お茶漬けの味 北大路魯山人
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問題文
(おちゃづけのはなしにかぎらないが、りょうりというものは、ざいりょくゆたかなひとのものと、)
お茶漬けの話にかぎらないが、料理というものは、財力豊かな人のものと、
(ざいりょくふじゆうなひとのものとでは、つねにてんとちほどのそういがある。)
財力不自由な人のものとでは、常に天と地ほどの相違がある。
(しかし、ざいりょくゆたかで、さしみよかれ、ぎゅうにくよかれと、)
しかし、財力豊かで、刺身よかれ、牛肉よかれと、
(どんなざいりょうでも、てにいれることにすこしもふじゆうのないひとが、)
どんな材料でも、手に入れることに少しも不自由のない人が、
(ぜいたくりょうりにあきて、かんたんなうまいものでしょくじがしたいというばあいがある。)
贅沢料理に飽きて、簡単な美味いもので食事がしたいという場合がある。
(これはたいないにおいしゃさまのいうえいようがみちみちて、)
これは体内にお医者さまの言う栄養が充ち満ちて、
(せいりじょう、えいようがふひつようになったときだ。)
生理上、栄養が不必要になった時だ。
(かようなとき、ちゃづけでめしがくいたいということになる。)
かような時、茶漬けで飯が食いたいということになる。
(だが、ただのちゃづけというぶんにはさしつかえないが、)
だが、ただの茶漬けという分には差支えないが、
(ぜいたくなものの、とくにものごのみして、)
贅沢なものの、特にもの好みして、
(なにかうまいちゃづけがくいたいいみで、ちゃづけをようきゅうするばあいは、)
なにか美味い茶漬けが食いたい意味で、茶漬けを要求する場合は、
(たんにさけのきりみというわけにもいかないだろう。)
単にさけの切り身というわけにもいかないだろう。
(さけのきりみといっても、いろいろあるので、)
さけの切り身と言っても、いろいろあるので、
(ほんとうのしんまきじゃけがてにはいればちゃづけもはなはだけっこうだ。)
ほんとうの新巻じゃけが手に入れば茶漬けも甚だ結構だ。
(しかし、ちかごろはそうとくしゅのしんまきもてにはいるまい。)
しかし、近頃はそう特殊の新巻も手に入るまい。
(そこらへんのみせさきでてにいれるとなると、)
そこら辺の店先で手に入れるとなると、
(さけはうまいものぐいにはしょうちができず、)
さけは美味いもの食いには承知ができず、
(「ほかになにか・・・」ということになってくる。)
「ほかになにか・・・」ということになってくる。
(たくあんのうまいのはないか、ひもののうまいのはないかと)
沢庵の美味いのはないか、干ものの美味いのはないかと
(せんぎだてすることになる。)
詮議だてすることになる。
(あるいは、たいちゃづけにしようか、)
あるいは、たい茶漬けにしようか、
(というぐあいにかねのかかるほうほうもかんがえられる。)
という具合に金のかかる方法も考えられる。
(そういうてはざいりょくがゆたかでなければじゆうにならない。)
そういう手は財力が豊かでなければ自由にならない。
(ゆえにりょうりはひんぷのさで、さまざまのこたえがでてくるといえよう。)
ゆえに料理は貧富の差で、さまざまの答えが出てくると言えよう。
(むかしからふじんざっしやらじおなどにでてくる)
昔から婦人雑誌やラジオなどに出てくる
(りょうりけんきゅうかとしょうするひとびとのはっぴょうするりょうりは、)
料理研究家と称する人々の発表する料理は、
(ぜいたくりょうりというよりも、たいしゅうてきであることをこんぽんせいしんにしたものだから、)
贅沢料理と言うよりも、大衆的であることを根本精神にしたものだから、
(ぜいたくもののさんこうにはなるまい。)
贅沢者の参考にはなるまい。
(そこで、わたしのかたろうとしているのは、)
そこで、私の語ろうとしているのは、
(ちゃづけにかぎらず、(はんかんをもたれるかもしれないが)ぜいたくりょうりのはなしである。)
茶漬けにかぎらず、(反感を持たれるかも知れないが)贅沢料理の話である。
(つうのつうたるひとのよろこぶはなしだ。)
通の通たる人のよろこぶ話だ。
(げんこんのせいねんしじょは、「かねばかりたかくてそんなもの」というであろう。)
現今の青年子女は、「金ばかり高くてそんなもの」と言うであろう。
(そこでもうひとつ、りょうりはひんぷのさのみではなく、)
そこでもうひとつ、料理は貧富の差のみではなく、
(ねんれいのさでこのみがかわることもかんがえてもらいたい。)
年齢の差で好みが変ることも考えてもらいたい。
(したがって、ひとかぞくぜんぶがかんしんするようなりょうりはなかなかなく、)
従って、一家族全部が感心するような料理はなかなかなく、
(ねんれいをわけてしこうをあわせなくてはまんぞくがいくまいとおもう。)
年齢を分けて嗜好を合わせなくては満足がいくまいと思う。
(いわんや、ざいりょくのとぼしいひとでは、)
いわんや、財力の乏しい人では、
(ねだんのたかいふつうききなれないりょうりにはさんせいできないであろう。)
値段の高いふつう聞きなれない料理には賛成できないであろう。
(うまいりょうりはながねんつづけてのしゅうかんがつかなければ、うまいとわかるものではない。)
美味い料理は長年続けての習慣がつかなければ、美味いと分るものではない。
