第二次世界大戦29

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(ちゅうかみんこくとのけいやくがかんぜんにきれる1938ねんなかごろまでつづいた。)

中華民国との契約が完全に切れる1938年中頃まで続いた。

(どいつはざいはなたいしおすかー・とらうとまんをかいして、ちゅうかみんこくとにほんの)

ドイツは在華大使オスカー・トラウトマンを介して、中華民国と日本の

(わへいこうしょうをちゅうかいしようとしたが、1937ねん12がつになんきんがかんらくしてからは、)

和平交渉を仲介しようとしたが、1937年12月に南京が陥落してからは、

(りょうこくがなっとくできるようなわかいかんこくをすることはできず、どいつちゅうかいに)

両国が納得できるような和解勧告をすることはできず、ドイツ仲介に

(よるきゅうせんのかのうせいはまったくうしなわれた。1938ねんぜんはんに、どいつはまんしゅうこくを)

よる休戦の可能性は全く失われた。1938年前半に、ドイツは満洲国を

(せいしきにしょうにんした。そのとしの4がつ、へるまん・げーりんぐにより、)

正式に承認した。その年の4月、ヘルマン・ゲーリングにより、

(ちゅうかみんこくへのぐんじゅぶっしのゆしゅつがきんしされた。さらにどう5がつにはにほんの)

中華民国への軍需物資の輸出が禁止された。さらに同5月には日本の

(ようせいをききいれ、どいつはこもんだんをかんぜんにひきあげた。またどうねん8がつから)

要請を聞き入れ、ドイツは顧問団を完全に引き上げた。また同年8月から

(11がつにかけては、ひとらーゆーげんとのほうにちが)

11月にかけては、ヒトラーユーゲントの訪日が

(おこなわれるなどりょうこくのしんみつなかんけいはつづいた。)

行われるなど両国の親密な関係は続いた。

(いっぽう、てんしんにそかいをもついたりあも、1930ねんだいちゅうばんにもとざいむしょう)

一方、天津に租界を持つイタリアも、1930年代中盤に元財務相

(あるべると・で・すてーふぁにをきんゆうざいせいこもんとして、さらにくうぐんこもんの)

アルベルト・デ・ステーファニを金融財政顧問として、さらに空軍顧問の

(ろべると・ろるでぃしょうぐんとかいぐんこもんをちゅうかみんこくにじょうちゅうさせ、ふぃあっとや)

ロベルト・ロルディ将軍と海軍顧問を中華民国に常駐させ、フィアットや

(らんちあ、そちぇた・いたりあーな・かぷろにやあんさるどなどの)

ランチア、ソチェタ・イタリアーナ・カプロニやアンサルドなどの

(いたりあせいのへいきをにほんからのこうぎをうけつつもたいりょうにゆしゅつし、)

イタリア製の兵器を日本からの抗議を受けつつも大量に輸出し、

(がいかをかくとくした。)

外貨を獲得した。

(しかし、1935ねんにはじまっただいにじえちおぴあせんそうでのたいいたりあ)

しかし、1935年に始まった第二次エチオピア戦争での対イタリア

(けいざいせいさいにちゅうかみんこくがさんどうしたことにたいして、しゃんはいそうりょうじとして)

経済制裁に中華民国が賛同したことに対して、上海総領事として

(きんむしたけいけんもあったいがいしょうがれあっつぉ・ちゃーのは「いかん」とし)

勤務した経験もあった伊外相ガレアッツォ・チャーノは「遺憾」とし

(かんけいがあっかした。さらににっちゅうせんそうがぼっぱつした4かげつごの1937ねん11がつには)

関係が悪化した。さらに日中戦争が勃発した4か月後の1937年11月には

など

(にちどくについでぼうきょうきょうていにちょういんし、ここににちどくいさんごくぼうきょうきょうていとなった。)

日独に次いで防共協定に調印し、ここに日独伊三国防共協定となった。

(さらに1938ねん5がつから6がつにかけて、いたりあはだいきぼなけいざいしせつだんを)

さらに1938年5月から6月にかけて、イタリアは大規模な経済使節団を

(にほんとまんしゅうこくにおくり、ながさきからきょうと、なごや、とうきょうなどぜんこくをしさつし、)

