第二次世界大戦40
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問題文
(なお、とうじのいぎりすしゅしょうのちゃーちるはあとに「だいにじせかいたいせんちゅうに)
なお、当時のイギリス首相のチャーチルは後に「第二次世界大戦中に
(いぎりすがもっともおおきなしょうげきをうけたはいぼくだ」とかたった。またぎかいに)
イギリスが最も大きな衝撃を受けた敗北だ」と語った。また議会に
(たいして「いぎりすかいぐんはじまっていらいのかなしむべきじけんがおこった」と)
対して「イギリス海軍始って以来の悲しむべき事件がおこった」と
(ほうこくした。なお、にほんぐんこうくうたいはきゅうじょさぎょうをおこなういぎりすのくちくかんを)
報告した。なお、日本軍航空隊は救助作業を行うイギリスの駆逐艦を
(こうげきせず、きゅうじょさぎょうをぼうがいしなかった。さらにせんとうのすうじつご、)
攻撃せず、救助作業を妨害しなかった。さらに戦闘の数日後、
(だいにじこうげきたいちょうだったいきはるきかいぐんたいいは、ぶかちゅうたいをひきいて)
第二次攻撃隊長だった壱岐春記海軍大尉は、部下中隊を率いて
(あなんばすしょとうでんしんじょばくげきへむかう。とちゅう、りょうかんのちんぼつしたかいいきを)
アナンバス諸島電信所爆撃へ向かう。途中、両艦の沈没した海域を
(つうかし、きじょうからちんぼつげんばのかいめんにはなたばをとうかしてにちえいりょうぐんのせんししゃに)
通過し、機上から沈没現場の海面に花束を投下して日英両軍の戦死者に
(たいしけいいをあらわした。)
対し敬意を表した。
(このかいせんのけっか、いんどようにしんしゅつしていたいぎりすとうようかんたいのだいぶぶんが)
この海戦の結果、インド洋に進出していたイギリス東洋艦隊の大部分が
(にほんぐんのこうくうこうげきをけいかいし、まれーほうめんしんしゅつをだんねんしたためまれーさくせんは)
日本軍の航空攻撃を警戒し、マレー方面進出を断念したためマレー作戦は
(じゅんちょうにしんこうした。こたばるへじょうりくしたにほんりくぐんは、きょくとうにおける)
順調に進行した。コタバルへ上陸した日本陸軍は、極東における
(いぎりすぐんのさいだいのきょてんであるしんがぽーるをめざしはんとうをなんか、とつぜんの)
イギリス軍の最大の拠点であるシンガポールを目指し半島を南下、突然の
(にほんりくぐんのきゅうしゅうに、うしろだてになるはずのとうようかんたいをうしなった)
日本陸軍の急襲に、後ろ盾になるはずの東洋艦隊を失った
(いぎりすぐんははいそうをつづけた。)
イギリス軍は敗走を続けた。
(にほんぐんのしんげき)
日本軍の進撃
(にほんぐんはあめりかのしょくみんちであったふぃりぴんにもしんこうした。12がつ8かに)
日本軍はアメリカの植民地であったフィリピンにも侵攻した。12月8日に
(しんじゅわんがこうげきされると、あめりかきょくとうりくぐんしれいかんだぐらす・まっかーさー)
真珠湾が攻撃されると、アメリカ極東陸軍司令官ダグラス・マッカーサー
(たいしょうにもそのほうこくがされたが、ぶかからのたいわんのにほんぐんひこうじょうへのばくげき)
大将にもその報告がされたが、部下からの台湾の日本軍飛行場への爆撃
(や、こうくうきのひなんなどのしんげんにたいしてまっかーさーがけつだんをくだせない)
や、航空機の避難などの進言に対してマッカーサーが決断を下せない
(あいだに、にほんぐんがふぃりぴんさいだいのひこうじょうくらーくふぃーるどひこうじょうを)
間に、日本軍がフィリピン最大の飛行場クラークフィールド飛行場を
