第二次世界大戦39
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問題文
(とさけんだ。しかしひきつづきあめりかがわはぐんにたいして)
と叫んだ。しかし引き続きアメリカ側は軍に対して
(なにのぼうぎょもとらなかった。)
何の防御も取らなかった。
(7かのごぜん7じ10ぷんににほんぐんのこがたせんすいていがおあふとうにちかづいたことで、)
7日の午前7時10分に日本軍の小型潜水艇がオアフ島に近づいたことで、
(たまたまあめりかかいぐんのくちくかん「わーど」からこうげきをうけたが)
たまたまアメリカ海軍の駆逐艦「ワード」から攻撃を受けたが
((わーどごうじけん)、はわいしゅうへんかいいきではにほんのぎょせんなどへのごしゃが)
(ワード号事件)、ハワイ周辺海域では日本の漁船などへの誤射が
(しばしばあったことからそのじゅうようせいはにんしきされなかった。また、)
しばしばあったことからその重要性は認識されなかった。また、
(そのちょくごにはあめりかぐんのしょうかいきがわんこう1まいるおきでせんすいかんをはっけんし)
その直後にはアメリカ軍の哨戒機が湾口1マイル沖で潜水艦を発見し
(ばくらいこうげきをいったとのほうこくもなされたが、そのほうこくをきいたかいぐんさんぼうらは)
爆雷攻撃を行ったとの報告もなされたが、その報告を聞いた海軍参謀らは
(くちくかん「わーど」からのほうこくもふくめてながながとぎろんするばかりでけつろんを)
駆逐艦「ワード」からの報告も含めて長々と議論するばかりで結論を
(だすことができず、りくぐんにれんらくすることすらしなかったため、りくぐんは)
出すことができず、陸軍に連絡することすらしなかったため、陸軍は
(けいかいたいせいのきょうかをはかることができなかった。さらに、これがだいきぼな)
警戒態勢の強化を図ることができなかった。さらに、これが大規模な
(にほんかいぐんのこうげきかいしとはきづかなかったしんじゅわんのあめりかかいぐんのしょうへいの)
日本海軍の攻撃開始とは気づかなかった真珠湾のアメリカ海軍の将兵の
(ほとんどが、にちべいかんのきんちょうしたじょうきょうをしらされず、)
ほとんどが、日米間の緊張した状況を知らされず、
(ほとんどがえんしゅうだとしんじこんでいた。)
ほとんどが演習だと信じ込んでいた。
(にほんかいぐんのさいしょのぎょらいは、8かごぜん3じすぎ(にほんひょうじゅんじ)/)
日本海軍の最初の魚雷は、8日午前3時過ぎ(日本標準時)/
(12がつ7かごぜん8じすぎ(はわいひょうじゅんじ)に「うえすとばーじにあ」)
12月7日午前8時過ぎ(ハワイ標準時)に「ウエストバージニア」
(にめいちゅうし、8じすぎ、かがひこうたいのきゅうじゅうななしきかんじょうこうげききがとうかした800kg)
に命中し、8時過ぎ、加賀飛行隊の九七式艦上攻撃機が投下した800kg
(ばくだんがありぞなのよんばんほうとうそくめんにめいちゅうした。いこうはにほんかいぐんきはいっぽうてきな)
爆弾がアリゾナの四番砲塔側面に命中した。以降は日本海軍機は一方的な
(こうげきをてんかいし、9じまえにはだい2じこうげきもかいしし、おあふとうしんじゅわんじょうの)
攻撃を展開し、9時前には第2次攻撃も開始し、オアフ島真珠湾上の
(「ありぞな」や「おくらほま」などせんかん4せきちんぼつ、せんかん)
「アリゾナ」や「オクラホマ」など戦艦4隻沈没、戦艦
(「ぺんしるばにあ」1せきたいは、せんかん1せきちゅうは、けいじゅんようかん2せきたいは、)
「ペンシルバニア」1隻大破、戦艦1隻中破、軽巡洋艦2隻大破、
(くちくかん3せきたいは、ぼーいんぐb-17やかーちすp-40などりくかいぐん)
駆逐艦3隻大破、ボーイングB-17やカーチスP-40など陸海軍
(こうくうき328きはかい、こうくうきちしせつたすうはかいをはじめ2400にんいじょうの)
