第二次世界大戦31
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問題文
(うちまかしてせんそうのしゅうけつをはやめることができたというしゅちょうもある。)
打ち負かして戦争の終結を早めることができたという主張もある。
(にほんによるおうちょうめいようりつにっちゅうせんそうのぼっぱつにともない、)
日本による汪兆銘擁立日中戦争の勃発に伴い、
(ちゅうかみんこくのしょうかいせきはにほんとのてっていこうせんのかまえを)
中華民国のしょう介石は日本との徹底抗戦の構えを
(くずさず、にほんがわもしゅしょうのこのえふみまろが「にごこくみんせいふをついきてとせず」とした)
崩さず、日本側も首相の近衛文麿が「爾後國民政府ヲ對手トセズ」とした
(このえせいめいをだし、わへいのみちはとざされた。おうちょうめいは「こうせん」によるみんしゅうの)
近衛声明を出し、和平の道は閉ざされた。汪兆銘は「抗戦」による民衆の
(ひがいとちゅうかみんこくのこくりょくのていめいにこころをいため、「はんきょうしんにち」のたちばをしめし、)
被害と中華民国の国力の低迷に心を痛め、「反共親日」の立場を示し、
(わへいぐるーぷのちゅうしんてきそんざいとなった。ひろしは、はやくから「しょうどこうせん」に)
和平グループの中心的存在となった。汪は、早くから「焦土抗戦」に
(はんたいし、ぜんどがはかいされないうちにわへいをはかるべきだとしゅちょうしていた。)
反対し、全土が破壊されないうちに和平を図るべきだと主張していた。
(1938ねん3がつから4がつにかけてこほくしょうかんこうでひらかれたこくみんとうりんじ)
1938年3月から4月にかけて湖北省漢口で開かれた国民党臨時
(ぜんこくだいひょうたいかいでは、こくみんとうにはじめてそうさいせいがさいようされ、しょうかいせきが)
全国代表大会では、国民党に初めて総裁制が採用され、しょう介石が
(そうさい、ひろしがふくそうさいにしゅうにんして「てっていこうにち」がせんげんされた。すでにとうの)
総裁、汪が副総裁に就任して「徹底抗日」が宣言された。すでに党の
(おおぜいはむらじおなじこうにちにかたむいており、ひろしとしてもふくそうさいとしてこうにちせんげんから)
大勢は連共抗日に傾いており、汪としても副総裁として抗日宣言から
(はずれるわけにはいかなかったのである。)
外れるわけにはいかなかったのである。
(いっぽう、3がつ28にちにはなんきんにりょうこうしをぎょうせいいいんちょうとするしんにちせいけん、)
一方、3月28日には南京に梁鴻志を行政委員長とする親日政権、
(ちゅうかみんこくいしんせいふがせいりつしている。こうしたなか、このころからにっちゅうりょうこくの)
中華民国維新政府が成立している。こうした中、この頃から日中両国の
(わへいはがすいめんかでのこうしょうをかさねるようになった。このうごきはやがて、)
和平派が水面下での交渉を重ねるようになった。この動きはやがて、
(ちゅうごくがわわへいはのちゅうしんじんぶつであるひろしをぱーとなーにかつぎだして「わへい」を)
中国側和平派の中心人物である汪をパートナーに担ぎ出して「和平」を
(はかろうとする、いわゆる「おうちょうめいこうさく」へとはってんした。)
図ろうとする、いわゆる「汪兆銘工作」へと発展した。
(6がつにひろしとそのそっきんであるしゅうふつかいのいをうけたこうそうぶがとにちしてにほんがわと)
6月に汪とその側近である周仏海の意を受けた高宗武が渡日して日本側と
(せっしょく。こうそうぶじしんはにほんのわへいのあいてはひろしいがいにないとしながらも、)
接触。高宗武自身は日本の和平の相手は汪以外にないとしながらも、
(あくまでもしょうかいせきせいけんをいじしたうえでのわへいこうさくをかんがえていた。)
あくまでもしょう介石政権を維持した上での和平工作を考えていた。
(10がつ12にち、ひろしはろいたーつうしんのきしゃにたいしてにほんとのわへいのかのうせいを)
