嫁取婿取 22
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問題文
(くれゆくよ、じゅけんなまにてこのとしも。)
暮れ行くよ、受験生にてこの年も。
(とざっきちょうのひょうしにじちょうをなぐりかいているとおり、ほんにんもつらかろうが)
と雑記帳の表紙に自嘲をなぐり書いている通り、本人も辛かろうが
(そばもきがきでない。がんらい、じゅけんなまはけんぜんなそんざいでないから)
側も気が気でない。元来、受験生は健全な存在でないから
(ながくなると、まんせいびょうしゃのようなあんえいをかていへなげる。)
長くなると、慢性病者のような暗影を家庭へ投げる。
(ことにやましたけはさんなんがとくべつゆうしゅうでずんずんおいせまってくる。)
殊に山下家は三男が特別優秀でズンズン追い迫ってくる。
(あとのとりがさきになってはこまるから、じろうくんはさっこんりょうしんのきょうちゅうに)
後の鳥が先になっては困るから、二郎君は昨今両親の胸中に
(かなりおおきなきょたくをしめている。)
かなり大きな居託を占めている。
(「じろうや」とおかあさんがよぶときはかならずじゅけんのことだ。「なにですか?」)
「二郎や」とお母さんが呼ぶ時は必ず受験のことだ。「何ですか?」
(「おまえはいっそうのことこうえんじのにいさんのがっこうへいれていただいちゃどう?」)
「お前は一層のこと高円寺の兄さんの学校へ入れて戴いちゃどう?」
(「だめですよ」「なぜ?」「あすこもおとうさんのおきらいなしりつです」)
「駄目ですよ」「何故?」「あすこもお父さんのお嫌いな私立です」
(「しりつでも、あすこならこうとうがっこうですから、ていだいへおこなけますよ」)
「私立でも、あすこなら高等学校ですから、帝大へ行けますよ」
(「ぼくはていだいへはいきません」「わせだ?やっぱり」「はあ」)
「僕は帝大へは行きません」「早稲田?やっぱり」「はあ」
(「おまえはくれちゅう、かんがえておとうさんにもうしあげるはずじゃなかったの?」)
「お前は暮中、考えてお父さんに申し上げる筈じゃなかったの?」
(「はあ」「よくかんがえてみて?」「はあ」「しかたがのないひとね」「はあ」と)
「はあ」「よく考えてみて?」「はあ」「仕方がのない人ね」「はあ」と
(じろうくんはすこしじぼうになっている。)
二郎君は少し自暴になっている。
(そのばん、おかあさんからとくそくがあったとみえて)
その晩、お母さんから督促があったと見えて
(おとうさんはじろうくんをしょさいへよびいれた。)
お父さんは二郎君を書斎へ呼び入れた。
(「じろうや」「はあ」「いよいよとしもあらたまって)
「二郎や」「はあ」「いよいよ年も改まって
(このころはべんきょうしているんだろうな?」「はあ、やっています」)
この頃は勉強しているんだろうな?」「はあ、やっています」
(「こうとうがっこうはどこをうけることにけっしんがついたね?」)
「高等学校は何処を受けることに決心がついたね?」
(「どこもうけないことにけっしんしました」「ふうむ」「・・・」)
「何処も受けないことに決心しました」「ふうむ」「・・・」
(「やっぱりしりつかい?」「はあ」「それもよかろう」と)
「やっぱり私立かい?」「はあ」「それもよかろう」と
(おとうさんはじっさいもんだいじょう、じろうくんのべんきょうぶりではおぼつかないことをしょうちしている。)
お父さんは実際問題上、二郎君の勉強振りでは覚束ないことを承知している。
(しかしかんがくばんのうろんしゃがみすみすじぶんのむすこを)
しかし官学万能論者がみすみす自分の息子を
(しりつへいれるのはいまいましくてしかたがない。)
私立へ入れるのは忌々しくて仕方がない。
(「おまえのようなわがままものをちほうへてばなすのもかんがえものだ」と)
