ツルゲーネフ はつ恋 26
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問題文
(ちかごろになってわたしは、いろんなことになれもしたし、)
近頃になってわたしは、いろんなことに慣れもしたし、
(ことにざせーきんけでは、やっとこさいろんなことをみせつけられた。)
ことにザセーキン家では、やっとこさいろんなことを見せつけられた。
(かれらのふしだらさや、あぶらろうそくのもえさし、)
彼らのふしだらさや、あぶら蝋燭の燃えさし、
(かけたないふやふぉーく、いんきくさいヴぉにふぁーちい、)
欠けたナイフやフォーク、陰気くさいヴォニファーチイ、
(おはうちからしたこまづかいたち、とうのこうしゃくふじんのたちいふるまい)
尾羽うち枯らした小間使たち、当の公爵夫人の立居振舞い
(そんなきかいせんばんなくらしぶりなんかには、もうびくともしなくなっていた。)
そんな奇怪千万な暮しぶりなんかには、もうビクともしなくなっていた。
(だが、いまじないーだのみにばくぜんとかんじられるあること、)
だが、今ジナイーダの身に漠然と感じられる或ること、
(それにはなんとしてもなじむことができなかった。)
それには何としても馴染むことができなかった。
(「おとこたらし」と、わたしのはははいつぞやかのじょのことをののしった。)
「男たらし」と、わたしの母はいつぞや彼女のことを罵った。
(その「おとこたらし」であるかのじょが、わたしのぐうぞうであり、)
その「男たらし」である彼女が、わたしの偶像であり、
(わたしのかみとあがめるそんざいなのだ!そのあくばが、わたしのむねをやきこがした。)
わたしの神とあがめる存在なのだ!その悪罵が、わたしの胸を焼き焦がした。
(わたしはそれからのがれようと、まくらにかおをうめた。わたしはむしょうにはらがたったが、)
わたしはそれから逃れようと、枕に顔を埋めた。わたしは無性に腹がたったが、
(どうじにまた、ふんすいのほとりのあのしあわせものになれさえしたら、)
同時にまた、噴水のほとりのあの仕合せ者になれさえしたら、
(どんなことでもしょうちしてみせるどんなぎせいでもはらってみせるとおもった。)
どんなことでも承知してみせるどんな犠牲でも払ってみせると思った。
(からだじゅうのちがもえたぎった。「にわ・・・ふんすい・・・」と、わたしはおもった。)
体じゅうの血が燃えたぎった。「庭…噴水…」と、わたしは思った。
(「よし、ひとつにわへでてみよう」わたしはてばやくふくをつけて、いえからぬけだした)
「よし、ひとつ庭へ出てみよう」わたしは手早く服を着けて、家から抜け出した
(やみのよるで、きぎはかすかにそよいでいた。そらからは、しずかなれいきがおりてきて、)
闇の夜で、木々はかすかにそよいでいた。空からは、静かな冷気が下りてきて、
(やさいばたけからは、ういきょうのかおりがただよってきた。)
野菜ばたけからは、茴香の香りが漂ってきた。
(わたしは、なんぼんかのなみきみちをすっかりあるいてしまった。)
わたしは、何本かの並木道をすっかり歩いてしまった。
(じぶんのかるいあしおとが、わたしをとうわくさせもすれば、はげましてもくれた。)
自分の軽い足音が、わたしを当惑させもすれば、励ましてもくれた。
(わたしはときどきたちどまって、なにものかをまちうけながら、)
わたしは時々立ち止って、何ものかを待ち受けながら、
(じぶんのしんぞうがはやがねのようにたかなるのにみみをすました。)
自分の心臓が早鐘のように高鳴るのに耳をすました。
(やがてのはてに、わたしはかきねのそばへいってほそいぼうぐいによりかかった。)
やがての果てに、わたしは垣根のそばへ行って細い棒ぐいに倚りかかった。
(とふいに、あるいはそらみみだったろうか、わたしからついご、ろっぽのところを、)
と不意に、あるいはそら耳だったろうか、わたしからつい五、六歩のところを、
(さっとおんなのすがたがひらめいてすぎた。)
さっと女の姿がひらめいて過ぎた。
(わたしは、やみのなかへひたとめをこらし、いきをひそめた。)
わたしは、闇のなかへひたと眼をこらし、息をひそめた。
(これはなにだろう?きこえたのは、だれかのあしおとだったろうか、)
これは何だろう? 聞えたのは、誰かの足音だったろうか、
(それともじぶんのしんぞうのたかなりだったろうか?)