日本と満洲国に送り、長崎から京都、名古屋、東京など全国を視察し、

(てんのうやかくりょう、さらにかくちのしょうこうかいぎしょなどがかんげいにあたった。そのあと)

天皇や閣僚、さらに各地の商工会議所などが歓迎に当たった。その後

(8がつにいたりあはちゅうかみんこくへのこうくうきばいきゃくをていしし、12がつにはどいつに)

8月にイタリアは中華民国への航空機売却を停止し、12月にはドイツに

(ついでそらかいぐんこもんだんのかんぜんてったいをけってい。かんぜんににほんじゅうしとなった。さらに)

次いで空海軍顧問団の完全撤退を決定。完全に日本重視となった。さらに

(どうねん11がつ、いたりあはまんしゅうこくをしょうにんし、りょうこくはこうしかんをおきせいしきな)

同年11月、イタリアは満洲国を承認し、両国は公使館を置き正式な

(がいこうかんけいをかいししている。)

外交関係を開始している。

(これらのへんれいもあり、にほんりくぐんやまんしゅうりくぐんはいたりあからのこうくうきや)

これらの返礼もあり、日本陸軍や満洲陸軍はイタリアからの航空機や

(せんしゃ、じどうしゃやせんぱくなどのちょうたつをすすめ、あいついでにっちゅうせんそうのせんじょうにとうにゅう)

戦車、自動車や船舶などの調達を進め、相次いで日中戦争の戦場に投入

(した。またいたりあもまんしゅうこくからのだいずのぜんゆしゅつりょうが5%をしめ、)

した。またイタリアも満洲国からの大豆の全輸出量が5%を占め、

(あめりかからのゆにゅうをていしするなど、いたりあもどいつもかんぜんに)

アメリカからの輸入を停止するなど、イタリアもドイツも完全に

(どうめいかんけいにあるにほんじゅうしとなる。)

同盟関係にある日本重視となる。

(なお、ちゅうかみんこくはどいつやいたりあとのぶきのけいやくがきれたあと、)

なお、中華民国はドイツやイタリアとの武器の契約が切れた後、

(すぐさまこれらとのかんけいがあっかしている、あめりかやそれん、いぎりすや)

すぐさまこれらとの関係が悪化している、アメリカやソ連、イギリスや

(ふらんすとのぶきちょうたつけいやくをむすび、1939ねんいこうはこれらのくにがおもな)

フランスとの武器調達契約を結び、1939年以降はこれらの国が主な

(ぶきのちょうたつさきとなった。)

武器の調達先となった。

(おとぽーるじけんとゆだやじんたいさくようこう)

オトポール事件とユダヤ人対策要綱

(どいつでは、なちとうせいけんはこくみんからのぜつだいなしじをうけ、くにたんいで)

ドイツでは、ナチ党政権は国民からの絶大な支持を受け、国単位で

(はんゆだやしゅぎせいさくをすすめていたが、どうめいこくのにほんではよーろっぱかっこくで)

反ユダヤ主義政策を進めていたが、同盟国の日本ではヨーロッパ各国で

(おこなわれているようなゆだやじんさべつなどはれきしてきにかいむであり、むしろ)

行われているようなユダヤ人差別などは歴史的に皆無であり、むしろ

(にほんではみんかんぐんによるゆだやじんようごがどいつせいふのはんたいをうけつつ、)

日本では民官軍によるユダヤ人擁護がドイツ政府の反対を受けつつ、

(1930ねんだいこうはんから1945ねんのしゅうせんまでおこなわれた。)

1930年代後半から1945年の終戦まで行われた。

(1937ねん3がつ8にちに、ゆだやじん18にんががいかからのがれるため、まんよみがえりこっきょうぞいに)

1937年3月8日に、ユダヤ人18人が害下から逃れるため、満蘇国境沿いに

(あるしべりあてつどうのおとぽーるえき(げん:ざばいかりすくえき)までにげて)

あるシベリア鉄道のオトポール駅(現:ザバイカリスク駅)まで逃げて

(きていた。しかし、ぼうめいさきであるしゃんはいそかいにとうたつするためにとおらなければ)

