第二次世界大戦37

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((はる・のーと#それんいんぼうせつについてもさんしょう)。)

(ハル・ノート#ソ連陰謀説についても参照)。

(このなかには、「さいけいこくたいぐうをきそとするつうしょうじょうやくさいていけつのためのこうしょうの)

この中には、「最恵国待遇を基礎とする通商条約再締結のための交渉の

(かいし」や「あめりかによるにほんしさんのとうけつをかいじょ、にほんによるあめりか)

開始」や「アメリカによる日本資産の凍結を解除、日本によるアメリカ

(しさんのとうけつをかいじょ」、「えんどるかわせれーとあんていにかんするきょうていていけつと)

資産の凍結を解除」、「円ドル為替レート安定に関する協定締結と

(つうかききんのせつりつ」など、にほんにとってゆうりなないようがふくまれていたが、)

通貨基金の設立」など、日本にとって有利な内容が含まれていたが、

(「ふついんのりょうどしゅけんそんちょう」や「にちどくいさんごくどうめいからのりだつ」、にっちゅうせんそうか)

「仏印の領土主権尊重」や「日独伊三国同盟からの離脱」、日中戦争下

(にある「ちゅうごくたいりく(げんぶん「china」)からのぜんめんてったい」といった、)

にある「中国大陸(原文「China」)からの全面撤退」といった、

(にほんにとってあきらかにじょうほをもとめるないようもあった。)

日本にとって明らかに譲歩を求める内容もあった。

(まさにあめりかとしては、これまでに「よんげんそく」などこうなんとりまぜて)

まさにアメリカとしては、これまでに「四原則」など硬軟取り混ぜて

(ていあんしてきたあんがことごとくにほんがわにひけつされたあげく、あらたにだしてきた)

提案してきた案がことごとく日本側に否決された挙句、新たに出してきた

(きびしいないようではあったものの、このぶんしょうはあくまではるのだした)

厳しい内容ではあったものの、この文章はあくまでハルの出した

(「きそていあん(outlineofproposedbasis)」)

「基礎提案 (Outline of Proposed Basis)」

(であり、そのうえに「げんぴ、いちじてきにしてこうそくりょくなし)

であり、その上に「厳秘、一時的にして拘束力なし

((strictlyconfidential,)

(Strictly Confidential,

(tentativeandwithout)

Tentative and Without

(commitment)」とめいかくにかかれてあり、)

Commitment)」と明確に書かれてあり、

(あめりかがわとしてはだいめいの「きそていあん」とおりに、ここからにちべいりょうこくの)

アメリカ側としては題名の「基礎提案」通りに、ここから日米両国の

(とうじしゃでおとしどころをさぐるものであった。)

当事者で落としどころを探るものであった。

(とくににほんがわがさいじゅうようしする「がそりんのゆしゅつさいかいをふくんださいけいこくたいぐうの)

特に日本側が最重要視する「ガソリンの輸出再開を含んだ最恵国待遇の

(ないよう」や「にほんしさんのとうけつかいじょ」、また「まんしゅうこくをふくむぜんちゅうごくからの)

内容」や「日本資産の凍結解除」、また「満洲国を含む全中国からの

など

(てったい」か、それとも「まんしゅうこくをふくまないぜんちゅうごくからのてったい」をもとめている)

撤退」か、それとも「満洲国を含まない全中国からの撤退」を求めている

(かいなかなど、かんじんかつじゅうようなてんをはるをはじめとしたあめりかがわにたいし)

か否かなど、肝心かつ重要な点をハルをはじめとしたアメリカ側に対し

(かくにんしないばかりか、なにもへんとうもせずこれをじじつじょうむしした。)

確認しないばかりか、何も返答もせずこれを事実上無視した。

(そのうえ、りくかいぐんともにせんそうじゅんびがきゅうぴっちですすむなかで、ぜんたいのないようとして)

その上、陸海軍ともに戦争準備が急ピッチで進む中で、全体の内容として

(はにほんがわのこれまでのようぼうをすべてむししたものであったことで、にほんがわは)

は日本側のこれまでの要望を全て無視したものであったことで、日本側は

(これをじじつじょうの「さいごつうちょう」とつごうよくかいしゃくし、あめりかせいふがわにたいして)

これを事実上の「最後通牒」と都合よく解釈し、アメリカ政府側に対して

(なにもへんとうもせずにむししたまま、12がつ1にちのごぜんかいぎでにほんせいふは)

