第二次世界大戦36
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問題文
(しかしゆうほうどいつのたいしかんつきのしせつじょうほうかんという、まんがいちのときには)
しかし友邦ドイツの大使館付の私設情報官という、万が一の時には
(がいこうてきにもだいもんだいとなるばあいにたいしばんぜんをつくしたけいさつのしらべにより、)
外交的にも大問題となる場合に対し万全を尽くした警察の調べにより、
(たいほごまもなくぞるげはぜんめんてきにそれんのすぱいとしてのつみをみとめた。)
逮捕後間もなくゾルゲは全面的にソ連のスパイとしての罪を認めた。
(まもなくとくべつめんかいをゆるされたおっとたいしは、ぞるげほんにんからすぱいで)
間もなく特別面会を許されたオット大使は、ゾルゲ本人からスパイで
(あることをききしることになる。そのあとのさいばんで、ぞるげやくらうぜん)
あることを聞き知ることになる。その後の裁判で、ゾルゲやクラウゼン
(などのがいこくじんとくはいんやみやぎやきたばやしらのきょうさんとういん、そしておざきや)
などの外国人特派員や宮城や北林らの共産党員、そして尾崎や
(さいおんじなどのこのえないかくしょくたくがしけいはんけつやちょうえきけいをふくむゆうざいとなった。)
西園寺などの近衛内閣嘱託が死刑判決や懲役刑を含む有罪となった。
(なおとうぜんながらおざきやさいおんじとひじょうにちかいこのえのかんよもうたがわれたが、)
なお当然ながら尾崎や西園寺と非常に近い近衛の関与も疑われたが、
(そのあとのじしょくとえいべいかいせんでふもんとなった。)
その後の辞職と英米開戦で不問となった。
(なおおっとたいしは1941ねん12がつにひ にちえいべいがかいせんし、どいつもあめりかに)
なおオット大使は1941年12月に日英米が開戦し、ドイツもアメリカに
(せんせんふこくしたこともあり、はんぼうのなかでたいししょくにとどまりつづけた。おっとじしん)
宣戦布告したこともあり、繁忙の中で大使職に留まり続けた。オット自身
(からりっべんとろっぷにぞるげたいほについてのほうこくはなかったとみられ、)
からリッベントロップにゾルゲ逮捕についての報告はなかったとみられ、
(どいつがいむしょうにはまんしゅうこくのしんきょうちゅうざいそうりょうじが1942ねん3がつにおくった)
ドイツ外務省には満洲国の新京駐在総領事が1942年3月に送った
(つうしんでぞるげじけんのしょうさいがもたらされたとすいそくされている。これをうけて)
通信でゾルゲ事件の詳細がもたらされたと推測されている。これを受けて
(りっべんとろっぷはおっとに、ぞるげにろうえいしたじょうほうのないようやけいい、)
リッベントロップはオットに、ゾルゲに漏洩した情報の内容や経緯、
(ぞるげがみぶんをかもふらーじゅしてなちすとういんやどいつのしんぶんとくはいんに)
ゾルゲが身分をカモフラージュしてナチス党員やドイツの新聞特派員に
(なりおおせたじじょうのせつめいをもとめた。これにたいして、おっとはぞるげ)
なりおおせた事情の説明を求めた。これに対して、オットはゾルゲ
(のなちすにゅうとうのけいいやたいしかんがしんぶんしゃにすいせんをしたかどうかはわからず、)
のナチス入党の経緯や大使館が新聞社に推薦をしたかどうかはわからず、
(ぞるげにはきみつじょうほうとせっしょくさせなかったとべんかいした。さらに、じけんが)
ゾルゲには機密情報と接触させなかったと弁解した。さらに、事件が
(にちどくかんけいにししょうをもたらしていないとのべたうえで、みずからのかいにん)
日独関係に支障をもたらしていないと述べた上で、自らの解任
(もしくはきゅうしょくをようせいした。)
もしくは休職を要請した。
(おっとは1942ねん11がつにちゅうにちたいしをかいにんされ、こうにんはちゅうなんきん)
オットは1942年11月に駐日大使を解任され、後任は駐南京
(こくみんせいふたいしのはいんりひ・げおるく・すたーまーとなった。)
国民政府大使のハインリヒ・ゲオルク・スターマーとなった。
(かいにんつうちには「がいむしょうにしょうかん」とするいっぽうで、どいつへのあんぜんなきかんが)
