津軽 序編 太宰治 5

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1 ねね 4266 C+ 4.3 97.5% 1083.3 4740 118 65 2024/12/11

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問題文

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(わたしは、このひろさきのじょうかにさんねんいたのである。ひろさきこうとうがっこうのぶんかにさんねん)

私は、この弘前の城下に三年いたのである。弘前高等学校の文科に三年

(いたのであるが、そのころ、わたしはおおいにぎだゆうにこっていた。はなはだいようなもので)

いたのであるが、その頃、私は大いに義太夫に凝っていた。甚だ異様なもので

(あった。がっこうからのかえりには、ぎだゆうのおんなししょうのいえへたちよって、さいしょは)

あった。学校からの帰りには、義太夫の女師匠の家へ立寄って、さいしょは

(あさがおにっきであったろうか、なにがなにやら、いまはことごとくわすれてしまった)

朝顔日記であったろうか、何が何やら、いまはことごとく忘れてしまった

(けれども、のざきむら、つぼさか、それからかみじなどひととおりとうじはおぼえこんでいた)

けれども、野崎村、壺阪、それから紙治など一とおり当時は覚え込んでいた

(のである。どうしてそんな、がらにもないきかいなことをはじめたのか。わたしはその)

のである。どうしてそんな、がらにも無い奇怪な事をはじめたのか。私はその

(せきにんのぜんぶを、このひろさきしにおわせようとはおもわないが、しかし、そのせきにんの)

責任の全部を、この弘前市に負わせようとは思わないが、しかし、その責任の

(いっぱんはひろさきしにひきうけていただきたいとおもっている。ぎだゆうが、ふしぎに)

一斑は弘前市に引受けていただきたいと思っている。義太夫が、不思議に

(さかんなまちなのである。ときどきしろうとのぎだゆうはっぴょうかいが、まちのげきじょうで)

さかんなまちなのである。ときどき素人の義太夫発表会が、まちの劇場で

(ひらかれる。わたしも、いちどききにいったが、まちのだんなたちが、ちゃんと)

ひらかれる。私も、いちど聞きに行ったが、まちの旦那たちが、ちゃんと

(かみしもをきて、まじめにぎだゆうをうなっている。いずれもあまり、じょうずではなかったが)

裃を着て、真面目に義太夫を唸っている。いずれもあまり、上手ではなかったが

(すこしもきざなところがなく、すこぶるりょうしんてきなかたりかたで、おおまじめにうなっている。)

少しも気障なところが無く、頗る良心的な語り方で、大真面目に唸っている。

(あおもりしにもむかしからすいじんがすくなくなかったようであるが、げいしゃたちから、)

青森市にも昔から粋人が少くなかったようであるが、芸者たちから、

(にいさんうまいわね、といわれたいばかりのはうたのけいこ、または、じぶんの)

兄さんうまいわね、と言われたいばかりの端唄の稽古、または、自分の

(すいじんぶりをせいさくやらしょうさくやらのぶきとしてもちいているぬけめのないひとさえ)

粋人振りを政策やら商策やらの武器として用いている抜け目のない人さえ

(あるらしく、つまらないげいごとになんということもなくばかなおおあせをかいてべんきょう)

あるらしく、つまらない芸事に何という事もなく馬鹿な大汗をかいて勉強

(いたしているこのようなかれんなだんなは、ひろさきしのほうにおおくみかけられるように)

致しているこの様な可憐な旦那は、弘前市の方に多く見かけられるように

(おもわれる。つまり、このひろさきしには、いまだに、ほんもののばかものがのこっている)

思われる。つまり、この弘前市には、未だに、ほんものの馬鹿者が残っている

(らしいのである。えいけいぐんきというこしょにも、「おううりょうしゅうのひとのこころ、ぐにして、)

らしいのである。永慶軍記という古書にも、「奥羽両州の人の心、愚にして、

(いつよきものにもしたがふことをしらず、かれはせんぞのかたきなるぞ、これはいやしきものなるぞ)

威強き者にも随ふ事を知らず、彼は先祖の敵なるぞ、是は賤しきものなるぞ

など

(ただときのぶうんつよくして、いせいにほこることにこそあれ、とて、したがはず」という)