航空機328機破壊、航空基地施設多数破壊をはじめ2400人以上の
(ししゃをだし、これにたいしにほんぐんはわずか29きのみきかんきと)
死者を出し、これに対し日本軍はわずか29機の未帰還機と
(とくしゅせんすいてい5せきのみきかんのひがいでおえた。)
特殊潜水艇5隻の未帰還の被害で終えた。
(そのけっか、おあふとうにほんきょちをおくあめりかかいぐんたいへいようかんたいの)
その結果、オアフ島に本拠地を置くアメリカ海軍太平洋艦隊の
(せんかんぶたいはせんとうのうりょくをいちじてきにかんぜんにそうしつするなど、あめりかかいぐんかんたいに)
戦艦部隊は戦闘能力を一時的に完全に喪失するなど、アメリカ海軍艦隊に
(だいだげきをあたえて、そくめんからなんぽうさくせんをえんごするというさくせんもくてきを)
大打撃を与えて、側面から南方作戦を援護するという作戦目的を
(たっせいした。なおはげしいせんとうのさいちゅうに、ほのるるこうにていはくしていた)
達成した。なお激しい戦闘の最中に、ホノルル港に停泊していた
(おらんだかいぐんの「やーへるすふぉんていん」がにほんぐんきにむけて)
オランダ海軍の「ヤーヘルスフォンテイン」が日本軍機に向けて
(とうさいしているたいくうほうのしゃげきをいった。なおこのじてんでは)
搭載している対空砲の射撃を行った。なおこの時点では
(おらんだやそのしょくみんちせいふは、にほんにたいしてせんせんふこくはしていなかった)
オランダやその植民地政府は、日本に対して宣戦布告はしていなかった
((おらんだがにほんにせんせんふこくしたのは12がつ10か)。)
(オランダが日本に宣戦布告したのは12月10日)。
(あめりかかいぐんたいへいようかんたいをほぼかいめつさせたものの、とどめをさす)
アメリカ海軍太平洋艦隊をほぼ壊滅させたものの、とどめを刺す
(だい3じこうげきたいをおくらず、おあふとうのねんりょうたんくやこうわんせつびをてっていてきに)
第3次攻撃隊を送らず、オアフ島の燃料タンクや港湾設備を徹底的に
(はかいしなかったこと、こうげきとうじあめりかかいぐんくうぼがしゅっこうちゅうで、くうぼと)
破壊しなかったこと、攻撃当時アメリカ海軍空母が出港中で、空母と
(かんさいきをどうじにはかいできなかったことが、あとのせんきょうにえいきょうをおよぼすこと)
艦載機を同時に破壊できなかったことが、後の戦況に影響を及ぼすこと
(になる。なお、とうじにほんぐんはたんきかんでしょうりをかさね、ゆうりなじょうきょうかで)
になる。なお、当時日本軍は短期間で勝利を重ね、有利な状況下で
(あめりかぐんをはじめれんごうぐんとていせんにもちこむことをかくさく。そのため、)
アメリカ軍をはじめ連合軍と停戦に持ち込むことを画策。そのため、
(ぐんじてきふたんがおおきくしかもせんりゃくてきいみがうすい、というりゆうではわい)
軍事的負担が大きくしかも戦略的意味が薄い、という理由でハワイ
(しょとうへのじょうりくはかんがえていなかった。しかし、だいとうりょうのるーずべると)
諸島への上陸は考えていなかった。しかし、大統領のルーズベルト
(いかとうじのあめりかせいふしゅのうは、にほんぐんのはわいしょとうじょうりくをきぐし、)
以下当時のアメリカ政府首脳は、日本軍のハワイ諸島上陸を危惧し、
(はわいちゅうりゅうぐんのほんどへのてったいとはわいしょとうのあめりかりけんのはいきを)
ハワイ駐留軍の本土への撤退とハワイ諸島のアメリカ利権の廃棄を
(そうていし、はやくもにほんぐんのじょうりくをみとおして、「はわい」のしるしのはいった、)
想定し、早くも日本軍の上陸を見通して、「HAWAII」の印の入った、
(はわいのみでりゅうつうするとくべつなどるしへいがつかわれることとなった。)
ハワイのみで流通する特別なドル紙幣が使われることとなった。
(さらに、7かひるにはさんふらんしすこなどあめりかにしかいがんにひじょうじたい)
