人間椅子 5

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問題文

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(それは、まあなんという、ふしぎせんばんなじょうけいでございましょう。)

それは、まあ何という、不思議千万な情景でございましょう。

(わたしはもう、あまりのおそろしさに、いすのなかのくらやみで、)

私はもう、余りの恐ろしさに、椅子の中の暗闇で、

(かたくかたくみをちぢめて、わきのしたからは、)

堅く堅く身を縮めて、わきの下からは、

(ひやいあせをたらたらながしながら、しこうりょくもなにもうしなってしまって、)

冷い汗をタラタラ流しながら、思考力もなにも失って了って、

(ただもう、ぼんやりしていたことでございます。)

ただもう、ボンヤリしていたことでございます。

(そのおとこをてはじめに、そのひいちにち、わたしのひざのうえには、)

その男を手始めに、その日一日、私の膝の上には、

(いろいろなひとがいりかわりたちかわり、こしをおろしました。)

色々な人が入り替り立替り、腰を下しました。

(そして、だれも、わたしがそこにいることを)

そして、誰も、私がそこにいることを

(かれらがやわいくっしょんだとしんじきっているものが、)

彼等が柔いクッションだと信じ切っているものが、

(じつはわたしというにんげんの、ちのかよったふとももであるということを)

実は私という人間の、血の通った太腿であるということを

(すこしもさとらなかったのでございます。)

少しも悟らなかったのでございます。

(まっくらで、みうごきもできないかわばりのなかのてんち。)

まっ暗で、身動きも出来ない革張りの中の天地。

(それがまあどれほど、あやしくもみりょくあるせかいでございましょう。)

それがまあどれ程、怪しくも魅力ある世界でございましょう。

(そこでは、にんげんというものが、ひごろめでみている、)

そこでは、人間というものが、日頃目で見ている、

(あのにんげんとは、ぜんぜんべつなふしぎないきものとしてかんぜられます。)

あの人間とは、全然別な不思議な生きものとして感ぜられます。

(かれらはこえと、はないきと、きょうおんと、きぬずれのおとと、)

彼等は声と、鼻息と、跫音と、衣ずれの音と、

(そして、いくつかのまるまるとした)

そして、幾つかの丸々とした

(だんりょくにとむにくかいにすぎないのでございます。)

弾力に富む肉塊に過ぎないのでございます。

(わたしは、かれらのひとりひとりを、そのようぼうのかわりに、)

私は、彼等の一人一人を、その容貌の代りに、

(はだざわりによってしきべつすることができます。)

肌触りによって識別することが出来ます。

など

(あるものは、でぶでぶとこえふとって、)

あるものは、デブデブと肥え太って、

(くさったさかなのようなかんしょくをあたえます。)

腐った肴の様な感触を与えます。

(それとはせいはんたいに、あるものは、)

それとは正反対に、あるものは、

(こちこちにやせひからびて、がいこつのようなかんじがいたします。)

コチコチに痩せひからびて、骸骨のような感じが致します。

(そのほか、せぼねのまがりかた、けんこうこつのひらきぐあい、)

その外、背骨の曲り方、肩胛骨の開き工合、

(うでのながさ、ふともものふとさ、あるいはびこつのちょうたんなど、)

腕の長さ、太腿の太さ、或は尾骨の長短など、

(それらのすべてのてんをそうごうしてみますと、)

それらの凡ての点を綜合して見ますと、

(どんなによったせかっこうのひとでも、どこかちがったところがあります。)

どんな似寄った背恰好の人でも、どこか違った所があります。

(にんげんというものは、ようぼうやしもんのほかに、)

人間というものは、容貌や指紋の外に、

(こうしたからだぜんたいのかんしょくによっても、)

こうしたからだ全体の感触によっても、

(かんぜんにしきべつすることができるにそういありません。)

完全に識別することが出来るに相違ありません。

(いせいについても、おなじことがもうされます。)

異性についても、同じことが申されます。

(ふつうのばあいは、しゅとしてようぼうのびしゅうによって、)

普通の場合は、主として容貌の美醜によって、

(それをひはんするのでありましょうが、)

それを批判するのでありましょうが、

(このいすのなかのせかいでは、そんなものは、)

この椅子の中の世界では、そんなものは、

(まるでもんだいがいなのでございます。そこには、)

まるで問題外なのでございます。そこには、

(まるはだかのにくたいと、こわねと、においとがあるばかりでございます。)

まる裸の肉体と、声音と、匂とがあるばかりでございます。

(おくさま、あまりにあからさまなわたしのきじゅつに、)

奥様、余りにあからさまな私の記述に、

(どうかきをわるくしないでくださいまし、)

どうか気を悪くしないで下さいまし、

(わたしはそこで、ひとりのじょせいのにくたいに、)

私はそこで、一人の女性の肉体に、

((それはわたしのいすにこしかけたさいしょのじょせいでありました。))

(それは私の椅子に腰かけた最初の女性でありました。)

(はげしいあいちゃくをおぼえたのでございます。)

烈しい愛着を覚えたのでございます。

(こえによってそうぞうすれば、それは、)

声によって想像すれば、それは、

(まだうらわかいいこくのおとめでございました。)