解任通知には「外務省に召還」とする一方で、ドイツへの安全な帰還が
(かくほできないとして、しじんとしていっさいのせいじてきかつどうをひかえながらとうめん)
確保できないとして、私人として一切の政治的活動を控えながら当面
(にほんにとどまるようしじされていた。そのあとかほくせいむいいんかいのぺきんへと)
日本にとどまるよう指示されていた。その後華北政務委員会の北京へと
(かぞくとともにむかった。)
家族とともに向かった。
(ぞるげはとくべつこうとうけいさつのとりしらべでじぶんがそれんのすぱいであることを)
ゾルゲは特別高等警察の取り調べで自分がソ連のスパイであることを
(じきょうしたが、それんほんごくはぞるげをみすててそれをむしした。このときに)
自供したが、ソ連本国はゾルゲを見捨ててそれを無視した。このときに
(りくぐんじかんであったとみながきょうじは、ぞるげとにほんじんほりょのこうかんをなんども)
陸軍次官であった富永恭次は、ゾルゲと日本人捕虜の交換を何度も
(それんたいしかんにようきゅうしているが、それんがわはそのつど「りひゃると・ぞるげ)
ソ連大使館に要求しているが、ソ連側はその都度「リヒャルト・ゾルゲ
(というじんぶつはしらない」とかいとうし、とみながのもうしでをきょひした。ぞるげは、)
という人物は知らない」と回答し、富永の申し出を拒否した。ゾルゲは、
(1942ねんにこくぼうほあんほう、ちあんいじほういはんなどでしけいのはんけつをうけ、11がつ7にち)
1942年に国防保安法、治安維持法違反などで死刑の判決を受け、11月7日
(のろしあかくめいきねんびにすがもこうちしょにてしけいがしっこうされた。しけいしっこうちょくぜんの)
のロシア革命記念日に巣鴨拘置所にて死刑が執行された。死刑執行直前の
(ぞるげのさいごのことばは、にほんごで「これはわたしのさいごのことばです。)
ゾルゲの最後の言葉は、日本語で「これは私の最後の言葉です。
(そびえとせきぐん、こくさいきょうさんしゅぎばんざい」であったという。)
ソビエト赤軍、国際共産主義万歳」であったという。
(なんぽうさくせんじゅんび)
南方作戦準備
(10がつ15にちと22にちにあいついでたいへいようこうろについたりんじびんの「たつたまる」と)
10月15日と22日に相次いで太平洋航路に着いた臨時便の「龍田丸」と
(「たいようまる」は、えとろふとうおきからありゅーしゃんれっとうおきをとおるなど、あとの)
「大洋丸」は、択捉島沖からアリューシャン列島沖を通るなど、後の
(しんじゅわんこうげきとにかよったるーとをとったへんそくてきなこうろをとった。またりょうふねと)
真珠湾攻撃と似通ったルートを取った変則的な航路を採った。また両船と
(もにほのるるにがいむしょうやせんいんなどのめいもくでかいぐんのちょうほういんをおくっており、)
もにホノルルに外務省や船員などの名目で海軍の諜報員を送っており、
(はわいおきであめりかかいぐんのしょうかいきにそうぐうしたほか、しんじゅわんのしょうかい、)
ハワイ沖でアメリカ海軍の哨戒機に遭遇したほか、真珠湾の哨戒、
(ぼうえいのげんじょうをつぶさにしらべており、あめりかかいぐんのきたたいへいようのしょうかいや)
防衛の現状をつぶさに調べており、アメリカ海軍の北太平洋の哨戒や
(しんじゅわんのぼうえいのげんじょう、さらにげんちちょうほういんのじょうほうをかいぐんほんぶに)
真珠湾の防衛の現状、さらに現地諜報員の情報を海軍本部に
(もちかえるなど、なんぽうさくせんのじゅんびはちゃくじつにすすんでいた。)
持ち帰るなど、南方作戦の準備は着実に進んでいた。
(なおとうじのにちべいかんのかんけいあっかをうけて1941ねん8がつにたいへいようこうろの)
なお当時の日米間の関係悪化を受けて1941年8月に太平洋航路の
(ていきびんはうんきゅうされており、それいこうのたいへいようこうろのりょかくせんは)
定期便は運休されており、それ以降の太平洋航路の旅客船は
(「りんじこうかんせん」あつかいであった。さらににほんせんはざいべいにほんしさんとして)
「臨時交換船」扱いであった。さらに日本船は在米日本資産として
(あめりかせいふにさしおさえられることをさけて、にっぽんゆうせんやとうようきせんから)
