半七捕物帳 少年少女の死1
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問題文
(「きのうはうちのまえでおおさわぎがありましたよ」と、はんしちろうじんはいった。)
一 「きのうは家の前で大騒ぎがありましたよ」と、半七老人は云った。
(「どうしたんです。なにがあったんです」)
「どうしたんです。何があったんです」
(「なにね、いつつばかりのこどもがじてんしゃにひかれたんですよ。)
「なにね、五つばかりの子供が自転車に轢かれたんですよ。
(このよこちょうのたばこやのむすめで、かわいらしいこでしたっけが、どこかのかいしゃの)
この横町の煙草屋の娘で、可愛らしい子でしたっけが、どこかの会社の
(わかいひとののっているじてんしゃにつきあたって・・・・・・。)
若い人の乗っている自転車に突きあたって……。
(いえ、しにゃあしませんでしたけれど、かおへきずをこしらえて・・・・・・。)
いえ、死にゃあしませんでしたけれど、顔へ疵をこしらえて……。
(おんなのこですから、あれがひどいひっつりにならなければようござんすがね。)
女の子ですから、あれがひどい引っ吊りにならなければようござんすがね。
(いったいこのごろのようにへたなしろうとがむやみにじてんしゃをのりまわすのは、)
一体この頃のように下手な素人がむやみに自転車を乗りまわすのは、
(まったくぶようじんですよ」)
まったく不用心ですよ」
(そのころはじてんしゃのはやりだしたはじめで、はんしちろうじんのいうとおり、)
その頃は自転車の流行り出した始めで、半七老人のいう通り、
(へたなしろうとがそこでもここでもひとをひいたり、へいをつきやぶったりした。)
下手な素人がそこでも此処でも人を轢いたり、塀を突き破ったりした。
(いまかんがえるとすこしおかしいようでもあるが、そのころのとうきょうしちゅうでは)
今かんがえると少しおかしいようでもあるが、その頃の東京市中では
(じてんしゃをはなはだきけんなものとみとめないわけにはいかなかった。)
自転車を甚だ危険なものと認めないわけには行かなかった。
(わたしもくちをあわせて、へたなさいくりすとをばとうすると、)
わたしも口をあわせて、下手なサイクリストを罵倒すると、
(ろうじんはやがてまたいいだした。)
老人はやがて又云い出した。
(「それでもおとなならば、こっちのふちゅういということもありますが、)
「それでも大人ならば、こっちの不注意ということもありますが、
(まったくこどもはかわいそうですよ」)
まったく子供は可哀そうですよ」
(「こどもはもちろんですが、おとなだってこまりますよ。こっちがよければ、)
「子供は勿論ですが、大人だって困りますよ。こっちが避ければ、
(そのよけるほうへむこうがまわってくるんですもの。)
その避ける方へ向うが廻って来るんですもの。
(へたなやつにあっちゃあかないませんよ」)
下手な奴に逢っちゃあ敵いませんよ」
(「さいなんはいくらよけてもおっかけてくるんでしょうね」と、ろうじんは)
「災難はいくら避けても追っかけて来るんでしょうね」と、老人は
(たんそくするようにいった。)
嘆息するように云った。
(「じてんしゃがこわいのなんのといったところで、いちばんこわいのはやっぱりにんげんです。)
「自転車が怖いの何のと云ったところで、一番怖いのはやっぱり人間です。
(いくらじてんしゃをとりしまっても、それでさいなんがねだやしになるというわけには)
いくら自転車を取締っても、それで災難が根絶やしになるというわけには
(いきますまいよ。むかしはじてんしゃなんてものはありませんでしたけれど、)
行きますまいよ。昔は自転車なんてものはありませんでしたけれど、
(それでもとんでもないさいなんにあったこどもがいくらもありましたからね」)
それでも飛んでもない災難に逢った子供が幾らもありましたからね」
(これがくちきりで、ろうじんはかたりだした。)
これが口切りで、老人は語り出した。
(「いまのかたはごぞんじありますまいが、そとかんだにたわらやというかしせきがありました。)
「今の方は御存知ありますまいが、外神田に田原屋という貸席がありました。
(やはりこんにちのかしせきとおなじように、そこでいろいろのよりあいをしたり、)
やはり今日の貸席とおなじように、そこでいろいろの寄り合いをしたり、
(むじんをしたり、ゆうげいのおさらいをしたり、まあそんなことでそうとうに)
無尽をしたり、遊芸のお浚いをしたり、まあそんなことで相当に
(はんじょうしているうちでした」)
繁昌している家でした」