむたぐちれんやたいさは、にほんぐん)

支那駐屯歩兵旅団支那駐屯歩兵第1連隊長牟田口廉也大佐は、日本軍

(へいしがちゅうごくへいからなぐられるなどのりょうぐんのこぜりあい(ぶだいじけん)の)

兵士が中国兵から殴られるなどの両軍の小競り合い(豊台事件)の

(ちゅうさいなどにじんりょくしていたが、1937ねん(しょうわ12ねん)7がつ7にちにえんしゅうちゅうの)

仲裁などに尽力していたが、1937年(昭和12年)7月7日に演習中の

(れんたいだい3だいたいにたいしてちゅうごくぐんがはっぽう、そのあと、ちゅうたいでじんいんてんこをいった)

連隊第3大隊に対して中国軍が発砲、その後、中隊で人員点呼を行った

(けっか、しょねんへいがひとりゆくえふめいであることがはんめいし、むたぐちが、しなちゅうとんぐん)

結果、初年兵が一人行方不明であることが判明し、牟田口が、支那駐屯軍

(しれいぶふ(きたひらとくむきかんちょう)まついたくろうしょうしょうなどと、ちゅうごくだいにじゅうきゅうぐんに)

司令部附(北平特務機関長)松井太久郎少将などと、中国第二十九軍に

(じじつかくにんしているさいちゅうにも、ちゅうごくがわからのはっぽうはつづき、むたぐちはげんち)

事実確認している最中にも、中国側からの発砲は続き、牟田口は現地

(しきかんからのこうせんきょかのもうしでにたいし、えっけんこういではんげきをきょかした。)

指揮官からの交戦許可の申し出に対し、越権行為で反撃を許可した。

(これでにほんぐんとちゅうごくぐんのしょうとつであるろこうきょうじけんがはっせいした。)

これで日本軍と中国軍の衝突である盧溝橋事件が発生した。

など

(そのあと、じょうかんのりょだんちょうかわべまさかずしょうしょうはむたぐちにていせんをめいじ、げんちぶたいかん)

その後、上官の旅団長河辺正三少将は牟田口に停戦を命じ、現地部隊間

(でのていせんこうしょうがおこなわれたが、ちゅうごくがわのじかんのばしにたいしてむたぐちは、)

での停戦交渉が行われたが、中国側の時間延ばしに対して牟田口は、

(しきかれんたいに「ちゅうごくぐんのきょうていいはんをみとめるや、ただちにいちげきをくわえる」と)

指揮下連隊に「中国軍の協定違反を認めるや、直ちに一撃を加える」と

(せんとうじゅんびをめいじ、てきじょうしさつのめいもくで1こしょうたいをりゅうおうびょうにはけんした。9にちに)

戦闘準備を命じ、敵情視察の名目で1個小隊を竜王廟に派遣した。9日に

(なってもしゃげきおんはなりやまず、れんたいのていさつへいがちゅうごくぐんじんちにむけて)

なっても射撃音は鳴りやまず、連隊の偵察兵が中国軍陣地に向けて

(しゃげきおんがなっているかしょにていさつにいくと、どんどをならしているちゅうごくじんを)

射撃音が鳴っている箇所に偵察に行くと、爆竹を鳴らしている中国人を

(はっけんした。ていさつへいがそのちゅうごくじんをとらえてじんもんすると、そのちゅうごくじんは)

発見した。偵察兵がその中国人を捕えて尋問すると、その中国人は

(せいかだいがくのだいがくせいであり、もうたくとうのしれいをうけて、にほんぐんとちゅうごくぐんが)

清華大学の大学生であり、毛沢東の指令を受けて、日本軍と中国軍が

(ぶりょくしょうとつするようこうさくしているとはくじょうした。そのあと、ていせんこうしょうちゅうにも)

武力衝突するよう工作していると白状した。その後、停戦交渉中にも

(かかわらず、たびかさなるちゅうごくがわのちょうはつにのったむたぐちは、さいどちゅうごくぐんにこうげきを)

関わらず、度重なる中国側の挑発にのった牟田口は、再度中国軍に攻撃を

(しかけてふたたびにっちゅうりょうぐんはげきとつした。しかし、げんちのしきかんのかわべは)

