第二次世界大戦41
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問題文
(1942ねん)
1942年
(しんがぽーるかんらく)
シンガポール陥落
(とうなんあじあゆいいつのどくりつこくだったたいおうこくは、とうしょはちゅうりつをせんげんしていたが)
東南アジア唯一の独立国だったタイ王国は、当初は中立を宣言していたが
(12がつ21にち、にほんとのあいだににったいこうしゅどうめいじょうやくをていけつし、じじつじょう)
12月21日、日本との間に日泰攻守同盟条約を締結し、事実上
(すうじくこくのいっこくとなったことで、1がつ8にちにいぎりすぐんやあめりかぐんがばんこくなど)
枢軸国一国となったことで、1月8日にイギリス軍やアメリカ軍がバンコクなど
(としぶへのこうげきをかいし。これをうけてたいおうこくは1がつ25にちにいぎりすと)
都市部への攻撃を開始。これを受けてタイ王国は1月25日にイギリスと
(あめりかにせんせんふこくした。またにほんがしんしゅつしたふらんすりょういんどしなで)
アメリカに宣戦布告した。また日本が進出したフランス領インドシナで
(は、じゅうぜんのヴぃしーせいけんによるしょくみんちとうちがにほんによってみとめられ、)
は、従前のヴィシー政権による植民地統治が日本によって認められ、
(ぐんじめんではにちふつのきょうどうけいびのたいせいがつづいた。じょうほうこうかんや)
軍事面では日仏の共同警備の体制が続いた。情報交換や
(そうかいさぎょうなどではりょうぐんできょうりょくがおこなわれている。)
掃海作業などでは両軍で協力が行われている。
(1がつににほんは、ぼこくがどいつとのたたかいにやぶれうしなったおらんだのぼうめいおよび)
1月に日本は、母国がドイツとの戦いに敗れ失ったオランダの亡命および
(しょくみんちせいふともかいせんし、ぼるねおとう(かりまんたん)、じゃわとうと)
植民地政府とも開戦し、ボルネオ島(カリマンタン)、ジャワ島と
(すまとらとうなどにおいて、にほん1こくでいぎりす、あめりか、おらんだ、)
スマトラ島などにおいて、日本1国でイギリス、アメリカ、オランダ、
(おーすとらりあ、にゅーじーらんどなどれんごうぐんに)
オーストラリア、ニュージーランドなど連合軍に
(たいするたたかいでしょうりをおさめた。)
対する戦いで勝利を収めた。
(なんべいにおいては、ぶらじるが、あめりかのだいとうりょうふらんくりん・)
南米においては、ブラジルが、アメリカの大統領フランクリン・
(るーずべるとからのあつりょくをうけて、1942ねん1がつにれんごうこくとしてさんせんする)
ルーズベルトからの圧力を受けて、1942年1月に連合国として参戦する
(ことをけっていした。ただし、せんじょうからとおいことをりゆうにたいへいようせんせんには)
ことを決定した。ただし、戦場から遠いことを理由に太平洋戦線には
(さんせんせず、よーろっぱせんせんにさんせんした。また、どいつやいたりあと)
参戦せず、ヨーロッパ戦線に参戦した。また、ドイツやイタリアと
(ゆうこうかんけいにあったあるぜんちんはちゅうりつをたもった。いっぽう、させぼちんじゅふが)
友好関係にあったアルゼンチンは中立を保った。一方、佐世保鎮守府が
(かんしょうするりょじゅんのりょじゅんようこうぶは、1がつ15にちをもってはいしされた。)
管掌する旅順の旅順要港部は、1月15日をもって廃止された。
(にほんぐんは9にちにいぎりすりょうまれーはんとうのせらんごーるをせんりょう、11にちごぜん)
日本軍は9日にイギリス領マレー半島のセランゴールを占領、11日午前
(12じにくあらるんぷーるのがいこうのはいごにあるくらんをせんりょうし、)
12時にクアラルンプールの外港の背後にあるクランを占領し、
(くあらるんぷーるからかいじょうへのたいろをしゃだんした。いぎりすぐんは)