アメリカ政府に差し押さえられることを避けて、日本郵船や東洋汽船から
(にほんせいふがかしきるかたちとなった。このためによこはまはつのびんはあめりかへ)
日本政府が貸切る形となった。このために横浜発の便はアメリカへ
(きこくするあめりかじんでいっぱいになっており、ぎゃくにほのるるやしあとるはつの)
帰国するアメリカ人で一杯になっており、逆にホノルルやシアトル発の
(びんはにほんへきこくするにほんじんでいっぱいだった。)
便は日本へ帰国する日本人で一杯だった。
(なおにっぽんゆうせんのろんどんせんやはんぶるくせんなどのおうしゅうろせんは、おうしゅうせんいきの)
なお日本郵船のロンドン線やハンブルク線などの欧州路線は、欧州戦域の
(あっかで1940ねんちゅうにうんきゅうとなっており、そのためたいへいようろせんであめりか)
悪化で1940年中に運休となっており、そのため太平洋路線でアメリカ
(けいゆであじあとよーろっぱをいききするにほんじんやよーろっぱじんじょうきゃくも)
経由でアジアとヨーロッパを行き来する日本人やヨーロッパ人乗客も
(おおぜいいたため、1941ねんにはいりたいへいようこうろのていきびんはつねにこんざつしていた。)
大勢いたため、1941年に入り太平洋航路の定期便は常に混雑していた。
(とうじょうしゅしょうのしたで10がつ23にちからは「ていこくこくさくすいこうようりょう」のさいけんとうが)
東條首相の下で10月23日からは「帝国国策遂行要領」の再検討が
(おこなわれたが、けっきょくさいかくにんにとどまり、にちべいこうしょうのきげんは12がつ1にちと)
行われたが、結局再確認に留まり、日米交渉の期限は12月1日と
(することがきまった。10がつ14にちににほんはたいあめりかのさいしゅうあんとして)
することが決まった。10月14日に日本は対アメリカの最終案として
(「こうあん」と「おつあん」によるこうしょうをかいしした(これはとうじのにほんりくぐんが)
「甲案」と「乙案」による交渉を開始した(これは当時の日本陸軍が
(できるさいだいのじょうほであった)。)
できる最大の譲歩であった)。
(11がつ6にちには、にほんせいふはていこくこくさくすいこうようりょうにもといて、なんぽうぐんに)
11月6日には、日本政府は帝国国策遂行要領に基いて、南方軍に
(いぎりすりょうまらややしんがぽーる、びるま、ほんこんなど、またおらんだりょう)
イギリス領マラヤやシンガポール、ビルマ、香港など、またオランダ領
(じゃわやあめりかりょうふぃりぴんなどのこうりゃくをもくてきとする「なんぽうさくせんじゅんび」)
ジャワやアメリカ領フィリピンなどの攻略を目的とする「南方作戦準備」
(がしれいされ、11がつ15にちにははつどうじきをほりゅうしながらもさくせんかいしがしれい)
が指令され、11月15日には発動時期を保留しながらも作戦開始が指令
(された。なお11がつ11にちに、いぎりすしゅしょうのちゃーちるは「もしあめりか)
された。なお11月11日に、イギリス首相のチャーチルは「もしアメリカ
(ににほんがせんせんふこくをしたばあい、1じかんごにはいぎりすも)
に日本が宣戦布告をした場合、1時間後にはイギリスも
(にほんにせんせんふこくする」とのべ、まれーのしょうかいをきょうかした。)
日本に宣戦布告する」と述べ、マレーの哨戒を強化した。
(にちべいこうしょうのきげんぎれをうけ、11がつ26にちそうちょうに「あかぎ」、「かが」、)
日米交渉の期限切れを受け、11月26日早朝に「赤城」、「加賀」、
(「そうりゅう」、「ずいかく」、「ひりゅう」などからなるにほんかいぐんきどうぶたいの)
「蒼龍」、「瑞鶴」、「飛龍」などからなる日本海軍機動部隊の
(だいいちこうくうかんたいは、みなみちしまのえとろふとうひとかっぷわん(ひとかっぷわん)から)
第一航空艦隊は、南千島の択捉島単冠湾(ヒトカップ湾)から
(あめりかのはわいにあるしんじゅわんのかいぐんきちにむけしゅっこうした。なおこれは、)
アメリカのハワイにある真珠湾の海軍基地に向け出港した。なおこれは、
(にちべいこうしょうのあめりかのでかたによりとちゅうでひきかえすかのうせいがあることが、)
