第二次世界大戦42
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問題文
(2がつ19にちには、4せきのにほんこうくうぼかん(あかぎ、かが、ひりゅう、そうりゅう)は)
2月19日には、4隻の日本航空母艦(赤城、加賀、飛龍、蒼龍)は
(おーすとらりあほくせいのちもーるかいのようじょうからけい188きをはっしんさせ、)
オーストラリア北西のチモール海の洋上から計188機を発進させ、
(おーすとらりあへのくうしゅうをいった。これらの188きのにほんかいぐんかんさいきは、)
オーストラリアへの空襲を行った。これらの188機の日本海軍艦載機は、
(おーすとらりあほくぶのぽーと・だーうぃんにじんだいなひがいをあたえ9せきの)
オーストラリア北部のポート・ダーウィンに甚大な被害を与え9隻の
(せんぱくがちんぼつした。どうじつごごに54きのりくじょうこうげききによってじっしされた)
船舶が沈没した。同日午後に54機の陸上攻撃機によって実施された
(くうしゅうは、まちとおうりつおーすとらりあくうぐん(raaf)のだーうぃんきちに)
空襲は、街と王立オーストラリア空軍 (RAAF) のダーウィン基地に
(さらなるひがいをあたえ、20きのぐんようきがはかいされた。おーすとらりあに)
さらなる被害を与え、20機の軍用機が破壊された。オーストラリアに
(にほんぐんはじょうりくしなかったものの、おーすとらりあほくぶへのにほんぐんのくうしゅうや)
日本軍は上陸しなかったものの、オーストラリア北部への日本軍の空襲や
(きじゅうそうしゃなどのこうげきはよく1943ねんまでけいぞくされ、1がつ22にちにはヴぇっせる)
機銃掃射などの攻撃は翌1943年まで継続され、1月22日にはヴェッセル
(しょとうきんかいでおーすとらりあかいぐんそうかいてい「ぱとりしあ・きゃむ」を)
諸島近海でオーストラリア海軍掃海艇「パトリシア・キャム」を
(げきちんしたほか、だーうぃんのねんりょうたんくをくうしゅうではかいするなどのせんかを)
撃沈したほか、ダーウィンの燃料タンクを空襲で破壊するなどの戦果を
(あげている。また、にほんぐんのばくげきにより)
上げている。また、日本軍の爆撃により
(おーすとらりあみんかんじん735にんがしぼうしている。)
オーストラリア民間人735人が死亡している。
(2がつ20かに、にほんぐんは、いぎりすぐんがせんりょうかにおいていたてぃもーるとう)
2月20日に、日本軍は、イギリス軍が占領下に置いていたティモール島
(ぜんとうをせんりょうした。でぃりのしゅびにあたっていたれんごうぐんやく1300めいの)
全島を占領した。ディリの守備にあたっていた連合軍約1300名の
(だいぶぶんはさんちゅうにとうぼうし、ぽるとがるぐんはにほんぐんにたいしてていこうしなかった。)
大部分は山中に逃亡し、ポルトガル軍は日本軍に対して抵抗しなかった。
(いこう、ぽるとがるりょうてぃもーるもじじつじょうはにほんぐんのとうちかになった。)
以降、ポルトガル領ティモールも事実上は日本軍の統治下になった。
(2がつ24かに、にほんかいぐんいごうだいじゅうななせんすいかんが、あめりかにしかいがん)
2月24日に、日本海軍伊号第十七潜水艦が、アメリカ西海岸
(かりふぉるにあしゅう・さんたばーばらしきんこうえるうっどのせいゆしょをほうげきし、)
カリフォルニア州・サンタバーバラ市近郊エルウッドの製油所を砲撃し、
(せいゆしょのしせつをはかいした。これでにちべいせんにおいては、さきににほんが)
製油所の施設を破壊した。これで日米戦においては、先に日本が
(あめりかのほんどをこうげきすることとなり、にほんぐんのこうげきにおびえた)
アメリカの本土を攻撃することとなり、日本軍の攻撃におびえた
(あめりかぜんどをきょうふにおちいらせることになった。にほんはほかにもかなだと)
アメリカ全土を恐怖に陥らせることになった。日本は他にもカナダと
(めきしこまでの10せきにわたるせんすいかんで、こうはんいでせんすいかんによる)
メキシコまでの10隻にわたる潜水艦で、広範囲で潜水艦による
(つうしょうはかいせんをくりひろげた。あめりかせいふおよびぐんはほんどへのにほんぐんの)
通商破壊戦を繰り広げた。アメリカ政府および軍は本土への日本軍の
(こうげきはおろかにしかいがんへのじょうりくをきぐし、にしかいがんでぼうくうごうのじゅんびを)
攻撃はおろか西海岸への上陸を危惧し、西海岸で防空壕の準備を
(すすめたほか、がくとそかいなどのじゅんびをきゅうぴっちですすめたが、)
進めたほか、学徒疎開などの準備を急ピッチで進めたが、
