第二次世界大戦35
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問題文
(なおいぎりすやあめりかとのかいせんにかんしてにほんのとうじょうらりくかいぐんしゅのうは、)
なおイギリスやアメリカとの開戦に関して日本の東条ら陸海軍首脳は、
(「あめりかこくみんはえんせんきぶんがつよく、しょせんでにほんぐんがあっとうしたばあい、)
「アメリカ国民は厭戦気分が強く、緒戦で日本軍が圧倒した場合、
(にほんにゆうりなじょうけんでこうわにおうずるであろう」、「いぎりすはどいつと)
日本に有利な条件で講和に応ずるであろう」、「イギリスはドイツと
(まもなくこうわにむかい、にほんにゆうりなじょうけんでまれーやほんこんもてばなさざる)
間もなく講和に向かい、日本に有利な条件でマレーや香港も手放さざる
(をえなくなるだろう」といったあんい(またはかって)なそうぞうとおもいこみを)
を得なくなるだろう」といった安易(または勝手)な想像と思いこみを
(こんきょにかいせんのじゅんびをすすめた。)
根拠に開戦の準備を進めた。
(さらにとうじょうらがいうように、にほんりくかいぐんにこうげきされたいぎりすや)
さらに東条らが言うように、日本陸海軍に攻撃されたイギリスや
(あめりか、おらんだが、そのあとかんたんにていせん、こうわこうしょうにおうじるという)
アメリカ、オランダが、その後簡単に停戦、講和交渉に応じるという
(こんきょはどこにもなかった(なおとうじょうりくしょうはちゅうざいぶかんとしてすいすに)
根拠はどこにもなかった(なお東条陸相は駐在武官としてスイスに
(ちゅうざいし、どいつにほうもんしたことこそあるものの、いぎりすやあめりかを)
駐在し、ドイツに訪問したことこそあるものの、イギリスやアメリカを
(ほうもんしたことは1どもなく、えいごをはなせないうえ、りょうこくのしゅのうじんにちじんも)
訪問したことは1度もなく、英語を話せない上、両国の首脳陣に知人も
(いなかった。これはかいぐんならともかく、とうじのにほんのりくぐんかんりょうや)
いなかった。これは海軍ならともかく、当時の日本の陸軍官僚や
(せいじかではひょうじゅんてきなことであった)。)
政治家では標準的な事であった)。
(いずれにしても、このようなにちえいべいらんかんけいのあっかをうけて、にほんかいぐんは)
いずれにしても、このような日英米蘭関係の悪化を受けて、日本海軍は
(ほのるるやさんふらんしすこ、めきしこ、さいごん、まかお、まどりーど)
ホノルルやサンフランシスコ、メキシコ、サイゴン、マカオ、マドリード
(などにすぱいをおくっている。たとえば3がつ26にちにほのるるにおくられた)
などにスパイを送っている。例えば3月26日にホノルルに送られた
(よしかわたけおしょういは「もりむらただし」のへんなをなのりほのるるりょうじかんにきんむした。)
吉川猛夫少尉は「森村正」の変名を名乗りホノルル領事館に勤務した。
(よしかわがしゅうしゅうしたじょうほうは、しんじゅわんにおけるあめりかかいぐんのかんせんのどうこうなど)
吉川が収集した情報は、真珠湾におけるアメリカ海軍の艦船の動向など
(たきにわたり、きたながおそうりょうじのなでとうきょうにあんごうにしてだでんしていた。)
多岐にわたり、喜多長雄総領事の名で東京に暗号にして打電していた。
(よしかわのしょうたいはそうりょうじいがいだれもしらされなかった。)
吉川の正体は総領事以外誰も知らされなかった。
(とうじょうぐんじないかくせいりつ)
東條軍事内閣成立
(りくぐんはあめりか(はる)のかいとうをもって「にちべいこうしょうもじじつじょうおわり」)
陸軍はアメリカ(ハル)の回答をもって「日米交渉も事実上終わり」
(とはんだんし、さんぼうほんぶはせいふにたいし、がいこうきげんを10がつ15にちとするよう)
と判断し、参謀本部は政府に対し、外交期限を10月15日とするよう