それとも自分の心臓の高鳴りだったろうか?
(「だれだ、そこにいるのは?」と、わたしはいったが、したがもつれて、)
「誰だ、そこにいるのは?」と、わたしは言ったが、舌がもつれて、
(ほとんどききとれないこえだった。またなにかものおとがした。)
ほとんど聞き取れない声だった。また何か物音がした。
(あれはなんだろう?おしころしたわらいごえか?それとも、そよぐこのはか?)
あれは何だろう? 押し殺した笑い声か?それとも、そよぐ木の葉か?
(それとも、みみのすぐそばでもらされたためいきか?わたしは、こわくなった。)
それとも、耳のすぐそばで漏らされた溜息か?わたしは、こわくなった。
(「だれだ、そこにいるのは?」と、わたしはこえをひくめて、またいった。)
「誰だ、そこにいるのは?」と、わたしは声を低めて、また言った。
(くうきは、ほんのいちしゅんかん、さっとながれた。)
空気は、ほんの一瞬間、さっと流れた。
(そらには、ひとすじ、ひのようなすじがきらめいた。ほしがながれたのだ。)
空には、一筋、火のような筋がきらめいた。星が流れたのだ。
(「じないーだ?」と、わたしはきこうとしたが、おとはわたしのくちびるでむなしくきえた)
「ジナイーダ?」と、わたしは訊こうとしたが、音はわたしの唇で空しく消えた
(そしてとつぜん、あたりのものみな、ふかいちんもくにしずんでしまった。)
そして突然、あたりのものみな、深い沈黙に沈んでしまった。
(まよなかにはよくあることである。こかげのこおろぎまでがなりをひそめて)
真夜中にはよくあることである。木陰のコオロギまでが鳴りをひそめて
(ただどこかのまどが、かたりといっただけだった。)
ただどこかの窓が、かたりといっただけだった。
(わたしは、かえろうとしてはたたずみ、かえろうとしてはたたずみしていたが、)
わたしは、帰ろうとしては佇み、帰ろうとしては佇みしていたが、
(やがてじぶんのへやへ、じぶんのひえはてたねどこへかえった。)
やがて自分の部屋へ、自分の冷えはてた寝床へ帰った。
(わたしは、いじょうなこうふんをかんじていた。さながらあいびきにでかけていって、)
わたしは、異常な興奮を感じていた。さながら逢引に出かけて行って、
(けっきょくひとりぼっちで、たにんのこうふくのそばをゆびをくわえてとおったような。)
結局ひとりぼっちで、他人の幸福のそばを指をくわえて通ったような。
(じゅうななそのあくるひ、わたしはじないーだを、ほんのちらりとみただけだった。)
十七そのあくる日、わたしはジナイーダを、ほんのちらりと見ただけだった。
(かのじょはこうしゃくふじんといっしょにつじばしゃにのって、どこかへでかけるところであった。)
彼女は公爵夫人と一緒に辻馬車に乗って、どこかへ出かけるところであった。
(そのかわりわたしは、るーしんにあった。)
そのかわりわたしは、ルーシンに会った。
(もっともかれは、ろくろくわたしにあいさつもしなかったが。)
もっとも彼は、ろくろくわたしに挨拶もしなかったが。
(それからまた、まれーふすきいにもであった。)
それからまた、マレーフスキイにも出会った。
(わかいはくしゃくは、にやにやつくりわらいをしながら、さもしたしげにはなしかけた。)
若い伯爵は、にやにや作り笑いをしながら、さも親しげに話しかけた。
(はなれのじょうれんのなかで、どうしたわけかこのはくしゃくだけは、)
傍屋の常連の中で、どうしたわけかこの伯爵だけは、
(わたしのいえにうまくとりいって、ははのおきにいりだったのである。)
わたしの家にうまく取り入って、母のお気に入りだったのである。
(もっともちちは、このはくしゃくをけぎらいして、ぶれいなほどのていちょうさであしらっていた。)
もっとも父は、この伯爵を毛嫌いして、無礼なほどの丁重さであしらっていた。
(「おや、おこしょうくん」と、まれーふすきいはくちをきった。)
「おや、お小姓君」と、マレーフスキイは口を切った。
(「おめにかかれて、じつにうれしいです。)
「お目にかかれて、じつに嬉しいです。
(あなたのうつくしいじょおうさまは、なにをしておられますか」)
あなたの美しい女王様は、何をしておられますか」
(かれのすがすがしいしゅうれいなかおが、そのしゅんかんわたしにはむしずがはしるほどいやだったし)