(にほんぐんがわにはそのいとはなかった。)
日本軍側にはその意図はなかった。
(さらによくじつみめいには、ろさんぜるすきんこうにおいてあめりかりくぐんが、)
さらに翌日未明には、ロサンゼルス近郊においてアメリカ陸軍が、
(にほんぐんのこうくうきのしゅうらいをごにんしたすうのたいくうしゃげきをおこない6にんのみんかんじんが)
日本軍の航空機の襲来を誤認し多数の対空射撃を行い6人の民間人が
(しぼうするというじけん(「ろさんぜるすのたたかい」)がはっせいした。)
死亡するという事件(「ロサンゼルスの戦い」)が発生した。
(このじけんにかんしてあめりかかいぐんは「にほんぐんのこうくうきがしんにゅうしたじじつは)
この事件に関してアメリカ海軍は「日本軍の航空機が進入した事実は
(なかった」とはっぴょうしたが、いっぱんしみんは「にほんぐんのしんじゅわんこうげきはたいまんな)
無かった」と発表したが、一般市民は「日本軍の真珠湾攻撃は怠慢な
(あめりかかいぐんのしったい」であるとし、かじょうなほどの)
アメリカ海軍の失態」であるとし、過剰なほどの
(りくぐんのたいおうをしじするほどであった。)
陸軍の対応を支持するほどであった。
(しかし、これらあめりかほんどこうげきがもたらしたにほんぐんじょうりくにたいする)
しかし、これらアメリカ本土攻撃がもたらした日本軍上陸に対する
(あめりかせいふのきょうふしんとむちによるじんしゅさべつてきかんじょうが、かりふぉるにあしゅう)
アメリカ政府の恐怖心と無知による人種差別的感情が、カリフォルニア州
(やわしんとんしゅう、おれごんしゅうとありぞなしゅう、そしてじゅんしゅうのはわいから)
やワシントン州、オレゴン州とアリゾナ州、そして準州のハワイから
(いちぶのにっけいあめりかじんとにほんじんいみんやく120,000にんがきょうせいてきにかんぜんな)
一部の日系アメリカ人と日本人移民約120,000人が強制的に完全な
(たちのきをめいぜられた、にっけいじんのきょうせいしゅうようのほんかくかにつながったとも)
立ち退きを命ぜられた、日系人の強制収容の本格化に繋がったとも
(いわれる。しかし、fbiちょうかんのえどがー・ふーばーは、にっけいじんの)
いわれる。しかし、FBI長官のエドガー・フーバーは、日系人の
(きょうせいしゅうようには「すぱいとおぼしきものたちは、しんじゅわんこうげきのちょくごに)
強制収容には「スパイと思しき者たちは、真珠湾攻撃の直後に
(fbiがすでにこうそくしている」としてはんたいしている。)
FBIが既に拘束している」として反対している。
(また、まもなくじゃわとうにじょうりくしたにほんぐんはひへいしたおらんだぐんを)
また、まもなくジャワ島に上陸した日本軍は疲弊したオランダ軍を
(せいあつしどうしまぜんいきをせんりょう。10かほどのせんとうのあと、ざいおらんだのひがしいんど)
制圧し同島全域を占領。10日ほどの戦闘の後、在オランダの東インド
(しょくみんちぐんはぜんめんこうふくし、おらんだじんのいちぶはおーすとらりあなどの)
植民地軍は全面降伏し、オランダ人の一部はオーストラリアなどの
(きんりんのれんごうこくにとうぼうし、のこりはにほんぐんにとらえられた。これいご、ひがしいんど)
近隣の連合国に逃亡し、残りは日本軍に捕えられた。これ以後、東インド
(ぜんいきはにほんのぐんせいもとにおかれ「おらんだによる350ねんのひがしいんどしはい」)
全域は日本の軍政下に置かれ「オランダによる350年の東インド支配」
(がじっしつしゅうりょうした。3がつのばたびあおきかいせんでもにほんかいぐんはあっしょうした。)
が実質終了した。3月のバタビア沖海戦でも日本海軍は圧勝した。
(にほんりくぐんも3がつ8にち、いぎりすしょくみんちびるま(げん:みゃんまー))
日本陸軍も3月8日、イギリス植民地ビルマ(現:ミャンマー)
(しゅとらんぐーん(げん:やんごん)をせんりょう。れんごうこくはにほんぐんにれんせんれんぱいし、)
首都ラングーン(現:ヤンゴン)を占領。連合国は日本軍に連戦連敗し、
(あじあちいきのいぎりす、あめりか、おらんだのれんごうぐんかんたいはかんぜんにかいめつした。)
アジア地域のイギリス、アメリカ、オランダの連合軍艦隊は完全に壊滅した。
(ぜんねんの12がつ17にちにおあふとうのしんじゅわんをていさつしたにほんかいぐんは、1がつ5かにも)
前年の12月17日にオアフ島の真珠湾を偵察した日本海軍は、1月5日にも
(い19よりとうさいきによるおあふとうのていさつをおこなった。これによりあめりかぐんが)
伊19より搭載機によるオアフ島の偵察を行った。これによりアメリカ軍が