ただ時の武運つよくして、威勢にほこる事にこそあれ、とて、随はず」という

(ことばがしるされているそうだが、ひろさきのひとには、そのような、ほんもののばかいじ)

言葉が記されているそうだが、弘前の人には、そのような、ほんものの馬鹿意地

(があって、まけてもまけてもきょうしゃにおじぎをすることをしらず、じきょうのここうを)

があって、負けても負けても強者にお辞儀をする事を知らず、自矜の孤高を

(こしゅしてよのものわらいになるというけいこうがあるようだ。わたしもまた、ここにさんねん)

固守して世のもの笑いになるという傾向があるようだ。私もまた、ここに三年

(いたおかげで、ひどくかいこてきになって、ぎだゆうにねっちゅうしてみたり、また、つぎの)

いたおかげで、ひどく懐古的になって、義太夫に熱中してみたり、また、次の

(ようなろまんせいをはっきするようなおとこになった。つぎのぶんしょうは、わたしのむかしのしょうせつの)

ような浪漫性を発揮するような男になった。次の文章は、私の昔の小説の

(いっせつであって、やはりおどけたきょこうにはちがいないのであるが、しかし、およその)

一節であって、やはりおどけた虚構には違いないのであるが、しかし、凡その

(ふんいきにおいては、まずこんなものであった、とくしょうしながらはくじょうせざるをえな)

雰囲気に於いては、まずこんなものであった、と苦笑しながら白状せざるを得な

(いのである。 「きっさてんで、ぶどうしゅのんでるうちは、よかったのですが、)

いのである。 「喫茶店で、葡萄酒飲んでるうちは、よかったのですが、

(そのうちにかっぽうてんへ、のこのこはいっていってげいしゃといっしょに、ごはんをたべる)

そのうちに割烹店へ、のこのこはいっていって芸者と一緒に、ごはんを食べる

(ことなどおぼえたのです。しょうねんはそれをべつだん、わるいことともおもいませんでした。)

ことなど覚えたのです。少年はそれを別段、わるいこととも思いませんでした。

(いきな、やくざなふるまいは、つねにもっともこうしょうなしゅみであるとしんじていました。)

粋な、やくざなふるまいは、つねに最も高尚な趣味であると信じていました。

(じょうかまちの、ふるいしずかなかっぽうてんへ、にど、さんど、ごはんをたべにいっている)

城下まちの、古い静かな割烹店へ、二度、三度、ごはんを食べに行っている

(うちに、しょうねんのおしゃれのほんのうはまたもむっくりあたまをもたげ、こんどは、それこそ)

うちに、少年のお洒落の本能はまたもむっくり頭をもたげ、こんどは、それこそ

(たいへんなことになりました。しばいでみた「めぐみのけんか」のとびのもののふくそうして、)

大変なことになりました。芝居で見た『め組の喧嘩』の鳶の者の服装して、

(かっぽうてんのおくにわにめんしたおざしきでおおあぐらかき、おう、ねえさん、きょうは)

割烹店の奥庭に面したお座敷で大あぐらかき、おう、ねえさん、きょうは

(めっぽう、きれえじゃねえか、などといってみたく、わくわくしながら、その)

めっぽう、きれえじゃねえか、などと言ってみたく、ワクワクしながら、その

(ふくそうのじゅんびにとりかかりました。こんのはらがけ。あれは、すぐにてにはいりました。)

服装の準備にとりかかりました。紺の腹掛。あれは、すぐに手にはいりました。

(あのはらがけのどんぶりに、こふうなさいふをいれて、こうふところでしてあるくと、いっぱしの)

あの腹掛のドンブリに、古風な財布をいれて、こう懐手して歩くと、いっぱしの

(やくざにみえます。かくおびもかいました。しめあげるときゅっとなるはかたのおびです)

やくざに見えます。角帯も買いました。締め上げるときゅっと鳴る博多の帯です

(とうざんのひとえをいちまいごふくやさんにたのんで、こしらえてもらいました。)

唐桟の単衣を一まい呉服屋さんにたのんで、こしらえてもらいました。

(とびのものだか、ばくちうちだか、おたなものだか、わけのわからぬふくそうになって)

鳶の者だか、ばくち打ちだか、お店ものだか、わけのわからぬ服装になって

(しまいました。とういつがないのです。とにかく、しばいにでてくるじんぶつのいんしょうを)

