第二次世界大戦32
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問題文
(ざいかうなすのすぎはらちうねりょうじはじょうほうしゅうしゅうのひつようじょう、ぼうめいぽーらんどせいふの)
在カウナスの杉原千畝領事は情報収集の必要上、亡命ポーランド政府の
(ちょうほうきかんをかつようしており、「ちかかつどうにたずさわるぽーらんどぐんしょうこう)
諜報機関を活用しており、「地下活動にたずさわるポーランド軍将校
(4めい、かいがいのしんるいのえんじょをえてきたすうかぞく、ごうけいやく15めい」などへの)
4名、海外の親類の援助を得て来た数家族、合計約15名」などへの
(びざはっきゅうはよていしていたが、それいがいのゆだやけいなんみんたちへのびざはっきゅうは)
ビザ発給は予定していたが、それ以外のユダヤ系難民たちへのビザ発給は
(ほんごくのがいむしょうやさんぼうほんぶのりょうかいをえていなかった。しかしすぎはらりょうじの)
本国の外務省や参謀本部の了解を得ていなかった。しかし杉原領事の
(けんげんでこれらのゆだやけいなんみんたちにかのうなかぎりびざをだすことをきめ、)
権限でこれらのユダヤ系難民たちに可能な限りビザを出すことを決め、
(さらにとちゅうからすぎはらりょうじはびざのはっこうてすうりょうのちょうしゅうをとりやめ、あとには)
さらに途中から杉原領事はビザの発行手数料の徴収を取りやめ、後には
(てがきをとめすたんぷでのびざをはっこうしている。)
手書きを止めスタンプでのビザを発行している。
(しかし、1940ねん8がつ31にちまでのあいだにそれんによってかうなすのにほんりょうじかんを)
しかし、1940年8月31日までの間にソ連によってカウナスの日本領事館を
(たいきょさせられ、ゆだやけいなんみんたちはすぎはらりょうじがかうなすえきをでるちょくぜん)
退去させられ、ユダヤ系難民たちは杉原領事がカウナス駅を出る直前
(まで、すぎはらりょうじとつま、すたっふたちによってはっこうされたにほんをけいゆする)
まで、杉原領事と妻、スタッフたちによって発行された日本を経由する
(びざにすくわれることとなった。なおすぎはらはこのあとぷらは、さらに)
ビザに救われることとなった。なお杉原はこの後プラハ、さらに
(どいつのけーにひすべるくにてんにんしている。)
ドイツのケーニヒスベルクに転任している。
(1940ねん7がつからゆだやけいなんみんは、しべりあてつどうでそれんのうらじおすとく、)
1940年7月からユダヤ系難民は、シベリア鉄道でソ連のウラジオストク、
(およびまんしゅうこくのまんしゅうさとけいゆで、やく6,000にんがつうかびざをてに)
および満洲国の満洲里経由で、約6,000人が通過ビザを手に
(おうあこくさいれんらくれっしゃのにほんがわのさいしゅうていしゃえきでもあるふくいけんのつるがこうなどを)
欧亜国際連絡列車の日本側の最終停車駅でもある福井県の敦賀港などを
(けいゆしてにほんににゅうこくした。)
経由して日本に入国した。
(にほんへにゅうこくするあいだにも、うらじおすとくそうりょうじだいりのねいさぶろうや)
日本へ入国する間にも、ウラジオストク総領事代理の根井三郎や
(まんてつこもんのこつじせつぞう、おおさこたつおらjtbしょくいんたちやこうべにすむぞらふ・)
満鉄顧問の小辻節三、大迫辰雄らJTB職員たちや神戸に住むゾラフ・
(ばるはふてぃく(のちのいすらえるしゅうきょうだいじん)をはじめとする)
バルハフティク(のちのイスラエル宗教大臣)をはじめとする
(ざいにちゆだやじんかんけいしゃがうごき、すべてのゆだやけいなんみんはごうほうてきににほんににゅうこく)
