半七捕物帳 津の国屋2

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岡本綺堂 半七捕物帳シリーズ 第16話

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問題文

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(あかさかうらてんまちょうのときわずのおんなししょうもじはるがほりのうちのおそしさまへさんけいにいって、)

赤坂裏伝馬町の常磐津の女師匠文字春が堀の内の御祖師様へ参詣に行って、

(くたびれあしをひきずってよつやのおおきどまでかえりついたのは、こうかよねん)

くたびれ足を引き摺って四谷の大木戸まで帰りついたのは、弘化四年

(ろくがつなかばのゆうがたであった。あかさかからほりのうちへかようにはべつのちかみちが)

六月なかばの夕方であった。赤坂から堀の内へ通うには別の近道が

(ないでもなかったが、おんなひとりであるからなるべくはんかなほんかいどうをえらんだのと、)

ないでもなかったが、女一人であるからなるべく繁華な本街道を選んだのと、

(まなつのあついひざかりをしがらきのみせですこしやすんでいたのとで、おんなのあしで)

真夏の暑い日ざかりを信楽の店で少し休んでいたのとで、女の足で

(ようようえどへはいったのは、もうゆうむっつはん(しちじ)をすぎたころで、)

ようよう江戸へはいったのは、もう夕六ツ半(七時)をすぎた頃で、

(さすがにながいこのころのひもすっかりくれきってしまった。)

さすがに長いこの頃の日もすっかり暮れ切ってしまった。

(こうしゅうかいどうのすなをあびて、きみのわるいえりもとのあせをふきながら、もじはるはよつやの)

甲州街道の砂を浴びて、気味のわるい襟元の汗をふきながら、文字春は四谷の

(おおどおりをまっすぐにいそいでくるとちゅうで、かのじょはじぶんのあとについてくる)

大通りをまっすぐに急いでくる途中で、彼女は自分のあとに付いてくる

(じゅうろくしちのむすめをみかえった。 「ねえさん。おまえさんどこへいくの」)

十六七の娘を見かえった。 「姐さん。おまえさん何処へ行くの」

(このむすめは、さっきからもじはるのあとになりさきになって、かげのようにつきまとって)

この娘は、さっきから文字春のあとになり先になって、影のように付きまとって

(くるのであった。うすくらがりでよくはわからないが、みちばたのみせのあかりでちらりと)

来るのであった。うす暗がりでよくは判らないが、路傍の店の灯でちらりと

(みたところは、いろのあおじろい、やせがたのむすめで、かみはしまだにゆって、)

見たところは、色の蒼白い、瘠せ形の娘で、髪は島田に結って、

(しろじになでしこをそめだしたちゅうがたのゆかたをきていた。)

白地に撫子を染め出した中形の浴衣を着ていた。

(ただそれだけならべつにしさいもないのであるが、かのじょはとかくにもじはるのそばを)

唯それだけなら別に仔細もないのであるが、彼女はとかくに文字春のそばを

(はなれないで、あたかもみちづれであるかのようにこすりついてあるいてくる。)

離れないで、あたかも道連れであるかのようにこすり付いて歩いてくる。

(それがうるさくもあったが、おそらくわかいむすめのこころさびしいので、ただなにがなしに)

それがうるさくもあったが、おそらく若い娘の心寂しいので、ただ何がなしに

(ひとのあとをおってくるのであろうとおもって、はじめはかくべつにきにも)

人のあとを追って来るのであろうと思って、初めは格別に気にも

(とめなかったが、あまりしつこくつきまとってくるので、もじはるも)

止めなかったが、あまりしつこく付きまとって来るので、文字春も

(しまいにはいやなこころもちになった。なんだかうすきみわるくもなってきた。)

しまいには忌な心持になった。なんだか薄気味悪くもなって来た。

など

(しかしあいてはかぼそいむすめである。まさかにものとりやきんちゃっきりでもあるまい、)

しかし相手は孱細い娘である。まさかに物取りや巾着切りでもあるまい、

(もじはるはことしにじゅうろくで、おんなとしてはおおがらのほうであった。まんいちあいてのむすめが)

文字春は今年二十六で、女としては大柄の法であった。万一相手の娘が

(よくないもので、だしぬけになにかのわるさをしかけたとしても、やみやみかのじょに)

よくない者で、だしぬけに何かの悪さを仕掛けたとしても、やみやみ彼女に

(まかされるほどのこともあるまいとたかをくくっていたので、もじはるは)

負かされる程のこともあるまいと多寡をくくっていたので、文字春は

(さのみこわいともおそろしいともおもっていなかったのであるが、なにぶんにも)

さのみ怖いとも恐ろしいとも思っていなかったのであるが、何分にも

(じぶんのあとをつけまわしてくるのがきになってならなかった。かのじょはだんだんに)

自分のあとを付け廻してくるのが気になってならなかった。彼女はだんだんに

(きみがわるくなってきて、ものとりやきんちゃっきりなどということをとおりこして、)

気味がわるくなって来て、物取りや巾着切りなどということを通り越して、

(なにかいっしゅのまものではないかともうたがいはじめた。しにがみかとおりまか、きつねかたぬきか、)

なにか一種の魔物ではないかとも疑いはじめた。死に神か通り魔か、狐か狸か、

(なにかのようかいがじぶんにつきまつわってくるのではないかとおもうと、もじはるは)

なにかの妖怪が自分に付まつわって来るのではないかと思うと、文字春は

(にわかにぞっとした。かのじょはもうつよがってはいられなくなって、じゅずをかけたてを)

俄かにぞっとした。彼女はもう強がってはいられなくなって、数珠をかけた手を

(そっとあわせて、くちのうちでおだいもくをいっしんにねんじながらあるいてきたのであった。)

そっとあわせて、口のうちでお題目を一心に念じながら歩いて来たのであった。

(それでもぶじにおおきどをこして、もうえどへはいったとおもうと、かのじょはまたすこし)

それでも無事に大木戸を越して、もう江戸へはいったと思うと、彼女は又すこし

(きがつよくなった。ひともしごろとはいいながら、にぎやかなまなつのゆうがたで、)

気が強くなった。灯ともし頃とはいいながら、賑やかな真夏のゆうがたで、

(りょうがわにはまちやもある。かれはここまできたときに、はじめておもいきってそのむすめに)

両側には町家もある。かれはここまで来た時に、はじめて思い切ってその娘に

(こえをかけたのである。こえをかけられて、むすめはひくいこえでえんりょがちにこたえた。)

声をかけたのである。声をかけられて、娘は低い声で遠慮勝ちに答えた。

(「はい。あかさかのほうへ・・・・・・」 「あかさかはどこです」)

「はい。赤坂の方へ……」 「赤坂はどこです」

(「うらてんまちょうというところへ・・・・・・」)

「裏伝馬町というところへ……」

(もじはるはまたぎょっとした。ほんらいならばちょうどいいみちづれともいうべきであるが、)

文字春はまたぎょっとした。本来ならば丁度いい道連れともいうべきであるが、

(このばあいにかのじょはとてもそんなことをかんがえてはいられなかった。)

この場合に彼女はとてもそんなことを考えてはいられなかった。

(かのじょはどうしてこのむすめがじぶんのゆくさきをしっているのであろうとあやしみおそれた。)

彼女はどうして此の娘が自分のゆく先を知っているのであろうと怪しみ恐れた。

(かのじょはさゆうをみかえりながらまたきいた。)

彼女は左右を見かえりながら又訊いた。

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