第二次世界大戦38

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(12がつ7かのあさ9じ(にほんじかん7かごご11じ)ににほんたいしかんにしゅっきんした)

12月7日の朝9時(日本時間7日午後11時)に日本大使館に出勤した

(でんしんかいんは、ごぜん10じごろに14ふんわりめのかいどくさぎょうをかいしし、ひるの12じ30ぷん)

電信課員は、午前10時頃に14分割目の解読作業を開始し、昼の12時30分

(ころ(にほんじかん8にちごぜん1じ30ぷん)にぜんぶんしょのかいどくをしゅうりょうした。14ふんわれめも)

頃(日本時間8日午前1時30分)に全文書の解読を終了した。14分割目も

(おくむらによりしゅうせい・せいしょされ、そしてごご2じ20ぷん(にほんじかん8にちごぜん3じ)

奥村により修正・清書され、そして午後2時20分(日本時間8日午前3時

(20ぷん)にとくめいぜんけんたいしのくりすさぶろうとたいしののむらきちさぶろうより、こくむしょうにて)

20分)に特命全権大使の来栖三郎と大使の野村吉三郎より、国務省にて

(こーでる・はるこくむちょうかんにしゅこうされた。)

コーデル・ハル国務長官に手交された。

(しかし、これはそもそもにほんせいふのせっていした「しゅこうしていじかん」から1じかん)

しかし、これはそもそも日本政府の設定した「手交指定時間」から1時間

(20ぷんおくれで、にほんりくぐんのいぎりすりょうまれーはんとうこたばるじょうりくの2じかん50ぷん)

20分遅れで、日本陸軍のイギリス領マレー半島コタバル上陸の2時間50分

(ご、にほんかいぐんのあめりかのはわいのしんじゅわんこうげきの1じかんごだった。)

後、日本海軍のアメリカのハワイの真珠湾攻撃の1時間後だった。

(そのために、にほんせいふはあとにあめりかせいふよりせんせんふこくの)

そのために、日本政府は後にアメリカ政府より宣戦布告の

(ちえんがひなんされることになる。)

遅延が非難されることになる。

(こうしてにほん(がいちふくむじんこう:やく1おくにん)は、ちゅうかみんこくと(じんこう:やく4おくにん))

こうして日本(外地含む人口:約1億人)は、中華民国と(人口:約4億人)

(のたたかいをつづけながら、ついにいぎりす(おーすとらりあや)

の戦いを続けながら、ついにイギリス(オーストラリアや

(にゅーじーらんど、いぎりすりょうまらややいぎりすりょういんどていこくなども)

ニュージーランド、イギリス領マラヤやイギリス領インド帝国なども

(ふくむ。だいえいていこくとそれらのしょくみんちふくむじんこう:やく5おくにん)、あめりか)

含む。大英帝国とそれらの植民地含む人口:約5億人)、アメリカ

((あめりかりょうふぃりぴんなどもふくむ。しょくみんちふくむじんこう:やく1おく5000まんにん)、)

(アメリカ領フィリピンなども含む。植民地含む人口:約1億5000万人)、

(おらんだ(せいしきにはしょくみんちであるおらんだりょうひがしいんど。なおほんごくは)

オランダ(正式には植民地であるオランダ領東インド。なお本国は

(いぎりすへぼうめい。しょくみんちふくむじんこうやく2おくにん)、かなだ(じんこう:やく1500まんにん))

イギリスへ亡命。植民地含む人口約2億人)、カナダ(人口:約1500万人)

(などとのあいだにもかいせんすることとなり、ここで、よーろっぱせんせんや)

などとの間にも開戦することとなり、ここで、ヨーロッパ戦線や

(きたあふりかせんせんから、あじあせんせんやあめりか・たいへいようせんせん、おせあにあ)

北アフリカ戦線から、アジア戦線やアメリカ・太平洋戦線、オセアニア

など

(せんせんへとぜんせかいにせんいきがひろがり、まさにせかいたいせんとなる。)

戦線へと全世界に戦域が広がり、まさに世界大戦となる。

(だいえいていこくしょくみんちへのこうげき1941ねん)

大英帝国植民地への攻撃1941年

(12がつ8にちごぜん1じ35ふん(にほんひょうじゅんじ)/12がつ8にちごぜん0じ35ふん)

12月8日午前1時35分(日本標準時)/12月8日午前0時35分

((まれーひょうじゅんじ)におこなわれたにほんりくぐんといぎりすりくぐんとのたたかい)

(マレー標準時)に行われた日本陸軍とイギリス陸軍との戦い

((まれーさくせん)により、たいへいようにおけるせんとうがかいしされ、あじあたいへいよう)

(マレー作戦)により、太平洋における戦闘が開始され、アジア太平洋

(せんせんがだいにじせかいたいせんへはってんした。なおぜんじゅつのとおり、いぎりすと)

