半七捕物帳 弁天娘12
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問題文
(いわれたとおりにこぞうをかえして、りへえはすなおにはんしちのあとについてくると、)
云われた通りに小僧を帰して、利兵衛は素直に半七のあとに付いてくると、
(はんしちはかれをとみおかもんぜんのあるうなぎやへつれこんだ。ここでははんしちのかおを)
半七はかれを富岡門前の或る鰻屋へ連れ込んだ。ここでは半七の顔を
(しっているので、ていねいにあんないしておくのしずかなざしきへとおした。)
識っているので、丁寧に案内して奥の静かな座敷へ通した。
(はんしちもりへえもげこであったが、それでもまずひとくちのむことにして、)
半七も利兵衛も下戸(げこ)であったが、それでもまず一と口飲むことにして、
(ちょこをに、さんどやりとりしたあとに、しゃくのじょちゅうをとおざけて、)
猪口(ちょこ)を二、三度やり取りした後に、酌の女中を遠ざけて、
(はんしちはこごえでいいだした。)
半七は小声で云い出した。
(「さっきもいうとおり、とくじろうのいっけんはまあひゃくりょうでないさいになってけっこうでしたよ」)
「さっきも云う通り、徳次郎の一件はまあ百両で内済になって結構でしたよ」
(「そうでございましょうか」)
「そうでございましょうか」
(「ごじつにくじょうのないといういっさつをこっちへとっておいて、しがいはこんや)
「後日に苦情のないという一札をこっちへ取って置いて、死骸は今夜
(かそうになってしまえば、もうなにもいざこざはのこりませんからね。)
火葬になってしまえば、もう何もいざこざは残りませんからね。
(まあ、おおできといっていいでしょう。だんなにもよくそういってください。)
まあ、おお出来と云っていいでしょう。旦那にもよくそう云ってください。
(そうして、くどいようだが、とうぶんはいんきょじょのほうへきのきいたものをやって、)
そうして、くどいようだが、当分は隠居所の方へ気のきいた者をやって、
(むすめのからだにまちがいのないようにきをつけるんですね」)
娘のからだに間違いのないように気をつけるんですね」
(「そういたしますと・・・・・・」と、りへえはひたいにふかいしわをよせた。)
「そう致しますと……」と、利兵衛はひたいに深い皺をよせた。
(「やっぱりなにかおこのさんにかかりあいがあるんでございましょうか」)
「やっぱりなにかお此さんにかかり合いがあるんでございましょうか」
(「ありそうですね」と、はんしちはまじめにいった。「ほかのこととちがって、)
「ありそうですね」と、半七はまじめに云った。「ほかの事と違って、
(もうせんぎのしようがありませんよ。むすめをつかまえてぎんみをするのは)
もう詮議のしようがありませんよ。娘をつかまえて吟味をするのは
(よくないでしょう」)
よくないでしょう」
(このじけんはすこぶるあいまいで。たしかなきゅうしょをつかむのは)
この事件は頗(すこぶ)るあいまいで。たしかな急所をつかむのは
(こんなんであるが、はんしちのかんていはまずこういうのであった。)
困難であるが、半七の鑑定はまずこういうのであった。
(いままでくちをきくことのできなかったとくじろうが、しにぎわにどうして)
今まで口を利くことの出来なかった徳次郎が、死にぎわにどうして
(はなしたかしらないが、かれがおこのにころされたというのはどうもじじつで)
話したか知らないが、かれがお此に殺されたというのはどうも事実で
(あるらしい。しばいでするひさまつのようなうつくしいこぞうは、にじゅうろくしちになるまで)
あるらしい。芝居でする久松のような美しい小僧は、二十六七になるまで
(ひとりさびしくくらしているうつくしいむすめと、しゅじゅういがいのふかいしたしみを)
一人寂しく暮している美しい娘と、主従以外の深い親しみを
(もっていたのではあるまいか。そうして、ほんのつまらないいたずらが)
もっていたのではあるまいか。そうして、ほんの詰まらないいたずらが
(かれをおそろしいしにみちびいたのではあるまいか。おこのがはりしごとをしているへやが)
彼を恐ろしい死に導いたのではあるまいか。お此が針仕事をしている部屋が
(にわにむかっているのと、そのにわへはみせのほうからきどをあけてでいりが)
庭にむかっているのと、その庭へは店の方から木戸をあけて出入りが
(できるというじじつからそうぞうすると、とくじろうはいつもそのきどぐちから)
出来るという事実から想像すると、徳次郎はいつもその木戸口から
(いんきょじょへしのびこんでいたらしい。いんきょははちじゅうをこしてみみもめもうとく、)
隠居所へ忍び込んでいたらしい。隠居は八十を越して耳も眼もうとく、
(こおんなはいっこうやくにたたないので、そのひみつをだれもさとらなかったのであろう。)
小女はいっこう役に立たないので、その秘密を誰もさとらなかったのであろう。
(そのうちにおそるべきよいせっくのひがきた。)
そのうちに恐るべき宵節句の日が来た。
(そのひ、おこのはいつものようにろくじょうのへやではりしごとをしていると、)
その日、お此はいつものように六畳の部屋で針仕事をしていると、
(とくじろうもみせのすきをみていつものようにしのんできた。あるいはつかいにゆくふりをして)
徳次郎も店の隙を見ていつものように忍んで来た。或いは使にゆく振りをして
(でてきたのかもしれない。かれはぬきあしをしてにわぐちからえんさきへしのびよって、)
出て来たのかも知れない。かれは抜き足をして庭口から縁先へ忍び寄って、
(おそらくせきばらいくらいのあいずをあしたであろうが、うちにはみすみす)
おそらく咳払いくらいの合図をあしたであろうが、内には見す見す
(おこののすわっているけはいがしていながら、わざとじらすように)
お此の坐っている気配がしていながら、わざと焦(じ)らすように
(へんじをしなかったので、かれはえんがわへはいあがって、しめきってある)
返事をしなかったので、彼は縁側へ這いあがって、閉め切ってある
(しょうじのかみをしたのさきでなめてやぶって、そのあなからうちをのぞこうとした。)
障子の紙を舌の先で嘗めて破って、その穴から内を覗こうとした。
(それはこどものよくするいたずらである。ませているようでもまだじゅうろくのかれは、)
それは子供のよくするいたずらである。ませているようでもまだ十六の彼は、
(じょうだんはんぶんにこうしてしょうじのかみをやぶったときに、うちからそれをみていたおこのは、)
冗談半分にこうして障子の紙をやぶった時に、内からそれを見ていたお此は、
(これもじょうだんはんぶんに、じぶんのもっているぬいばりでそのしたのさきをちょいとついた。)
これも冗談半分に、自分の持っている縫い針でその舌の先をちょいと突いた。
(もちろん、かるくついたのであろうが、ときのはずみではりのさきがあんがいに)
勿論、軽く突いたのであろうが、時のはずみで針のさきが案外に
(ふかくとおったので、うちでもそとでもおどろいた。しかしがんらいがひみつのじけんで)
深く透ったので、内でも外でもおどろいた。しかし元来が秘密の事件で
(あるから、とくじろうはおもいきってこえをたてることもできなかった。)
あるから、徳次郎は思い切って声を立てることも出来なかった。