(とうかかんせいもせずにきゅうぴっちでしんじゅわんこうげきのそんがいのふっきゅうをしていることを)
灯火管制もせずに急ピッチで真珠湾攻撃の損害の復旧をしていることを
(しった。これをうけてだいほんえいぐんぶ(ぐんれいぶ)は、しんじゅわんのふっきゅうかつどうを)
知った。これを受けて大本営軍部(軍令部)は、真珠湾の復旧活動を
(ぼうがいするとどうじに、とうじかくちでまけつづけであったうえに、ほんどさえ)
妨害すると同時に、当時各地で負け続けであった上に、本土さえ
(こうげきされているあめりかぐんのしきにさらなるそんがいをくわえるため、)
攻撃されているアメリカ軍の士気に更なる損害を加えるため、
(いちさんしおおがたひこうてい(にしきだいてい)によるくうしゅうけいかくがたちあげる。1がつ17にち、)
一三試大型飛行艇(二式大艇)による空襲計画が立ちあげる。1月17日、
(れんごうかんたいさんぼうちょううがきまとめしょうしょうは、だいろくかんたい(しれいちょうかんしみず)
連合艦隊参謀長宇垣纏少将は、第六艦隊(司令長官清水
(てるみちゅうじょう)とだいよんかんたい(しれいちょうかんいのうえしげよしちゅうじょう)に、いちさんしだいてい)
光美中将)と第四艦隊(司令長官井上成美中将)に、一三試大艇
(によるさくせんけんきゅうおよびけいかくりつあんをおこなうようつたえた。ほんさくせんは「kさくせん」と)
による作戦研究および計画立案を行うよう伝えた。本作戦は「K作戦」と
(めいめいされ、ほきゅうにんむにつくせんすいかん3せき(い15、い19、い26)は)
命名され、補給任務につく潜水艦3隻(伊15、伊19、伊26)は
(すいていかくのうづつをかいぞうして、こうくうねんりょうほきゅうそうちをそうびした。そのあと2きの)
水偵格納筒を改造して、航空燃料補給装置を装備した。 その後2機の
(にしきだいていがよこすかきちからまーしゃるしょとううおっぜじまをしゅっぱつし、とちゅう)
二式大艇が横須賀基地からマーシャル諸島ウオッゼ島を出発し、途中
(ふれんちふりげーとしょうでせんすいかんからねんりょうほきゅうをうけ、3がつ4かにさいど)
フレンチフリゲート礁で潜水艦から燃料補給を受け、3月4日に再度
(しんじゅわんのあめりかかいぐんきちのばくげきをおこないこれにせいこうした。)
真珠湾のアメリカ海軍基地の爆撃を行ないこれに成功した。
(さらににほんかいぐんこうくうぼかんのしょうかくやずいかくをちゅうしんとしたきどうかんたいはいんどように)
さらに日本海軍航空母艦の翔鶴や瑞鶴を中心とした機動艦隊はインド洋に
(しんしゅつし、かいぐんくうぼとうさいきがいぎりすりょうせいろんのころんぼ、)
進出し、海軍空母搭載機がイギリス領セイロンのコロンボ、
(とりんこまりーをくうしゅう、さらに4がつ5かから9かにかけていぎりすかいぐんの)
トリンコマリーを空襲、さらに4月5日から9日にかけてイギリス海軍の
(こうくうぼかんはーみーず、じゅうじゅんようかんこーんうぉーる、どーせっとしゃーなどに)
航空母艦ハーミーズ、重巡洋艦コーンウォール、ドーセットシャーなどに
(こうげきをくわえたすうのかんせんをげきちんした(せいろんおきかいせん)。)
攻撃を加え多数の艦船を撃沈した(セイロン沖海戦)。
(いぎりすかんたいは、だいごこうくうせんたいなどのにほんかいぐんきどうぶたいにまったくはんげきが)
イギリス艦隊は、第五航空戦隊などの日本海軍機動部隊に全く反撃が
(できず、とうじしょくみんちだったあふりかひがしきしけにあのきりんでぃにこうまで)
できず、当時植民地だったアフリカ東岸ケニアのキリンディニ港まで
(てったいした。さらにいぎりすかんたいはにほんかいぐんがいきおいをましておいかけてくる)
撤退した。さらにイギリス艦隊は日本海軍が勢いを増して追いかけてくる
(ことをけねんし、まだがすかるとうまでてっしゅうをよぎなくされるが、にほんかいぐんは)
ことを懸念し、マダガスカル島まで撤収を余儀なくされるが、日本海軍は
(いぎりすかんたいをさらにおいつめた。なお、このこうげきにくわわったせんすいかんの)
イギリス艦隊をさらに追い詰めた。なお、この攻撃に加わった潜水艦の
(いちせきであるいごうだいさんじゅうせんすいかんは、そのあと8がつにせんそうかいしごはつの)
一隻である伊号第三十潜水艦は、その後8月に戦争開始後初の
(つかいどくせんすいかんさくせん(だいいちじづかいどくせんすいかん)としてどいつへとはけんされ、)
遣独潜水艦作戦(第一次遣独潜水艦)としてドイツへと派遣され、
(えにぐまあんごうきなどをもちかえった。)
エニグマ暗号機などを持ち帰った。