人間椅子 6

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タグ文学 小説

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問題文

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(いすのなかのこい(!)それがまあ、どんなにふかしぎな、)

椅子の中の恋(!)それがまあ、どんなに不可思議な、

(とうすいてきなみりょくをもつか、じっさいにいすのなかへはいってみたひとでなくては、)

陶酔的な魅力を持つか、実際に椅子の中へ這入って見た人でなくては、

(わかるものではありません。それは、ただ、しょっかくと、)

分るものではありません。それは、ただ、触覚と、

(ちょうかくと、そしてわずかのきゅうかくのみのこいでございます。)

聴覚と、そして僅の嗅覚のみの恋でございます。

(くらやみのせかいのこいでございます。けっしてこのよのものではありません。)

暗闇の世界の恋でございます。決してこの世のものではありません。

(これこそ、あくまのくにのあいよくなのではございますまいか。)

これこそ、悪魔の国の愛慾なのではございますまいか。

(かんがえてみれば、このせかいの、ひとめにつかぬすみずみでは、)

考えて見れば、この世界の、人目につかぬ隅々では、

(どのようにいぎょうな、おそろしいことがらが、おこなわれているか、)

どの様に異形な、恐ろしい事柄が、行われているか、

(ほんとうにそうぞうのほかでございます。)

ほんとうに想像の外でございます。

(むろんはじめのよていでは、ぬすみのもくてきをはたしさえすれば、)

無論始めの予定では、盗みの目的を果しさえすれば、

(すぐにもほてるをにげだすつもりでいたのですが、)

すぐにもホテルを逃げ出す積りでいたのですが、

(よにもきかいなよろこびに、むちゅうになったわたしは、)

世にも奇怪な喜びに、夢中になった私は、

(にげだすどころか、いつまでもいつまでも、)

逃げ出すどころか、いつまでもいつまでも、

(いすのなかをえいじゅうのすみかにして、)

椅子の中を永住のすみかにして、

(そのせいかつをつづけていたのでございます。)

その生活を続けていたのでございます。

(よよのがいしゅつには、ちゅういにちゅういをくわえて、)

夜々の外出には、注意に注意を加えて、

(すこしもものおとをたてず、またひとめにふれないようにしていましたので、)

少しも物音を立てず、又人目に触れない様にしていましたので、

(とうぜん、きけんはありませんでしたが、)

当然、危険はありませんでしたが、

(それにしても、すうかげつという、ながいつきひを、)

それにしても、数ヶ月という、長い月日を、

(そうしてすこしもみつからず、いすのなかにくらしていたというのは、)

そうして少しも見つからず、椅子の中に暮していたというのは、

など

(われながらじつにおどろくべきことでございました。)

我ながら実に驚くべき事でございました。

(ほとんどにろくじちゅう、いすのなかのきゅうくつなばしょで、)

殆ど二六時中、椅子の中の窮屈な場所で、

(うでをまげ、ひざをおっているために、からだじゅうがしびれたようになって、)

腕を曲げ、膝を折っている為に、身体中が痺れた様になって、

(かんぜんにちょくりつすることができず、)

完全に直立することが出来ず、

(しまいには、りょうりばやけしょうしつへのおうふくを、いざりのように、)

しまいには、料理場や化粧室への往復を、いざりの様に、

(はっていったほどでございます。わたしというおとこは、)

這って行った程でございます。私という男は、

(なんというきちがいでありましょう。それほどのくるしみをしのんでも、)

何という気違いでありましょう。それ程の苦しみを忍んでも、

(ふしぎなかんしょくのせかいをみすてるきになれなかったのでございます。)

不思議な感触の世界を見捨てる気になれなかったのでございます。

(なかには、いっかげつもにかげつも、)

中には、一ヶ月も二ヶ月も、

(そこをじゅうきょのようにして、とまりつづけているひともありましたけれど、)

そこを住居のようにして、泊りつづけている人もありましたけれど、

(がんらいほてるのことですからたえずきゃくのでいりがあります。)

元来ホテルのことですから絶えず客の出入りがあります。

(したがってわたしのきみょうなこいも、ときとともにあいてがかわっていくのを、)

随って私の奇妙な恋も、時と共に相手が変って行くのを、

(どうすることもできませんでした。)

どうすることも出来ませんでした。

(そして、そのかずかずのふしぎなこいびとのきおくは、)

そして、その数々の不思議な恋人の記憶は、

(ふつうのばあいのように、そのようぼうによってではなく、)

普通の場合の様に、その容貌によってではなく、

(しゅとしてしんたいのかっこうによって、)

主として身体の恰好によって、

(わたしのこころにきざみつけられているのでございます。)

私の心に刻みつけられているのでございます。

(あるものは、こうまのようにせいかんで、すらりとひきしまったにくたいをもち、)

あるものは、仔馬の様に精悍で、すらりと引き締った肉体を持ち、

(あるものは、へびのようにようえんで、くねくねとじざいにうごくにくたいをもち、)

あるものは、蛇の様に妖艶で、クネクネと自在に動く肉体を持ち、

(あるものは、ごむまりのようにこえふとって、しぼうとだんりょくにとむにくたいをもち、)

あるものは、ゴム鞠の様に肥え太って、脂肪と弾力に富む肉体を持ち、

(またあるものは、ぎりしゃのちょうこくのように、がっしりとちからづよく、)