戦線が第二次世界大戦へ発展した。なお前述の通り、イギリスと

(おらんだにたいしてはせんせんふこくはおこなわれなかった。)

オランダに対しては宣戦布告は行われなかった。

(12がつ7にちやはん、にほんりくぐんのまきぶたいしゅたいおよびごえいたいほんたいはこたばるおき)

12月7日夜半、日本陸軍の馬来部隊主隊および護衛隊本隊はコタバル沖

(80~100かいりふきんにたっし、いぎりすかいぐんかんたいのはんげきにそなえながら)

80~100海里付近に達し、イギリス海軍艦隊の反撃に備えながら

(じょうりくさくせんしえんのたいせいをととのえた。とうしょよきされたいぎりすりょうまれーの)

上陸作戦支援の態勢を整えた。当初予期されたイギリス領マレーの

(じょうりくちてんでのいぎりすこうくうぶたいのはんげきはなく、いぎりすかいぐんかんたいも)

上陸地点でのイギリス航空部隊の反撃はなく、イギリス海軍艦隊も

(みとめないじょうきょうをかんがみ、8にちごぜん0じ35ふんにおざわじさぶろうちゅうじょうはよていどおりの)

認めない状況を鑑み、8日午前0時35分に小沢治三郎中将は予定通りの

(じょうりくをけついした。「よていどおりこうあんによりじょうりくけっこう、こたばるもどうじ)

上陸を決意した。「予定どおり甲案により上陸決行、コタバルも同時

(じょうりく」のいとをやましたともゆきちゅうじょうにつたえてどういをえてぶんすすみちてんにとうちゃくすると、)

上陸」の意図を山下奉文中将に伝えて同意を得て分進地点に到着すると、

(かくぶたいはよていじょうりくちてん(こたばるほうめん、しんごら・ぱたにほうめん、)

各部隊は予定上陸地点(コタバル方面、シンゴラ・パタニ方面、

(なこんほうめん、ばんどん・ちゅんぽんほうめん、ぷらちゃっぷほうめん))

ナコン方面、バンドン・チュンポン方面、プラチャップ方面)

(にむかってかいれつぶんすすみした。)

に向かって解列分進した。

(たくみひろししょうしょうひきいるだい18しだんたくみしたいが、あわじやままる、あやどやままる、さくらまるの)

佗美浩少将率いる第18師団佗美支隊が、淡路山丸、綾戸山丸、佐倉丸の

(3せきとごえいかんたい(けいめぐりせんだいきかんのだい3すいらいせんたい)にぶんじょうし、8にち)

3隻と護衛艦隊(軽巡川内旗艦の第3水雷戦隊)に分乗し、8日

(ごぜん1じ35ふんにたいこっきょうにちかいいぎりすりょうまらやほくたんのこたばるへ)

午前1時35分にタイ国境に近いイギリス領マラヤ北端のコタバルへ

(じょうりくさくせんをかいしした。しかし、まれーじょうりくさくせんでもっともこんなんなにんむを)

上陸作戦を開始した。しかし、マレー上陸作戦で最も困難な任務を

(おったこたばるじょうりくぶたいのたくみしたいは、にほんぐんのじょうりくにそなえていた)

負ったコタバル上陸部隊の佗美支隊は、日本軍の上陸に備えていた

(いぎりすりくぐんのみずぎわじんちにくせんした。にちぼつまでにこたばるひこうじょうを)

イギリス陸軍の水際陣地に苦戦した。日没までにコタバル飛行場を

(せんりょうするもくひょうはたっせられなかったが、800めいいじょうのししょうしゃをだす)

占領する目標は達せられなかったが、800名以上の死傷者を出す

(げきせんののち、8かやはんせんりょうにせいこう。9かごぜんにはこたばるしがいにとつにゅうし、)

激戦ののち、8日夜半占領に成功。9日午前にはコタバル市街に突入し、

(ぼうせんいっぽうのいぎりすりくぐんをきゅうついしてなんしんをつづけた。また、りくぐんの)

防戦一方のイギリス陸軍を急追して南進を続けた。また、陸軍の

(だいさんひこうしゅうだんは8か、9か、たなめら、くわらべすとひこうじょうをこうげきし、)

第三飛行集団は8日、9日、タナメラ、クワラベスト飛行場を攻撃し、

(りょうきちのせんりょうにせいこうした。さらに、おおくのいぎりすぐんのこうくうきのろかくに)

両基地の占領に成功した。さらに、多くのイギリス軍の航空機の鹵獲に

(せいこう、こたばるしゅうへんのいぎりすこうくうぶたいをいっそうし、まれーはんとうを)

成功、コタバル周辺のイギリス航空部隊を一掃し、マレー半島を

(しんがぽーるにむけてなんかした。)