10月12日、汪はロイター通信の記者に対して日本との和平の可能性を
(しさ、さらにそののちちょうさのしょうどせんじゅつにたいしてめいかくなひはんのいをひょうした)
示唆、さらにそののち長沙の焦土戦術に対して明確な批判の意を表した
(ことから、しょうかいせきとのたいりつはけっていてきとなった。)
ことから、介石との対立は決定的となった。
(1939ねん3がつ21にち、あんさつしゃがはのいのひろしのいえにらんにゅう、ひろしのふくしんのひなかなきを)
1939年3月21日、暗殺者がハノイの汪の家に乱入、汪の腹心の曽仲鳴を
(しゃさつするというじけんがおこった(おうちょうめいそげきじけん)。しょうかいせきが)
射殺するという事件が起こった(汪兆銘狙撃事件)。しょう介石が
(はなったあんさつしゃはひろしをねらったが、そのひはたまたまひろしとひがしんしつを)
放った暗殺者は汪を狙ったが、その日はたまたま汪と曽が寝室を
(とりかえていたため、ひがぎせいになった。はのいがきけんであることを)
取り替えていたため、曽が犠牲になった。ハノイが危険であることを
(さっちしたにほんとうきょくは、ひろしをどうちよりだっしゅつさせることとした。4がつ25にち、)
察知した日本当局は、汪を同地より脱出させることとした。4月25日、
(かげさとせっしょくしたひろしははのいをだっしゅつし、ふらんすぶねとにほんせんをのりついで)
影佐と接触した汪はハノイを脱出し、フランス船と日本船を乗り継いで
(5がつ6にちにしゃんはいにとうちゃくした。はのいのじけんは、ひろしがわへいうんどうをていしし、)
5月6日に上海に到着した。ハノイの事件は、汪が和平運動を停止し、
(よーろっぱなどにぼうめいしてじたいをせいかんするという)
ヨーロッパなどに亡命して事態を静観するという
(せんたくしをほうきさせるものとなった。)
選択肢を放棄させるものとなった。
(にほんはしょうかいせきにかわるあらたなこうしょうあいてとして、にほんとのわへいこうしょうのみちを)
日本はしょう介石に代わる新たな交渉相手として、日本との和平交渉の道を
(さぐっていたひろしのようりつをかくさくした。しかし1940ねん1がつに、ひろししんせいけんの)
探っていた汪の擁立を画策した。しかし1940年1月に、汪新政権の
(かいらいかをけねんするこうそうぶ、とうきせいがわへいうんどうからりだつして「ないやく」)
傀儡化を懸念する高宗武、陶希聖が和平運動から離脱して「内約」
(げんあんをがいぶにばくろするじけんがしょうじた。さいしゅうだんかいでふくしんとみられたぶかが)
原案を外部に暴露する事件が生じた。最終段階で腹心とみられた部下が
(うらぎったことにひろしはおおいにしょうげきをうけたが、にほんがわがさいしゅうてきにじゃっかんの)
裏切ったことに汪は大いに衝撃を受けたが、日本側が最終的に若干の
(じょうほをいったこともあり、ひろしはこのじょうやくあんをしょうだくすることとなった。)
譲歩を行ったこともあり、汪はこの条約案を承諾することとなった。
(なんきんこくみんせいふ/おうちょうめいせいけんせいりつ)
南京国民政府/汪兆銘政権成立
(ひろしはにほんのぐんじりょくをはいけいとして、ぺきんのちゅうかみんこくりんじせいふやなんきんの)
汪は日本の軍事力を背景として、北京の中華民国臨時政府や南京の
(ちゅうかみんこくいしんせいふなどをけっしゅうし、1940ねん3がつ30にちにしょうかいせきとはべっこの)
中華民国維新政府などを結集し、1940年3月30日にしょう介石とは別個の
(こくみんせいふをなんきんにじゅりつ、ここに「なんきんこくみんせいふ」がせいりつした。)
国民政府を南京に樹立、ここに「南京国民政府」が成立した。
(ひろしはみずからのせいふを「こくみんとうのせいとうせいふ」であるとして、せいふのはっそくしきを)
汪は自らの政府を「国民党の正統政府」であるとして、政府の発足式を
(「こくみんせいふがなんきんにもどった」といういみをこめて「かえさとしき」としょうした。)