(それがわかるようになるためには、そうとうのひようもかかる。)
それが分るようになるためには、相当の費用もかかる。
(しかし、だからといって、ひようをかけたから)
しかし、だからと言って、費用をかけたから
(しょくもつのうまさがだれにもわかるとはかぎらない。)
食物の美味さが誰にも分るとはかぎらない。
(しょくつうといわれるひとでも、しゅじゅのだんかいがあるくらいだから、)
食通と言われる人でも、種々の段階があるくらいだから、
(いっぱんではなおさらである。)
一般ではなおさらである。
(けっきょく、これはしょがのばあいとおなじように、わかるひとのみにわかるのであろう。)
結局、これは書画の場合と同じように、分る人のみに分るのであろう。
(さて、おちゃづけのはなしだが、これにしてもそれぞれだんかいがあって、)
さて、お茶漬けの話だが、これにしてもそれぞれ段階があって、
(ただめしのうえにしおとちゃをかけてうまいばあいもあるし、)
ただ飯の上に塩と茶をかけて美味い場合もあるし、
(たいちゃづけがうまいばあいもある。)
たい茶漬けが美味い場合もある。
(からだのじょうたいによって、ときどきのこのみがかわってくる。)
体の状態によって、時々の好みが変ってくる。
(たいちゃづけがきょううまかったからといって、)
たい茶漬けが今日美味かったからと言って、
(あすもあさってもつづけたらどうであろうか。)
明日も明後日もつづけたらどうであろうか。
(ようは、しょうじきにじぶんのからだとそうだんして、なにをようきゅうしているかをしるべきである。)
要は、正直に自分の体と相談して、なにを要求しているかを知るべきである。
(うなぎがいいか、ぎゅうにくがいいか、あるいはたくあんのちゃづけか、)
うなぎがいいか、牛肉がいいか、あるいは沢庵の茶漬けか、
(そのときどきのじょうたいによって、このむところのものをしょくしておれば、)
その時々の状態によって、好むところのものを食しておれば、
(まことにしぜんでびみをかんじる。)
誠に自然で美味を感じる。
(が、これをしぜんにやらないで、「たかいものはうまそうだ」)
が、これを自然にやらないで、「高いものは美味そうだ」
(「やすいものはくいたくない」といってせんたくしているのをみききするが、)
「安いものは食いたくない」と言って選択しているのを見聞きするが、
(こんなかんがえかたは、ちゃづけであってもいっこうをようする。)
こんな考え方は、茶漬けであっても一考を要する。
(ちゃづけをくいたいとようきゅうするにくたいが、)
茶漬けを食いたいと要求する肉体が、
(じぶんのすきなちゃづけをくえたらこんなしあわせはあるまい。)
自分の好きな茶漬けを食えたらこんな幸せはあるまい。
(これがすなわちえいようほんいといえよう。)
これがすなわち栄養本位と言えよう。
(このりろんはちゃづけにかぎらず、どんなばあいにもせいりつする。)
この理論は茶漬けにかぎらず、どんな場合にも成立する。
(なんにしてもしょくもつのことは、)
なんにしても食物のことは、
(じぶんのにくたいやせいしんをつくってくれるこんぽんもんだいであるから、)
自分の肉体や精神をつくってくれる根本問題であるから、
(そのこんぼんぎをかんがえて、うまいものをたべればよいのである。)
その根本義を考えて、美味いものを食べればよいのである。
(よくよくかんがえてみれば、ひとのしょくもつにたいするようきゅうは、)
よくよく考えてみれば、人の食物に対する要求は、
(けっきょくにくたいがそのしょくもつをようきゅうしているのでおこるといえる。)
結局肉体がその食物を要求しているので起こると言える。
(ところで、そのようきゅうだが、ふだんねのたかいしょくもつをくいなれていなければ、)
ところで、その要求だが、ふだん値の高い食物を食いなれていなければ、
(あじをしらないので、たかいものをようきゅうしないが、)
味を知らないので、高いものを要求しないが、
(ねだんのたかいしょくもつでそだちつけたひとは、そのほうがからだにあうところから、)
値段の高い食物で育ちつけた人は、そのほうが体に合うところから、
(うまいこうかなものをようきゅうする。)
美味い高価なものを要求する。
(たとえば、とうきょうではまぐろにたかいかねをだすが、)
たとえば、東京ではまぐろに高い金を出すが、
(くいどうらくでゆうめいなおおさかのひとたちは、まぐろにかねをださない。)
食い道楽で有名な大阪の人たちは、まぐろに金を出さない。
(これは、むかしからおおさかにまぐろのいっきゅうひんがはこばれないので、)
これは、昔から大阪にまぐろの一級品が運ばれないので、
(まぐろのあじをしらないからである。)
まぐろの味を知らないからである。
(またくいものが、うまいものだけくえるか、)
また食いものが、美味いものだけ食えるか、
(まずいものしかくえないとかいうのは、)
不味いものしか食えないとかいうのは、
(そのひとのそだったかんきょうのせいであるから、)
その人の育った環境のせいであるから、
(これをいたずらにまげてはならない。ぶんそうおうでなければならぬ。)
これをいたずらに曲げてはならない。分相応でなければならぬ。
(もしそうでなければ、くいもののはなしはできない。)
もしそうでなければ、食いものの話はできない。
(こうふくはえられないということになってしまう。)
口福は得られないということになってしまう。