何も返答もせずに無視したまま、12月1日の御前会議で日本政府は

(たいえいべいらんかいせんをけっていする。)

対英米蘭開戦を決定する。

(まれーほうめんしゅつげき)

マレー方面出撃

(そのようななかで、にほんはいぎりすやおらんだのしょくみんちにたいしても)

そのような中で、日本はイギリスやオランダの植民地に対しても

(おんみつうらにしんぐんをかいしし、12がつ4にち、ちゅうかみんこくのみあで、さくせんのぜんせんだんの)

隠密裏に進軍を開始し、12月4日、中華民国の三亜で、作戦の全船団の

(しゅつげきをかくにんしたにほんかいぐんのまきぶたいしきかん・おざわじさぶろうかいぐんちゅうじょうも)

出撃を確認した日本海軍の馬来部隊指揮官・小沢治三郎海軍中将も

(しゅつげきした。さらにほぼどうじにやましたともゆきりくぐんちゅうじょういかやく2まんにんのだいにじゅうごぐん)

出撃した。さらにほぼ同時に山下奉文陸軍中将以下約2万人の第二十五軍

(せんけんへいだんのじょうせんするゆそうせんもかんていにごえいされ、ついにいぎりすりょうまらやと)

先遣兵団の乗船する輸送船も艦艇に護衛され、ついにイギリス領マラヤと

(おらんだりょうひがしいんどをめざしてしんげきをかいしした。たいするいぎりすぐんやおらんだぐん)

オランダ領東インドを目指して進撃を開始した。対するイギリス軍やオランダ軍

(はまったくゆだんしており、これらにきづくものはかいむであった。)

は全く油断しており、これらに気づく者は皆無であった。

(このようにたいえいべいらんかいせんをけっていしながら、そのうらではまれーはんとうと)

このように対英米蘭開戦を決定しながら、その裏ではマレー半島と

(じゃわ、はわいにむかうにほんかいぐんきどうぶたいをいつでもはんてんできるように)

ジャワ、ハワイに向かう日本海軍機動部隊をいつでも反転できるように

(したまま、にほんせいふは「はる・のーと」へのめいかくなへんとうはきょひしつつも、)

したまま、日本政府は「ハル・ノート」への明確な返答は拒否しつつも、

(ぎりぎりまでくりすさぶろうとのむらきちさぶろうのりょうたいしにはるこくむちょうかんとのこうしょうを)

ぎりぎりまで来栖三郎と野村吉三郎の両大使にハル国務長官との交渉を

(すすめさせたが、ついにだかいさくはみつけらなかった。)

進めさせたが、ついに打開策は見つけらなかった。

(たいえいべいかいせんとせんせんふこくちえん)

対英米開戦と宣戦布告遅延

(12がつ1にちのごぜんかいぎでせいしきにたいえいべいらんせんそうかいせんがきまったさい、これを)

12月1日の御前会議で正式に対英米蘭戦争開戦が決まった際、これを

(うけてとうじょうはがいしょうとうごうしげのりにかいせんつうこくをすべくしじし、がいむしょうは)

受けて東條は外相東郷茂徳に開戦通告をすべく指示し、外務省は

(かいせんつうこくのじゅんびにはいった(げんみつにはこれはかいせんつうこくではなく、とうじおこなわれ)

開戦通告の準備に入った(厳密にはこれは開戦通告ではなく、当時行われ

(ていたのむら・くりすりょうたいしによるとくべつこうしょうのせいかたっせいあきらめのつうちである。)

ていた野村・来栖両大使による特別交渉の成果達成諦めの通知である。

(また、いぎりすあいてにははじめからなにかおこなうことはかんがえられていない)。)

また、イギリス相手には初めから何か行うことは考えられていない)。

(とうごうからちゅうあめりかたいしかんののむらきちさぶろうたいしあてに、ぱーぷるあんごうにより)

東郷から駐アメリカ大使館の野村吉三郎大使宛に、パープル暗号により

(あんごうかされたでんぽう「しょうわ16ねん12がつ6にち)

暗号化された電報「昭和16年12月6日

(とうごうだいじんはつのむらたいしあてこうでんだいきゅうれいいちごう」が、)

東郷大臣発野村大使宛公電第九0一号」が、

(げんちじかん12がつ6にちごぜんちゅうにとどけられた。このなかでは、)

現地時間12月6日午前中に届けられた。この中では、

(たいべいおぼえがきがけっていされたことと、きみつあつかいのちゅうい、しゅこうできるようよういして)