「お前のような我儘ものを地方へ手放すのも考えものだ」と
(ついちゅうかいのなかにぐちがまじった。)
つい註解の中に愚痴が交じった。
(「それじゃわせだへやっていただけますか?」とじろうくんはのりだした。)
「それじゃ早稲田へやって戴けますか?」と二郎君は乗り出した。
(「わせだよりもまるまるはどうだい?」「さあ」)
「早稲田よりも〇〇はどうだい?」「さあ」
(「あすこならにいさんにかんとくしてもらえる」「かくばりなんかだめです」)
「あすこなら兄さんに監督して貰える」「角張りなんか駄目です」
(「うむ?」「・・・」「こうえんじのにいさんだよ」「はあ」)
「うむ?」「・・・」「高円寺の兄さんだよ」「はあ」
(「まるまるならしりつでもこうとうがっこうだからていだいへおこなける。)
「〇〇なら私立でも高等学校だから帝大へ行ける。
(おなじぶんかをやるにしても、ていだいならぶんがくしだからねとおとうさんは)
同じ文化をやるにしても、帝大なら文学士だからねとお父さんは
(かけだしのぶんがくしがちゅうがくこうちょうになったじだいをいまだにあたまにえがいている。)
駆け出しの文学士が中学校長になった時代を未だに頭に描いている。
(「わせだだってぶんがくしです」「ぶんしさ、わせだは。)
「早稲田だって文学士です」「文士さ、早稲田は。
(かんとにつけない。さぶろうにいさんのようにこうりつこうとうがっこうのせんせいになれないよ」)
官途につけない。三郎兄さんのように公立高等学校の先生になれないよ」
(「ぼくはぶんしになりたいんです。かくばりをりそうにしていません」)
「僕は文士になりたいんです。角張りを理想にしていません」
(「かくばりってのはなにのことだい?「さぶろうにいさんのことです」)
「角張りってのは何のことだい?「三郎兄さんのことです」
(「あだなかい?」「はあ」とじろうくんはちょっとあたまをかいてくびをちぢめた。)
「綽名かい?」「はあ」と二郎君は一寸頭を掻いて首を縮めた。
(「おまえはくちがわるくていけない」)
「お前は口が悪くていけない」
(「ぼくがつけたんじゃありません。にいさんやねえさんたちがそういってるんです。)
「僕がつけたんじゃありません。兄さんや姉さん達がそう言ってるんです。
(おかあさんまでときどきおっしゃいます」「ふうむ。かくばりってかい?なるほど」)
お母さんまで時々仰います」「ふうむ。角張りってかい?成程」
(「かくばりむこです」「なるほど。はっは・・・」とおとうさんもおかしくなった。)
「角張り婿です」「成程。ハッハ・・・」とお父さんも可笑しくなった。
(「しかくばったことばかりいうからです」)
「四角張ったことばかり言うからです」
(「しゅんいちあたりがつけたんだろう。わるいやつだ」)
「俊一あたりが付けたんだろう。悪い奴だ」
(「いわしかんてのもあります」とじろうくんはごきげんとみてとって)
「イワシカンてのもあります」と二郎君は御機嫌と見て取って
(もうひとつしょうかいした。「いわしかん?」「はあ」「えいごかい?」)
もう一つ紹介した。「イワシカン?」「はあ」「英語かい?」
(「いいえ、いわしのかんづめです」「どういういみだい?」)
「いいえ、イワシの缶詰です」「どういう意味だい?」
(「ほうせいけんじつのいみだそうです。あれはしかくでかたいですからね。)
「方正堅実の意味だそうです。あれは四角で堅いですからね。
(やっぱりにいさんがつけたんです」「なるほど」とおとうさんはまたじぶんが)
やっぱり兄さんがつけたんです」「成程」とお父さんは又自分が
(ばくぜんといしきしているところをめいかいにいいあらわしてもらったようなきもちがしたが)
漠然と意識しているところを明快に言い表して貰ったような気持ちがしたが
(かんしんしていてはよくないから、「しかしにんげんはしかくでかたいにかぎる。)
感心していては良くないから、「しかし人間は四角で堅いに限る。
