紫式部 源氏物語 葵 12 與謝野晶子訳

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(げんじはにじょうのいんへさえもまったくいかないのである。せんねんにほとけづとめをして)

源氏は二条の院へさえもまったく行かないのである。専念に仏勤めをして

(くらしているのであった。こいびとたちのところへてがみだけはおくっていた。)

暮らしているのであった。恋人たちの所へ手紙だけは送っていた。

(ろくじょうのみやすどころはさえもんのちょうしゃへさいぐうがおはいりになったので、いっそう)

六条の御息所は左衛門の庁舎へ斎宮がおはいりになったので、いっそう

(げんじゅうになったけっさいてきなせいかつにもちゅうのひとのこうしょうをえんりょするいみにたくして)

厳重になった潔斎的な生活に喪中の人の交渉を遠慮する意味に託して

(そのひとへだけはしょうそくもしないのである。はやくからひかんてきにみていたじんせいが)

その人へだけは消息もしないのである。早くから悲観的に見ていた人生が

(いっそうこのごろいとわしくなって、しょうらいのことまでもかんがえてやらねばならぬ)

いっそうこのごろいとわしくなって、将来のことまでも考えてやらねばならぬ

(いくにんかのじょうじんたち、そんなものがなければそうになってしまうがとおもうときに、)

幾人かの情人たち、そんなものがなければ僧になってしまうがと思う時に、

(げんじのめにまっさきにみえるものはにしのたいのひめぎみのさびしがっているおもかげであった。)

源氏の目に真先に見えるものは西の対の姫君の寂しがっている面影であった。

(よるはちょうだいのなかへひとりでねた。じじょたちがよるのとのいにおおぜいでそれをめぐって)

夜は帳台の中へ一人で寝た。侍女たちが夜の宿直におおぜいでそれを巡って

(すわっていても、ふじんのそばにいないことはかぎりもないさびしいことであった。)

すわっていても、夫人のそばにいないことは限りもない寂しいことであった。

(「ときしもあれあきやはひとのわかるべきあるをみるだにこいしきものを」こんなおもいで)

「時しもあれ秋やは人の別るべき有るを見るだに恋しきものを」こんな思いで

(げんじはねざめがちであった。こえのよいそうをえらんでねんぶつをさせておく、)

源氏は寝ざめがちであった。声のよい僧を選んで念仏をさせておく、

(こんなよるのあけがたなどのこころもちはたえられないものであった。あきがふかくなった)

こんな夜の明け方などの心持ちは堪えられないものであった。秋が深くなった

(このごろのかぜのねがみにしむのをかんじる、そうしたあるよあけに、しらぎくがうすいろを)

このごろの風の音が身にしむのを感じる、そうしたある夜明けに、白菊が淡色を

(そめだしたはなのえだに、あおがかったはいいろのかみにかいたてがみをつけて、)

染めだした花の枝に、青がかった灰色の紙に書いた手紙を付けて、

(おいていったつかいがあった。 「きどったことをだれがするのだろう」)

置いて行った使いがあった。 「気どったことをだれがするのだろう」

(とげんじはいって、てがみをあけてみるとみやすどころのじであった。)

と源氏は言って、手紙をあけて見ると御息所の字であった。

(いままでごえんりょしておたずねもしないでおりましたがわたくしのこころもちは)

今まで御遠慮してお尋ねもしないでおりましたが私の心持ちは

(おわかりになっていらっしゃることでしょうか。 )

おわかりになっていらっしゃることでしょうか。

(ひとのよをあわれときくもつゆけきにおくるるつゆをおもいこそやれ )

人の世を哀れときくも露けきにおくるる露を思ひこそやれ

など

(あまりにみにしむけさのそらのいろをみていまして、)

あまりに身にしむ今朝の空の色を見ていまして、

(ついかきたくなってしまったのです。)

つい書きたくなってしまったのです。

(へいぜいよりもいっそうみごとにかかれたじであるとげんじはさすがにすぐにしたへも)

平生よりもいっそうみごとに書かれた字であると源氏はさすがにすぐに下へも

(おかれずにながめながらも、そしらぬふりのいもんじょうであるとおもうと)

置かれずにながめながらも、素知らぬふりの慰問状であると思うと

(うらめしかった。たとえあのことがあったとしてもぜっこうするのはざんこくである、)

恨めしかった。たとえあのことがあったとしても絶交するのは残酷である、

(そしてまためいよをきずつけることになってはならないとおもってげんじははんもんした。)

そしてまた名誉を傷つけることになってはならないと思って源氏は煩悶した。

(しんだひとはとにかくあれだけのじゅみょうだったにちがいない。なぜじぶんのめはああした)

死んだ人はとにかくあれだけの寿命だったに違いない。なぜ自分の目はああした

(あきらかなみやすどころのいきりょうをみたのであろうとこんなことをげんじはおもった。)