クアラルンプールから海上への退路を遮断した。イギリス軍は
(くあらるんぷーるふきんでていこうをきとしていたが、にほんのじんそくなしんげきに)
クアラルンプール付近で抵抗を企図していたが、日本の迅速な進撃に
(よりそしきてきていこうのよゆうをうしない、1がつ10にちにひこうじょう、ていしゃじょうをみずからばくはし、)
より組織的抵抗の余裕を失い、1月10日に飛行場、停車場を自ら爆破し、
(11にちにはほぼそのてったいをかんりょうしていた。)
11日にはほぼその撤退を完了していた。
(じょほーるしゅうにせまったにほんぐんはどうちをかんらくさせ、いぎりすのとうなんあじあに)
ジョホール州に迫った日本軍は同地を陥落させ、イギリスの東南アジアに
(おけるさいだいのきょてんしんがぽーるにせまった。2がつ4かあさにぐんほうへいたいは)
おける最大の拠点シンガポールに迫った。2月4日朝に軍砲兵隊は
(しゃげきじゅんびをおえいごちくじしゃげきをかいしし、しんがぽーるへのこうげきはぐんほうへいの)
射撃準備を終え以後逐次射撃を開始し、シンガポールへの攻撃は軍砲兵の
(こうげきじゅんびしゃげきではじまった。8かににほんぐんはぐんしゅりょくのじょほーる・)
攻撃準備射撃で始まった。8日に日本軍は軍主力のジョホール・
(ばるのとかをかいし、だい18しだんちょうむたぐちれんやちゅうじょうがせんとうでふしょうするほどの)
バルの渡河を開始、第18師団長牟田口廉也中将が戦闘で負傷するほどの
(げきせんとなったが、とかにせいこうししんがぽーるしがいにむかってしんげきをかいし)
激戦となったが、渡河に成功しシンガポール市街に向かって進撃を開始
(した。しんげきろのとちゅうにはようしょうぶきっ・てぃまこうちがあった。ぶきっ・)
した。進撃路の途中には要衝ブキッ・ティマ高地があった。ブキッ・
(てぃまこうちはしんがぽーるのすいげんであるとともに、しんがぽーるしがいを)
ティマ高地はシンガポールの水源であると共に、シンガポール市街を
(まもるぼうえいせんのかくで、そのしゅうへんのこうちもふくめていぎりすぐんはきょうこなじんちを)
守る防衛線の核で、その周辺の高地も含めてイギリス軍は強固な陣地を
(こうちくしており、そのこうりゃくはひっすであった。にほんぐんはきげんせつまでの)
構築しており、その攻略は必須であった。日本軍は紀元節までの
(ぶきっ・てぃまこうちこうりゃくをめざしてきょうこうをつづけ、おおきなそんがいをこうむりながら)
ブキッ・ティマ高地攻略を目指して強攻を続け、大きな損害を被りながら
(も、さいごはにほんぐんとくいのやしゅうで、ぶきっ・てぃまこうちにせんりょうした。)
も、最後は日本軍得意の夜襲で、ブキッ・ティマ高地に占領した。
(ようしょうぶきっ・てぃまこうちをうしなったいぎりすぐんはしんがぽーるしがいに)
要衝ブキッ・ティマ高地を失ったイギリス軍はシンガポール市街に
(たてこもり、2がつ13にちにはしんがぽーるこうがいのけっぺるこうでせんとうが)
立て籠り、2月13日にはシンガポール郊外のケッペル港で戦闘が
(かいしされた。いぎりすぐんは15いんち(380mm)ようさいほう(えいごばん))
開始された。イギリス軍は15インチ(380mm)要塞砲(英語版)
(などのようさいほうをにほんぐんにあびせてはげしくていこうしたが、しれいかんのあーさー・)
などの要塞砲を日本軍に浴びせて激しく抵抗したが、司令官のアーサー・
(ぱーしばるちゅうじょうは、ちゃーちるからの「しんがぽーるをぜったいにししゅせよ」)
パーシバル中将は、チャーチルからの「シンガポールを絶対に死守せよ」
(とのめいれいにはんしてこうふくをけついし、だい25ぐんはいぎりすぐんのこうふくを)
との命令に反して降伏を決意し、第25軍はイギリス軍の降伏を
(うけいれたため、しんがぽーるはにほんぐんのてにおちた。)
