第二次世界大戦33

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(しかし、にちどくいさんごくどうめいじつげんによるさらなるかんけいきょうかには、「しんべい」)

しかし、日独伊三国同盟実現による更なる関係強化には、「親米」

(といわれたくるすさぶろうでは「ちからぶそく」とのこえがあがり、そこで1940ねん12がつ)

といわれた来栖三郎では「力不足」との声が上がり、そこで1940年12月

(に、どくそふかしんじょうやくやぽーらんどしんこうのさいのふてぎわにより、これまで)

に、独ソ不可侵条約やポーランド侵攻の際の不手際により、これまで

(させんされていたりくぐんのおおしまひろしがちゅうどくたいしにさいにんされた。)

左遷されていた陸軍の大島浩が駐独大使に再任された。

(またすうじくくにのいちいんとなったふぃんらんどは1940ねん8がつにどいつとみつやくを、)

また枢軸国の一員となったフィンランドは1940年8月にドイツと密約を、

(やはりすうじくくにとしてなをつらねたたいも1941ねん12がつにほんとにったいこうしゅどうめい)

やはり枢軸国として名を連ねたタイも1941年12月日本と日泰攻守同盟

(じょうやくをそれぞれむすんだがさんごくどうめいにはかめいしなかった。まんしゅうは)

条約をそれぞれ結んだが三国同盟には加盟しなかった。満洲は

(さんごくどうめいにかめいしなかったものの、ぐんじじょうはじじつじょうにほんといったいか)

三国同盟に加盟しなかったものの、軍事上は事実上日本と一体化

(していた。ちゅうかみんこくなんきんせいふとぼうきょうきょうていにかめいしたすぺいん)

していた。中華民国南京政府と防共協定に加盟したスペイン

((ふらんこせいけん)もさんごくどうめいにはくわわらなかったが、どいつとのすぺいん)

(フランコ政権)も三国同盟には加わらなかったが、ドイツとのスペイン

(せんそういらいのみっせつなかんけいもあり、だいにじせかいたいせんあらそいのぜんはんきにおいては)

戦争以来の密接な関係もあり、第二次世界大戦争の前半期においては

(すうじくくにときょうりょくてきなかんけいをもった。)

枢軸国と協力的な関係を持った。

(たいぼとけせんそうぼっぱつ)

泰仏戦争勃発

(1940ねん6がつにふらんすほんごくがどいつにやぶれたこと、どくふつきゅうせん)

1940年6月にフランス本国がドイツに敗れたこと、独仏休戦

((1940ねん6がつ17にち)まえにふらんすがふかしんじょうやくをひじゅんしていなかった)

(1940年6月17日)前にフランスが不可侵条約を批准していなかった

(こと、そのうえににほんぐんによるふついんしんちゅうがせまっていたことなどのじょうきょうから、)

こと、その上に日本軍による仏印進駐が迫っていたことなどの状況から、

(たいはふらんすにたいしてきゅうりょうかいふくへのこうどうをかいしした。)

タイはフランスに対して旧領回復への行動を開始した。

(たいのぷれーく・ぴぶーんそんくらーむせいけんは、ふらんすのヴぃしーせいけん)

タイのプレーク・ピブーンソンクラーム政権は、フランスのヴィシー政権

(にたいし、1893ねんのほとけたいせんそう(えいごばん)でふらんすのぐんじてきあつりょくをうけて)

に対し、1893年の仏泰戦争(英語版)でフランスの軍事的圧力を受けて

(かつじょうせざるをえなかったふらんすりょういんどしなりょうないのめこんがわせいがんまでの)

割譲せざるを得なかったフランス領インドシナ領内のメコン川西岸までの

など

(ふらんすほごりょうらおす(ふらんすごばん)のりょうどとしゅけんや、ふらんすほごりょう)

フランス保護領ラオス(フランス語版)の領土と主権や、フランス保護領

(かんぼじあのばたんばん・しぇむりあっぷりょうしゅうのへんかんをもとめたが、)

カンボジアのバタンバン・シェムリアップ両州の返還を求めたが、

(ヴぃしーせいけんかのふついんせいふはこのようきゅうをきょひした。)

ヴィシー政権下の仏印政府はこの要求を拒否した。

(ついに11がつ23にちにたいとふらんすりょういんどしなせいふとのあいだでたい・)

ついに11月23日にタイとフランス領インドシナ政府との間でタイ・

(ふらんすりょういんどしなふんそうがぼっぱつし、ぶつりょうとちのりにまさるたいぐんは)