(ようきゅうした。がいこうきげんのせまった10がつ12にち、せんそうのけつだんをせまられたごのえはがいしょう・)
要求した。外交期限の迫った10月12日、戦争の決断を迫られた近衞は外相・
(とよだていじろう、かいしょう・おいかわこしろう、りくしょう・とうじょうひでき、きかくいんそうさい・)
豊田貞次郎、海相・及川古志郎、陸相・東條英機、企画院総裁・
(すずきていいちをてきがいそうによび「ごしょうかいぎ」をひらき、たいえいべいせんそうへのたいおうを)
鈴木貞一を荻外荘に呼び「五相会議」を開き、対英米戦争への対応を
(きょうぎした。いわゆる「てきがいそうかいだん」である。)
協議した。いわゆる「荻外荘会談」である。
(そこではちゅうかみんこくからのてっぺいをおこなうことで、にちべいこうしょうだけつのかのうせいが)
そこでは中華民国からの撤兵を行うことで、日米交渉妥結の可能性が
(あるとするしゅしょう・このえおよびがいしょう・とよたと、「だけつのみこみなしとおもいふ」)
あるとする首相・近衛および外相・豊田と、「妥結ノ見込ナシト思フ」
(とするりくしょう・とうじょうのあいだでたいりつがみられた。)
とする陸相・東條の間で対立が見られた。
(このえしゅしょうは「いま、どちらかでやれといわれればがいこうでやるといわざる)
近衛首相は「今、どちらかでやれと言われれば外交でやると言わざる
(をえない。(すなわち)せんそうにわたしはじしんはない。(せんそうをやるなら)
を得ない。(すなわち)戦争に私は自信はない。(戦争をやるなら
(しきを)じしんあるひとにやってもらわねばならん」とのべ、10がつ16にちに)
指揮を)自信ある人にやってもらわねばならん」と述べ、10月16日に
(せいけんをなげだし、10がつ18にちにないかくそうじしょくした。なおこれには、ちょくぜんの)
政権を投げ出し、10月18日に内閣総辞職した。なおこれには、直前の
(10がつ14にちにこのえないかくのしょくたくがそれんのすぱいとして2にんもたいほされ、みずからの)
10月14日に近衛内閣の嘱託がソ連のスパイとして2人も逮捕され、自らの
(かんよもうたがわれた「ぞるげじけん」のせきにんをとってのいんせきじにんとのうわさもある。)
関与も疑われた「ゾルゲ事件」の責任を取っての引責辞任との噂もある。
(ごのえしゅしょうととうじょうりくしょうは、ひがしくにのみやなるひこおうをじきしゅしょうにおすことでいっち)
近衞首相と東條陸相は、東久邇宮稔彦王を次期首相に推すことで一致
(した、しかし、ひがしくにのみやないかくあんは、せんそうになればこうぞくにるいがおよぶことを)
した、しかし、東久邇宮内閣案は、戦争になれば皇族に累が及ぶことを
(けねんするきどこういちないだいじんらのうんどうでじつげんせず、)
懸念する木戸幸一内大臣らの運動で実現せず、
(とうじょうりくしょうがじきしゅしょうとなった。)
東條陸相が次期首相となった。
(このすいせんには「げんえきりくしょうのとうじょうしかぐんぶをおさえられない」、「てんのうに)
この推薦には「現役陸相の東條しか軍部を押さえられない」、「天皇に
(さからうことをしないとうじょうしかせんそうをおさえられない」というきどうちだいじんの)
逆らうことをしない東条しか戦争を押さえられない」という木戸内大臣の
(つよいきたいがあったが、その「きたい」により、「ぐんじん(=かんりょう)がせんきょの)
強い期待があったが、その「期待」により、「軍人(=官僚)が選挙の
(せんれいをうけていないでしゅしょうというぜんけんをえてしまう」という、せんじたいせいの)
洗礼を受けていないで首相という全権を得てしまう」という、戦時体制の
(みんしゅしゅぎこっかとしてはありえないことがおこった。このことは、ぐんぶの)
民主主義国家としてはあり得ないことが起こった。このことは、軍部の
(ぼうそうがますますとまらなくなり、さらににほんが「ぶんみん(=とうじん)せいけん」)
暴走がますます止まらなくなり、さらに日本が「文民(=党人)政権」