(ばくげきし、しんへいきのおおがたばくげききb-17をふくむこうくうせんりょくがかいめつしてしまった。)
爆撃し、新兵器の大型爆撃機B-17を含む航空戦力が壊滅してしまった。
(まっかーさーはどわいと・あいぜんはわーたいさらと、どくりつよていの)
マッカーサーはドワイト・アイゼンハワー大佐らと、独立予定の
(ふぃりぴんぐんのいくせいをしており、あめりかぐんそうびのふぃりぴん・)
フィリピン軍の育成をしており、アメリカ軍装備のフィリピン・
(すかうと(えいごばん)と、あめりかりくぐんふぃりぴんぶ(えいごばん)をとうごうした)
スカウト(英語版)と、アメリカ陸軍フィリピン部(英語版)を統合した
(あめりかきょくとうりくぐん15まんにんのへいりょくで、じょうりくするにほんぐんをむかえうつことと)
アメリカ極東陸軍15万人の兵力で、上陸する日本軍を迎え撃つことと
(なったが、じょうりくしてきたほんままさはるちゅうじょうひきいるだい14ぐん4まんにんにはがたたず、)
なったが、上陸してきた本間雅晴中将率いる第14軍4万人に歯が立たず、
(ちょぞうしていたたいりょうのしょくりょうやぶっしをのこしたまま、しゅとまにらをほうきして)
貯蔵していた大量の食糧や物資を残したまま、首都マニラを放棄して
(ばたーんはんとうとこれひどーるとうにろうじょうした。しかし、まっかーさーを)
バターン半島とコレヒドール島に籠城した。しかし、マッカーサーを
(おいつめたにほんぐんは、ろうじょうしたあめりかぐんへいりょくをかしょうひょうかしており、)
追い詰めた日本軍は、籠城したアメリカ軍兵力を過小評価しており、
(しゅりょくのだい48しだんをらんいんさくせんにてんしゅつさせたため、あっとうてきにへいりょくにまさる)
主力の第48師団を蘭印作戦に転出させたため、圧倒的に兵力に勝る
(あめりかぐんをせめあぐねることとなった。)
アメリカ軍を攻めあぐねることとなった。
(たいへいようのあめりかりょうのぐあむとうにもにほんぐんはしんこう。なおぐあむにおける)
太平洋のアメリカ領のグアム島にも日本軍は侵攻。なおグアムにおける
(せんとうはわずか1にちでしゅうけつし、ししょうしゃのごうけいはにほんがわがせんししゃ1めい・)
戦闘はわずか1日で終結し、死傷者の合計は日本側が戦死者1名・
(ふしょうしゃ6めい、あめりかがわがせんししゃ36もしくは50めい、ふしょうしゃ80めいを)
負傷者6名、アメリカ側が戦死者36もしくは50名、負傷者80名を
(かぞえていた。ほりょとなったあめりかへいは、あめりかじんとじもとじゅうみん)
数えていた。捕虜となったアメリカ兵は、アメリカ人と地元住民
(あわせて650めいであった。)
合わせて650名であった。
(12がつ11にち、にほんのたいれんごうこくへのせんせんをうけ、にほんのどうめいこくどいつ、)
12月11日、日本の対連合国への宣戦を受け、日本の同盟国ドイツ、
(いたりあもあめりかへせんせんふこく。これにより、せんそうはめいじつともに)
イタリアもアメリカへ宣戦布告。これにより、戦争は名実ともに
(せかいたいせんとしてのひろがりをもつものとなった。)
世界大戦としての広がりを持つものとなった。
(これにさきだち12がつ8かに、いぎりすりょうどのひがしあじあのようであるほんこんへ)
これに先立ち12月8日に、イギリス領土の東アジアの要である香港へ
(こうげきをかいししたにほんりくぐんは、すとーんかったーかいぐんきちなどがある)
攻撃を開始した日本陸軍は、ストーンカッター海軍基地などがある
(ちゅうしんのくーろんはんとうのこうりゃくをかいしした。けいとくくうこうもこのさいにこうげきされ、)