「国民政府が南京に戻った」という意味を込めて「還都式」と称した。
(こっきは、せいてんはくじつまんちあかはたに「わへいはんきょうけんこく」のすろーがんをしるした)
国旗は、青天白日満地紅旗に「和平 反共 建国」のスローガンを記した
(きいろのさんかくばたをくわえたもの、こっかはちゅうごくこくみんとうとううたをそのまましようし、)
黄色の三角旗を加えたもの、国歌は中国国民党党歌をそのまま使用し、
(きねんびもこくちきねんびをのぞけば、こくみんとう・こくみんせいふの)
記念日も国恥記念日を除けば、国民党・国民政府の
(ものをそのままとうしゅうした。)
ものをそのまま踏襲した。
(せいふほっそくごに、いたりあおうこくやふらんすのヴぃしーせいけん、まんしゅうこくなどの)
政府発足後に、イタリア王国やフランスのヴィシー政権、満洲国などの
(すうじくくに、ばちかんなどがこっかしょうにんした。しかししょうかいせきせいけんとの)
枢軸国、バチカンなどが国家承認した。しかししょう介石政権との
(しがらみがあったどいつがさいしゅうてきにしょうにんしたのは1941ねん7がつに)
しがらみがあったドイツが最終的に承認したのは1941年7月に
(なってからだった。さらににほんとのあいだでにったいこうしゅどうめいじょうやくをむすんでいた)
なってからだった。さらに日本との間で日泰攻守同盟条約を結んでいた
(たいおうこくがひろしのなんきんこくみんせいふをしょうにんしたのは、たいえいべいせんが)
タイ王国が汪の南京国民政府を承認したのは、対英米戦が
(はじまってからの1942ねん7がつになってからであった。)
始まってからの1942年7月になってからであった。
(にちべいじょうせいとよないないかく)
日米情勢と米内内閣
(そのあとぽーらんどをせんりょうしたどいつとふらんす、いぎりすのあいだでおおきな)
その後ポーランドを占領したドイツとフランス、イギリスの間で大きな
(せんとうはおきなかったが、そのようななか、1940ねん1がつにはにちべいつうしょうこうかい)
戦闘は起きなかったが、そのような中、1940年1月には日米通商航海
(じょうやくがしっこうし、にちべいかんけいはりょうこくかいこくいらいのむじょうやくじだいにとつにゅうした。)
条約が失効し、日米関係は両国開国以来の無条約時代に突入した。
(これをふかくゆうりょしたしょうわてんのうはりくぐんからのしゅはんをきひし、)
これを深く憂慮した昭和天皇は陸軍からの首班を忌避し、
(むしろこうしたふうちょうにこうするにはかいぐんからのしゅはんこそがひつようだとかんがえていた。)
むしろこうした風潮に抗するには海軍からの首班こそが必要だと考えていた。
(ぼうきょうきょうていをむすんだにほんをけいししたどうめいこくのどいつとのかんけいが)
防共協定を結んだ日本を軽視した同盟国のドイツとの関係が
(あっかするなかで、こちらもあっかしつつあるにちべいじょうせいのだかいが1がつに)
悪化する中で、こちらも悪化しつつある日米情勢の打開が1月に
(しゅうにんしたばかりのおやえいべいはのよないないかくにもとめられた。)
就任したばかりの親英米派の米内内閣に求められた。
(しかしよないはおやえいべいはであるだけでなく、にちどくいさんごくどうめいはんたいろんじゃ)
しかし米内は親英米派であるだけでなく、日独伊三国同盟反対論者
(だったこと、さらにこのえらによるしんたいせいうんどうをせいかんするしせいをつらぬいた)
だったこと、さらに近衛らによる新体制運動を静観する姿勢を貫いた
(ことなどにより、りくぐんやしんぐんてきなせろんからふひょうをかう。そのけっか)
ことなどにより、陸軍や親軍的な世論から不評を買う。その結果
(えいべいかんけいのおもいきったかいぜんにでることはなかった。)
英米関係の思い切った改善にでることはなかった。
(だい2じこのえないかく)
第2次近衛内閣
(どうねん7がつには、さんぼうそうちょうかんいんのみやことひとしんのうとりくぐんさんちょうかんかいぎにより、)
同年7月には、参謀総長閑院宮載仁親王と陸軍三長官会議により、