在日ユダヤ人関係者が動き、全てのユダヤ系難民は合法的に日本に入国
(することができた。またみじかいものは1、2しゅうかんごにはよこはまこうやこうべこうなどを)
することができた。また短いものは1、2週間後には横浜港や神戸港などを
(けいゆしあめりかやなんべいにむけてしゅっこくし、のこるものも)
経由しアメリカや南米に向けて出国し、残るものも
(ごうほうてきににほんにとどまった。)
合法的に日本にとどまった。
(そして1941ねん9がつには、にほんいがいへのぼうめいをきぼうするぜんいんがよこはまこうや)
そして1941年9月には、日本以外への亡命を希望する全員が横浜港や
(こうべこうなどをけいゆししゅっこくし、あめりかやめきしこ、おらんだりょう)
神戸港などを経由し出国し、アメリカやメキシコ、オランダ領
(きゅらそー、もしくはちゅうかみんこくのしゃんはいのこくさいきょうどうそかいにある)
キュラソー、もしくは中華民国の上海の国際共同租界にある
(「しゃんはいげっとー」やほんきゅうちくなどにぼうめいした。さらにどいつは「しゃんはい)
「上海ゲットー」や虹口地区などに亡命した。さらにドイツは「上海
(げっとー」のそんざいにたいしても、にほんせいふへ1945ねん5がつのどいつはいせんに)
ゲットー」の存在に対しても、日本政府へ1945年5月のドイツ敗戦に
(いたるまでさいさんこうぎしていたが、にほんせいふやぐんはこれをもくにんし、えりあ)
至るまで再三抗議していたが、日本政府や軍はこれを黙認し、エリア
(こそせまいながらぼうめいゆだやじんのあんぜんなたいざいをみとめてほごしていた。)
こそ狭いながら亡命ユダヤ人の安全な滞在を認めて保護していた。
(なおかうなすではあめりかりょうじかんもひらいていたものの、すぎはらりょうじらの)
なおカウナスではアメリカ領事館も開いていたものの、杉原領事らの
(ひっしのゆだやじんへのたいおうにたいしこれらのゆだやじんにたいするたいおうは)
必死のユダヤ人への対応に対しこれらのユダヤ人に対する対応は
(むしにひとしく、そのけっかとしてあめりかのかうなすりょうじかんでの)
無視に等しく、その結果としてアメリカのカウナス領事館での
(つうかびざはっこうは99ぱーせんときょひしている。)
通過ビザ発行は99パーセント拒否している。
(さらにこのすぎはらりょうじによるゆだやじんにたいするつうかびざはっこうにたいし、)
さらにこの杉原領事によるユダヤ人に対する通過ビザ発行に対し、
(これをしったいぎりすのろばーと・くれいぎーちゅうにちたいしは、つうかびざを)
これを知ったイギリスのロバート・クレイギー駐日大使は、通過ビザを
(もったゆだやじんがいぎりすりょうぱれすちなにくることをけいかいし、)
持ったユダヤ人がイギリス領パレスチナに来ることを警戒し、
(まつおかがいしょうにくじょうをもうしたてているが、このつうかびざはっこうをじぜんに)
松岡外相に苦情を申し立てているが、この通過ビザ発行を事前に
(しょうちしていたまつおかがいしょうはとうぜんむしをしている。)
承知していた松岡外相は当然無視をしている。
(にほんぐんのほくぶふついんしんしゅつ)
日本軍の北部仏印進出
(ふらんすでは、1940ねんにはいりどいつのもうこうがつづくなか、ふぃりっぷ・)
フランスでは、1940年に入りドイツの猛攻が続く中、フィリップ・
(ぺたんがまきしむ・うぇいがんりくぐんそうしれいかんとともにたいどくこうわをしゅちょうした。)
ペタンがマキシム・ウェイガン陸軍総司令官と共に対独講和を主張した。