(しゅんいちなんかせるろいどせいのもだんぼーいで)
俊一なんかセルロイド製のモダン・ボーイで
(すこしもがっしりしたところがない」とあたらずさわらずけいくをもちいて)
少しもがっしりしたところがない」と当らず触らず警句を用いて
(いましめたつもりだった。)
戒めたつもりだった。
(「さぶろうにいさんだって、あれでなかなかもだんぼーいですよ」)
「三郎兄さんだって、あれでなかなかモダン・ボーイですよ」
(「あれはきんげんそのものさ。こぶしのおもかげがある」)
「あれは謹厳そのものさ。古武士の面影がある」
(「いいえ、さぶろうにいさんはひとまえばかりです。ぼくはしっています」)
「いいえ、三郎兄さんは人前ばかりです。僕は知っています」
(「そんなkとがあるものか」)
「そんなkとがあるものか」
(「ぼくはけっこんまえにあそびにきたときからしっているんです。)
「僕は結婚前に遊びに来た時から知っているんです。
(みなががわにいると、きんげんそのものでてつがくのはなしばかりしていますが)
皆が側にいると、謹厳そのもので哲学の話ばかりしていますが
(ねえさんとふたりきりだとそうでもありません。)
姉さんと二人きりだとそうでもありません。
(ぼくはほかのねえさんたちにたのまれていくどものぞいてやりました」「ばかだね」)
僕は他の姉さん達に頼まれて幾度も覗いてやりました」「馬鹿だね」
(「いまもそうです。このあいだいったときはさむかったので、だんろのにあたりながら)
「今もそうです。この間行った時は寒かったので、暖炉のに当たりながら
(はなしました」「おまえのがっこうのことについてなにかいいはしなかったかね?」)
話しました」「お前の学校のことについて何か言いはしなかったかね?」
(「おっしゃいました。そうさくかになるならやっぱりわせだへいってぶんかをやったほうが)
「仰いました。創作家になるならやっぱり早稲田へ行って文化をやった方が
(いいっておっしゃいました」「ふうむ」)
良いって仰いました」「ふうむ」
(「おとうさんはすこしかんりょうだねって、くびをかしげていました。)
「お父さんは少し官僚だねって、首を傾げていました。
(「だいかんりょうよ。こうりつじゃだめよ。かんりつへてんにんなさらなければしんようがつきませんわ」)
「大官僚よ。公立じゃ駄目よ。官立へ転任なさらなければ信用がつきませんわ」
(ってねえさんがわらったんです」「ふうむ」)
って姉さんが笑ったんです」「ふうむ」
(「そんなはなしをしながらだんろにあたっているなかにぼくのてをそっとつねったものが)
「そんな話をしながら暖炉に当たっている中に僕の手をそっと抓ったものが
(ありましたから、ぼく、ねえさんだとおもって、うんとつねりかえしてやったんです。)
ありましたから、僕、姉さんだと思って、ウンと抓り返してやったんです。
(「いたい。きみだったのかい?おやおや」って、にいさん)
「痛い。君だったのかい?おやおや」って、兄さん
(へんなかおをしていましたよ」「それくらいならじょうだんはするだろうさ」)
変な顔をしていましたよ」「それくらいなら冗談はするだろうさ」
(「ねえさんのてとぼくのてとまちがえたんです。ぼく、やっちょるわいとおもいました」)
「姉さんの手と僕の手と間違えたんです。僕、やっちょるわいと思いました」
(「ばかばかりいうな。そんなことはどうでもいい」「はあ」)
「馬鹿ばかり言うな。そんなことはどうでもいい」「はあ」
(「がっこうはどうする?」「わせだへやっていただきます」)
「学校はどうする?」「早稲田へやって戴きます」
(「こうとうがっこうはどうしてもいやか?」「はあ」)
「高等学校はどうしても厭か?」「はあ」
(「それじゃわせだへいきなさい。しかたがない」「はあ」)
「それじゃ早稲田へ行きなさい。仕方がない」「はあ」