明らかな御息所の生霊を見たのであろうとこんなことを源氏は思った。

(げんじのこいがふたたびかえりがたいことがうかがわれるのである。さいぐうのごけっさいちゅうの)

源氏の恋が再び帰りがたいことがうかがわれるのである。斎宮の御潔斎中の

(めいわくにならないであろうかともひさしくかんがえていたが、わざわざおくってきたてがみに)

迷惑にならないであろうかとも久しく考えていたが、わざわざ送って来た手紙に

(へんじをしないのはむじょうすぎるともおもって、むらさきのはいいろがかったかみにこうかいた。)

返事をしないのは無情過ぎるとも思って、紫の灰色がかった紙にこう書いた。

(ずいぶんながくおめにかかりませんが、こころでしじゅうおもっているのです。きんしんちゅうの)

ずいぶん長くお目にかかりませんが、心で始終思っているのです。謹慎中の

(こうしたわたくしにどうじょうはしてくださるでしょうとおもいました。 )

こうした私に同情はしてくださるでしょうと思いました。

(とまるみもきえしもおなじつゆのよにこころおくらんほどぞはかなき )

とまる身も消えしも同じ露の世に心置くらんほどぞはかなき

(ですからにくいとおおもいになることなどもいっさいわすれておしまいなさい。)

ですから憎いとお思いになることなどもいっさい忘れておしまいなさい。

(きちゅうのもののてがみなどはごらんにならないかとおもいまして)

忌中の者の手紙などは御覧にならないかと思いまして

(わたくしもごぶさたをしていたのです。 みやすどころはじたくのほうにいたときであったから、)

私も御無沙汰をしていたのです。 御息所は自宅のほうにいた時であったから、

(そっとげんじのてがみをよんで、ぶんいにほのめかしてあることを、)

そっと源氏の手紙を読んで、文意にほのめかしてあることを、

(こころにとがめられていないのでもないみやすどころはすぐにさとったのである。)

心にとがめられていないのでもない御息所はすぐに悟ったのである。

(これもみなじぶんのはくめいからだとかなしんだ。こんないきりょうのうわさがつたわっていったときに)

これも皆自分の薄命からだと悲しんだ。こんな生霊の噂が伝わって行った時に

(いんはどうおぼしめすだろう。ぜんこうたいていとはごどうほうといってもとりわけ)

院はどう思召すだろう。前皇太弟とは御同胞といっても取り分け

(おむつまじかった、さいぐうのしょうらいのこともいんへおたのみになって)

お睦まじかった、斎宮の将来のことも院へお頼みになって

(とうぐうはおかくれになったので、そのじだいにはだいにのちちになってやろうというおおせが)

東宮はお薨れになったので、その時代には第二の父になってやろうという仰せが

(たびたびあって、そのまままたごしょでこうきゅうせいかつをするようにとまで)

たびたびあって、そのまままた御所で後宮生活をするようにとまで

(おおせになったときも、あるまじいこととしてじぶんはごじたいをした。)

仰せになった時も、あるまじいこととして自分は御辞退をした。

(それであるのにわかいげんじとこいをして、しまいにはあくみょうをとることになるのかと)

それであるのに若い源氏と恋をして、しまいには悪名を取ることになるのかと

(みやすどころはおもくるしいなやみをこころにしてけんこうもすぐれなかった。このひとはむかしから、)

御息所は重苦しい悩みを心にして健康もすぐれなかった。この人は昔から、

(きょうようがあってけんしきのたかい、しゅみのせんれんされたきふじんとして、)

教養があって見識の高い、趣味の洗練された貴婦人として、

(ずいぶんなだかいひとになっていたので、さいぐうがののみやへ)

ずいぶん名高い人になっていたので、斎宮が野の宮へ

(いよいよおはいりになると、そこをふうりゅうなあそびばとして、てんじょうやくにんなどの)

いよいよおはいりになると、そこを風流な遊び場として、殿上役人などの

(ぶんがくずきなせいねんなどは、はるばるさがへまでほうもんにでかけるのを)

文学好きな青年などは、はるばる嵯峨へまで訪問に出かけるのを

(このごろのしごとにしているといううわさがげんじのみみにはいると、)

このごろの仕事にしているという噂が源氏の耳にはいると、

(もっともなことであるとおもった。すぐれたげいじゅつてきなそんざいであることは)

もっともなことであると思った。すぐれた芸術的な存在であることは

(ひていできないひとである。ひかんしてしまっていせへでもいかれたら)

否定できない人である。悲観してしまって伊勢へでも行かれたら

(ずいぶんさびしいことであろうと、さすがにげんじはおもったのである。)

ずいぶん寂しいことであろうと、さすがに源氏は思ったのである。

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