夏目漱石 明暗(5)
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問題文
(ねるまえのいちじかんかにじかんを)
寝る前の一時間か二時間を
(つくえにむかってすごすしゅうかんになっていたつだはやがてたちあがった。)
机に向って過ごす習慣になっていた津田はやがて立ち上った。
(さいくんはいままでとおりのらくなしせいでひばちによりかかったままおっとをみあげた。)
細君は今まで通りの楽な姿勢で火鉢に倚りかかったまま夫を見上げた。
(「またおべんきょう?」)
「また御勉強?」
(さいくんはときどきたちあがるおっとにむかってこういった。かのじょがこういうときには、)
細君は時々立ち上がる夫に向ってこう云った。彼女がこういう時には、
(いつでもそのごちょうのうちにあるものたらなさがあるようにつだのみみにひびいた。)
いつでもその語調のうちに或物足らなさがあるように津田の耳に響いた。
(あるときのかれはすすんでそれにこびようとした。)
ある時の彼は進んでそれに媚びようとした。
(あるときのかれはかえってはんかんてきにそれからのがれたくなった。)
ある時の彼はかえって反感的にそれから逃れたくなった。
(どちらのばあいにも、かれのこころのおくそこには、)
どちらの場合にも、彼の心の奥底には、
(「そうおまえのようなおんなとばかりあそんじゃいられない。)
「そう御前のような女とばかり遊んじゃいられない。
(おれにはおれですることがあるんだから」)
おれにはおれでする事があるんだから」
(というあいてをみくびったじかくがぼんやりはたらいていた。)
という相手を見縊った自覚がぼんやり働らいていた。
(かれがだまってあいだのふすまをあけてつぎのへやへでてゆこうとしたとき、)
彼が黙って間の襖を開けて次の室へ出て行こうとした時、
(さいくんはまたかれのはいごからこえをかけた。)
細君はまた彼の背後から声を掛けた。
(「じゃしばいはもうおやめね。おかもとへはわたしからことわっておきましょうね」)
「じゃ芝居はもうおやめね。岡本へは私から断っておきましょうね」
(つだはちょっとふりむいた。)
津田はちょっとふり向いた。
(「だからおまえはおいでよ、いきたければ。おれはいまのようなわけで、)
「だから御前はおいでよ、行きたければ。おれは今のような訳で、
(どうなるかわからないんだから」)
どうなるか分らないんだから」
(さいくんはしたをむいたぎりおっとをみかえさなかった。へんじもしなかった。)
細君は下を向いたぎり夫を見返さなかった。返事もしなかった。
(つだはそれぎりこうばいのきゅうなはしごだんをぎしぎしふんでにかいへのぼった。)
津田はそれぎり勾配の急な階子段をぎしぎし踏んで二階へ上った。
(かれのつくえのうえにはひかくてきおおきなようしょがいっさつのせてあった。)
彼の机の上には比較的大きな洋書が一冊載せてあった。
(かれはすわるなりそれをひらいて)
彼は坐るなりそれを開いて
(しおりのさしはさんであるぺーじをもくひょうにそこからよみにかかった。)
枝折の挿んである頁を目標にそこから読みにかかった。
(けれどもさんよっかなおざりにしておいたとががたたって、)
けれども三四日等閑にしておいた咎が祟って、
(ぜんごのつづきぐあいがよくわからなかった。)
前後の続き具合がよく解らなかった。
(それをかんがえだそうとするためには)
それを考え出そうとするためには
(いきおいまえのところをもういっぺんよみかえさなければならないので、)
勢い前の所をもう一遍読み返さなければならないので、
(きのさしたかれは、よむことのかわりに、)
気の差した彼は、読む事の代りに、
(ただぺーじをばらばらとひるがえしてしょもつのあつみばかりをくにするようにながめた。)
ただ頁をばらばらと翻して書物の厚味ばかりを苦にするように眺めた。
(するとぜんとりょうえんというきがおのずからおこった。)
すると前途遼遠という気が自から起った。
(かれはけっこんごさんよんかげつめにはじめてこのしょもつをてにしたことをおもいだした。)
彼は結婚後三四カ月目に始めてこの書物を手にした事を思い出した。
(きがついてみるとそれからきょうまでにもうにかげついじょうもたっているのに、)
気がついて見るとそれから今日までにもう二カ月以上も経っているのに、
(かれのよんだぺーじはまだぜんたいのさんぶんのににもたらなかった。)
彼の読んだ頁はまだ全体の三分の二にも足らなかった。
(かれはへいぜいからせけんへでるおおくのひとが、)
彼は平生から世間へ出る多くの人が、
(でるとすぐしょもつにとおざかってしまうのを、)
出るとすぐ書物に遠ざかってしまうのを、
(さもくだらないぐぶつのようにさいくんのまえでののしっていた。)
さも下らない愚物のように細君の前で罵っていた。
(それをおっとのくちぐせとしてきかされたさいくんは)
それを夫の口癖として聴かされた細君は
(またかれをほんとうのべんきょうかとしてみとめなければならないほど)
また彼を本当の勉強家として認めなければならないほど
(ひかくてきおおくのじかんがにかいでついやされた。)
比較的多くの時間が二階で費やされた。
(ぜんとりょうえんというきとともに、めんぼくないというこころもちがどこからかでてきて、)
前途遼遠という気と共に、面目ないという心持がどこからか出て来て、
(いじわるくかれのじそんしんをくすぐった。)
意地悪く彼の自尊心を擽った。
(しかしいまかれがじぶんのまえにひろげているしょもつからきゅうしゅうしようとつとめているちしきは、)
しかし今彼が自分の前に拡げている書物から吸収しようと力めている知識は、
(かれのひびのぎょうむじょうにひつようなものではなかった。)
彼の日々の業務上に必要なものではなかった。
(それにはあまりにせんもんてきで、またあまりにこうしょうすぎた。)
それにはあまりに専門的で、またあまりに高尚過ぎた。
(がっこうのこうぎからえたちしきですら)
学校の講義から得た知識ですら
(めったにじっさいのやくにたったれいのないいまのつとめむきとは)
滅多に実際の役に立った例のない今の勤め向きとは
(ほとんどぼっこうしょうといってもいいくらいのものであった。)
ほとんど没交渉と云ってもいいくらいのものであった。
(かれはただそれをいっしゅのじしんりょくとしてたくわえておきたかった。)
彼はただそれを一種の自信力として貯えておきたかった。
(ほかのちゅういをひくめかしかざりとしてもみにつけておきたかった。)
他の注意を惹く粧飾としても身に着けておきたかった。
(そのこんなんがいまのかれにおぼろげながらみえてきたとき、かれはかれのうぬぼれにきいてみた。)
その困難が今の彼に朧気ながら見えて来た時、彼は彼の己惚に訊いて見た。
(「そううまくはいかないものかな」)
「そう旨くは行かないものかな」
(かれはだまってたばこをふかした。)
彼は黙って煙草を吹かした。
(それからきゅうにきがついたようにしょもつをふせてたちあがった。)
それから急に気がついたように書物を伏せて立ち上った。
(そうしてあしばやにはしごだんをまたぎしぎしならしてしたへおりた。)
そうして足早に階子段をまたぎしぎし鳴らして下へ降りた。