さらに、7日昼にはサンフランシスコなどアメリカ西海岸に非常事態
(せんげんがだされたうえ、さらにるーずべるとはにほんかいぐんくうぼぶたいによる)
宣言が出された上、さらにルーズベルトは日本海軍空母部隊による
(あめりかほんどにしかいがんへのくうしゅうのあとに、あめりかほんどにしかいがんからちゅうせいぶへの)
アメリカ本土西海岸への空襲の後に、アメリカ本土西海岸から中西部への
(しんこうのかのうせいがたかい、とぶんせきしていた。)
侵攻の可能性が高い、と分析していた。
(また、にほんせいふがにちべいこうしょうのいっぽうでせんそうじゅんびをすすめていたこと、)
また、日本政府が日米交渉の一方で戦争準備を進めていたこと、
(さらににっぽんこくたいしかんいんによるせんせんふこくのちえんがあったことは、そのご)
さらに日本国大使館員による宣戦布告の遅延があったことは、その後
(あめりかせいふによる「ひれつなだましうち」というぷろぱがんだとして、)
アメリカ政府による「卑劣なだまし討ち」というプロパガンダとして、
(ながねんこうせいにわたってしようされることとなった。ただし、さきににほんが)
長年後世に渡って使用されることとなった。ただし、先に日本が
(かいせんしたいぎりすにたいしてはせんせんふこくがおこなわれなかったうえ、)
開戦したイギリスに対しては宣戦布告が行われなかった上、
(1939ねん9がつのどいつとそれんのぽーらんどしんこうのさいもかんぜんにせんせんふこくが)
1939年9月のドイツとソ連のポーランド侵攻の際も完全に宣戦布告が
(おこなわれなかったなど、とうじはせんせんふこくがおこなわれないのがいっぱんてきなながれで)
行われなかったなど、当時は宣戦布告が行われないのが一般的な流れで
(あり、このようにけんでんされることはなかった。)
あり、このように喧伝されることはなかった。
(さらにあめりかは、れんどりーすほうでいぎりすやおーすとらりあ、)
さらにアメリカは、レンドリース法でイギリスやオーストラリア、
(ちゅうかみんこくにぶきをあたえていることにくわえ、べいひせんそうやしべりあしゅっぺい、)
中華民国に武器を与えていることに加え、米比戦争やシベリア出兵、
(だいにじせかいたいせんいごもあめりかはべとなむせんそうやいらくせんそうなどで)
第二次世界大戦以後もアメリカはベトナム戦争やイラク戦争などで
(せんせんふこくなくせんそうをいっている。)
宣戦布告なく戦争を行っている。
(あめりかはしんじゅわんこうげきをりゆうにたいにちせんせんふこくをおこない、れんごうぐんのいちいん)
アメリカは真珠湾攻撃を理由に対日宣戦布告を行い、連合軍の一員
(としてせいしきにだいにじせかいたいせんにさんせんした。また、すでににほんとにっちゅうせんそう)
として正式に第二次世界大戦に参戦した。また、すでに日本と日中戦争
((しなじへん)でせんそうじょうたいのちゅうかみんこくは12がつ9にち、にちどくいにたいしせいしきに)
(支那事変)で戦争状態の中華民国は12月9日、日独伊に対し正式に
(せんせんふこく(しょうさいは「にっちゅうせんそう」のこうをさんしょう)。なお、まんしゅうこくや)
宣戦布告(詳細は「日中戦争」の項を参照)。なお、満洲国や
(ちゅうかみんこくなんきんこくみんせいふも、にほんとほちょうをあわせてれんごうこくにたいしせんせんふこく)
中華民国南京国民政府も、日本と歩調を合わせて連合国に対し宣戦布告
(した。しかしあめりかはまたたくまにぐあむやふぃりぴん、さらにあめりか)
した。しかしアメリカは瞬く間にグアムやフィリピン、さらにアメリカ
(こゆうのりょうどのあっつとうをにほんぐんのてによりうしない、そのうえにほんどにしかいがんも)
固有の領土のアッツ島を日本軍の手により失い、その上に本土西海岸も
(かずとのばくげきやほうげきをうけるなどはいそうをつづけることになる。さらにそのあと)
数度の爆撃や砲撃を受けるなど敗走を続けることになる。さらにその後