フランス領インドシナ紛争が勃発し、物量と地の利に勝るタイ軍は

(ふついんぐんにたいしてゆういにたたかいをすすめ、ほんごくがせんりょうもとにおかれぶきやへいしの)

仏印軍に対して優位に戦いを進め、本国が占領下に置かれ武器や兵士の

(ついかもままならないふついんぐんはかずおおくのせんししゃや)

追加もままならない仏印軍は数多くの戦死者や

(ふしょうしゃをだすこととなった。)

負傷者を出すこととなった。

(せんとうがかくだいをつづけしゅうそくするけはいをみせないなか、にほんは、あじあにおける)

戦闘が拡大を続け終息する気配を見せない中、日本は、アジアにおける

(かずすくないどくりつこくかつゆうこうこくのたいとおなじくゆうこうこくのふらんすがたたかいこくりょくが)

数少ない独立国かつ友好国のタイと同じく友好国のフランスが戦い国力が

(ひへいすることをゆうりょし、たいとふらんすのあいだのわへいをあっせんしはじめた。)

疲弊することを憂慮し、タイとフランスの間の和平を斡旋し始めた。

(しかしりょうこくのしゅちょうはへいこうせんをたどり、たいとふらんすのあいだのたたかいは)

しかし両国の主張は平行線をたどり、タイとフランスの間の戦いは

(にほんのちゅうかいによる1941ねん5がつ8にちのとうきょうじょうやくていけつまでつづいた。)

日本の仲介による1941年5月8日の東京条約締結まで続いた。

(しかしたいおうこくはこのふんそうでふらんすがうばったきゅうりょうをかいふくし、)

しかしタイ王国はこの紛争でフランスが奪った旧領を回復し、

(じじつじょうのしょうりをおさめた。)

事実上の勝利を収めた。

(あめりかのたいにちきんゆとれんどりーす)

アメリカの対日禁輸とレンドリース

(1940ねん1がつににちべいつうしょうこうかいじょうやくがしっこうしていこう、あめりかは、にほんに)

1940年1月に日米通商航海条約が失効して以降、アメリカは、日本に

(とってさいだいのゆしゅつこくであることをさかてにとり、にっちゅうせんそうをたたかうにほんへ)

とって最大の輸出国であることを逆手に取り、日中戦争を戦う日本へ

(あつりょくをかけてくることとなった。7がつ26にちににほんへのゆしゅつせっさくゆ)

圧力をかけてくることとなった。7月26日に日本への輸出切削油

(ゆしゅつかんりほうをせいりつさせる。8がつにせきゆせいひん(おもにおくたんか87いじょうの)

輸出管理法を成立させる。8月に石油製品(主にオクタン価87以上の

(こうくうようねんりょう)などのゆしゅつをきょかせいにし、10がつ16にちにくずてつをゆしゅつきんしに)

航空用燃料)などの輸出を許可制にし、10月16日に屑鉄を輸出禁止に

(するなどつぎつぎときんゆこうせいをうちだした。)

するなど次々と禁輸攻勢を打ち出した。

(これにたいしてにほんかいぐんなどではみんかんしょうしゃをつうじ、ぶらじるや)

これに対して日本海軍などでは民間商社を通じ、ブラジルや

(あふがにすたんなどでゆでんやこうざんのかくとくをすすめようとしたが、すべて)

アフガニスタンなどで油田や鉱山の獲得を進めようとしたが、全て

(あめりかのあつりょくによってけいやくをむすぶことができず、ねんないに)

アメリカの圧力によって契約を結ぶことができず、年内に

(みんかんるーとでのかいたくをだんねんした。)

民間ルートでの開拓を断念した。

(さらにあめりかはちゅうりつほうにあらわれていたひかいにゅうしゅぎをべいだいとうりょう)

さらにアメリカは中立法に現れていた非介入主義を米大統領

(ふらんくりん・るーずべるとがさらにかんわし、1941ねん3がつには)

フランクリン・ルーズベルトがさらに緩和し、1941年3月には

(れんどりーすほうをせっちし、たいりょうのせんとうき・ぶきやぐんじゅぶっしをちゅうかみんこく、)

レンドリース法を設置し、大量の戦闘機・武器や軍需物資を中華民国、

(いぎりす、そびえとれんぽう、ふらんすそのほかのれんごうこくにたいしてきょうきゅうした。)