しかけて再び日中両軍は激突した。しかし、現地の指揮官の河辺は

(これいじょうのじけんのかくだいはのぞんでおらず、むたぐちにさいどのていせんをめいじると、)

これ以上の事件の拡大は望んでおらず、牟田口に再度の停戦を命じると、

(このあとはたいしかんつきりくぐんぶかんほさかんのいまいたけおしょうさらのじんりょくもあって、)

この後は大使館付陸軍武官補佐官の今井武夫少佐らの尽力もあって、

(7がつ11にちにちゅうごくがわがにほんのようきゅうをうけいれるかたちでげんちきょうていがちょういんされた。)

7月11日に中国側が日本の要求を受け入れる形で現地協定が調印された。

(むたぐちもこれでせんとうがおさまればとかんがえていたが、すでにちゅうごくでの)

牟田口もこれで戦闘が収まればと考えていたが、既に中国での

(せんせんかくだいはちゅうおうのほうしんとなっていた。)

戦線拡大は中央の方針となっていた。

(8がつ13にちにこのえないかくはかくぎにより、ちゅうごくへ3こしだんのぞうはをけっていし、)

8月13日に近衛内閣は閣議により、中国へ3個師団の増派を決定し、

(またどうじつにはいぎりす、ふらんす、あめりかのそうりょうじがにっちゅうりょうせいふに)

また同日にはイギリス、フランス、アメリカの総領事が日中両政府に

(にっちゅうりょうぐんのてったいとたこくせきぐんによるちあんいじをつたえたがせんとうはすでにかいし)

日中両軍の撤退と多国籍軍による治安維持を伝えたが戦闘はすでに開始

(かいししていた。8がつ14にちにはちゅうごくくうぐんはしゃんはいくうばくをおこなうがにほんぐんかんには)

していた。8月14日には中国空軍は上海空爆を行うが日本軍艦には

(めいちゅうせずしゃんはいそかいのかんらくがいをばくげき、がいこくじんをふくむせんすうひゃくにんのみんかんじん)

命中せず上海租界の歓楽街を爆撃、外国人を含む千数百人の民間人死傷者

(ししょうしゃがでた。つうしゅうじけんやだいにじしゃんはいじへん、きたひらせんりょうなどにっちゅうせんそうは)

死傷者が出た。通州事件や第二次上海事変、北平占領など日中戦争は

(またたくまにちゅうかみんこくぜんどにかくだいしていき、ついにだいにじせかいたいせんがよーろっぱで)

瞬く間に中華民国全土に拡大していき、ついに第二次世界大戦がヨーロッパで

(はじまるやく2ねん2かげつまえにぜんめんせんそうであるにっちゅうせんそうがはじまった。むたぐちは)

始まる約2年2か月前に全面戦争である日中戦争が始まった。牟田口は

(この3こしだんのぞうはがなければ、ふんそうはしぜんちんかしたはずで、げんちが)

この3個師団の増派がなければ、紛争は自然鎮火したはずで、現地が

(ふかくだいほうしんだったのに、ちゅうおうがせんせんかくだいをあおったとひはんしており、)

不拡大方針だったのに、中央が戦線拡大を煽ったと批判しており、

(ろこうきょうじけんがそのままにっちゅうぜんめんせんそうにかくだいしたように)

盧溝橋事件がそのまま日中全面戦争に拡大したように

(いわれるのはしんがいとものべている。)

言われるのは心外とも述べている。

(1937ねん8がつにちゅうかみんこくはちゅうそふかしんじょうやくをむすんで、それんくうぐんしがんたいと)

1937年8月に中華民国は中ソ不可侵条約を結んで、ソ連空軍志願隊と

(ともにざいはなそびえとぐんじこもんだんをさいしょうへいし、1941ねんににっそちゅうりつじょうやくが)

ともに在華ソビエト軍事顧問団を再招聘し、1941年に日ソ中立条約が

(むすばれるまでちゅうかみんこくぐんをえんじょしつづけた。しかしそのあともそれんは)

結ばれるまで中華民国軍を援助し続けた。しかしその後もソ連は

(ちゅうごくきょうさんとうなどへさまざまなえんじょをつづけた。)

中国共産党などへ様々な援助を続けた。

(「ぞるげちょうほうだん」、「おざきほつみ#せいけんちゅうすうへのせっきん」、および)