(6がつ21にちにふらんすはどいつにきゅうせんをもうしこみ、よく6がつ17にちに)
6月21日にフランスはドイツに休戦を申し込み、翌6月17日に
(どくふつきゅうせんきょうていがせいりつした。そのあと7がつ10にちにぺたんひきいるおやどくの)
独仏休戦協定が成立した。その後7月10日にペタン率いる親独の
(ヴぃしーせいけんがせいりつした。)
ヴィシー政権が成立した。
(これをうけて6がつ19にち、にほんがわはふらんすりょういんどしなせいふにたいし、)
これを受けて6月19日、日本側はフランス領インドシナ政府に対し、
(ふついんるーとのへいさについて24じかんいないにかいとうするようようきゅうした。)
仏印ルートの閉鎖について24時間以内に回答するよう要求した。
(とうじのふらんすりょういんどしなそうとくじょるじゅ・かとるー(えいごばん))
当時のフランス領インドシナ総督ジョルジュ・カトルー(英語版)
(しょうぐんは、しゃるる・あるせーぬ=あんりちゅうにちふらんすたいしのじょげんをうけ、)
将軍は、シャルル・アルセーヌ=アンリ駐日フランス大使の助言を受け、
(ほんごくせいふにせいくんせずにどくだんでふついんるーとのへいさと、にほんがわの)
本国政府に請訓せずに独断で仏印ルートの閉鎖と、日本側の
(ぐんじこもんだん(にしはらきかん)のうけいれをいった。)
軍事顧問団(西原機関)の受け入れを行った。
(ヴぃしーせいけんはこのけつだんをよしとせず、かとるーをかいにんしてじゃん・)
ヴィシー政権はこの決断をよしとせず、カトルーを解任してジャン・
(どくー(えいごばん)ていとくをこうにんのそうとくとした。しかしかとるーのいった)
ドクー(英語版)提督を後任の総督とした。しかしカトルーの行った
(にほんとのこうしょうはてっかいされず、むしろヴぃしーせいけんはこれをすすめ、にほんの)
日本との交渉は撤回されず、むしろヴィシー政権はこれを進め、日本の
(がいむだいじんまつおかようすけとあるせーぬ=あんりたいしとのあいだでにほんとふらんすの)
外務大臣松岡洋右とアルセーヌ=アンリ大使との間で日本とフランスの
(きょうりょくについてきょうぎがかいしされた。8がつまつにはこうしょうがだけつしまつおか・あんり)
協力について協議が開始された。8月末には交渉が妥結し松岡・アンリ
(きょうていがていけつされた。そのあと9がつ22にちににほんはふらんすりょういんどしな)
協定が締結された。その後9月22日に日本はフランス領インドシナ
(そうとくせいふと「にしはら・まるたんきょうてい」をていけつし、これをうけてへいわうらに)
総督政府と「西原・マルタン協定」を締結し、これを受けて平和裏に
(にほんぐんはほくぶふついんにしんちゅうした(ふついんしんちゅう)。)
日本軍は北部仏印に進駐した(仏印進駐)。
(また、ふらんすかいぐんのせんぱくはぶそうかいじょのかみさいごんにけいりゅうされることに)
また、フランス海軍の船舶は武装解除の上サイゴンに係留されることに
(なったが、にほんせいふはふついんしょくみんちせいふとのあいだでゆうきゅうふらんすしょうせんの)
なったが、日本政府は仏印植民地政府との間で遊休フランス商船の
(いっかつかりあげのこうしょうをかいししていた。ふらんすがわのどくーそうとくは、)
一括借り上げの交渉を開始していた。フランス側のドクー総督は、
(いぎりすかいぐんによるだほのおそれや、ふついんとまだがすかるとうやしゃんはいとの)
イギリス海軍による拿捕のおそれや、仏印とマダガスカル島や上海との
(じこくこうろのいじにひつようなこと、ふらんすかいぐんがちょうようちゅうであることなどを)
自国航路の維持に必要なこと、フランス海軍が徴用中であることなどを