(から「ぐんじどくさいせいけん」へいこうしこっかが「せんじたいせい」となったと、)
から「軍事独裁政権」へ移行し国家が「戦時体制」となったと、
(いぎりすやあめりかなどのみんしゅしゅぎこっかからうけとめられかねないと)
イギリスやアメリカなどの民主主義国家から受け止められかねないと
(いう、2つのてんをかんぜんにむししていた。)
いう、2つの点を完全に無視していた。
(またこれまでにほんでは、おかだけいすけやよないみつまさ、かつらたろうのように、せんきょを)
またこれまで日本では、岡田啓介や米内光政、桂太郎のように、選挙を
(へないでせんしゅつされたぐんじかんりょうがしゅしょうになることはあったものの、)
経ないで選出された軍事官僚が首相になることはあったものの、
(このようにせんきょをへないでえらばれたりくかいぐんじんが、せんじたいせいかのくにをすきに)
このように選挙を経ないで選ばれた陸海軍人が、戦時体制下の国を好きに
(こんとろーるする「ぐんじ(=かんりょう)どくさいたいせい」はかつてなく、しかし)
コントロールする「軍事(=官僚)独裁体制」はかつてなく、しかし
(このようなぐんじどくさいたいせいは、けっきょくはいせんじのすずきかんたろうまでつづくことになる。)
このような軍事独裁体制は、結局敗戦時の鈴木貫太郎まで続くことになる。
(ぞるげじけん)
ゾルゲ事件
(このようななかで、1941ねん9がつ27にちのあめりかきょうさんとういんのきたばやしともや)
このような中で、1941年9月27日のアメリカ共産党員の北林トモや
(10がつ10かのみやぎよとく、10がつ14にちのこのえないかくしょくたくであるおざきほつみや)
10月10日の宮城与徳、10月14日の近衛内閣嘱託である尾崎秀実や
(さいおんじきんかずのたいほをかわきりに、それんのすぱいもうかんけいしゃがじゅんじこうそく・)
西園寺公一の逮捕を皮切りに、ソ連のスパイ網関係者が順次拘束・
(たいほされた。そのあとどいつの「ふらんくふるたー・)
逮捕された。その後ドイツの「フランクフルター・
(つぁいとぅんぐ」かみのきこうきしゃで、とうきょうふにざいじゅうしていたどいつじんの)
ツァイトゥング」紙の寄稿記者で、東京府に在住していたドイツ人の
(りひゃると・ぞるげなどをちょうてんとするすぱいそしきが、にほんこくないで)
リヒャルト・ゾルゲなどを頂点とするスパイ組織が、日本国内で
(それんならびにこみんてるんのちょうほうかつどうおよびぼうりゃくかつどうを)
ソ連並びにコミンテルンの諜報活動および謀略活動を
(おこなっていたことがはんめいした。)
行っていたことが判明した。
(そうさたいしょうにがいこくじん、しかもゆうこうこくのどいつじんがいることがはんめいしたじてん)
捜査対象に外国人、しかも友好国のドイツ人がいることが判明した時点
(で、けいしちょうとっこうぶでは、とっこうだい1かにくわえがいじかがそうさにとうにゅうされた。)
で、警視庁特高部では、特高第1課に加え外事課が捜査に投入された。
(そのあとにみやぎとかんけいがふかく、さらにこのえないかくしょくたくであるおざきやさいおんじと)
その後に宮城と関係が深く、さらに近衛内閣嘱託である尾崎や西園寺と
(ぞるげらのがいこくじんようぎしゃをどうじにけんきょしなければ、ようぎしゃのこくがいとうぼうや)
ゾルゲらの外国人容疑者を同時に検挙しなければ、容疑者の国外逃亡や
(たいしかんへのひなん、あるいはじさつなどによるとうぼう、しょうこいんめつがよそうされる)
大使館への避難、あるいは自殺などによる逃亡、証拠隠滅が予想される
(ため、けいしちょうはいっせいけんきょのしょうにんをけんじにもとめた。しかし、だいしんいんけんじきょくが)
ため、警視庁は一斉検挙の承認を検事に求めた。しかし、大審院検事局が
(にちどくのがいこうかんけいをこうりょし、まずそうりたいじんがまぢかなこのえふみまろとちかいおざき、)
日独の外交関係を考慮し、まず総理退陣が間近な近衛文麿と近い尾崎、
