第二次世界大戦30

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(のもんはんじけん)

ノモンハン事件

(1939ねん5がつからどうねん9がつにかけて、かんとうぐんとそれんぐんのあいだで、)

1939年5月から同年9月にかけて、関東軍とソ連軍の間で、

(まんしゅうこくともんごるじんみんきょうわこくのあいだのこっきょうせんをめぐって)

満洲国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって

(にっそこっきょうふんそう(まんもうこっきょうふんそう)がだんぞくてきにはっせいした。)

日ソ国境紛争(満蒙国境紛争)が断続的に発生した。

(なおまんもうこっきょうでは、にっそりょうぐんともさいぜんせんにはへいりょくをはいちせず、)

なお満蒙国境では、日ソ両軍とも最前線には兵力を配置せず、

(それぞれまんしゅうこくぐんともんごるぐんにけいびをゆだねていたが、にっそりょうぐんの)

それぞれ満洲国軍とモンゴル軍に警備を委ねていたが、日ソ両軍の

(せんりょくばらんすは、それんぐんがにほんぐんの3ばいいじょうのぐんじりょくをゆうしていた。)

戦力バランスは、ソ連軍が日本軍の3倍以上の軍事力を有していた。

(これにたいしにほんぐんもぐんびぞうきょうをすすめたが、にっちゅうせんそうのぼっぱつで)

これに対し日本軍も軍備増強を進めたが、日中戦争の勃発で

(ちゅうごくせんせんでのへいりょくじゅようがふえたえいきょうもあってよういにはすすまず、)

中国戦線での兵力需要が増えた影響もあって容易には進まず、

(1939ねんじてんではにほん11こほへいしだんにたいし)

1939年時点では日本11個歩兵師団に対し

(それん30こほへいしだんであった。)

ソ連30個歩兵師団であった。

(5がつにはっせいしたのもんはんじけんはまんしゅうこくぐんともんごるじんみんぐんのしょうとつに)

5月に発生したノモンハン事件は満洲国軍とモンゴル人民軍の衝突に

(はしをはっし、りょうこくのうしろだてとなったにほんりくぐんとそびえとせきぐんがせんとうを)

端を発し、両国の後ろ盾となった日本陸軍とソビエト赤軍が戦闘を

(てんかいし、いちれんのにっそこっきょうふんそうのなかでもさいだいきぼのぐんじしょうとつとなった。)

展開し、一連の日ソ国境紛争の中でも最大規模の軍事衝突となった。

(のもんはんじけんはとちゅうでせんとうがしょうこうじょうたいとなるきかんをはさんで、)

ノモンハン事件は途中で戦闘が小康状態となる期間を挟んで、

(だいいちじのもんはんじけん(5がつ11にち-31にち)とだいにじのもんはんじけん)

第一次ノモンハン事件(5月11日 - 31日)と第二次ノモンハン事件

((6がつ27にち-9がつ16にち)にわけられるが、だいにじのもんはんじけんの)

(6月27日 - 9月16日)に分けられるが、第二次ノモンハン事件の

(とちゅうまでは、にほんとそびえとせきぐんのせんりょくがきっこうしており、りょうぐんいっしんいちのけを)

途中までは、日本とソビエト赤軍の戦力が拮抗しており、両軍一進一退を

(くりかえしていた。げんちぐんのずさんなせんとうにごうをにやしたすたーりんは、)

繰り返していた。現地軍の杜撰な戦闘に業を煮やしたスターリンは、

(そうしれいかんをこうてつすると、しんらいするげおるぎー・じゅーこふをそうしれいかんに)

総司令官を更迭すると、信頼するゲオルギー・ジューコフを総司令官に

など

(にんじ、たいりょうのぞうえんもおくりこんだ。いっぽうで、しょうわてんのうをいをうけた)

任じ、大量の増援も送り込んだ。一方で、昭和天皇を意を受けた

(りくぐんさんぼうほんぶがせんとうふかくだいほうしんで、ほとんどぞうえんもおくられなかったにほんぐん)

陸軍参謀本部が戦闘不拡大方針で、ほとんど増援も送られなかった日本軍

(は、それんぐんのすうばいのほへいとたいりょうのせんしゃ・そうこうしゃによるじゅうしんこうげきにより)