(りゆうになんしょくをしめし、こうしょうは1942ねんまでもちこすことになった。)
理由に難色を示し、交渉は1942年まで持ち越すことになった。
(なお、どうようにふついんりょうないにのこったふらんすせんせき・ふついんせんせきのしょうせんは、)
なお、同様に仏印領内に残ったフランス船籍・仏印船籍の商船は、
(1941ねんまつじてんで500そうとんいじょうのものが27せき(けい10まんそうとん)、)
1941年末時点で500総トン以上のものが27隻(計10万総トン)、
(うち10せきは4000そうとんいじょうのふねであった。)
うち10隻は4000総トン以上の船であった。
(にちどくいさんごくどうめいていけつ)
日独伊三国同盟締結
(にちどくのかんけいもどくそふかしんじょうやくとぽーらんどしんこう、)
日独の関係も独ソ不可侵条約とポーランド侵攻、
(だいにじせかいたいせんぼっぱついこうかんぜんにあっかし、さらに「おとぽーるじけん」)
第二次世界大戦勃発以降完全に悪化し、さらに「オトポール事件」
(や「いのちのびざ」などゆだやじんもんだいでもたいりつをみせたが、1940ねんしょとうの)
や「命のビザ」などユダヤ人問題でも対立を見せたが、1940年初頭の
(どいつぐんのよーろっぱせんせんのこうちょうをみてにほんがどいつに)
ドイツ軍のヨーロッパ戦線の好調を見て日本がドイツに
(きゅうそくにちかづいたためもちなおした。)
急速に近づいたため持ち直した。
(そこで9がつ7かにしんどうめいていけつのためにどいつからとくしはいんりひ・)
そこで9月7日に新同盟締結のためにドイツから特使ハインリヒ・
(げおるく・すたーまーがらいにちし、まつおかとのこうしょうをはじめた。すたーまーは)
ゲオルク・スターマーが来日し、松岡との交渉を始めた。スターマーは
(「よーろっぱせんせんへのあめりかさんせんをそしするため」としてどうめいていけつを)
「ヨーロッパ戦線へのアメリカ参戦を阻止するため」として同盟締結を
(ていあんし、まつおかもたいべいけんせいのためにどういした。9がつ27にちにはいたりあを)
提案し、松岡も対米牽制のために同意した。9月27日にはイタリアを
(ふくめたにちどくいさんごくどうめいがていけつされた。)
含めた日独伊三国同盟が締結された。
(これによりじっしつてきにたいえいべいどうめいとなりにちどくいさんごくどうめいはかくだいし、)
これにより実質的に対英米同盟となり日独伊三国同盟は拡大し、
(1940ねん11がつにはんがりー、るーまにあ、すろばきあどくりつこくが、)
1940年11月にハンガリー、ルーマニア、スロバキア独立国が、
(1941ねん3がつにはぶるがりあ、6がつにはくろあちあどくりつこくがかめいした。)
1941年3月にはブルガリア、6月にはクロアチア独立国が加盟した。
(これにたいしてちゅうりつをたもつあめりかのだいとうりょうるーずべるとは)
これに対して中立を保つアメリカの大統領ルーズベルトは
(「きょうはくやおどかしにはくっしない」や「みんしゅしゅぎのへいきしょう」などのえんぜつをおこない、)
「脅迫や威嚇には屈しない」や「民主主義の兵器廠」などの演説を行い、
(さんごくどうめいがわにたいするけいかいをこくみんによびかけた。いっぽう、すいめんかでは)
三国同盟側に対する警戒を国民に呼びかけた。一方、水面下では
(あめりかがわからみっしがおくられ「にちべいりょうかいあん」のさくていがおこなわれるなど)
アメリカ側から密使が送られ「日米諒解案」の策定が行われるなど
(にちべいりょうかいにむけてのうごきもそんざいした。)
日米諒解に向けての動きも存在した。