夏目漱石 明暗(4)

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問題文

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(さいくんはいろのしろいおんなであった。)

細君は色の白い女であった。

(そのせいでかたちのいいかのじょのまゆがひときわひきたってみえた。)

そのせいで形の好い彼女の眉が一際引立って見えた。

(かのじょはまたくせのようによくそのまゆをうごかした。おしいことにかのじょのめはほそすぎた。)

彼女はまた癖のようによくその眉を動かした。惜しい事に彼女の眼は細過ぎた。

(おまけにあいきょうのないひとえまぶたであった。)

おまけに愛嬌のない一重瞼であった。

(けれどもそのひとえまぶたのなかにかがやくひとみはしっこくであった。)

けれどもその一重瞼の中に輝やく瞳子は漆黒であった。

(だからひじょうによくはたらいた。)

だから非常によく働らいた。

(あるときはせんおうといってもいいくらいにひょうじょうをほしいままにした。)

或時は専横と云ってもいいくらいに表情を恣ままにした。

(つだはわれしらずこのちいさいめからでるひかりにひきつけられることがあった。)

津田は我知らずこの小さい眼から出る光に牽きつけられる事があった。

(そうしてまたとつぜんなんのげんいんもなしに)

そうしてまた突然何の原因もなしに

(そのひかりからはねかえされることもないではなかった。)

その光から跳ね返される事もないではなかった。

(かれがふとめをあげてさいくんをみたとき、)

彼がふと眼を上げて細君を見た時、

(かれはせつなてきにかのじょのめにやどるいっしゅのあやしいちからをかんじた。)

彼は刹那的に彼女の眼に宿る一種の怪しい力を感じた。

(それはいままでかのじょのくちにしつつあったあまいことばとは)

それは今まで彼女の口にしつつあった甘い言葉とは

(まったくつりあわないみょうなかがやきであった。)

全く釣り合わない妙な輝やきであった。

(あいてのことばにたいしてへんじをしようとしたかれのこころのさようが)

相手の言葉に対して返事をしようとした彼の心の作用が

(このめつきのためにちょっとしゃだんされた。)

この眼つきのためにちょっと遮断された。

(するとかのじょはすぐうつくしいはをだしてびしょうした。)

すると彼女はすぐ美くしい歯を出して微笑した。

(どうじにめのひょうじょうがあとかたもなくきえた。)

同時に眼の表情があとかたもなく消えた。

(「うそよ。あたししばいなんかいかなくってもいいのよ。)

「嘘よ。あたし芝居なんか行かなくってもいいのよ。

(いまのはただあまったれたのよ」)

今のはただ甘ったれたのよ」

など

(だまったつだはなおしばらくさいくんからめをはなさなかった。)

黙った津田はなおしばらく細君から眼を放さなかった。

(「なんだってそんなむずかしいかおをして、あたしをごらんになるの。)

「何だってそんなむずかしい顔をして、あたしを御覧になるの。

(しばいはもうやめるから、)

芝居はもうやめるから、

(このつぎのにちようにこばやしさんにいってしゅじゅつをうけていらっしゃい。)

この次の日曜に小林さんに行って手術を受けていらっしゃい。

(それでいいでしょう。おかもとへはにさんにちじゅうにはがきをだすか、)

それで好いでしょう。岡本へは二三日中に端書を出すか、

(でなければわたしがちょっといってことわってきますから」)

でなければ私がちょっと行って断わって来ますから」

(「おまえはいってもいいんだよ。せっかくさそってくれたもんだから」)

「御前は行ってもいいんだよ。せっかく誘ってくれたもんだから」

(「いえわたしもよしにするわ。しばいよりもあなたのけんこうのほうがだいじですもの」)

「いえ私も止しにするわ。芝居よりもあなたの健康の方が大事ですもの」

(つだはじぶんのうけるべきしゅじゅつについて)

津田は自分の受けるべき手術について

(なおくわしいはなしをさいくんにしなければならなかった。)

なお詳しい話を細君にしなければならなかった。

(「しゅじゅつってたって、そうはれもののうみをだすようにかんたんにゃいかないんだよ。)

「手術ってたって、そう腫物の膿を出すように簡単にゃ行かないんだよ。

(さいしょげざいをかけてまずちょうをきれいにそうじしておいて、)