来ていた。しかし、亡命先である上海租界に到達するために通らなければ

(ならないまんしゅうこくのがいこうぶがにゅうこくのきょかをしぶり、かれらはあしどめされていた。)

ならない満洲国の外交部が入国の許可を渋り、彼らは足止めされていた。

(きょくとうゆだやじんきょうかいのだいひょうのあぶらはむ・かうふまんはかせからそうだんをうけた)

極東ユダヤ人協会の代表のアブラハム・カウフマン博士から相談を受けた

(にほんりくぐんのりくぐんしょうしょうひぐちきいちろうはそのきゅうじょうをみかねて、ちょくぞくのぶかで)

日本陸軍の陸軍少将樋口季一郎はその窮状を見かねて、直属の部下で

(あったかわむらあいぞうしょうさらとともにそくじつゆだやじんへのきゅうしょくといるい・ねんりょうのはいきゅう、)

あった河村愛三少佐らと共に即日ユダヤ人への給食と衣類・燃料の配給、

(そしてようきゅうごしゃへのかりょうをじっし、さらにはこうちゃくじょうたいにあったしゅっこくのあっせん、)

そして要救護者への加療を実施、さらには膠着状態にあった出国の斡旋、

(まんしゅうこくないへのにゅうしょくやしゃんはいそかいへのいどうのてはいなどをいった。これでのがれる)

満洲国内への入植や上海租界への移動の手配等を行った。これで逃れる

(ことができたゆだやじんのかずはすうせんにんから2まんにんともいわれる。)

ことができたユダヤ人の数は数千人から2万人ともいわれる。

(にほんはにちどくぼうきょうきょうていをむすんだどいつのどうめいこくだったが、ひぐちは)

日本は日独防共協定を結んだドイツの同盟国だったが、樋口は

(みなみまんしゅうてつどうのそうさいまつおかようすけにじかだんぱんしてりょうしょうをとりつけ、ゆだやなんみんに)

南満洲鉄道の総裁松岡洋右に直談判して了承を取り付け、ユダヤ難民に

(むけたまんてつのとくべつれっしゃでしゃんはいにだっしゅつさせた。)

向けた満鉄の特別列車で上海に脱出させた。

(これは「おとぽーるじけん」とよばれることとなる。)

これは「オトポール事件」と呼ばれることとなる。

(このじけんはにちどくかんのおおきながいこうもんだいとなり、にほんにはどいつの)

この事件は日独間の大きな外交問題となり、日本にはドイツの

(りっべんとろっぷがいしょうからのこうぎぶんしょがとどいた。また、りくぐんないぶでも)

リッベントロップ外相からの抗議文書が届いた。また、陸軍内部でも

(ひぐちへのひはんがいちぶでたかまり、かんとうぐんないぶではひぐちにたいするしょぶんを)

樋口への批判が一部で高まり、関東軍内部では樋口に対する処分を

(もとめるこえがたかまった。そのようななか、ひぐちはかんとうぐんしれいかん)

求める声が高まった。そのような中、樋口は関東軍司令官

(うえだけんきちたいしょうにみずからのかんがえをのべたてがみをおくり、しれいぶにしゅっとうし)

植田謙吉大将に自らの考えを述べた手紙を送り、司令部に出頭し

(かんとうぐんそうさんぼうちょうとうじょうひできちゅうじょうとめんかいしたさいには)

関東軍総参謀長東條英機中将と面会した際には

(「ひとらーのおさきぼうをかついで(ゆだやじんにたいする)よわいものいじめすること)

「ヒトラーのおさき棒を担いで(ユダヤ人に対する)弱い者苛めすること

(をただしいとおもわれますか」とはつげんしたとされる。このことばにりかいをしめした)

を正しいと思われますか」と発言したとされる。この言葉に理解を示した

(とうじょうは、ひぐちをふもんとした。)

東條は、樋口を不問とした。

(とうじょうのはんだんと、そのけっていをうえだしれいもしじしたことからかんとうぐんないぶからの)

東條の判断と、その決定を植田司令も支持したことから関東軍内部からの

(ひぐちにたいするしょぶんようきゅうはしたびになり、どいつこくからのさいさんにわたるこうぎ)