イギリス、ソビエト連邦、フランスその他の連合国に対して供給した。

(1945ねん8がつのしゅうせんまでに、そうがく501おくどる(2007ねんのかちにかんさんして)

1945年8月の終戦までに、総額501億ドル(2007年の価値に換算して

(ほぼ7000おくどる)のぶっしがきょうきゅうされ、そのうち314おくどるがいぎりすへ、)

ほぼ7000億ドル)の物資が供給され、そのうち314億ドルがイギリスへ、

(113おくどるがそびえとれんぽうへ、32おくどるがふらんすへ、)

113億ドルがソビエト連邦へ、32億ドルがフランスへ、

(16おくどるがちゅうかみんこくへていきょうされた。)

16億ドルが中華民国へ提供された。

(なおにっちゅうせんそうちゅうのちゅうかみんこくは、にほんからのこうぎをうけて1937ねんから)

なお日中戦争中の中華民国は、日本からの抗議を受けて1937年から

(1938ねんにどいつやいたりあとのぶきのけいやくがきれたあと、すぐさま)

1938年にドイツやイタリアとの武器の契約が切れた後、すぐさま

(あめりかとのぶきちょうたつけいやくをむすび、そのあともだいにじせかいたいせんにさんせん)

アメリカとの武器調達契約を結び、その後も第二次世界大戦に参戦

(しなかったあめりかとれんどりーすほうあんをむすび、たいせんをつうじてあめりか)

しなかったアメリカとレンドリース法案を結び、大戦を通じてアメリカ

(がおもなぶきのちょうたつさきとなった。)

が主な武器の調達先となった。

(あめりかのにっちゅうせんそうへのぐんじかいにゅう)

アメリカの日中戦争への軍事介入

(さらにあめりかは、1940ねん8がつににっちゅうせんそうでおいこまれつつあった)

さらにアメリカは、1940年8月に日中戦争で追い込まれつつあった

(しょうかいせきそうとうとそうびれいふじんからのかずとにわたるぐんじしえんのようせいをうけ、)

しょう介石総統と宋美齢夫人からの数度にわたる軍事支援の要請を受け、

(だいとうりょうるーずべるとのしじをうけせつりつされた「わしんとんちゅうごくえんじょ)

大統領ルーズベルトの指示を受け設立された「ワシントン中国援助

(おふぃす」のしえんのした、あめりかがっしゅうこくぎゆうぐん)

オフィス」の支援の下、アメリカ合衆国義勇軍

((americanvolunteergroup,avg))

(American Volunteer Group, AVG)

(をせつりつし、ここににっちゅうせんそうへのあめりかによるほんかくてきなぐんじかいにゅうをかいしした。)

を設立し、ここに日中戦争へのアメリカによる本格的な軍事介入を開始した。

(あめりかりくぐんしょうこうのくれあ・りー・しぇんのーとはるーずべるとの)

アメリカ陸軍将校のクレア・リー・シェンノートはルーズベルトの

(うしろだてをえて、そのあとあめりかぐんないでぱいろっとのぼしゅうをかいししたが、)

後ろ盾を得て、その後アメリカ軍内でパイロットの募集を開始したが、

(なかなかひとがあつまらず「にほんぐんのひこうきはきゅうしきである」というなら)

なかなか人が集まらず「日本軍の飛行機は旧式である」というなら

(まだしも、「にほんじんはめがねをかけているから、そうじゅうてきせいがない」)

まだしも、「日本人は眼鏡をかけているから、操縦適性がない」

(とじんしゅさべつてきなみとおしをのべてまでぼしゅうするめんせつかんもいた。)

と人種差別的な見通しを述べてまで募集する面接官もいた。

(さいしゅうてきに、かーちすp-40などのやく100きのあめりかせいのさいしんえいせんとうきと、)

最終的に、カーチスP-40などの約100機のアメリカ製の最新鋭戦闘機と、

(にほんをしげきせぬようしぇんのーととおなじくあめりかぐんせきをいちじてきに)

日本を刺激せぬようシェンノートと同じくアメリカ軍籍を一時的に

(ぬいて「みんかんじんによるぎゆうへい」となったぱいろっと100めい、そして)

抜いて「民間人による義勇兵」となったパイロット100名、そして

(200めいのちじょうよういんをあめりかぐんないからあつめ、1941ねん3がつにちゅうかみんこくに)