中心の九龍半島の攻略を開始した。啓徳空港もこの際に攻撃され、
(いぎりすそらかいぐんきや、さんふらんしすこからとうちゃくしたばかりの)
イギリス空海軍機や、サンフランシスコから到着したばかりの
(ぱんあめりかんこうくうのしこるすきーs-42をはじめとするみんかんきなど)
パンアメリカン航空のシコルスキー S-42をはじめとする民間機など
(14きがにほんりくぐんにはかいされた。これによりいぎりすぐんがしようできる)
14機が日本陸軍に破壊された。これによりイギリス軍が使用できる
(ぜんこうくうきをうしなってしまう。なおにほんぐんはこうりゃくにすうしゅうかんをみこんでいたが、)
全航空機を失ってしまう。なお日本軍は攻略に数週間を見込んでいたが、
(じゅんびぶそくのいぎりすぐんはじょうもんちょすいちのぼうえいせんをかんたんに)
準備不足のイギリス軍は城門貯水池の防衛線を簡単に
(とっぱされ13にちにはくーろんはんとうからてったいした。)
突破され13日には九龍半島から撤退した。
(さらに12にちににほんりくぐんがこうげきをかいししたほんこんとうでは、ちゅうしんちのづぉんわんを)
さらに12日に日本陸軍が攻撃を開始した香港島では、中心地の中環を
(ちゅうしんにいぎりすりくかいぐんはがんきょうにていこうし、にほんりくぐんにもおおくのししゃを)
中心にイギリス陸海軍は頑強に抵抗し、日本陸軍にも多くの死者を
(だしたものの、へいたんにたいせつなれさぼあ(ちょすいち)をせんきょされて25にちに)
出したものの、兵站に大切なレサボア(貯水池)を占拠されて25日に
(ぜんめんこうふくし、にほんりくぐんはほんこんいったいをせんりょうした。こうふくのこうしょうはにほんぐんが)
全面降伏し、日本陸軍は香港一帯を占領した。降伏の交渉は日本軍が
(しれいぶをおいていたくーろんはんとうの)
司令部を置いていた九龍半島の
(「ぺにんしゅらほてる」の3かいでおこなわれた。)
「ペニンシュラホテル」の3階で行われた。
(にほんりくぐんは700にんをこえるせんししゃをだしたが、たいするいぎりすぐんも)
日本陸軍は700人を超える戦死者を出したが、対するイギリス軍も
(1,700にんをこえるししゃをだし、ほりょとなったいぎりすぐんは11,000めい。)
1,700人を超える死者を出し、捕虜となったイギリス軍は11,000名。
(うちわけはいぎりすじんが5,000めい、えいりょういんどじんが4,000めい、)
内訳はイギリス人が5,000名、英領インド人が4,000名、
(かなだじんが2,000めいであった。にほんりくぐんはわずか)
カナダ人が2,000名であった。日本陸軍はわずか
(18にちかんでほんこんこうりゃくをかんりょうした(ほんこんのたたかい)。)
18日間で香港攻略を完了した(香港の戦い)。
(にほんぐんは、ほんこんにりんせつするぽるとがるしょくみんちまかおには、ちゅうりつこくしょくみんちを)
日本軍は、香港に隣接するポルトガル植民地マカオには、中立国植民地を
(りゆうにしんこうせず、けっきょくしゅうせんまでしんこうはおこなわなかった。しかし12がつ17にち、)
理由に侵攻せず、結局終戦まで進攻は行わなかった。しかし12月17日、
(ぽるとがるりょうてぃもーるはにほんぐんによるりようをけいかいしたおらんだぐんと)
ポルトガル領ティモールは日本軍による利用を警戒したオランダ軍と
(おーすとらりあぐんにほしょうせんりょうのめいもくでせんりょうされた。ぽるとがるの)
オーストラリア軍に保障占領の名目で占領された。ポルトガルの
(あんとにお・さらざーるしゅしょうは、いぎりすにたいしこうぎし、12がつ19にちに)