受け入れたため、シンガポールは日本軍の手に墜ちた。
(まれーはんとうのたたかいもふくめだいえいていこくはししょうしゃ20,000にんにくわえて、)
マレー半島の戦いも含め大英帝国は死傷者20,000人に加えて、
(いぎりすへい35,000にん、おーすとらりあへい15,000にん、)
イギリス兵35,000人、オーストラリア兵15,000人、
(いんどへい67,000にん、げんちぎゆうへい14,000にんのごうけい131,000にん)
インド兵67,000人、現地義勇兵14,000人の合計131,000人
(いじょうがほりょとなるなどじんだいなそんがいをこうむった。ぱーしばるにししゅをめいじていた)
以上が捕虜となるなど甚大な損害を被った。パーシバルに死守を命じていた
(ちゃーちるはこのはいせんにしょうげきをうけて「だいえいていこくしじょうさいあくのさいがいと)
チャーチルはこの敗戦に衝撃を受けて『大英帝国史上最悪の災害と
(さいだいのこうふく」とあとあとまでくやむこととなった。いぎりすのりんこくである)
最大の降伏』と後々まで悔やむこととなった。イギリスの隣国である
(あいるらんどではながねんにわたるしはいへのうらみからはんえいかんじょうがつよく、)
アイルランドでは長年にわたる支配への恨みから反英感情が強く、
(とくにどくりつうんどうをだんあつしてきたぱーしヴぁるがこうふくしたことで)
特に独立運動を弾圧してきたパーシヴァルが降伏したことで
(もとあいるらんどきょうわぐん(ira)かんぶらが、だぶりんちゅうざいのべっぷせつやにほんこく)
元アイルランド共和軍(IRA)幹部らが、ダブリン駐在の別府節弥日本国
(りょうじをかこんでしゅくがかいをひらいたという。にほんのそんがいは、せんし1,713めい、)
領事を囲んで祝賀会を開いたという。日本の損害は、戦死1,713名、
(せんしょう3,378めいにあがった。かんらくごしんがぽーるをにほんは「あきな」とかいめいし、)
戦傷3,378名に上った。陥落後シンガポールを日本は「昭南」と改名し、
(りくかいぐんきちをかまえいこうしゅうせんまでにほんぐんのせんりょうかにおいた。)
陸海軍基地を構え以降終戦まで日本軍の占領下に置いた。
(なんぽうしげんちたいのかくほ)
南方資源地帯の確保
(にほんかいぐんは、2がつにおこなわれたじゃわおきかいせんでおらんだかいぐんとあめりかかいぐん)
日本海軍は、2月に行われたジャワ沖海戦でオランダ海軍とアメリカ海軍
(をちゅうしんとするれんごうぐんしょこくのかんたいをげきはする。このかいせんごもにほんぐんのしんげきは)
を中心とする連合軍諸国の艦隊を撃破する。この海戦後も日本軍の進撃は
(とまらなかった。2がつ8にちにまかっさる、2がつ10か-11にちに)
止まらなかった。2月8日にマカッサル、2月10日-11日に
(ばんじゃるましんにじょうりくしこれをこうりゃくした。つづくすらばやおきかいせんでは、)
バンジャルマシンに上陸しこれを攻略した。続くスラバヤ沖海戦では、
(れんごうこくかいぐんのじゅんようかんが7せきげきちんされたのにたいし、にほんかいぐんがわのそんしつは)
連合国海軍の巡洋艦が7隻撃沈されたのに対し、日本海軍側の損失は
(かいむとあっしょうした。このようななかでおらんだぐんはどうげつ、1940ねん5がつの)
皆無と圧勝した。このような中でオランダ軍は同月、1940年5月の
(どくらんかいせんごにすまとらとうでとらえ、いぎりすりょういんどていこくにゆそうしようと)
独蘭開戦後にスマトラ島で捕え、イギリス領インド帝国に輸送しようと
(したさいにどいつじんしゅうようしゃすうひゃくにんをしぼうするという)
した際にドイツ人収容者数百人を死亡するという
(「ふぁん・いむほふごうじけん」がはっせいしている。)
「ファン・イムホフ号事件」が発生している。