シンガポールに向けて南下した。

(いぎりすりくぐんはかねてからこくさいじょうせい、とくににほんとのかんけいあっかをうけて、)

イギリス陸軍はかねてから国際情勢、特に日本との関係悪化を受けて、

(とうなんあじあにおけるいちだいきょてんであるまれーはんとうおよびしんがぽーるほうめんの)

東南アジアにおける一大拠点であるマレー半島およびシンガポール方面の

(へいりょくぞうきょうをすすめており、かいせんじのへいりょくはいぎりすへい19,600にん、いぎりす)

兵力増強を進めており、開戦時の兵力はイギリス兵19,600人、イギリス

(りょういんどていこくへい37,000にん、おーすとらりあぐん15,200にん、そのた)

領インド帝国兵37,000人、オーストラリア軍15,200人、その他

(16,800にんのごうけい88,600にんにたっしていた。へいりょくすうはにほんりくぐんのかいせんじ)

16,800人の合計88,600人に達していた。兵力数は日本陸軍の開戦時

(へいりょくの2ばいであったが、いぎりすぐんやおーすとらりあぐんはくんれんみりょうの)

兵力の2倍であったが、イギリス軍やオーストラリア軍は訓練未了の

(ぶたいもおおくせんりょくてきにはおとっていた。さらにぐんのちゅうかくとなるべき)

部隊も多く戦力的には劣っていた。さらに軍の中核となるべき

(いぎりすりくぐんだい18しだんは、いまだいぎりすよりちちゅうかいをさけてきぼうほうと)

イギリス陸軍第18師団は、いまだイギリスより地中海を避けて喜望峰と

(いんどようをとおりどいつかいぐんのせんすいかんこうげきをさけじかんをかけて、まれーはんとう)

インド洋を通りドイツ海軍の潜水艦攻撃を避け時間をかけて、マレー半島

(にゆそうとじょうであった。)

に輸送途上であった。

(いぎりすくうぐんまれーはんとうしれいぶは、かいせんまえにほんごくへいくどもぞうきょうのようせいを)

イギリス空軍マレー半島司令部は、開戦前に本国へ幾度も増強の要請を

(したが、ほんごくではどいつくうぐんのいぎりすほんどもうこうにたいするぼうえい)

したが、本国ではドイツ空軍のイギリス本土猛攻に対する防衛

((ばとる・おぶ・ぶりてん)にていっぱいであり、とおいまれーはんとうのくうぐんぞうきょう)

(バトル・オブ・ブリテン)に手一杯であり、遠いマレー半島の空軍増強

(のようせいにたいおうできなかったうえ、じょうきのりくぐんとおなじくどいつかいぐんのせんすいかん)

の要請に対応できなかった上、上記の陸軍と同じくドイツ海軍の潜水艦

(こうげきをさけてうんぱんしたため、じかんがおおはばにかかった。そのけっか、かいせんとうじ)

攻撃を避けて運搬したため、時間が大幅にかかった。その結果、開戦当時

(のまれーはんとうのいぎりすくうぐんのちゅうしんは、ぶるーすたー・f2aばっふぁろー)

のマレー半島のイギリス空軍の中心は、ブルースター・F2Aバッファロー

(やぶりすとるぶれにむなどの、とうじとしてもにせんきゅうきと)

やブリストル ブレニムなどの、当時としても二線級機と

(ならざるをえなかった。)

ならざるを得なかった。

(さらにいぎりすくうぐんはにほんぐんのぎじゅつにたいするけんきゅうがふじゅうぶんであり、)

さらにイギリス空軍は日本軍の技術に対する研究が不十分であり、

(「ろーるす・ろいすとだっとさんのせんそうだ」と、じんしゅてきなへんけんにより)

「ロールス・ロイスとダットサンの戦争だ」と、人種的な偏見により

(にほんぐんのこうくうぶたいをみくびっていた。そのけっか、にほんぐんのぜろしきかんじょう)

日本軍の航空部隊を見くびっていた。その結果、日本軍の零式艦上

(せんとうきやいしきりくじょうこうげきき、きゅうろくしきりくじょうこうげききなどのしんえいきに、)

戦闘機や一式陸上攻撃機、九六式陸上攻撃機などの新鋭機に、

(よくくんれんされたひこうしによるこうげきにそうくずれとなった。)

よく訓練された飛行士による攻撃に総崩れとなった。

(またどうじつににほんりくぐんは、いぎりすりょうのしんがぽーるとならぶきょくとうしょくみんちの)

また同日に日本陸軍は、イギリス領のシンガポールと並ぶ極東植民地の

(ようであるほんこんへのこうげきをかいししたほか、ちゅうかみんこくのしゃんはいのいぎりすや)