アントニオ・サラザール首相は、イギリスに対し抗議し、12月19日に
(ぽるとがるのぎかいでいぎりすへのきゅうだんえんぜつをいった。)
ポルトガルの議会でイギリスへの糾弾演説を行った。
(12がつ17にちには、い7せんすいかんとそのせきさいていさつきがおあふとうをていさつし、)
12月17日には、伊7潜水艦とその積載偵察機がオアフ島を偵察し、
(あめりかかいぐんがちゅうやをとわずしんじゅわんのきちをしゅうぜんしていることをかくにん。)
アメリカ海軍が昼夜を問わず真珠湾の基地を修繕していることを確認。
(もういちどおあふとうのしんじゅわんをたたくことをけんとうする(kさくせんをさんしょう)。)
もう一度オアフ島の真珠湾をたたくことを検討する(K作戦を参照)。
(12がつ23にちには、いのうえしげよしかいぐんちゅうじょうしきのしたでおなじくあめりかぐんのきちが)
12月23日には、井上成美海軍中将指揮の下で同じくアメリカ軍の基地が
(あるうぇーくとうも、2せきのくちくかんをうしなうなど)
あるウェーク島も、2隻の駆逐艦を失うなど
(くせんしたがにほんぐんがせんりょうした。)
苦戦したが日本軍が占領した。
(にほんぐんのあめりかほんどこうげき)
日本軍のアメリカ本土攻撃
(このようなじょうきょうかで、にほんかいぐんはしんじゅわんこうげきのえんごをいっていた)
このような状況下で、日本海軍は真珠湾攻撃の援護を行っていた
(じゅんすいいちがたせんすいかんけい9せき(い9、い10、い15、い17、い19、い21、)
巡潜乙型潜水艦計9隻(伊9、伊10、伊15、伊17、伊19、伊21、
(い23、い25、い26。10せきとのきろくもある)を、たいへいようのあめりかと)
伊23、伊25、伊26。10隻との記録もある)を、太平洋のアメリカと
(かなだ、めきしこなどのにしかいがんえんがんにてんかいし、12がつ20にちごろよりれんごうこく、)
カナダ、メキシコなどの西海岸沿岸に展開し、12月20日頃より連合国、
(とくにあめりかやかなだにつうしょうはかいせんをてんかいし、なかでもしょうせんや)
特にアメリカやカナダに通商破壊戦を展開し、中でも商船や
(たんかーなどをえんがんのじゅうにんがみれるほどのきょりでほうげき、げきちんし、)
タンカーなどを沿岸の住人が見れるほどの距離で砲撃、撃沈し、
(にしかいがんのじゅうにんをきょうふのどんぞこにおいた。)
西海岸の住人を恐怖のどん底においた。
(さらには、たいへいようのあめりかにしえんがんちいきにてんかいしていたにほんかいぐんの)
さらには、太平洋のアメリカ西沿岸地域に展開していた日本海軍の
(せんすいかん10せきが、かりふぉるにあしゅうのさんでぃえご、もんとれー、)
潜水艦10隻が、カリフォルニア州のサンディエゴ、モントレー、
(ゆーれか、おれごんしゅうのあすとりあなどのふくすうのとしのかいぐんきちなどの)
ユーレカ、オレゴン州のアストリアなどの複数の都市の海軍基地などの
(ぐんじしせつをいっせいにこうげきするというさくせんけいかくがあった。しかし、)
軍事施設を一斉に攻撃するという作戦計画があった。しかし、
(「くりすますぜんごにほうげきをおこないみんかんじんにししゃをだしたばあい、あめりか)
「クリスマス前後に砲撃を行い民間人に死者を出した場合、アメリカ
(こくみんをかどにしげきするのでとめるように」とのしれいがでたためちゅうしに)
国民を過度に刺激するので止めるように」との指令が出たため中止に
(なった。なお、このにほんかいぐんほんぶのほうげきちゅうししれいにいたるりゆうはしょせつある。)
なった。なお、この日本海軍本部の砲撃中止指令に至る理由は諸説ある。