「ゾルゲ諜報団」、「尾崎秀実#政権中枢への接近」、および

(「べのな#かいどくではんめいしたこと」もさんしょう)

「ベノナ#解読で判明したこと」も参照

(あめりかのしんぶんのろんちょうは、いまだちょくせつかいにゅうをしゅちょうするものはすくなく、)

アメリカの新聞の論調は、未だ直接介入を主張するものは少なく、

(そのおおくはたいにちきょうこうさくをしじするものの、ろんせつはひじょうにおだやかであった。)

その多くは対日強硬策を支持するものの、論説は非常に穏やかであった。

(はんたいに、こりつしゅぎのたちばから、ちゅうかみんこくからのあめりかせいりょくの)

反対に、孤立主義の立場から、中華民国からのアメリカ勢力の

(かんぜんてったいろんをしゅちょうするものもあった。1938ねん1がつのぎゃらっぷちょうさに)

完全撤退論を主張するものもあった。1938年1月のギャラップ調査に

(よると、やく70%のあめりかじんがちゅうかみんこくからのかんぜんてったいをのぞみ、)

よると、約70%のアメリカ人が中華民国からの完全撤退を望み、

(こりつしゅぎてきたいどをしめしていた。)

孤立主義的態度を示していた。

(しかし1938ねん3がつにおきたどいつのおーすとりあへいごう(あんしゅるす)の)

しかし1938年3月に起きたドイツのオーストリア併合(アンシュルス)の

(よくしゅう、だい1じこのえないかくのしたでやとうははんたいせいりょくをうしない、にっちゅうせんそうを)

翌週、第1次近衛内閣の下で野党は反対勢力を失い、日中戦争を

(かんがみたこっかそうどういんほうがせいりつした。さらににっちゅうせんそうがはげしさをますなか、りくかいぐんの)

鑑みた国家総動員法が成立した。さらに日中戦争が激しさを増す中、陸海軍の

(つよいはんたいをうけて、にほんせいふは1936ねんべるりんおりんぴっくについで)

強い反対を受けて、日本政府は1936年ベルリンオリンピックに次いで

(1940ねんにかいさいされるよていであったあじあはつ、ゆうしょくじんしゅはつのおりんぴっく)

1940年に開催される予定であったアジア初、有色人種初のオリンピック

(であるさっぽろ・とうきょうおりんぴっくを7がつにへんじょうした。)

である札幌・東京オリンピックを7月に返上した。

(おうべいしょこくでもちゅうかみんこくないにそかいをおくくにはおおく、じこくのけんえきをまもるためも)

欧米諸国でも中華民国内に租界を置く国は多く、自国の権益を守るためも

(ありいぎりすやふらんす、あめりか、いたりあ、そしてにほんと「ごたいこく」は)

ありイギリスやフランス、アメリカ、イタリア、そして日本と「五大国」は

(こぞってそかいをおいた。そしてにほんとどうめいかんけいにあるにもかかわらず、)

こぞって租界を置いた。そして日本と同盟関係にあるにもかかわらず、

(そかいがあるいたりあやどいつなどしんちゅうてきなせいさくをとるくにもおおかった。)

租界があるイタリアやドイツなど親中的な政策をとる国も多かった。

(さらににっちゅうせんそうがおきるとにほんりくぐんとこれられっきょうのちゅうりゅうぐんとのあいだに)

さらに日中戦争が起きると日本陸軍とこれら列強の駐留軍との間に

(いざこざがおきはじめ、たとえばしゃんはいでのひゅーげっせんそうなんじけん、)

いざこざが起き始め、例えば上海でのヒューゲッセン遭難事件、

(ようすこうのぱないごうじけん、ぶこのれでぃばーどごうじけんなどがおきたが、)

揚子江のパナイ号事件、蕪湖のレディバード号事件等が起きたが、

(このえないかくのがいしょうひろたこうき(もとしゅしょう)がなんとかぜんしょし、いぎりすの)

近衛内閣の外相広田弘毅(元首相)が何とか善処し、イギリスの

(ろばーと・くれいぎーたいしとあめりかのじょせふ・ぐるーたいしから)

ロバート・クレイギー大使とアメリカのジョセフ・グルー大使から

(たかくひょうかされた。)