(1がつにしゅうにんしたばかりのおやえいべいはのよないないかくははやくもじにんにおいこまれた。)
1月に就任したばかりの親英米派の米内内閣は早くも辞任に追い込まれた。
(にちどくいさんごくどうめいにしょうきょくてきであったよないないかくのあとをうけ、7がつ22にちに)
日独伊三国同盟に消極的であった米内内閣の後を受け、7月22日に
(たんじょうしただい2じこのえないかくでは、いまやいきおいのいいどいつやいたりあなどの)
誕生した第2次近衛内閣では、今や勢いのいいドイツやイタリアなどの
(どうめいこくとのていけいをさいどしゅちょうする、まつおかようすけがいしょうらのこえがたかまった。)
同盟国との提携を再度主張する、松岡洋右外相らの声が高まった。
(おなじひにはだい2じこのえないかくにより「せかいじょうせいすいいにともふ)
同じ日には第2次近衛内閣により「世界情勢推移ニ伴フ
(じきょくしょりようこう」がさくていされ、きほんこくさくようこうがかくぎけっていされ、)
時局処理要綱」が策定され、基本国策要綱が閣議決定され、
(いったんさめきったにちどくいのかんけいは、どいつやいたりあのかいしんげきに)
いったん冷め切った日独伊の関係は、ドイツやイタリアの快進撃に
(あやかろうと、よりみっせつになってゆく。)
あやかろうと、より密接になってゆく。
(ぼうめいゆだやじんへのびざはっこうとぼうめいへのきょうりょく)
亡命ユダヤ人へのビザ発行と亡命への協力
(1939ねん9がつにだいにじせかいたいせんのほったんとなるどいつのぽーらんどしんこうが)
1939年9月に第二次世界大戦の発端となるドイツのポーランド侵攻が
(はじまると、それんはどいつほどではなかったがゆだやじんにはれいたんで、)
始まると、ソ連はドイツほどではなかったがユダヤ人には冷淡で、
(どうこくのゆだやじんはぼうめいをよぎなくされそのいちぶはりんこくりとあにあへ)
同国のユダヤ人は亡命を余儀なくされその一部は隣国リトアニアへ
(のがれた。さらに、どくそふかしんじょうやくふぞくひみつぎていしょにもとづき、9がつ17にちに)
逃れた。さらに、独ソ不可侵条約付属秘密議定書に基づき、9月17日に
(それんがぽーらんどとうぶへのしんりゃくをかいしする。)
ソ連がポーランド東部への侵略を開始する。
(10がつ10にちに、りとあにあせいふはぐんじきちけんせつとぶたいのちゅうりゅうをみとめる)
10月10日に、リトアニア政府は軍事基地建設と部隊の駐留を認める
(ことをようきゅうしたそれんのさいごつうちょうをじゅだくし、1940ねん6がつ15にちに)
ことを要求したソ連の最後通牒を受諾し、1940年6月15日に
(そびえとぐんがりとあにあにしんりゃくする。とうじ、どいつせんりょうかの)
ソビエト軍がリトアニアに侵略する。当時、ドイツ占領下の
(ぽーらんどなどからとうぼうしてきたおおくのゆだやけいなんみんなどが、)
ポーランドなどから逃亡してきた多くのユダヤ系難民などが、
(かっこくのりょうじかん・たいしかんからびざをしゅとくしようとしていたが、それんが)
各国の領事館・大使館からビザを取得しようとしていたが、ソ連が
(かっこくにざいりとあにあのかうなすりょうじかん・たいしかんのへいさをもとめたため、)
各国に在リトアニアのカウナス領事館・大使館の閉鎖を求めたため、
(もはやにげみちはしべりあてつどうをへてきょくとう(にほんとまんしゅう、ちゅうかみんこく)に)
もはや逃げ道はシベリア鉄道を経て極東(日本と満洲、中華民国)に
(むかうるーとしかなんみんたちにはのこされていなかった。ゆだやなんみんたちは)
向かうルートしか難民たちには残されていなかった。ユダヤ難民たちは
(まだぎょうむをつづけていたかうなすのにほんこくりょうじかんにめいもくじょうのいきさきである)
まだ業務を続けていたカウナスの日本国領事館に名目上の行き先である
(おらんだりょうあんてぃるなどへのつうかびざをもとめてさっとうした。)
オランダ領アンティルなどへの通過ビザを求めて殺到した。