又あるものは、ギリシャの彫刻の様に、ガッシリと力強く、

(えんまんにはったつしたにくたいをもっておりました。)

円満に発達した肉体を持って居りました。

(そのほか、どのおんなのにくたいにも、ひとりひとり、)

その外、どの女の肉体にも、一人一人、

(それぞれのとくちょうがありみりょくがあったのでございます。)

それぞれの特徴があり魅力があったのでございます。

(そうして、おんなからおんなへとうつっていくあいだに、)

そうして、女から女へと移って行く間に、

(わたしはまた、それとはべつな、ふしぎなけいけんをもあじわいました。)

私は又、それとは別な、不思議な経験をも味いました。

(そのひとつは、あるとき、おうしゅうのあるきょうこくのたいしが)

その一つは、ある時、欧洲のある強国の大使が

((にほんじんのぼーいのうわさばなしによってしったのですが))

(日本人のボーイの噂話によって知ったのですが)

(そのいだいなたいくを、わたしのひざのうえにのせたことでございます。)

其偉大な体躯を、私の膝の上にのせたことでございます。

(それは、せいじかとしてよりも、せかいてきなしじんとして、)

それは、政治家としてよりも、世界的な詩人として、

(いっそうよくしられていたひとですが、それだけに、)

一層よく知られていた人ですが、それ丈けに、

(わたしは、そのいじんのはだをしったことが、わくわくするほども、)

私は、その偉人の肌を知ったことが、わくわくする程も、

(ほこらしくおもわれたのでございます。かれはわたしのうえで、)

誇らしく思われたのでございます。彼は私の上で、

(にさんにんのどうこくじんをあいてに、じゅっぷんばかりはなしをすると、)

二三人の同国人を相手に、十分ばかり話をすると、

(そのままたちさってしまいました。むろん、なにをいっていたのか、)

そのまま立去て了いました。無論、何を云っていたのか、

(わたしにはさっぱりわかりませんけれど、じぇすてゅあをするたびに、)

私にはさっぱり分りませんけれど、ジェステュアをする度に、

(むくむくとうごく、じょうじんよりもあたたかいかとおもわれるにくたいの、)

ムクムクと動く、常人よりも暖いかと思われる肉体の、

(くすぐるようなかんしょくが、わたしにいっしゅめいじょうすべからざるしげきを、)

くすぐる様な感触が、私に一種名状すべからざる刺戟を、

(あたえたのでございます。)

与えたのでございます。

(そのとき、わたしはふとこんなことをそうぞうしました。もし!)

その時、私はふとこんなことを想像しました。若し!

(このかわのうしろから、するどいないふで、かれのしんぞうをめがけて、)

この革のうしろから、鋭いナイフで、彼の心臓を目がけて、

(ぐさりとひとつきしたなら、どんなけっかをひきおこすであろう。)

グサリと一突きしたなら、どんな結果を惹起すであろう。

(むろん、それはかれにふたたびたつことのできぬちめいしょうをあたえるにそういない。)

無論、それは彼に再び起つことの出来ぬ致命傷を与えるに相違ない。

(かれのほんごくはもとより、にっぽんのせいじかいは、そのために)

彼の本国は素より、日本の政治界は、その為に

(、どんなおおさわぎをえんじることであろう。しんぶんは、)

、どんな大騒ぎを演じることであろう。新聞は、

(どんなげきじょうてきなきじをかかげることであろう。)

どんな激情的な記事を掲げることであろう。

(それは、にっぽんとかれのほんごくとのがいこうかんけいにも、)

それは、日本と彼の本国との外交関係にも、

(おおきなえいきょうをあたえようし、またげいじゅつのたちばからみても、)

大きな影響を与えようし、又芸術の立場から見ても、

(かれのしはせかいのいちだいそんしつにそういない。そんなだいじけんが、)

彼の死は世界の一大損失に相違ない。そんな大事件が、

(じぶんのいっきょしゅによって、やすやすとじつげんできるのだ。)

自分の一挙手によって、易々と実現出来るのだ。

(それをおもうと、わたしは、)

それを思うと、私は、

(ふしぎなとくいをかんじないではいられませんでした。)

不思議な得意を感じないではいられませんでした。

(もうひとつは、ゆうめいなあるくにのだんさーがらいちょうしたとき、)

もう一つは、有名なある国のダンサーが来朝した時、

(ぐうぜんかのじょがそのほてるにしゅくはくして、たったいちどではありましたが、)

偶然彼女がそのホテルに宿泊して、たった一度ではありましたが、

(わたしのいすにこしかけたことでございます。)

私の椅子に腰かけたことでございます。

(そのときも、わたしは、たいしのばあいとにたかんめいをうけましたが、)

その時も、私は、大使の場合と似た感銘を受けましたが、

(そのうえ、かのじょはわたしに、なめつてけいけんしたことのない)

その上、彼女は私に、嘗つて経験したことのない

(りそうてきなにくたいびのかんしょくをあたえてくれました。)

理想的な肉体美の感触を与えて呉れました。

(わたしはそのあまりのうつくしさにいやしいかんがえなどはおこすひまもなく、)

私はそのあまりの美しさに卑しい考えなどは起す暇もなく、

(ただもう、げいじゅつひんにたいするときのような、)

ただもう、芸術品に対する時の様な、

(けいけんなきもちで、かのじょをさんびしたことでございます。)

敬虔な気持で、彼女を讃美したことでございます。

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