200名の地上要員をアメリカ軍内から集め、1941年3月に中華民国に

(おくった。ぶたいめいはちゅうかみんこくぐんのかんけいしゃからはちゅうごくこじにならい「ひとら」)

送った。部隊名は中華民国軍の関係者からは中国故事に習い「飛虎」

(となづけ、「ふらいんぐたいがーす」のめいしょうでしられるようになる。)

と名づけ、「フライングタイガース」の名称で知られるようになる。

(またしぇんのーとはけんこうじょうのりゆうによりぐんではたいえきすんぜんであったが、)

またシェンノートは健康上の理由により軍では退役寸前であったが、

(しょうかいせきはくうせんけいけんのほうふなかれをあめりかぎゆうぐんこうくうさんぼうちょうのたいさ)

しょう介石は空戦経験の豊富な彼をアメリカ義勇軍航空参謀長の大佐

(としてあわした。ぎゆうへいはげっきゅう1000どるであった。)

として遇した。義勇兵は月給1000ドルであった。

(しぇんのーとらavgのめんばーは、にほんをしげきせぬようあくまで)

シェンノートらAVGのメンバーは、日本を刺激せぬようあくまで

(「みんかんじん」として、ゆうこうこくいぎりすのしょくみんちのびるまにむけとこう、)

「民間人」として、友好国イギリスの植民地のビルマに向け渡航、

(げんちにてせいしきにちゅうかみんこくぐんににゅうたいし、いぎりすりょうびるまのらんぐーん)

現地にて正式に中華民国軍に入隊し、イギリス領ビルマのラングーン

((げんやんごん)のきたにあるきぇだうこうくうきちをかりうけほんきょちとし)

(現ヤンゴン)の北にあるキェダウ航空基地を借り受け本拠地とし

(にほんぐんとたいじした。ここでのavgのもくてきは、ちゅうかみんこくぐんへのえんじょぶっしの)

日本軍と対峙した。ここでのAVGの目的は、中華民国軍への援助物資の

(にあげみなとであるらんぐーんとちゅうかみんこくのしゅとであるしげよしをむすぶ)

荷揚げ港であるラングーンと中華民国の首都である重慶を結ぶ

(3,200kmのえんしょうるーと(「びるま・ろーど」)じょうくうのせいくうけんを)

3,200kmの援しょうルート(「ビルマ・ロード」)上空の制空権を

(かくほすることであった。)

確保することであった。

(だがふらいんぐたいがーすは、にほんぐんのさいしんえいのぜろしきかんじょうせんとうきを)

だがフライングタイガースは、日本軍の最新鋭の零式艦上戦闘機を

(はじめとしたさいしんのこうくうきとれんどがたかいせんとうきのりのおおさ、さらに)

はじめとした最新の航空機と練度が高い戦闘機乗りの多さ、さらに

(ちゅうかみんこくぐんのじこのおおさになやまされてくせんをしいられた。)

中華民国軍の事故の多さに悩まされて苦戦を強いられた。

(さらに、げきついすうによるできだかせいのきゅうよ(にほんぐんきを1きげきついすることに)

さらに、撃墜数による出来高制の給与(日本軍機を1機撃墜することに

(500どるのぼーなす)のために、ぼーなすをもらうべくじっさいのばいいじょうの)

500ドルのボーナス)のために、ボーナスをもらうべく実際の倍以上の

(げきついほうこくをするありさまであった。さらに1941ねん12がつにせいしきににほんに)

撃墜報告をする有様であった。さらに1941年12月に正式に日本に

(せんせんふこくしたあめりかにとって「ぎゆうぐん」のいみはなく、1942ねん7がつ3にち)

宣戦布告したアメリカにとって「義勇軍」の意味はなく、1942年7月3日

(にあめりかぐんはavgにたいしてせいしきにかいさんめいれいをだした。)

にアメリカ軍はAVGに対して正式に解散命令を出した。

(はるよんげんそく)

ハル四原則

(1941ねん2がつには、あめりかがかんりするぱなまうんがのりようがあめりかぶねと)

1941年2月には、アメリカが管理するパナマ運河の利用がアメリカ船と

(いぎりすぶねのみにせいげんされ、にほんやどいつぶねはかんぜんにはいじょされた。)

イギリス船のみに制限され、日本やドイツ船は完全に排除された。

(このままあっかがつづくとおもわれたにちべいかんも、4がつからはとうきょうとわしんとん)

このまま悪化が続くと思われた日米間も、4月からは東京とワシントン

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