樋口に対する処分要求は下火になり、ドイツ国からの再三にわたる抗議

(も、とうじょうは「とうぜんなるじんどうじょうのはいりょによっていったものだ」とすべていっしゅうした。)

も、東條は「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」と全て一蹴した。

(またどうねん12がつにだい1かいきょくとうゆだやじんたいかいがまんしゅうこくでかいさいされたさいに、)

また同年12月に第1回極東ユダヤ人大会が満洲国で開催された際に、

(このせきでひぐちしょうしょうは、ぜんねんににちどくぼうきょうきょうていをていけつしたばかりのどうめいこくで)

この席で樋口少将は、前年に日独防共協定を締結したばかりの同盟国で

(あるどいつのはんゆだやせいさくをはげしくひはんするしゅくじをおこない、「ゆだやじん)

あるドイツの反ユダヤ政策を激しく批判する祝辞を行い、「ユダヤ人

(ついほうのまえに、かれらにとちをあたえよ」といい、れっせきしたゆだやじんらのかっさいを)

追放の前に、彼らに土地を与えよ」と言い、列席したユダヤ人らの喝采を

(あびた。これをしったどいつのりっべんとろっぷがいしょうは、ちゅうにち)

浴びた。これを知ったドイツのリッベントロップ外相は、駐日

(どいつとくめいぜんけんたいしをつうじてすぐさまこうぎしたが、じょうしにあたるとうじょうが)

ドイツ特命全権大使を通じてすぐさま抗議したが、上司に当たる東條が

(ひぐちをようごし、どいつがわもそれいじょうのきょうこうなたいどにでなかったため、)

樋口を擁護し、ドイツ側もそれ以上の強硬な態度に出なかったため、

(ことなきをえた。)

事無きを得た。

(さらにどうげつにはにほんせいふが、ごしょうかいぎでじんしゅびょうどうのげんそくによりゆだやじんを)

さらに同月には日本政府が、五相会議で人種平等の原則によりユダヤ人を

(はいせきせず、しょがいこくじんとどうとうにこうせいにあつかう「ゆだやじんたいさくようこう」をさくせい。)

排斥せず、諸外国人と同等に公正に扱う「猶太人対策要綱」を作成。

(ゆだやなんみんのいじゅうけいかくである「ふぐけいかく」で、せかいでゆいいつゆだやじん)

ユダヤ難民の移住計画である「河豚計画」で、世界で唯一ユダヤ人

(ほごをこくさくとしてせんげんした。またそのあともにほんせいふは「ゆだやじんは)

保護を国策として宣言した。またその後も日本政府は「ユダヤ人は

(がいこくせきほゆうしゃとどうようにあつかい、どいつこくせきをもつゆだやじんはしろけいろしあじん)

外国籍保有者と同様に扱い、ドイツ国籍を持つユダヤ人は白系ロシア人

(とどうようにむこくせきしゃとしてとりあつかう」とし、ゆだやじんにかんようなほごのけいぞくを)

と同様に無国籍者として取り扱う」とし、ユダヤ人に寛容な保護の継続を

(めいかくにしじしていた。)

明確に指示していた。

(どいつでは1938ねん11がつ9にちにすいしょうのよるがおき、ひとらーひきいるどいつせいふ)

ドイツでは1938年11月9日に水晶の夜が起き、ヒトラー率いるドイツ政府

(のゆだやじんへのはくがいがさらにかげきさをましたが、1939ねん6がつにはおやどくくにの)

のユダヤ人への迫害がさらに過激さを増したが、1939年6月には親独国の

(まんしゅうこくちゅうべるりんこうしかんしょきかんのおうかえおっとがゆだやなんみんにびざをはっきゅうをかいし)

満洲国駐ベルリン公使館書記官の王替夫がユダヤ難民にビザを発給を開始

(した。これは1940ねん5がつまでつづき、ゆだやなんみんふくむごうけい)

した。これは1940年5月まで続き、ユダヤ難民含む合計

(12,000にんいじょうがしゅっこくできた。)

12,000人以上が出国できた。

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