まだうら若い異国の乙女でございました。

(ちょうどそのとき、へやのなかにはだれもいなかったのですが、)

丁度その時、部屋の中には誰もいなかったのですが、

(かのじょは、なにかうれしいことでもあったようすで、)

彼女は、何か嬉しいことでもあった様子で、

(こごえで、ふしぎなうたをうたいながら、)

小声で、不思議な歌を歌いながら、

(おどるようなあしどりで、そこへはいってまいりました。)

躍る様な足どりで、そこへ這入って参りました。

(そして、わたしのひそんでいるひじかけいすのまえまできたかとおもうと、)

そして、私のひそんでいる肘掛椅子の前まで来たかと思うと、

(いきなり、ほうまんな、それでいて、)

いきなり、豊満な、それでいて、

(ひじょうにしなやかなにくたいを、わたしのうえへなげつけました。)

非常にしなやかな肉体を、私の上へ投げつけました。

(しかも、かのじょはなにがおかしいのか、)

しかも、彼女は何がおかしいのか、

(とつぜんあはあはわらいだし、てあしをばたばたさせて、)

突然アハアハ笑い出し、手足をバタバタさせて、

(あみのなかのさかなのように、ぴちぴちとはねまわるのでございます。)

網の中の魚の様に、ピチピチとはね廻るのでございます。

(それから、ほとんどはんじかんばかりも、かのじょはわたしのひざのうえで、)

それから、殆ど半時間ばかりも、彼女は私の膝の上で、

(ときどきうたをうたいながら、そのうたにちょうしをあわせでもするように、)

時々歌を歌いながら、その歌に調子を合せでもする様に、

(くねくねと、おもいしんたいをうごかしておりました。)

クネクネと、重い身体を動かして居りました。

(これはじつに、わたしにとっては、)

これは実に、私に取っては、

(まるでよきしなかったきょうてんどうちのだいじけんでございました。)

まるで予期しなかった驚天動地の大事件でございました。

(おんなはしんせいなもの、いやむしろこわいものとして、)

女は神聖なもの、いや寧ろ怖いものとして、

(かおをみることさええんりょしていたわたしでございます。)

顔を見ることさえ遠慮していた私でございます。

(それわたしが、いま、みもしらぬいこくのおとめと、)

其私が、今、身も知らぬ異国の乙女と、

(おなじへやに、おなじいすに、それどころではありません、)

同じ部屋に、同じ椅子に、それどころではありません、

(うすいなめしがわひとえをへだててはだのぬくみをかんじるほども、)

薄い鞣皮一重を隔てて肌のぬくみを感じる程も、

(みっせつしているのでございます。それにもかかわらず、)

密接しているのでございます。それにも拘らず、

(かのじょはなにのふあんもなく、ぜんしんのおもみをわたしのうえにゆだねて、)

彼女は何の不安もなく、全身の重みを私の上に委ねて、

(みるひとのないきやすさに、かってきままなしたいをいたしております。)

見る人のない気安さに、勝手気儘な姿体を致して居ります。

(わたしはいすのなかで、かのじょをだきしめるまねをすることもできます。)

私は椅子の中で、彼女を抱きしめる真似をすることも出来ます。

(かわのうしろから、そのゆたかなくびすじにせっぷんすることもできます。)

皮のうしろから、その豊な首筋に接吻することも出来ます。

(そのほか、どんなことをしようと、じゆうじざいなのでございます。)

その外、どんなことをしようと、自由自在なのでございます。

(このおどろくべきはっけんをしてからというものは、)

この驚くべき発見をしてからというものは、

(わたしはさいしょのもくてきであったぬすみなどはだいにとして、)

私は最初の目的であった盗みなどは第二として、

(ただもう、そのふしぎなかんしょくのせかいに、まどい)

ただもう、その不思議な感触の世界に、惑

(できしてしまったのでございます。わたしはかんがえました。)

溺して了ったのでございます。私は考えました。

(これこそ、このいすのなかのせかいこそ、わたしにあたえられた、)

これこそ、この椅子の中の世界こそ、私に与えられた、

(ほんとうのすみかではないかと。)

本当のすみかではないかと。

(わたしのようなみにくい、そしてきのよわいおとこは、)

私の様な醜い、そして気の弱い男は、

(あかるい、こうみょうのせかいでは、いつもひけめをかんじながら、)

明るい、光明の世界では、いつもひけ目を感じながら、

(はずかしい、みじめなせいかつをつづけていくほかに、のうのないしんたいでございます。)

恥かしい、みじめな生活を続けて行く外に、能のない身体でございます。

(それが、いちど、すむせかいをかえて、)

それが、一度、住む世界を換えて、

(こうしていすのなかで、きゅうくつなしんぼうをしていさえすれば、)

こうして椅子の中で、窮屈な辛抱をしていさえすれば、

(あかるいせかいでは、くちをきくことはもちろん、)

明るい世界では、口を利くことは勿論、

(そばへよることさえゆるされなかった、)

側へよることさえ許されなかった、

(うつくしいひとにせっきんして、)

美しい人に接近して、

(そのこえをききはだにふれることもできるのでございます。)

その声を聞き肌に触れることも出来るのでございます。

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