(にほんかいぐんは、しんじゅわんこうげきのあめりかがわのぐんかんのそんしょうとしゅうりのじょうきょうを、)
日本海軍は、真珠湾攻撃のアメリカ側の軍艦の損傷と修理の状況を、
(すぱいであるべるばれー・でぃっきんそんをつうじてちゅうりつこくの)
スパイであるベルバレー・ディッキンソンを通じて中立国の
(あるぜんちんにいるかいぐんじょうほうぶにおくらせた。)
アルゼンチンにいる海軍情報部に送らせた。
(まれーおきかいせん)
マレー沖海戦
(12がつ8にちやはんにいぎりすくうぐんしれいぶがこたばるひこうじょうからてったいしたこと)
12月8日夜半にイギリス空軍司令部がコタバル飛行場から撤退したこと
(もあり、いぎりすかいぐんはしょうかいとかんたいじょうくうけいかいをやくそくできなかった。)
もあり、イギリス海軍は哨戒と艦隊上空警戒を約束できなかった。
(にもかかわらず、いぎりすかいぐんとうようかんたいのとーます・ふぃりっぷすちゅうじょう)
にもかかわらず、イギリス海軍東洋艦隊のトーマス・フィリップス中将
(は、しんがぽーるのくうぐんしれいぶにせんとうきのかんたいしえんにたいするようぼうをしょかんに)
は、シンガポールの空軍司令部に戦闘機の艦隊支援に対する要望を書簡に
(してそうふし、しんがぽーるにいるとうじせかいさいきょうのかいぐんをじにんしていた)
して送付し、シンガポールにいる当時世界最強の海軍を自認していた
(いぎりすかいぐんとうようかんたいの、せんかん2せき(ぷりんす・おぶ・うぇーるずと)
イギリス海軍東洋艦隊の、戦艦2隻(プリンス・オブ・ウェールズと
(じゅんようせんかんれぱるす)、くちくかん4せき(えれくとら、えくすぷれす、)
巡洋戦艦洋戦艦レパルス)、駆逐艦4隻(エレクトラ、エクスプレス、
(てねどす、おーすとらりあせきのヴぁんぱいあ)をひきいてしゅつげきした。)
テネドス、オーストラリア籍のヴァンパイア)を率いて出撃した。
(9にちちゅうににほんぐんにはっけんされないばあいは、10にちそうちょうににほんぐんのせんだんをこうげき)
9日中に日本軍に発見されない場合は、10日早朝に日本軍の船団を攻撃
(することをけっしんしてほくじょうをつづけた。)
することを決心して北上を続けた。
(しかし12がつ10にちににほんかいぐんによりはっけんされ、まれーおきでにほんかいぐんそうはつ)
しかし12月10日に日本海軍により発見され、マレー沖で日本海軍双発
(ばくげききたい(きゅうろくしきりくじょうこうげききといしきりくじょうこうげきき)のこうげきがかいしされ、)
爆撃機隊(九六式陸上攻撃機と一式陸上攻撃機)の攻撃が開始され、
(とうじさいしんえいのせんかんぷりんす・おぶ・うぇーるずとじゅんようせんかんれぱるすを)
当時最新鋭の戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを
(いっきょにげきちんした(まれーおきかいせん)。このこうげきでぷりんす・おぶ・)
一挙に撃沈した(マレー沖海戦)。この攻撃でプリンス・オブ・
(うぇーるずはぎょらい7ほん、ばくだん2はつ。れぱるすはぎょらい13ぼん、ばくだん1はつを)
ウェールズは魚雷7本、爆弾2発。レパルスは魚雷13本、爆弾1発を
(くらった。にほんりくぐんがわはわずか3きをうしない、それにたいしていぎりすかいぐんがわ)
食らった。日本陸軍側はわずか3機を失い、それに対してイギリス海軍側
(は2せきあわせてしょうへい840めいがしぼうした。これはしじょうはつのこうくうきのこうげきのみに)
は2隻併せて将兵840名が死亡した。これは史上初の航空機の攻撃のみに
(よるこうどうちゅうのせんかんのげきちんであり、このせいこうはそのごの)
よる行動中の戦艦の撃沈であり、この成功はその後の
(せかいかっこくのせんじゅつにおおきなえいきょうをあたえた。)
世界各国の戦術に大きな影響を与えた。