は、ソ連軍の数倍の歩兵と大量の戦車・装甲車による縦深攻撃により

(ほういせんめつされ、もんごるりょうないからげきたいされることとなった。あっとうてきな)

包囲殲滅され、モンゴル領内から撃退されることとなった。圧倒的な

(それんせきぐんににほんぐんはかんとうし、りょうぐんのそんがいはにほんぐんがししょうしゃ)

ソ連赤軍に日本軍は敢闘し、両軍の損害は日本軍が死傷者

(16,773にんにたいしてそびえとせきぐんのししょうしゃは25,655にんと)

16,773人に対してソビエト赤軍の死傷者は25,655人と

(そびえとせきぐんのそんがいがはるかにおおきかったが、せんりゃくてきにはそれんぐんのしょうりで)

ソビエト赤軍の損害が遥かに大きかったが、戦略的にはソ連軍の勝利で

(あり、そうしれいかんじゅーこふのみかたのそんがいどがいしでのじゅうしんこうげきはあとの)

あり、総司令官ジューコフの味方の損害度外視での縦深攻撃は後の

(どくそせんでもういをふるうこととなった。)

独ソ戦で猛威を振るうこととなった。

(どくそふかしんじょうやくていけつとぼうきょうきょうていいはん)

独ソ不可侵条約締結と防共協定違反

(そのようななかでおきた8がつ23にちのどくそふかしんじょうやくのていけつは、どいつと)

そのような中で起きた8月23日の独ソ不可侵条約の締結は、ドイツと

(ぼうきょうきょうていをもちしんみつなかたわら、それんとのもんはんじけんをつうじてきたいかんけいに)

防共協定を持ち親密な傍ら、ソ連とノモンハン事件を通じ敵対関係に

(あるにほんにしょうげきをあたえた。)

ある日本に衝撃を与えた。

(このじょうやくとどうじにひみつぎていしょがていけつされていた。これはひがしよーろっぱと)

この条約と同時に秘密議定書が締結されていた。これは東ヨーロッパと

(ふぃんらんどをどいつとそびえとのせいりょくはんいにわけ、そうごのけんえきを)

フィンランドをドイツとソビエトの勢力範囲に分け、相互の権益を

(そんちょうしつつ、あいてこくのしんしゅつをしょうにんするというせいかくをもっていた。)

尊重しつつ、相手国の進出を承認するという性格を持っていた。

(どくそふかしんじょうやくのていけつをうけて、とうじのしゅしょうひらぬまきいちろうは)

独ソ不可侵条約の締結を受けて、当時の首相平沼騏一郎は

(「おうしゅうのてんちはふくざつかいき」とのことばをのこし、どいつのぼうきょうきょうていいはんという)

「欧洲の天地は複雑怪奇」との言葉を残し、ドイツの防共協定違反という

(じゅうだいなせいじせきにんから8がつ28にちにそうじしょくした。またどいつせいふと)

重大な政治責任から8月28日に総辞職した。またドイツ政府と

(「みつげつのなか」でしられたはずのおおしまひろしたいしも、それんとののもんはんじけんが)

「蜜月の仲」で知られたはずの大島浩大使も、ソ連とのノモンハン事件が

(おきるなかで、どうめいこくのどいつからこのていけつをまえもってしらされなかった)

起きる中で、同盟国のドイツからこの締結を前もって知らされなかった

(せきにんをとり、そくざにべるりんよりきちょうをめいぜられた(きこくごの12がつ27にちに)

責任を取り、即座にベルリンより帰朝を命ぜられた(帰国後の12月27日に

(たいしいがんめんしょくした)。)

大使依願免職した)。

(また、これいごのどいつとのこうしょうはいっさいちゅうしとなるなど、にほんのせいかいも)

また、これ以後のドイツとの交渉は一切中止となるなど、日本の政界も

(ゆるがすだいこんらんとなった。なおつぎのちゅうどくたいしには、おおしまとはぎゃくに)

揺るがす大混乱となった。なお次の駐独大使には、大島とは逆に

(どいつとのたいどくどうめいにかいぎてきで「しんべい」といわれたくるすさぶろうがついだ。)

ドイツとの対独同盟に懐疑的で「親米」といわれた来栖三郎が継いだ。

(だいにじせかいたいせんかいせんとたいどくどうめいはのていたい)