高く評価された。

(にちどくいのきゅうせっきん)

日独伊の急接近

(なおじょうきのように、なちす・どいつのきょくとうせいさくは、1936ねん11がつに)

なお上記のように、ナチス・ドイツの極東政策は、1936年11月に

(ひろたないかくかのにほんとにちどくぼうきょうきょうていをむすぶいっぽうで、ちゅうどくがっさくで)

広田内閣下の日本と日独防共協定を結ぶ一方で、中独合作で

(ちゅうかみんこくともむすばれていた。)

中華民国とも結ばれていた。

(ちゅうかみんこくはこうしょうきをどいつにはけんしひとらーとかいだん、どいつぐんは)

中華民国は孔祥熙をドイツに派遣しヒトラーと会談、ドイツ軍は

(にっちゅうせんそうをたたかうちゅうかみんこくぐんに、しょうかいせきのこじんこもんとしてちゅうじょう)

日中戦争を戦う中華民国軍に、しょう介石の個人顧問として中将

(あれくさんだー・ふぉん・ふぁるけんはうぜんをどいつぐんことこもんだんだんちょう)

アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼンをドイツ軍事顧問団団長

(としてはけんするなど、どいつはにほんとちゅうかみんこくとのあいだでおおきく)

として派遣するなど、ドイツは日本と中華民国との間で大きく

(ゆれていた。1937ねん5がつにはぐんじこもんだんは100めいをこえるまで)

揺れていた。1937年5月には軍事顧問団は100名を超えるまで

(ふくれあがり、なちすせいけんほっそくまえの1928ねんの30めいからおおきく)

膨れ上がり、ナチス政権発足前の1928年の30名から大きく

(ぞうかしていた。なちとうのよあひむ・ふぉん・りっべんとろっぷらは)

増加していた。ナチ党のヨアヒム・フォン・リッベントロップ等は

(にほんとのれんけいをじゅうししていたが、どいつがいむしょうではにほんとのきょうていに)

日本との連携を重視していたが、ドイツ外務省では日本との協定に

(かえしちゅうかみんこくはがゆうせいだった。さらにどいつはもりぶでんや)

反し中華民国派が優勢だった。さらにドイツはモリブデンや

(ぼーきさいとなどのぐんようしゃりょう・こうくうきせいさんにひつようなげんざいりょうをにゅうしゅ)

ボーキサイト等の軍用車両・航空機生産に必要な原材料を入手

(するために、ちゅうかみんこくとばーたーとりひきをいっていた。)

するために、中華民国とバーター取引を行っていた。

(しかし1937ねん7がつににっちゅうせんそうがはじまると、にほんからのこうぎをうけ)

しかし1937年7月に日中戦争が始まると、日本からの抗議を受け

(ちゅうかみんこくにはけんされていたどいつぐんことこもんだんはてっしゅう、いたりあにつづき)

中華民国に派遣されていたドイツ軍事顧問団は撤収、イタリアに続き

(どいつせいぶきのきょうきゅうもていしすることになり、かんぜんにしんちゅうははとめを)

ドイツ製武器の供給も停止することになり、完全に親中派は止めを

(さされた。さらにちゅうかみんこくが1937ねん8がつ21にちにむすんだちゅうそふかしんじょうやくに)

刺された。さらに中華民国が1937年8月21日に結んだ中ソ不可侵条約に

(よりひとらーのたいどはこうかし、ちゅうごくけいろびいすとやどいつじんとうしかから)

よりヒトラーの態度は硬化し、中国系ロビイストやドイツ人投資家から

(しつようなこうぎをうけてもかわらなかった。ひとらーは、ちゅうごくからのすでに)

執拗な抗議を受けても変わらなかった。ヒトラーは、中国からの既に

(ちゅうもんすみのしなのゆしゅつのぼうがいこそしなかったものの、いごあらたなたいちゅうゆしゅつが)

注文済みの品の輸出の妨害こそしなかったものの、以後新たな対中輸出が

(みとめられることはなかった。しかし、はいんけるやふぉっけうるふなどの)

認められることはなかった。しかし、ハインケルやフォッケウルフなどの

(どいつせいのぶきのげんきんちょうたつはにほんのこうぎをうけながらも、)

ドイツ製の武器の現金調達は日本の抗議を受けながらも、

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