48 形而上学
順位 | 名前 | スコア | 称号 | 打鍵/秒 | 正誤率 | 時間(秒) | 打鍵数 | ミス | 問題 | 日付 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | ぽんこつラーメン | 5608 | A | 5.8 | 95.7% | 360.5 | 2117 | 95 | 49 | 2024/10/21 |
関連タイピング
-
プレイ回数112長文684打
-
プレイ回数126長文1977打
-
プレイ回数104長文1405打
-
プレイ回数269長文1486打
-
プレイ回数116長文857打
-
プレイ回数203長文1143打
-
プレイ回数90長文589打
-
プレイ回数145長文877打
問題文
(けいじじょうがくとは、じつざいについてのもっともいっぱんてきなとい)
形而上学とは、実在についての最も一般的な問い
((しんにそんざいするものはなんで、それはどのような)
(真に存在するものは何で、それはどのような
(ものであるのか)にかんするがくもんだ。)
ものであるのか)に関する学問だ。
(さいしょのとい(しんにそんざいするものはなにか?)をたんきゅう)
最初の問い(真に存在するものは何か?)を探究
(するのが、けいじじょうがくのいちぶんやであるそんざいろんだ。)
するのが、形而上学の一分野である存在論だ。
(そんざいろんでは、つぎのようなといをたてる。)
存在論では、次のような問いを立てる。
(「そんざいしているものは、すべてぶっしつてきなものか、)
「存在しているものは、すべて物質的なものか、
(それともれいこんのようにひぶっしつてきなものなのか?」)
それとも霊魂のように非物質的なものなのか?」
(「かずやしゅうごうといったちゅうしょうてきなすうがくてきたいしょうはそんざい)
「数や集合といった抽象的な数学的対象は存在
(するのか?」「なにかがそんざいするとは、どういうこと)
するのか?」「何かが存在するとは、どういうこと
(なのか?」「そんざいは、たとえば「あかい」のようなぞくせい)
なのか?」「存在は、例えば『赤い』のような属性
(で、ものによってもっていたりいなかったりする)
で、ものによって持っていたりいなかったりする
(のか?」「それとも、そんざいとは、そんざいするものすべて)
のか?」「それとも、存在とは、存在するものすべて
(のしゅうごうたいであって、そんざいしないものはそんざいしえない)
の集合体であって、存在しないものは存在しえない
(のか?」「もしそんざいが「あかさ」のようなぞくせいだと)
のか?」「もし存在が『赤さ』のような属性だと
(したら、それはどのようなしゅるいのぞくせいなのか?」)
したら、それはどのような種類の属性なのか?」
(「わたしが「うまはそんざいするがゆにこーんはそんざいしない」)
「私が『馬は存在するがユニコーンは存在しない』
(というとき、わたしがうまについてこうていし、ゆにこーん)
と言うとき、私が馬について肯定し、ユニコーン
(についてはひていしているものとはなんなのか?」)
については否定しているものとは何なのか?」
(けいじじょうがくは、じぶつのとくちょうとかんけいについてのといも)
形而上学は、事物の特徴と関係についての問いも
(かんがえる。たとえば、「かずがそんざいするとしたら、そのかずは)
考える。例えば、「数が存在するとしたら、その数は
(じかんとくうかんのなかにそんざいするのか?」「かずはぐうはつてきにそんざい)
時間と空間の中に存在するのか?」「数は偶発的に存在
(するのか?つまり、かずはそんざいできなかったり、)
するのか? つまり、数は存在できなかったり、
(そんざいするのをやめられたりするのか?」ととう。)
存在するのをやめられたりするのか?」と問う。
(おおくのてつがくしゃは、けいじじょうがくのかんがえかたのうち、)
多くの哲学者は、形而上学の考え方のうち、
(あるひとつをきょうつうにんしきとしてみとめている。)
あるひとつを共通認識として認めている。
(それは、じぶつはじったいとぞくせいのふたつにおおきく)
それは、事物は実体と属性のふたつに大きく
(わけられるとするかんがえかただ。)
分けられるとする考え方だ。
(じったいとは、ふつうのいみでいうぶったいのことで、)
実体とは、普通の意味でいう物体のことで、
(ぞくせいとは、そうしたじったいのありかたのことである。)
属性とは、そうした実体のあり方のことである。
(たとえば、しゃつはじったいだが、しゃつのいろは)
例えば、シャツは実体だが、シャツの色は
(しゃつのぞくせいである。)
シャツの属性である。
(けいじじょうがくのといのおおくは、じったいとぞくせいという)
形而上学の問いの多くは、実体と属性という
(がいねんからしょうじている。)
概念から生じている。
(てつがくしゃたちがいぜんからかんがえつづけているといの)
哲学者たちが以前から考え続けている問いの
(ひとつに、「ぞくせいはこべつてきなものか、それとも)
ひとつに、「属性は個別的なものか、それとも
(いっぱんてきなものか」というものがある。)
一般的なものか」というものがある。
(ぞくせいがいっぱんてきなものであるとは、ふたつの)
属性が一般的なものであるとは、ふたつの
(あかいもの(たとえばしゃつとばら)において、)
赤い物(例えばシャツとバラ)において、
(「あかさ」というたんいつのぞくせいがそんざいし、)
「赤さ」という単一の属性が存在し、
(この「あかさ」がふたつのものによってぐげんか)
この「赤さ」がふたつの物によって具現化
(つまりれいかされているということをいみする。)
つまり例化されているということを意味する。
(ちなみに「れいか」とは、じったいとぞくせいのかんけいを)
ちなみに「例化」とは、実体と属性の関係を
(せつめいするてつがくようごである。)
説明する哲学用語である。
(これにたいして、ぞくせいがこべつてきであるとは、ことなる)
これに対して、属性が個別的であるとは、異なる
(ふたつのぞくせい(しゃつによってれいかされたあかさと、)
ふたつの属性(シャツによって例化された赤さと、
(ばらによってれいかされたあかさ)がそんざいすることを)
バラによって例化された赤さ)が存在することを
(いみする。そして、このふたつのぞくせいは、)
意味する。そして、このふたつの属性は、
(まったくよくにているということになる。)
まったくよく似ているということになる。