最初下剤をかけてまず腸を綺麗に掃除しておいて、

(それからいよいよせっかいすると、)

それからいよいよ切開すると、

(しゅっけつのきけんがあるかもしれないというので、)

出血の危険があるかも知れないというので、

(きずぐちへがーぜをつめたまま、ごろくにちのあいだはじっとしてねているんだそうだから。)

創口へガーゼを詰めたまま、五六日の間はじっとして寝ているんだそうだから。

(からたといこのつぎのにちようにいくとしたところで、)

からたといこの次の日曜に行くとしたところで、

(どうせにちよういちにちじゃすまないんだ。)

どうせ日曜一日じゃ済まないんだ。

(そのかわりにちようがのびてげつようになろうともかようになろうとも)

その代り日曜が延びて月曜になろうとも火曜になろうとも

(たいしたちがいにゃならないし、)

大した違にゃならないし、

(またにちようをくりあげてあしたにしたところで、)

また日曜を繰り上げて明日にしたところで、

(みょうごにちにしたところで、やっぱりおなじことなんだ。)

明後日にしたところで、やっぱり同じ事なんだ。

(そこへいくとまあらくなびょうきだね」)

そこへ行くとまあ楽な病気だね」

(「あんまりらくでもないわあなた、いっしゅうかんもねたぎりでうごくことができなくっちゃ」)

「あんまり楽でもないわあなた、一週間も寝たぎりで動く事ができなくっちゃ」

(さいくんはまたぴくぴくとまゆをうごかしてみせた。)

細君はまたぴくぴくと眉を動かして見せた。

(つだはそれにまったくむとんちゃくであるといったふうに、)

津田はそれに全く無頓着であると云った風に、

(なにかかんがえながら、ふたりのあいだにおかれたながひばちのふちにみぎのひじをもたせて、)

何か考えながら、二人の間に置かれた長火鉢の縁に右の肘を靠たせて、

(そのなかにかけてあるてつびんのきぬがきをながめた。)

その中に掛けてある鉄瓶の葢を眺めた。

(しゅどうのきぬがきのしたではゆのたぎるおとがたかくした。)

朱銅の葢の下では湯の沸る音が高くした。

(「じゃどうしてもおつとめをいっしゅうかんばかりやすまなくっちゃならないわね」)

「じゃどうしても御勤めを一週間ばかり休まなくっちゃならないわね」

(「だからよしかわさんにあってわけをはなしてみたうえで、)

「だから吉川さんに会って訳を話して見た上で、

(ひどりをきめようかとおもっているところだ。)

日取をきめようかと思っているところだ。

(だまってやすんでもかまわないようなもののそうもいかないから」)

黙って休んでも構わないようなもののそうも行かないから」

(「そりゃあなたおはなしになるほうがいいわ。)

「そりゃあなた御話しになる方がいいわ。

(ふだんからあんなにおせわになっているんですもの」)

平生からあんなに御世話になっているんですもの」

(「よしかわさんにはなしたらあしたからすぐにゅういんしろっていうかもしれない」)

「吉川さんに話したら明日からすぐ入院しろって云うかも知れない」

(にゅういんということばをきいたさいくんはきゅうにほそいめをひろげるようにした。)

入院という言葉を聞いた細君は急に細い眼を広げるようにした。

(「にゅういん?にゅういんなさるんじゃないでしょう」)

「入院? 入院なさるんじゃないでしょう」

(「まあにゅういんさ」)

「まあ入院さ」

(「だってこばやしさんはびょういんじゃないっていつかおっしゃったじゃないの。)

「だって小林さんは病院じゃないっていつかおっしゃったじゃないの。

(みんながいらいのかんじゃばかりだって」)

みんな外来の患者ばかりだって」

(「びょういんというほどのびょういんじゃないが、しんさつじょのにかいがあいてるもんだから、)

「病院というほどの病院じゃないが、診察所の二階が空いてるもんだから、

(そこへはいることもできるようになってるんだ」)

そこへ入いる事もできるようになってるんだ」

(「きれい?」つだはくしょうした。)

「綺麗?」津田は苦笑した。

(「じたくよりはすこしあきれいかもしれない」)

「自宅よりは少しあ綺麗かも知れない」

(こんどはさいくんがくしょうした。)

今度は細君が苦笑した。

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