第二次世界大戦開戦と対独同盟派の停滞

(さらに9がつ1にちにどいつがぽーらんどにしんこうした。これにたいして)

さらに9月1日にドイツがポーランドに侵攻した。これに対して

(9がつ3にちにいぎりすとふらんすがどいつにせんせんふこくし、ついに)

9月3日にイギリスとフランスがドイツに宣戦布告し、ついに

(よーろっぱでだいにじせかいたいせんがぼっぱつした。)

ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発した。

(どくそふかしんじょうやくのていけつを、にちどくぼうきょうきょうていをていけつしたばかりのどうめいこくで)

独ソ不可侵条約の締結を、日独防共協定を締結したばかりの同盟国で

(あるにほんにじぜんつうこくをしなかっただけでなく、ぽーらんどへのさんせん)

ある日本に事前通告をしなかっただけでなく、ポーランドへの参戦

((とそれについでおきることがよそうできたいぎりすとふらんすの)

(とそれに次いで起きることが予想できたイギリスとフランスの

(どいつさんせん)も、いっさいにほんへのじぜんつうこくがなかったどいつとのかんけいは)

ドイツ参戦)も、一切日本への事前通告がなかったドイツとの関係は

(かいめつてきなものとなり、たびかさなるどいつのどうめいこくむしのたいどにおこったにほん)

壊滅的なものとなり、度重なるドイツの同盟国無視の態度に怒った日本

(は、にちどくぼうきょうきょうていをむししてさんせんしなかった。)

は、日独防共協定を無視して参戦しなかった。

(またちょくぜんの8がつ30にちににんめいされたあべないかくもわずか140にちあまりとたんめいに)

また直前の8月30日に任命された阿部内閣もわずか140日余りと短命に

(おわり、にほんせいふないのたいどくどうめい(おやどく)はのいきおいは)

終わり、日本政府内の対独同盟(親独)派の勢いは

(ここでかんぜんにていたいした。)

ここで完全に停滞した。

(なおよーろっぱではいたりあもさんせんせず、おらんだとべるぎー、)

なおヨーロッパではイタリアも参戦せず、オランダとベルギー、

(あいるらんど、そしてあめりかもちゅうりつをせんげんしたが、あとにどいつは)

アイルランド、そしてアメリカも中立を宣言したが、後にドイツは

(おらんだとべるぎーのちゅうりつせんげんをむししこうげきすることになる。)

オランダとベルギーの中立宣言を無視し攻撃することになる。

(のもんはんじけんのしゅうえんとそれんのぽーらんどしんこう)

ノモンハン事件の終焉とソ連のポーランド侵攻

(しょうさいは「そびえとれんぽうによるぽーらんどしんこう」をさんしょう)

詳細は「ソビエト連邦によるポーランド侵攻」を参照

(もすくわでは、9がつ14にちからにほんのとうごうしげのりちゅうそとくめいぜんけんたいしとそれんの)

モスクワでは、9月14日から日本の東郷茂徳駐ソ特命全権大使とソ連の

(ヴゃちぇすらふ・もろとふがいむだいじんとのあいだでていせんこうしょうがすすめられていた。)

ヴャチェスラフ・モロトフ外務大臣との間で停戦交渉が進められていた。

(それんがわはゆうりにせんそうをすすめておりきょうこうなしせいでこうしょうにのぞんでいた。)

ソ連側は有利に戦争を進めており強硬な姿勢で交渉に臨んでいた。

(しかし、もすくわにぜんせんほうめんぐんしれいしゅてるんから、「にほんぐんが)

しかし、モスクワに前線方面軍司令シュテルンから、「日本軍が

(4こしだんいじょうのだいへいりょくをしゅうけつさせ、どんなにぎせいをはらっても8がつのはいせんの)

4個師団以上の大兵力を集結させ、どんなに犠牲を払っても8月の敗戦の

(ほうふくにでるべくじゅんびをすすめている」とのほうこくがあがっており、それんがわは)

報復に出るべく準備を進めている」との報告が挙がっており、ソ連側は

(にほんぐんがこうせいにてんじれば、いままでのせんとうけいかからみてかなりちょうきの)

日本軍が攻勢に転じれば、今までの戦闘経過から見てかなり長期の

(しょうもうせんになるとけねんしていた。)