(さいおんじのけんきょによりかくしんをえてからがいこくじんようぎしゃをけんきょすべきである、)
西園寺の検挙により確信を得てから外国人容疑者を検挙すべきである、
(とけいしちょうのしゅちょうをみとめなかった。)
と警視庁の主張を認めなかった。
(そのこうびさきがこのえないかくがそうじしょくする4かまえの10がつ14かにたいほされ、)
その後尾崎が近衛内閣が総辞職する4日前の10月14日に逮捕され、
(とうじょうひできりくしょうがしゅしょうにしゅうにんしたどう18にちにがいじかは、けんきょはんをわけて)
東條英機陸相が首相に就任した同18日に外事課は、検挙班を分けて
(ぞるげ、まっくす・くらうぜんとつまのあんな、ぶらんこ・ど・)
ゾルゲ、マックス・クラウゼンと妻のアンナ、ブランコ・ド・
(ヴーけりっちのがいこくじんようぎしゃをけんきょし、ここにそれんによるすぱいじけん、)
ヴーケリッチの外国人容疑者を検挙し、ここにソ連によるスパイ事件、
(いわゆる「ぞるげじけん」があきらかになった。)
いわゆる「ゾルゲ事件」が明らかになった。
(ぞるげはにほんぐんのほこさきがどうめいこくのどいつがもとめるたいそさんせんにむかうのか、)
ゾルゲは日本軍の矛先が同盟国のドイツが求める対ソ参戦に向かうのか、
(いぎりすりょうまらややおらんだりょうひがしいんど、あめりかりょうふぃりぴんなどの)
イギリス領マラヤやオランダ領東インド、アメリカ領フィリピンなどの
(なんぽうへむかうのかをさぐった。おざきなどからそれらをにゅうしゅすることができた)
南方へ向かうのかを探った。尾崎などからそれらを入手することができた
(ぞるげは、それをたいほちょくぜんの10がつ4かにそれんほんごくへだでんした。そのけっか、)
ゾルゲは、それを逮捕直前の10月4日にソ連本国へ打電した。その結果、
(それんはにほんぐんのこうげきにたいしょするためにそまんのこっきょうにはいびしたとうきそうびの)
ソ連は日本軍の攻撃に対処するためにソ満の国境に配備した冬季装備の
(じゅうじつしたせいえいぶたいを、よーろっぱほうめんへいどうさせることができたといわれる。)
充実した精鋭部隊を、ヨーロッパ方面へ移動させることができたといわれる。
(ぞるげのたいほをうけてどいつたいしかんつきけいさつぶかんけんこっかほあんほんぶしょうこうで、)
ゾルゲの逮捕を受けてドイツ大使館付警察武官兼国家保安本部将校で、
(すぱいをとりしまるせきにんしゃのよーぜふ・まいじんがーは、べるりんの)
スパイを取り締まる責任者のヨーゼフ・マイジンガーは、ベルリンの
(こっかほあんほんぶにたいして「にほんとうきょくによるぞるげにたいするけんぎは、まったく)
国家保安本部に対して「日本当局によるゾルゲに対する嫌疑は、全く
(しんようするにあたいしない」とほうこくしている。さらにぞるげのこじんてきなゆうじんで)
信用するに値しない」と報告している。さらにゾルゲの個人的な友人で
(あり、ぞるげにどいつたいしかんつきのしせつじょうほうかんというちいまであたえていた)
あり、ゾルゲにドイツ大使館付の私設情報官という地位まで与えていた
(おいげん・おっとたいしや、こっかしゃかいしゅぎどいつろうどうしゃとうとうきょうしぶ、)
オイゲン・オット大使や、国家社会主義ドイツ労働者党東京支部、
(ざいにちどいつじんとくはいんいちどうもぞるげのたいほようぎがふとうなものであると)
在日ドイツ人特派員一同もゾルゲの逮捕容疑が不当なものであると
(こうぎするせいめいぶんをだした。またおっとたいしやまいじんがーは、)
抗議する声明文を出した。またオット大使やマイジンガーは、
(ぞるげがたいほされたちょくごから、「ゆうほうこくみんにたいするふとうたいほ」だとして)
ゾルゲが逮捕された直後から、「友邦国民に対する不当逮捕」だとして
(さまざまながいこうるーとをつかってぞるげをしゃくほうするようにほんせいふに)
様々な外交ルートを使ってゾルゲを釈放するよう日本政府に
(たいしてつよくもとめていた。)
対して強く求めていた。