日米交渉のアメリカの出方により途中で引き返す可能性があることが、
(あらかじめかいぐんじょうそうぶにはつたえられていた。なおこのにほんかいぐんのうごきは、)
あらかじめ海軍上層部には伝えられていた。なおこの日本海軍の動きは、
(あめりかがわにはまったくさっちされなかった。)
アメリカ側には全く察知されなかった。
(さらに、たいへいようこうろのさいごのりんじびんとなったたつたまるのこうかいは、11がつ24にちに)
さらに、太平洋航路の最後の臨時便となった龍田丸の航海は、11月24日に
(よこはまをしゅっぱつし、12がつ7にちぜんごにろさんぜるすへにゅうこうするよていであった。)
横浜を出発し、12月7日前後にロサンゼルスへ入港する予定であった。
(だが、このじてんでにほんは12がつ8にちのかいせんをけっていしてじゅんびをすすめており、)
だが、この時点で日本は12月8日の開戦を決定して準備を進めており、
(たいえいべいかいせんとともにたつたまるがろさんぜるすでだほされるのはかくじつで)
対英米開戦とともに龍田丸がロサンゼルスで拿捕されるのは確実で
(あった。しかしだいほんえいかいぐんぶ(ぐんれいぶ)は、かいせんびをひとくするために)
あった。しかし大本営海軍部(軍令部)は、開戦日を秘匿するために
(たつたまるをあえてしゅっこうさせることにする。ただし11がつ24にちしゅっぱつではなく)
龍田丸をあえて出港させることにする。ただし11月24日出発ではなく
(12がつ2にちにしゅっぱつをおくらせ、さらにかいぐんしょうはたつたまるのきむらしょうへいせんちょうに)
12月2日に出発を遅らせ、さらに海軍省は龍田丸の木村庄平船長に
(「12がつ8にちぜろじにかいふうするように」とのはこをわたした。)
「12月8日零時に開封するように」との箱を渡した。
(たつたまるは12がつ8にちにかいせんのほうをうけてそくざにひきかえし、12がつ15にち)
龍田丸は12月8日に開戦の報を受けて即座に引き返し、12月15日
((せんしそうしょでは12がつ14にちぎ)によこはまにきこうした。じょうじゅつのように、)
(戦史叢書では12月14日着)に横浜に帰港した。上述のように、
(たつたまるのこのこうかいは、まさになぐもきどうぶたいによる12がつ8にちのしんじゅわんこうげきを)
龍田丸のこの航海は、まさに南雲機動部隊による12月8日の真珠湾攻撃を
(かもふらーじゅするためのこうかいであった。)
カモフラージュするための航海であった。
(きそていあんである「はる・のーと」のむし)
基礎提案である「ハル・ノート」の無視
(しょうさいは「にちべいこうしょう」をさんしょう)
詳細は「日米交渉」を参照
(11がつ27にち(あめりかじかん11がつ26にち)に、うらではにほんぐんによるなんぽうさくせん)
11月27日(アメリカ時間11月26日)に、裏では日本軍による南方作戦
(じゅんびがちゃくちゃくとすすむなかで、あめりかのこーでる・はるこくむちょうかんから)
準備が着々と進む中で、アメリカのコーデル・ハル国務長官から
(のむらきちさぶろうちゅうべいたいしと、たいべいこうしょうたんとうのくすさぶろうけんべいとくめいぜんけん)
野村吉三郎駐米大使と、対米交渉担当の来栖三郎遣米特命全権
(たいしにつうしょう「はる・のーと」(せいしきには:がっしゅうこくおよびにっぽんこくかん)
大使に通称「ハル・ノート」(正式には:合衆国及日本国間
(きょうていのきそがいりゃく/outline)
協定ノ基礎概略/Outline
(ofproposedbasisfor)
of Proposed Basis for
(agreementbetweenthe)
Agreement Between the
(unitedstatesandjapan))
United States and Japan)
(がてわたされた。なお、これのそうあんをてがけたざいむじかんほの)
が手渡された。なお、これの草案を手掛けた財務次官補の
(はりー・ほわいとは、だいにじせかいたいせんごにそれんのすぱいで)
ハリー・ホワイトは、第二次世界大戦後にソ連のスパイで
(あることがはんめいし、1948ねんにじさつしている)
あることが判明し、1948年に自殺している