消耗戦になると懸念していた。

(それんはこのあとにどいつとのみつやくによるぽーらんどしんこうをけいかくしており、)

ソ連はこの後にドイツとの密約によるポーランド侵攻を計画しており、

(のもんはんとぽーらんどのにほうつらつくりせんはかいひしたくていせんをいそぐひつようが)

ノモンハンとポーランドの二方面作戦は回避したく停戦を急ぐ必要が

(あった。とうじのそれんはぽーらんどしんこうのみつやくのほかにも、ふぃんらんどや)

あった。当時のソ連はポーランド侵攻の密約の他にも、フィンランドや

(とるこへのしんしゅつをけいかくしており、かくちでひんぱつするふんそうじけんをかかえて)

トルコへの進出を計画しており、各地で頻発する紛争事件を抱えて

(もろとふはひろうこんぱい(こんぱい)していた。そこですたーりんからの)

モロトフは疲労困憊(こんぱい)していた。そこでスターリンからの

(けっさいをえて、9がつ15にちにていせんごういにいたった。にほんとのたたかいのしんぱいも)

決裁を得て、9月15日に停戦合意に至った。日本との戦いの心配も

(なくなったそれんは、どくそふかしんじょうやくのひみつぎていしょにもとづき9がつ17にちに)

なくなったソ連は、独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づき9月17日に

(それん・ぽーらんどふかしんじょうやくをいっぽうてきにはきし、)

ソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄し、

(ぽーらんどへひがしからしんこうした。)

ポーランドへ東から侵攻した。

(しかし、すたーりんはにほんにたいするけいかいをゆるめることはなく、)

しかし、スターリンは日本に対する警戒を緩めることはなく、

(きょくとうちいきのせんりょくをいじしつづけた。1941ねん7がつ1にちじてんでのそれんぐん、)

極東地域の戦力を維持し続けた。1941年7月1日時点でのソ連軍、

(きょくとうせんせんとざばいかるぐんかんくのへいりょくは、そげきへいしだん23こ、)

極東戦線とザバイカル軍管区の兵力は、狙撃兵師団23個、

(きへいしだん1こ、せんしゃしだん5こ、)

騎兵師団1個、戦車師団5個、

(じどうしゃかそげきへいしだん3こ、こうくうしだん13こ、)

自動車化狙撃兵師団3個、航空師団13個、

(そげきへいりょだん3こ、くうていりょだん1こ、)

狙撃兵旅団3個、空挺旅団1個、

(そうこうしゃりょだん1こ、こうくうりょだん2こ、)

装甲車旅団1個、航空旅団2個、

(ぼうくうりょだん1こ、おーとばいれんたい1こ、)

防空旅団1個、オートバイ連隊1個、

(ほうへいれんたい22こ、こうくうれんたい8こ、)

砲兵連隊22個、航空連隊8個、

(こうへいれんたい3こ、ふなはしかせつれんたい8こで)

工兵連隊3個、舟橋架設連隊8個で

(そうへいりょく723,119めい、せんしゃ4,638りょう、)

総兵力723,119名、戦車4,638輌、

(ほう14,062もん、じどうしゃ60,091だい、)

砲14,062門、自動車60,091台、

(とらくたー11,968だい、こうくうき4,777き)

トラクター11,968台、航空機4,777機

(というばくだいなせんりょくだった。これらのだいぶたいは、どいつぐんがそれんりょうないに)

という莫大な戦力だった。これらの大部隊は、ドイツ軍がソ連領内に

(とつじょしんこうし、ぜんめんせんそうとなってからもしゅうせんまでうごかされることはなかった)

突如侵攻し、全面戦争となってからも終戦まで動かされることはなかった

(。)

(これらのそうへいりょくはどくそせんがげきかしてからもぎゃくにきょうかされつづけ、さいだい)

これらの総兵力は独ソ戦が激化してからも逆に強化され続け、最大

(1,568,000めいにもたっしていたが、これはせきぐんそういんの3わりじゃくにあたり、)

1,568,000名にも達していたが、これは赤軍総員の3割弱に当たり、

(これらのせんりょくをどくそせんにとうにゅうできていれば、どいつぐんをもっとすみやかに)

これらの戦力を独ソ戦に投入できていれば、ドイツ軍をもっと速やかに

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