半七捕物帳 津の国屋9

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岡本綺堂 半七捕物帳シリーズ 第16話

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問題文

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(なにげなくあいづちをうっていたが、もじはるはもうしょうめんからおゆきのかおを)

なにげなく相槌を打っていたが、文字春はもう正面からお雪の顔を

(みていられなくなった。かたりやつつもたせどころのはなしではない。かのむすめのしょうたいが)

見ていられなくなった。騙りや美人局どころの話ではない。かの娘の正体が

(もっともっとおそろしいものであることを、おゆきはもちろん、みせのものたちも)

もっともっと恐ろしいものであることを、お雪は勿論、店の者たちも

(しらないのである。そのなかでしゅじんひとりがなんにもいわずにすなおにかごちんを)

知らないのである。そのなかで主人一人がなんにも云わずに素直に駕籠賃を

(はらってやったのは、さすがにむねのおくそこにおもいあたることがあるからであろう。)

払ってやったのは、さすがに胸の奥底に思いあたることがあるからであろう。

(おやすのたましいは、おほりばたでじぶんにわかれてから、さらにかごやにおくられて)

お安の魂は、御堀端で自分に別れてから、さらに駕籠屋におくられて

(つのくにやまでのりこんできたのである。なんにもしらないでそのはなしをしている)

津の国屋まで乗り込んで来たのである。なんにも知らないで其の話をしている

(おゆきのうしろには、きっとなでしこのゆかたのかげがけむのようにつきまつわっているに)

お雪のうしろには、きっと撫子の浴衣の影が煙のように付きまつわっているに

(きまった。それをおもうと、もじはるはおそろしくもあり、またかわいそうでもあった。)

極まった。それを思うと、文字春は恐ろしくもあり、また可哀そうでもあった。

(よくとくずくばかりでなく、かれはでしししょうのにんじょうからかんがえても、ひさしいなじみの)

慾得ずくばかりでなく、かれは弟子師匠の人情から考えても、久しい馴染の

(うつくしいでしがやがてしりょうにとりころされるのかとおもうと、あまりのいたましさに)

美しい弟子がやがて死霊に憑り殺されるのかと思うと、あまりの痛ましさに

(たえなかった。さりとてほかのこととはちがって、うかつにちゅういすることもできない。)

堪えなかった。さりとてほかの事とは違って、迂闊に注意することもできない。

(それがおやたちのみみにはいって、ししょうはとんでもないことをいうと)

それが親達の耳にはいって、師匠はとんでもないことを云うと

(かけあいこまれたときには、おもてむきにはなんともいいわけができない。)

掛け合い込まれた時には、表向きにはなんとも云い訳ができない。

(もうひとつには、そんなことをうっかりおゆきにちゅういして、じぶんがしりょうのうらみを)

もう一つには、そんなことをうっかりお雪に注意して、自分が死霊の恨みを

(うけてはたいへんである。それやこれやをかんがえると、もじはるはこのまま)

うけては大変である。それやこれやを考えると、文字春はこのまま

(くちをとじておゆきをみごろしにするよりほかはなかった。)

口を閉じてお雪を見殺しにするよりほかはなかった。

(かさねがさねいやなはなしばかりきかされるのと、ゆうべろくろくにねむらなかったつかれとで、)

重ねがさね忌な話ばかり聞かされるのと、ゆうべ碌々に眠らなかった疲れとで、

(もじはるはいよいよきぶんがわるくなって、ひるからはけいこをやすんでしまった。)

文字春はいよいよ気分が悪くなって、午からは稽古を休んでしまった。

(そうして、ぶつだんにとうみょうをたやさないようにして、ゆうべみちづれになった)

そうして、仏壇に燈明を絶やさないようにして、ゆうべ道連れになった

など

(おやすのじょうぶつをいのり、あわせておゆきとじぶんとのぶじそくさいをひごろしんじんするおそしさまに)

お安の成仏を祈り、あわせてお雪と自分との無事息災を日頃信心する御祖師様に

(いのりつづけていた。そのばんもかのじょはやはりおちおちねむられなかった。)

祈りつづけていた。その晩も彼女はやはりおちおち眠られなかった。

(あくるひもあさからあつかった。おゆきはあいかわらずけいこにきたので、)

あくる日も朝から暑かった。お雪は相変わらず稽古に来たので、

(もじはるはまずあんしんした。こうしてふつかもみっかもぶじにつづいたので、)

文字春はまず安心した。こうして二日も三日も無事につづいたので、

(かのじょがきょうふのねんもすこしうすらいできて、よるもはじめてねむられるようになった。)

彼女が恐怖の念も少し薄らいできて、夜もはじめて眠られるようになった。

(しかしなでしこのゆかたをきたおやすのぼうれいがたしかにじぶんとみちづれになって)

しかし撫子の浴衣を着たお安の亡霊がたしかに自分と道連れになって

(きたことをかんがえると、まだめったにゆだんはできないとあやぶんでいると、)

来たことを考えると、まだ滅多に油断はできないと危ぶんでいると、

(それからいつかめになって、おゆきはけいこにきたときにこんなことをまたはなした。)

それから五日目になって、お雪は稽古に来た時にこんなことを又話した。

(「おっかさんがきのうのゆうがた、とんでもないけがをしましたの」)

「阿母さんがきのうの夕方、飛んでもない怪我をしましたの」

(「どうしたんです」と、もじはるはまたひやりとした。)

「どうしたんです」と、文字春は又ひやりとした。

(「きのうのゆうがたもうむっつすぎでしたろう。おっかさんがにかいへなにかとりに)

「きのうの夕方もう六ツ過ぎでしたろう。阿母さんが二階へなにか取りに

(いくと、はしごのうえからにだんめのところであしをふみはずして、まっさかさまに)

行くと、階子のうえから二段目のところで足を踏みはずして、まっさかさまに

(ころげおちて・・・・・・。それでもいいあんばいにあたまをぶたなかったんですけれど、)

転げ落ちて……。それでもいい塩梅に頭を撲たなかったんですけれど、

(ひだりのあしをすこしくじいたようで、すぐにおいしゃにかかってゆうべから)

左の足を少し挫いたようで、すぐにお医者にかかってゆうべから

(ねているんです」 「あしをくじいたのですか」)

寝ているんです」 「足を挫いたのですか」

(「おいしゃはひどくくじいたんじゃないといいますけれど、なんだかほねが)

「お医者はひどく挫いたんじゃないと云いますけれど、なんだか骨が

(ずきずきいたむといって、けさもやっぱりよこになっているんです。)

ずきずき痛むと云って、けさもやっぱり横になっているんです。

(いつもはじょちゅうをやるんですけれど、ゆうべにかぎってじぶんがにかいへ)

いつもは女中をやるんですけれど、ゆうべに限って自分が二階へ

(あがっていって、どうしたはずみか、そんなそそうをしてしまったんです」)

あがって行って、どうしたはずみか、そんな粗相をしてしまったんです」

(「そりゃほんとうにとんだごさいなんでしたね。いずれおみまいにうかがいますから、)

「そりゃほんとうに飛んだ御災難でしたね。いずれお見舞にうかがいますから、

(どうぞよろしく」)

どうぞ宜しく」

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