魯迅 阿Q正伝その9
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問題文
(あるとしのはるであった。)
ある年の春であった。
(かれはほろよいきげんでまちなかをあるいていると、)
彼はほろ酔い機嫌で町なかを歩いていると、
(かきねのしたのひあたりにわんうーがもろはだぬいでしらみをとっているのをみた。)
垣根の下の日当りに王鬍がもろ肌ぬいでシラミを取っているのを見た。
(たちまちかんじてかれもからだがむずがゆくなった。)
たちまち感じて彼も身体がむずがゆくなった。
(このわんうーははげがさでもあるうえに、)
この王鬍は禿瘡でもある上に、
(ひげをじじむさくのばしていた。)
ヒゲをじじむさく伸ばしていた。
(あきゅうははげがさの1てんはどがいにおいているが、)
阿Qは禿瘡の1点は度外に置いているが、
(とにかくかれをひじょうにばかにしていた。)
とにかく彼を非常に馬鹿にしていた。
(あきゅうのかんがえでは、ほかにかくべつかわったところもないが、)
阿Qの考えでは、他に格別変ったところもないが、
(そのあごにからまるひげはじつにすこぶるちんみょうなもので、)
そのアゴに絡まるヒゲは実にすこぶる珍妙なもので、
(みられたざまじゃないとおもった。)
見られたざまじゃないと思った。
(そこでかれはそばへいってならんですわった。)
そこで彼はそばへ行って並んで坐った。
(これがもしほかのひとならあきゅうはもちろんめったにすわるはずはないが、)
これがもしほかの人なら阿Qはもちろん滅多に坐るはずはないが、
(わんうーのまえではなんのえんりょがいるものか、)
王鬍の前では何の遠慮が要るものか、
(しょうじきのところあきゅうがすわったのは、つまりかれをもちあげたてまつったのだ。)
正直のところ阿Qが坐ったのは、つまり彼を持上げ奉ったのだ。
(あきゅうはやぶれあわせをぬぎおろして1どひっくらかえしてしらべてみた。)
阿Qは破れ袷を脱ぎおろして1度引ッくらかえして調べてみた。
(あらったばかりなんだがやはりぞんざいなのかもしれない。)
洗ったばかりなんだがやはりぞんざいなのかもしれない。
(ながいことかかって3つ4つとらまえた。)
長いことかかって3つ4つ捉まえた。
(かれはわんうーをみると、1つまた1つ、2つ3つと、)
彼は王鬍を見ると、1つまた1つ、2つ3つと、
(くちのなかにほうりこんでぴちぴちぱちぱちとかみつぶした。)
口の中に抛り込んでピチピチパチパチと噛み潰した。
(あきゅうはさいしょしつぼうしてあとではふへいをおこした。)
阿Qは最初失望してあとでは不平を起した。
(わんうーなんてとるにたらねえやつでも、あんなにどっさりもっていやがる。)
王鬍なんて取るに足らねえ奴でも、あんなにどっさり持っていやがる。
(おれをみろ、あるかねえかわかりゃしねえ。)
俺を見ろ、あるかねえか解りゃしねえ。
(こりゃどうもおおいにめんぼくのねえこった。)
こりゃどうも大いに面目のねえこった。
(かれはぜひともおおきなやつをひねりだそうとおもってあちこちさがした。)
彼はぜひとも大きな奴を捫り出そうと思ってあちこち捜した。
(しばらくたってやっと1つとらまえたのはちゅうくらいのやつで、)
しばらく経ってやっと1つ捉まえたのは中くらいの奴で、
(かれはうらめしそうにあついくちびるのなかにおしこみやけにかみつぶすと、)
彼は恨めしそうに厚い脣の中に押込みヤケに噛み潰すと、
(ぱちりとおとがしたがわんうーのひびきにはおよばなかった。)
パチリと音がしたが王鬍の響には及ばなかった。
(かれははげかさの1つ1つをみなあかくしてきものをちじょうにつきはなし、ぺっとつばをはいた。)
彼は禿瘡の1つ1つを皆赤くして着物を地上に突放し、ペッと唾を吐いた。