対米覚書が決定されたことと、機密扱いの注意、手交できるよう用意して

(おくことがかかれていた。またとうじょうしゅしょうはかいせんちょくぜんに、にっけいあめりかじんに)

おくことが書かれていた。また東条首相は開戦直前に、日系アメリカ人に

(たいして「にっけいあめりかじんはあめりかじんであるので、ぶしどうにのっとり)

対して「日系アメリカ人はアメリカ人であるので、武士道にのっとり

(にほんではなくあめりかのためにたたかうべき」とのべたといわれている。)

日本ではなくアメリカのために戦うべき」と述べたと言われている。

(「しょうわ16ねん12がつ7にちとうごうだいじんはつざいべいのむら)

「昭和16年12月7日東郷大臣発在米野村

(たいしあてこうでんだいきゅうれいにごう」は「ていこくせいふのたいべいつうちょうおぼえがき」)

大使宛公電第九0二号」は「帝国政府ノ対米通牒覚書」

(ほんぶんで、14ぶにぶんかつされていた。これはげんちじかん12がつ6にちしょうごごろ)

本文で、14部に分割されていた。これは現地時間12月6日正午頃

((いかはすべてあめりかひがしかいがんげんち/わしんとんd.c.じかん))

(以下は全てアメリカ東海岸現地/ワシントンD.C.時間)

(からひきつづきとうちゃくし、でんしんかいんによってごご11じごろまで13ぷんわれめまでの)

から引き続き到着し、電信課員によって午後11時頃まで13分割目までの

(かいどくがしゅうりょうしていた。14ふんわれめはごぜん3じのじてんでとうちゃくしておらず)

解読が終了していた。14分割目は午前3時の時点で到着しておらず

(でんしんかいんはじょうしのしじできたくした。14ふんわれめは7にちごぜん7じまでに)

電信課員は上司の指示で帰宅した。14分割目は7日午前7時までに

(とうちゃくしたとみられる。)

到着したとみられる。

(きゅうれいよんごうはきみつほじのかんてんから「おぼえがきのさくせいにたいぴすとをりようしない)

九0四号は機密保持の観点から「覚書の作成にタイピストを利用しない

(ように」とのちゅういがあり、きゅうれいななごうではおぼえがきしゅこうを「きちじかん)

ように」との注意があり、九0七号では覚書手交を「貴地時間

(なのかごごいちじ」とするようにとのしじがかかれていた。しかし、)

七日午后一時」とするようにとの指示が書かれていた。しかし、

(「たいぴすとをりようしないように」とのちゅういにちゅうじつに、かいどくがおわった)

「タイピストを利用しないように」との注意に忠実に、解読が終わった

(ものからじゅんにたいぷがふとくいないっとうしょきかんのおくむらかつぞうによりしゅうせい・)

ものから順にタイプが不得意な一等書記官の奥村勝蔵により修正・

(せいしょされ、そのためにじかんをろうひしてしまう。そのうえにかんいんのおおくは)

清書され、そのために時間を浪費してしまう。その上に館員の多くは

(6にちよるには、ぶらじるへふにんするかんいんのそうべつかいもかねてわしんとん)

6日夜には、ブラジルへ赴任する館員の送別会も兼ねてワシントン

(d.c.しないのちゅうかりょうりてん「ちゃいにーず・らんたん」にむかい、)

D.C.市内の中華料理店「チャイニーズ・ランタン」に向かい、

(おおくはそのままじたくへもどってしまう。)

多くはそのまま自宅へ戻ってしまう。

(さらに12がつ6にちごご9じ(にほんじかん7にちごぜん10じ)にべいだいとうりょうるーずべると)

さらに12月6日午後9時(日本時間7日午前10時)に米大統領ルーズベルト

(はしょうわてんのうへしんしょをおくり、じょせふ・ぐるーちゅうにちたいしにあんごうぶんのほんやくを)

は昭和天皇へ親書を送り、ジョセフ・グルー駐日大使に暗号文の翻訳を

(いそがせたものの、しんでんはとうきょうちゅうおうでんしんきょくで15じかんとめおかれ、さいしゅうてきに)

急がせたものの、親電は東京中央電信局で15時間留め置かれ、最終的に

(しょうわてんのうのもとにとどいたのはかいせんちょくぜん)

昭和天皇の元に届いたのは開戦直前

((にほんじかん8にちみめい)でておくれであった。)

(日本時間8日未明)で手遅れであった。

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