要である香港への攻撃を開始したほか、中華民国の上海のイギリスや

(あめりかそかいをまたたくまにせんりょうした。にほんにせんりょうされたものの、のこった)

アメリカ租界を瞬く間に占領した。日本に占領されたものの、残った

(いぎりすやあめりか、おらんだやおーすとりあ、でんまーくやふらんす)

イギリスやアメリカ、オランダやオーストリア、デンマークやフランス

(などれんごうこくのしょくいんとひょうぎいんは、そのしょくからかいにんされたにもかかわらず、)

など連合国の職員と評議員は、その職から解任されたにもかかわらず、

(1943ねんににほんりくぐんによくりゅうされるまでしょくのかんりそんぞくにうごいていた。)

1943年に日本陸軍に抑留されるまで職の管理存続に動いていた。

(しんじゅわんこうげき)

真珠湾攻撃

(にほんぐんのいぎりすりょうまれーはんとうじょうりくかいしのやく1じかんはんご(12がつ8にち)

日本軍のイギリス領マレー半島上陸開始の約1時間半後(12月8日

(ごぜん3じすぎ(にほんひょうじゅんじ)/12がつ7にちごぜん8じすぎ(たいへいようはわい)

午前3時過ぎ(日本標準時)/12月7日午前8時過ぎ(太平洋ハワイ

(ひょうじゅんじ)、にほんかいぐん6せきのこうくうぼかんとそのとうさいき、こがたせんすいていなどに)

標準時)、日本海軍6隻の航空母艦とその搭載機、小型潜水艇などに

(より、はわいのおあふとう(とうじのあめりかじちりょうで、あめりかが1898ねん)

より、ハワイのオアフ島(当時のアメリカ自治領で、アメリカが1898年

(にぶりょくでとうごう)にあった、しんじゅわんのあめりかかいぐんたいへいようかんたいに、こうげき)

に武力で統合)にあった、真珠湾のアメリカ海軍太平洋艦隊に、攻撃

((しんじゅわんこうげき)がおこなわれた[345]。にほんかいぐんはやまもといそろくたいしょうしきのした、)

(真珠湾攻撃)が行われた[345]。日本海軍は山本五十六大将指揮の下、

(とうじせかいさいだいのくうぼきどうぶたいをほゆうしていた。)

当時世界最大の空母機動部隊を保有していた。

(ぜんじつ12がつ6にち(はわいじかん)のよるには「にほんぐんの2こせんだんをかんぼじあおき)

前日12月6日(ハワイ時間)の夜には「日本軍の2個船団をカンボジア沖

(ではっけんした」といういぎりすぐんからもたらされたじょうほうが、あめりかかいぐん)

で発見した」というイギリス軍からもたらされた情報が、アメリカ海軍

(のはずばんど・きんめるたいしょうとうぉるたー・しょーとちゅうじょうにもとどいた。)

のハズバンド・キンメル大将とウォルター・ショート中将にも届いた。

(きんめるはたいへいようかんたいばくりょうとしんじゅわんにあるかんせんをどうするかについて)

キンメルは太平洋艦隊幕僚と真珠湾にある艦船をどうするかについて

(きょうぎしたが、「くうぼをすべてしゅっこうさせてしまったため、かんたいをくうぼの)

協議したが、「空母を全て出港させてしまったため、艦隊を空母の

(えんごなしでがいようにだすのはきけん」といういけんでいっちしたのと、)

援護なしで外洋に出すのは危険」という意見で一致したのと、

(「しゅうまつにおおくのかんせんをしゅっこうさせるとはわいしみんにふあんをいだかせる」と)

「週末に多くの艦船を出港させるとハワイ市民に不安を抱かせる」と

(はんだんし、しんじゅわんにいるかんたいをそのままざいみなとさせることとした。またどうじつ、)

判断し、真珠湾にいる艦隊をそのまま在港させることとした。また同日、

(ぱーぷるあんごうにより、とうきょうからわしんとんのにほんたいしかんに)

パープル暗号により、東京からワシントンの日本大使館に

(「ていこくせいふのたいべいつうちょうおぼえがき」がそうしんされた。ぱーぷるあんごうはすでに)

『帝国政府ノ対米通牒覚書』が送信された。パープル暗号はすでに

(あめりかがわにかいどくされており、そのでんしんをぼうじゅしたあめりかりくぐんちょうほうぶ)

アメリカ側に解読されており、その電信を傍受したアメリカ陸軍諜報部

(は、そのひのゆうがたにべいだいとうりょうるーずべるとにほんやくぶんをていしゅつしたが、)

は、その日の夕方に米大統領ルーズベルトに翻訳文を提出したが、

(それをよみおわるとるーずべるとは「これはせんそうをいみしている」)

それを読み終わるとルーズベルトは「これは戦争を意味している」

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