(「このけむしめ」)
「この毛虫め」
(「やい、かさっかき。てめえはだれのわるくちをいうのだ」)
「やい、瘡ッかき。てめえは誰の悪口を言うのだ」
(わんうーはめをあげてさげすみながらいった。)
王鬍は眼を挙げてさげすみながら言った。
(あきゅうはちかごろわりあいにひとのそんけいをうけ、)
阿Qは近頃割合に人の尊敬を受け、
(じぶんもいささかこうまんちきになっているが、)
自分もいささか高慢ちきになっているが、
(いつもやりあうひとたちのめんをみると、やはりこころがおくれてしまう。)
いつもやり合う人達の面を見ると、やはり心が怯れてしまう。
(ところがこんどにかぎってひじょうないきおいだ。)
ところが今度に限って非常な勢いだ。
(なにだ、こんなひげだらけのしろものがなまいきいいやがるとばかりで)
何だ、こんなヒゲだらけの代物が生意気言いやがるとばかりで
(「だれのこったか、おらあしらねえ」あきゅうはたちあがって、りょうてをこしのあいだにささえた。)
「誰のこったか、おらあ知らねえ」阿Qは立ち上って、両手を腰の間に支えた。
(「このやろう、ほねがかゆくなったな」わんうーもたちあがってちょぶつをみた。)
「この野郎、骨が痒くなったな」王鬍も立ち上がって著物を見た。
(あいてがにげだすかとおもったら、つかみかかってきたので、)
相手が逃げ出すかと思ったら、掴み掛かって来たので、
(あきゅうはげんこつをかためてひとつきくれた。)
阿Qは拳骨を固めて一突き呉れた。
(そのげんこつがまだむこうのしんたいからだにとどかぬうちに、うでをおさえられ、)
その拳骨がまだ向うの身体からだに届かぬうちに、腕を抑えられ、
(あきゅうはよろよろとこしをうかした。)
阿Qはよろよろと腰を浮かした。
(じつけられたべんつはまがきのほうへとひっぱられていって、)
じつけられた辮子は墻の方へと引張られて行って、
(いつものとおりそこではちあわせがはじまるのだ。)
いつもの通りそこで鉢合せが始まるのだ。
(「くんしはくちをうごかしててをうごかさず」)
「君子は口を動かして手を動かさず」
(とあきゅうはくびをゆがめながらいった。)
と阿Qは首を歪めながら言った。
(わんうーはくしんでないとみえ、えんりょえしゃくもなくかれのあたまを)
王鬍は君子でないと見え、遠慮会釈もなく彼の頭を
(5つほどかべにぶっつけてちからまかせにつっぱなすと、)
5つほど壁にぶっつけて力任せに突っ放すと、
(あきゅうはふらふらと6しゃくあまりとおざかった。そこでひげはおおいにまんぞくしてたちさった。)
阿Qはふらふらと6尺余り遠ざかった。そこでヒゲは大いに満足して立去った。
(あきゅうのきおくではおおかたこれはうまれてはじめてのくつじょくといってもいい、)
阿Qの記憶ではおおかたこれは生れて初めての屈辱といってもいい、
(わんうーはあごにからまるひげのけってんでまえからあきゅうにあなどられていたが、)
王鬍はアゴに絡まるヒゲの欠点で前から阿Qに侮られていたが、
(あきゅうをあなどったことはなかった。)
阿Qを侮ったことは無かった。
(むろんてだしなどできるはずのものではなかったが、)
むろん手出しなど出来るはずの者ではなかったが、
(ところがげんざいついにてだしをしたからたえだ。)
ところが現在遂に手出しをしたから妙だ。
(まさかせけんのうわさのようにこうていがとうようしけんをやめて)
まさか世間の噂のように皇帝が登用試験をやめて
(しゅうさいもきょじんもふようになり、それでちょうけのいふうがげんじ、)
秀才も挙人も不要になり、それで趙家の威風が減じ、
(それでかれらもあきゅうにたいしてみくだすようになったのか。)
それで彼等も阿Qに対して見下すようになったのか。
(そんなことはありそうにもおもわれない。)
そんなことはありそうにも思われない。