彼のすがすがしい秀麗な顔が、その瞬間わたしには虫酸が走るほど厭だったし
(おまけにかれが、ひとをばかにしたようなふざけためつきで、)
おまけに彼が、人を馬鹿にしたようなふざけた眼つきで、
(じっとわたしをみているので、こっちはへんじもしてやらなかった。)
じっとわたしを見ているので、こっちは返事もしてやらなかった。
(「きみはまだ、おこっているのですか」と、かれはつづけた。)
「君はまだ、おこっているのですか」と、彼は続けた。
(「つまらんことですよ。だいいち、きみにおこしょうというなをつけたのは)
「つまらんことですよ。第一、君にお小姓という名をつけたのは
(ぼくじゃないんだし、それにまたおこしょうというものは)
僕じゃないんだし、それにまたお小姓というものは
(まずもってじょおうさまのつきものですからねえ。だがしかし)
まずもって女王様の付き物ですからねえ。だがしかし
(しつれいながらひとことごちゅういしますが、どうもきみはしょくむたいまんですな」)
失礼ながら一言御注意しますが、どうも君は職務怠慢ですな」
(「どうしてです?」「おこしょうというものは、)
「どうしてです?」「お小姓というものは、
(じょおうさまのそばをはなれてはいけないのですよ。)
女王様のそばを離れてはいけないのですよ。
(おこしょうは、じょおうさまのいっきょいちどうをみんなしっているべきだし、)
お小姓は、女王様の一挙一動をみんな知っているべきだし、
(いっそじょおうさまのみはりをさえつとめるべきものなんですよ」)
いっそ女王様の見張りをさえ勤めるべきものなんですよ」
(そこでこえをひくめて、かれはいいそえた「ひるも、よるもね」)
そこで声を低めて、彼は言い添えた「昼も、夜もね」
(「それは、どういういみです?」)
「それは、どういう意味です?」
(「どういういみ?ぼくは、はっきりいっているはずですがね。ひるもよるもですよ。)
「どういう意味? 僕は、はっきり言っているはずですがね。昼も夜もですよ。
(ひるまはまあ、なんとかなるでしょう。ひのめはあるし、ひとめもありますからね。)
昼間はまあ、なんとかなるでしょう。日の目はあるし、人目もありますからね。
(ところがよるというやつは、とかくわざわいのおこりがちなものでね。)
ところが夜というやつは、とかく災いの起りがちなものでね。
(まあわるいことはいわないから、よるぐうぐうねてないで)
まあ悪いことは言わないから、夜ぐうぐう寝てないで
(いっしょうけんめいおおきなめをあけて、みはりをするんですね。)
一生けんめい大きな眼をあけて、見張りをするんですね。
(ほら、おぼえているでしょうにわ、よなか、ふんすいのほとり)
ほら、覚えているでしょう庭、夜なか、噴水のほとり
(そういうばしょでまちぶせるんですな。)
そういう場所で待ち伏せるんですな。
(いまにきみは、ぼくにありがとうをいうでしょうよ」)
いまに君は、僕にありがとうを言うでしょうよ」
(まれーふすきいはたかわらいをして、くるりとわたしにせをむけた。)
マレーフスキイは高笑いをして、くるりとわたしに背を向けた。
(かれはおそらく、じぶんのいったことを、とくにじゅうだいともおもっていなかったろう。)
彼はおそらく、自分の言ったことを、特に重大とも思っていなかったろう。
(なにしろかれは、ひとをかつぐめいじんとしてとおっていたし、)
何しろ彼は、人をかつぐ名人として通っていたし、
(かそうぶとうかいなどで、まんまといっぱいくわせるみょうぎをうたわれていたからである。)
仮装舞踏会などで、まんまといっぱいくわせる妙技を謳われていたからである。
(これには、かれというにんげんぜんたいにしみとおっているむいしきなうそつきぐせが)
これには、彼という人間全体にしみとおっている無意識な嘘つき癖が
(あずかっておおいにちからがあったのだ。)
あずかって大いに力があったのだ。
(かれはただ、わたしをちょいとからかおうとおもっただけのことだろうが)
彼はただ、わたしをちょいとからかおうと思っただけのことだろうが
(そのいちげんいっくはもうれつなどくとなって、わたしのけつみゃくというけつみゃくをはしりまわった。)
その一言一句は猛烈な毒となって、わたしの血脈という血脈を走りまわった。
(ちがどっとばかり、あたまへおしよせた。)
血がどっとばかり、頭へ押しよせた。