しまいました。統一が無いのです。とにかく、芝居に出て来る人物の印象を

(あたえるようなふくそうだったら、しょうねんはそれでまんぞくなのでした。しょかのころで、)

与えるような服装だったら、少年はそれで満足なのでした。初夏のころで、

(しょうねんはすあしにあさうらぞうりをはきました。そこまではよかったのですが、ふとしょうねんは)

少年は素足に麻裏草履をはきました。そこまではよかったのですが、ふと少年は

(みょうなことをかんがえました。それはももひきについてでありました。こんのもめんのぴっちり)

妙なことを考えました。それは股引に就いてでありました。紺の木綿のピッチリ

(したながももひきを、しばいのとびのものが、はいているようですけれど、あれをほしいと)

した長股引を、芝居の鳶の者が、はいているようですけれど、あれを欲しいと

(おもいました。ひょっとこめ、といって、ぱっとすそをさばいて、くるりとしりを)

思いました。ひょっとこめ、と言って、ぱっと裾をさばいて、くるりと尻を

(まくる。あのときにこんのももひきがめにしみるほどひきたちます。さるまたひとつでは)

まくる。あのときに紺の股引が目にしみるほど引き立ちます。さるまた一つでは

(いけません。しょうねんは、そのももひきをかいもとめようと、じょうかまちをはしからはしまで)

いけません。少年は、その股引を買い求めようと、城下まちを端から端まで

(はしりまわりました。どこにもないのです。あのね、ほら、あのさかんやさんなんか、)

走り廻りました。どこにも無いのです。あのね、ほら、あの左官屋さんなんか、

(はいているじゃないか、ぴちっとしたこんのももひきさ、あんなのないかしら。ね、)

はいているじゃないか、ぴちっとした紺の股引さ、あんなの無いかしら。ね、

(とけんめいにせつめいして、ごふくやさん、たびやさんにきいてあるいたのですが、さあ、)

と懸命に説明して、呉服屋さん、足袋屋さんに聞いて歩いたのですが、さあ、

(あれは、いま、とみせのひとたちわらいながらくびをふるのでした。もう、だいぶあつい)

あれは、いま、と店の人たち笑いながら首を振るのでした。もう、だいぶ暑い

(ころで、しょうねんは、あせだくでさがしまわり、とうとうあるみせのてんしゅから、それは、)

ころで、少年は、汗だくで捜し廻り、とうとう或る店の店主から、それは、

(うちにはございませぬが、よこちょうまがるとしょうぼうのものせんもんのいえがありますから、)

うちにはございませぬが、横丁まがると消防のもの専門の家がありますから、

(そこへいっておききになると、ひょっとしたらわかるかもしれません、と )

そこへ行ってお聞きになると、ひょっとしたらわかるかも知れません、と

(いいことをおしえられ、なるほどしょうぼうとはきがつかなかった。とびのものといえば、)

いいことを教えられ、なるほど消防とは気がつかなかった。鳶の者と言えば、

(ひけしのことで、いまでいえばしょうぼうだ、なるほどどうりだ、といきおいついて、その)

火消しのことで、いまで言えば消防だ、なるほど道理だ、と勢い附いて、その

(おしえられたよこちょうのみせにとびこみました。みせにはだいしょうのしょうぼうぽんぷがならべられて)

教えられた横丁の店に飛び込みました。店には大小の消防ポンプが並べられて

(ありました。まといもあります。なんだかこころぼそくなって、それでもゆうきをこぶして、)

ありました。纏もあります。なんだか心細くなって、それでも勇気を鼓舞して、

(ももひきありますか、とたずねたら、あります、とそくざにこたえてもってきたものは、)

股引ありますか、と尋ねたら、あります、と即座に答えて持って来たものは、

(こんのもめんのももひきには、ちがいないけれども、ももひきのりょうそとがわにふとくしょうぼうのしるしの)

紺の木綿の股引には、ちがい無いけれども、股引の両外側に太く消防のしるしの

(あかせんがたてにずんとひかれていました。さすがにそれをはいてあるくゆうきもなく、)

赤線が縦にずんと引かれていました。流石にそれをはいて歩く勇気も無く、

(しょうねんはさびしくももひきをあきらめるほかなかったのです」)

少年は淋しく股引をあきらめる他なかったのです」

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